今月12日、ウォルター・アイザックソンによるイーロン・マスクの評伝が発売された。その中で語られた、マスクが率いる宇宙企業『スペースX』の衛星通信サービス『スターリンク』についての話題が取り沙汰されている。同サービスはウクライナ軍に提供されているが、昨年9月に同軍の水中ドローンがロシア軍艦を攻撃しようとした際、この接続を遮断したというのだ。マスク自身は後に、クリミア半島付近では抑も接続を提供しておらず、同軍からの攻撃時の接続要求も断ったと述べた。真珠湾のような攻撃に共謀し、ロシアが核攻撃で報復するのを防ぎたかったというが、明らかになったのは彼の過剰な影響力だ。日本ではマスクをビジョナリーとして英雄視しがちだが、アメリカでは「戦争の行方をも左右しかねないパワーを持つ」と危惧する声が高まっている。昨年2月、ロシアがウクライナへ侵攻した際、マスクはウクライナ軍へスターリンクの提供を開始。その後、アメリカ国防総省が正式にスペースXと契約し、ウクライナ軍の通信接続を支えてきた。だが本来、こうした緊急時の衛星通信はアメリカ軍が自前で用意し、提供するものだ。マスクの接続拒否が明らかになったことで、不安定な判断を下しかねない企業にアメリカ軍が依存することの危険性が指摘されている。以前からマスクに対しては、ロシアと繋がりがある等の噂が尽きない。昨年10月には、ウラジーミル・プーチン大統領と会談したと自ら語り、後に否定するという出来事もあった。スターリンクの接続遮断も、「ウクライナの出方によってはロシアは核兵器利用も辞さない」と在米ロシア大使館の職員から聞かされたことに怯えた為ではないかとみられている。
同じ頃、『ツイッター』のユーザー相手に戦争がどう終結させられるべきかの投票を行なった際の彼の提案も、ロシア側の影響を受けていたとされる。マスクは地政学について専門知識がないにも拘わらず、限られた判断力から“目障り”な言動を起こし、結果的に大きな影響力を持ってしまう。思い起こせば、ツイッター買収の前後でも似たような混乱があった。言論の自由や民主主義といった言葉を振り翳したものの、マスクはそうしたことに関心や確固とした主張を持っていた人物ではない。買収の結果、ある意味で公共性も備えていたツイッターというプラットフォームは消え、現在ではフェイクニュースが野放しにされている。加えて、マスクが嫌う『ニューヨークタイムズ』等のニュースサイトの表示率を減らす操作を行なっていると分析されており、民主主義とは程遠い有り様だ。プライベート面でのマスクはゴシップが絶えることのない奇行続きである。マスクには複数の元妻やガールフレンドとの間にできた11人の子供がいる。そのうちの2人の子供の母親は、マスクの経営する企業の重役だ。しかも、評伝によると「頭の良い人間が子供を産むべきだ」とマスクに勧められ、彼の精子を人工授精して出産したという。選別的な妊娠ともいえ、一種の偏見が感じられる。マスクは6つの企業を経営し、電気自動車、太陽光発電、宇宙事業、高速移動手段、AI開発等、現代世界のインフラにとって重要なテクノロジーを握る人物になっている。天才と呼ぶに相応しいが、他方でその人物像には社会を弄ぶような、実に不安定なものが透けて見えるのだ。
瀧口範子(たきぐち・のりこ) フリージャーナリスト兼編集者。大阪府生まれ。上智大学外国語学部ドイツ語学科卒。フルブライト奨学金(ジャーナリストプログラム)を得て、1996年から2年間、スタンフォード大学コンピュータサイエンス学部にて客員研究員。著書に『なぜシリコンバレーではゴミを分別しないのか?』(プレジデント社)・『行動主義 レム・コールハース ドキュメント』(TOTO出版)等。

2023年9月30日号掲載
テーマ : アメリカお家事情
ジャンル : 政治・経済