江戸時代の日本では、その人の社会的階層や職業は外見で明らかでした。プロの女性である遊女達が、何本もの笄と呼ばれる鼈甲製の飾りを髪に挿し、素人女性とは隔絶した派手なビジュアルを誇ったのはその為です。自然界では毒のある生き物ほど華やかな風貌をしているのと同様に、遊女達も、男達が気軽に手出しできない空気を纏っていたことでしょう。遊女達は“プロの女性”として、あそこの外見にも拘りました。明治から昭和時代初期の川柳研究者である西原雨が纏めた『川柳吉原志』という書物に、“十本程 額へ残す てんや者”・“小綺麗に 毛を引いておく てんや者”等の句が収録されています。「以下の数句は遊女の風俗史上省くべからざるものとして採録し置きたるも、説明は省略しておく」という説明がついていますが、これだけだと現代人には何の意味かもわからないでしょう。先ず、この句に出てくる“てんや者”とは、現代では“出前されてくる飲食物”を指しますが、嘗ては“プロの女性”を指しました。つまり、遊女です。遊女達が“額へ残す”とか“毛を引いておく”のは、髪ではなく陰毛の話で、商売道具であるあそこの見た目を気にする遊女達は、陰毛は殆ど全部抜いて外見を整えていたようです。勿論、陰毛が長く、密集し過ぎていると、男性のあそこに絡みつき、“毛切れ”という怪我をさせるからという配慮もあったでしょうが、毛がないほうが男性客のペニスが女性器に出たり入ったりするさまが丸見えだから、それで楽しませたいというプロ意識の反映だったと考えられます。
江戸時代は男女混浴の銭湯で、素人女性も大っぴらに陰毛ケアを行なっていました。これは男女共に行なうので、銭湯には専用の毛切り石が置いてあった程です。“下刈り”・“摘草”・“毛引き”等と多彩な表現があることから、ごく一般的な行為だったことが推測されますが、やはり素人は痛いのが嫌だから、抜くのではなく剃るのですね。その一方で、ツルツルになるまで毛を抜くのがプロ仕様のあそこです。川柳にも“吉原の 土手通るほど 草を抜き”・“売り物は 草をむしって 洗う鉢”等とあります。あそこが(ほぼ)無毛であるべきというルールが遊女達に根付いた時期は不明ですが、中国文化が与えた影響は無視できません。唐代の詩人である白行簡(※白居易の弟)が天と地、陰と陽の交歓を、男女の性行為で表現した詩において、「亦タ出ルヲ看、入ルヲ看ル」等と態と目的語を省いていますが、これは女性器に出し入れされるペニスが丸見えの状態――つまりパイパンの女性器との性交を指すのでしょう。ここから転じて、唐文化を重んじた平安時代の日本に“パイパン至上主義”が定着していたとしてもおかしくはないと考えられるのです。因みに、この白行簡の詩、シルクロードの名所である敦煌・千仏洞の内部にこっそり書かれていたのを、フランス人探検家のポール・ユジェーヌ・ペリオに発見されたものです。今日では「寺院に性描写の漢詩!?」と思ってしまいますが、昔は寺院だからこそ、という感覚でしょう。性器には魔除けの呪力があり、寺の壁や仏像の礎石にその絵等を入れることは、中国や日本では罰当たりな行為どころか、信仰心の表れでした。江戸時代の吉原でも、客が全然来ない不運の日は悪い空気を断ち切る為、遊女達は店の外に出て着物の前を捲り、あそこを丸出しにして開運のまじないとしたそうですが、ある種の客引きにもなっていたことでしょう。
堀江宏樹(ほりえ・ひろき) 作家・歴史エッセイスト。1977年、大阪府生まれ。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒。日本・世界を問わず、歴史の面白さを拾い上げる作風で幅広いファン層を持つ。著書に『乙女の日本史』シリーズ(KADOKAWA)・『眠れなくなるほど怖い世界史』『愛と欲望の世界史』『本当は怖い日本史』(三笠書房)・『偉人の年収』(イーストプレス)等。

2023年8月号掲載
テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術