【教科書に載らない経済と犯罪の危ない話】(59) アメリカの金融制裁を実現するコレスポンデントの仕組み

成田空港から仁川空港を経由して15時間、イスタンブールに到着した。今回の旅は、イスタンブールの銀行に預けておいたアメリカ国債を、アテネの銀行で現金化してロンドンへ送金する為だ。「イスタンブールは兎も角、財政破綻の状態にあるギリシャの銀行で金融取引など、危険ではないのか?」という疑問があるかもしれない。これには、国際金融取引における“コレスポンデント”についての説明が必要だろう。オフショアバンクも筆者自身も、国際金融取引で使用するのはドルである。世界中、どこの銀行でもドルでの預金や送金・証券化を行えば、その中継銀行としてアメリカの銀行が介在する。この銀行を“コルレスバンク”と呼ぶ。例えば、日本の銀行からドバイの銀行へ100万ドルの送金をしたとしよう。先ず、送金窓口で円を100万ドルに両替しなくてはならない。この時に提示されるドルのレートが“対顧客電信売レート(TTS)”である。TTSレートは、大口取引であれば優遇レートを提示されるが、交渉次第で更に安くなる。次に、外国送金依頼書へ送金情報を記入すれば完了だが、送金額によっては送金理由を説明する資料を求められる。これで送金手続きは完了だ。送金手数料は1ドルでも1000万ドルでも4000円である。扨て、ドバイへ送金した100万ドルだが、日本からドバイへドルの現金が送られる訳ではない。送金依頼を受け付けた銀行が、『国際銀行間通信協会(SWIFT)』に“MT103”という電信メッセージを送信するだけだ。

このメッセージは、送金依頼を受けた銀行が口座を保有するアメリカの銀行へ送られる。これがコルレスバンクだが、日本の銀行は、多くがニューヨークの『JPモルガン』をコルレスバンクとしている。つまり、日本の銀行から「この金額をここへ送金して下さい」と、SWIFTを通じてニューヨークのJPモルガンに指示された訳である。この指示を受けたJPモルガンは、依頼元である日本の銀行が保有する自行の口座から、100万ドルを指示通りにドバイへ送金するのだ。一方、送金を受けるドバイの銀行には、これもSWIFTから「100万ドルが送金されてきますよ」というメッセージが届く。日本とアメリカ、アメリカとドバイの時差により、ここまで24時間を要している。当然だが、ドバイの銀行もコルレスバンクを使わなくてはドルの取引は不可能だ。そして、ドバイの銀行もまた、コルレスバンクにJPモルガンかシティバンクを利用している。つまり、最終目的地であるドバイの銀行口座も、ニューヨークのJPモルガンにあるということだ。よって、日本の銀行から送金された100万ドルは、ニューヨークのJPモルガンをコレスポンデント(=中継)としてドバイの銀行に届いたのだが、現実に起きたことはといえば、ニューヨークのJPモルガン内にある口座間で数字が移動しただけなのだ。これが、国際金融取引の基礎中の基礎、コレスポンデントである。世界中のどこで銀行間取引を行おうが、ドルであればこのシステムに変わりはない。これがグローバルスタンダードであり、基軸通貨ということなのである。このように、ドルでの金融取引が円滑で安全な理由は理解頂けたと思う。だが、言い換えれば、ドルによる取引はアメリカの意思で自由にコントロールされるということでもある。北朝鮮がアメリカの金融制裁によって口座を凍結されるのも、ドルの取引が全てアメリカ国内を中継されるからなのだ。ドルが基軸通貨である限り、アメリカの覇権は揺らぐことはないのである。 (http://twitter.com/nekokumicho


キャプチャ  2017年10月10日・17日号掲載
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テーマ : 国際問題
ジャンル : 政治・経済

【オトナの形を語ろう】(44) 嘗て西の競輪場に伝説の“車券師”がいた

先週、「ギャンブルはある種の快楽を求めて、人々が一見、愚かに見える行為に走り続けるのではないか?」と話した。私の経験から言っても、私がこれまで接したギャンブラーを見ていても、大小の差こそあれ、恐らく間違えてはいないだろう。「セックスや金儲けと違って、ギャンブルで発生する快楽は、毎回手に入るものではない」とも話した。そして快楽の基本である、其々の愉楽が極めて個々のものであるとも話した。扨て、そこで今週は、その話の補足として、1つの逸話を話す。四十数年前の話だが、私は競輪というギャンブルの魅力に憑かれて、その虜になり、毎日、競輪を打っていた時代があった。1年の収入の何倍もの金を競輪に注ぎ込んでいた。今から考えると、よくそこまで打っていたものだと思うが、ギャンブルは夢中になると、金を集めることなど平然とできるようになるし、それが当たり前のように日々暮らしていた。勿論、借金は雪ダルマの如く膨らんでいた。そんな時、競輪場の中を知人と歩いていると、「あれが銀造やで。西では頭の車券師や。伝説の勝負が何番もあるヤツだ。少し年を取りよったが、こうしてみるとやはり違うな。あれが全身ギャンブラーの風情やで」。その男、正確には老人だったが、人の群れの中に立っていても直ぐにわかった。

車券師とは、読んで字の如く、車券で生活を成り立たせている職業である。競輪全盛期の昭和30年代から40年代に活躍した職業である。関東以北は“コーチ屋”と呼んだ。その言い方には少し蔑みもあった。と言うのは、“コーチ屋”が妙に流行した時があり、“偽コーチ屋”も出没し、1~2レース客に勝たせ、勝負処で客の金を持って逃げる輩が出たからだ。それに比べると、西の“車券師”は怖い兄さん方の監視の目が厳しく(※当時、競輪場の警備は大半を地元のヤクザが仕切っていた)、大切な客におかしいことをする輩を見張っていた。一般人とヤクザが共存していた時代だった。“車券師”は何をするか? 客にレースの買い目を告げ、それで料金を取る。それだけなら場内の予想屋と同じになるが、“車券師”につく客は、金の張り目が一般の客の何倍・何十倍、もっと張る。多額の張りで買い目が的中すると、“車券師”への礼も多くなるし、上がりの何%だったりすることもある。ここで読者は疑問を持たれると思う。「そんなに的中するんなら自分で打って暮らせばいいのと違うか?」。“車券師”は決して自ら車券を打たない。何故、打たないか? それは、彼らがギャンブルを打ち続けて暮らしてはいけないことをわかっているからである。更に言えば、ギャンブルに絶対が無いことを理解しているからだ。“車券師”の買い目が外れたら、どうなるか? 何も無い。買ったほうは「金を返せ」とも言わない。その“車券師”を買ったのも客であるからだ。と同時、“車券師”が教えた車券から何を選ぶかを決めるのも客である。

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テーマ : 生き方
ジャンル : ライフ

【劇場漫才師の流儀】(09) 女遊びは本当に“芸の肥やし”になる?

ここ1~2年は本当に不倫のニュース多いですねぇ。吉本の芸人も数人、登場しましたなぁ(笑)。彼らと舞台が一緒になった時に、「色々大変やなぁ~」と言うと、「ご迷惑おかけしました…」って申し訳なさそうに頭を下げるんです。別に迷惑はかかっていないんですけどね(笑)。で、僕と阪神君はいつもこう言うんです。「浮気くらいするよな(笑)」って。すると皆、ホッとした顔して帰っていきますね。こんな言い方したら怒られるかもしれんけど、芸人だったら浮気くらいしますよ。結婚してから一生、男も女も好きな異性ができないほうが不思議かもしれません。この前話題になった某コンビのM君なんて、前に浮気がバレた時、嫁さんに散々怒られたのに、またしている(笑)。女性と一緒にホテルに入って、何もせんで帰ったこと、僕は何回かあったなぁ。いや、そんなに無かったかな(笑)。ホテルに入った瞬間、冷めてしまうというか、面倒臭くなってしまうんです。まぁ、M君はやっているでしょう(笑)。昔は“女遊びは芸の肥やし”なんて言われてましたが、あれ、僕は全然そうは思いません。抑々、昔の芸人さんは自分の浮気をネタになんてしていませんでしたからね。寧ろ今は、芸人だったらバレたら触れない訳にはいかん時代やから、大変だと思います。勿論、「それが笑いになるならえぇ」という打算的なところもありますけど。

昔、吉本のある先輩が、自分の彼女を奥さんに紹介しているのを見たことがあるんです。そしたら奥さん、「宜しくお願いします」って挨拶していて。「大したもんやなー」って思いました。だから僕も、そういう嫁さんを貰ったつもりやったんですが。うちの嫁さんは年下やけど、吉本の3年先輩でね。彼女、結婚当時は「浮気はOK」って言っていたんです。だから僕も、「昨晩は飲み屋で知り合った女のところ泊まってしもうたー」とか正直に言っていました。そしたら、嫁は笑いながら、「付き合うならべっぴんさんにしてや」って。大した嫁でしょ(笑)。だからって、正直に何でも言うてたのがあかんかった(苦笑)。結婚20年目くらいだったかなぁ、嫁さんが急に「浮気はあかん!」って言い始めたんです。僕も沢山浮気してきた訳じゃないけど、浮気しても嫁さんは大事にしていましたし、家にきちんとお金も入れていました。浮気で家庭を乱すようなことはしたくなかったですからね。でも、ある時から女の影がちらっとでも見えたら、めっちゃ機嫌わるうなってね。これ、公約違反やろと(笑)。「浮気が嫌なら離婚してくれ」って言うたんですけど、「離婚はせん」と。「じゃあ、僕どうしたらえぇの?」って(苦笑)。こうなったら、不倫している芸人は皆で一斉に名乗り出たらえぇんちゃいます? そうしたら、マスコミも世間も「もうえぇか」ってなるでしょう。ならんか(笑)。


オール巨人(おーる・きょじん) 漫才コンビ『オール阪神・巨人』のボケ担当。1951年、大阪府生まれ。大阪商業高校卒業後、1974年7月に『吉本新喜劇』の岡八朗に弟子入り。翌1975年4月に素人演芸番組の常連だったオール阪神とコンビを結成。正統派漫才師として不動の地位を保つ。著書に『師弟 吉本新喜劇・岡八朗師匠と歩んだ31年』・『さいなら!C型肝炎 漫才師として舞台に立ちながら、治療に挑んだ500日の記録』(共にワニブックス)。


キャプチャ  2017年10月23日号掲載

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【Test drive impression】(40) 『トヨタ自動車 アクア クロスオーバー』――6月に改良を受けたアクアに待望のクロスオーバーが登場

トヨタってやっぱし面白い。時折、ビックリするほど画期的でスゴいクルマを出したりする半面、時に「アレレ?」ってなるほど拍子抜けなヤツを出してきたりするんだよね。最近でも、「こんなのトヨタが出してもいいの?」と言いたくなるほど硬派で走りもいい“GRブランド”を全国展開する一方で、相変わらず子会社系コンパクトカーのリネーム版が販売店対策で出回ったりする訳。で、今回紹介するモデルがどちらかというと、まさしく後者に違いない(笑)。その名は、アクアクロスオーバー! 正直、小沢はこのクルマが6月19日のアクアのマイナーチェンジで追加されると聞いた時、「こりゃとんでもない人気モデルの登場じゃないか?」と思った。だって、アクアは2011年末に登場してから、それまで絶対王者として君臨してきた『プリウス』をあっさり抜き、国内販売ナンバーワンに! しかも、それを3年間も続けた上、トヨタ最速で累計販売台数100万台を記録。まさに最強のコンパクトハイブリッドである。そいつをベースに、今や『C-HR』や『ホンダ』の『ヴェゼル』、『日産自動車』の『ジューク』等、個性派が犇めくコンパクトSUV市場に打って出ようってんだから、期待しないほうが無理。謂わば、人気芸能人のDNAを持つ新人アーティストみたいなもんでしょうか?

で、実車を見たら、外板はノーマルと変わらないどころか、中身も足回りも基本共通…。変わったのは、最低地上高が3㎝上がる大径タイヤと、フロントグリル、前後バンパースポイラーぐらいのもの。実は、嘗てアクアには『Xアーバン』なるSUVチックなグレードがあって、それに新たにワイルドな樹脂製フェンダーモールやルーフレールを追加したのが、今回登場した新型クロスオーバーの正体。小沢の地元ディーラーで「クロスオーバーって売れてます?」と聞いても、「そこそこです」という気の無い返事ばかり。事実、カタログを見ればわかるけど、新型アクアには下からL・S・Gの3グレードがあって、クロスオーバーはGのデザイン違いみたいなポジショニング。実際価格は全く同じ206万円強で、両者選べる本革風のホワイトソフトレザー内装は全く一緒。細かく言うと、ノーマル内装がGはオールレザー風シート装備なのに対して、クロスオーバーはシート中央がメッシュになっているって違いだ。「販売店でどっちを選ぶか決めて下さい!」ってお客に判断させる算段か? とはいえ、目新しさもある。外観で目立つフロントマスクは、今回のマイチェンでボンネット&フェンダーの鉄板デザインを変えてまでアイライン入り風のヘッドライトを装着。セクシー度が増しているし、更にクロスオーバーに限っては、フロントバンパー左右に睫毛風デザインのランプが入って、これまた今までと違ったイメージに。

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テーマ : 新車・ニューモデル
ジャンル : 車・バイク

【Deep Insight】(49) 労働移動がつくる好循環

支持率回復を期す安倍晋三内閣のキーマンは、働き方改革を引き続き担う厚生労働省の加藤勝信大臣と、新たに“人づくり革命”の担当となった茂木敏充経済財政再生担当大臣の2人だ。茂木氏は『人生100年時代構想会議』と称する会議を設け、アベノミクスの新たな柱にしようと意気盛んな様子だ。そこで真っ先に議題になりそうなのが、幼児教育や高等教育の無償化といった分配色の強い政策だ。働き方改革も、社会的に注目を浴びた長時間労働の是正や、『同一労働同一賃金』といった響きの良いテーマが先行する。より効率の高い働き方を実現し、人材の質を向上するという方向性を否定する人はいない。だが、働き方改革を突破口に生産性を上げ、日本経済の潜在力を高めるという好循環には、より踏み込んだ発想がいる。カギを握るのが、働く人々が成長力や付加価値のより高い産業や企業にもっと柔軟に転職や再就職ができるようにして、労働市場の流動性を高めることだ。完全失業率が2.8%、有効求人倍率が1.5倍という“完全雇用”の状況は、随所に人手不足を引き起こしている。それにも拘わらず、賃金は中々伸びず、消費拡大の足枷となっている。多くの企業で始まった残業抑制も、経済には逆風になりかねない。『大和総研』は、“労使合意で可能な月60時間”の上限に合わせて残業を減らし、浮いた分を他の労働者に分配しなかった場合、雇用者報酬の3%分、年8.5兆円の所定外給与が減ると試算する。より短い労働時間で同じ仕事を熟し、対価の賃金を得る。もっと成長ができる分野に人材を振り向ける――。そういった形で生産性を高めない限り、働き方改革の果実は広がらない。ところが、日本では多くの正社員が同じ企業で働き続け、年功賃金を受け取るパターンが根強く定着する。「高度成長期は、職場を“固定”することが長期的な成長を支えた。だが、これだけ変化が激しく、新興国が伸びる時代になると、固定は却って不安の種になる。1人ひとりが変化に対応できるよう、転業や転職で不利にならない条件を整えることが重要になる」。政府の規制改革推進会議の議長を務める政策研究大学院大学の大田弘子教授は、こう話す。供給過剰の流通・飲食といったサービス業も、労働移動がもっと柔軟になれば、より生産性の高い企業が雇用を吸収する。産業の中で新陳代謝が生まれ、日本経済全体で資源をよりよく配分できる。労働移動を促す1つの方策が、不当な解雇と裁判で認められた場合に、企業が従業員にお金を払って紛争を解決する“解雇の金銭解決”。

だが、労働組合は「解雇を助長する」、企業側の一部にも「負担が増す」と反対論があり、堂々巡りの議論が続く。大田氏は、「規制改革だけでなく、社会保障や税制面も含めたパッケージで対処すべきだ」と指摘する。職を移る際の職業訓練の機会を増やし、訓練期間中の収入を支える公的保障も設ける。民間の雇用仲介の業者もサポートできるよう、門戸を広げるといった策だ。包括的な対策で転職に対する不安を和らげ、日本の労働市場を解きほぐせば、イノベーションも加速する。勿論、経済界や労働組合の意識改革が不可欠だ。グローバルな人材受け入れにも対応し易くなる。「研究者にとって、アメリカやイギリスが居心地の悪い国になってきた。2018年は、世界の高度人材が大きく流動化する年になる」と、『A・T・カーニー』日本法人の梅沢高明会長は話す。アメリカのドナルド・トランプ政権が予算教書で提案した医学や地球温暖化に関連する研究費の大幅なカットで、研究者が余剰になる可能性がある。イギリスも『ヨーロッパ連合(EU)』からの離脱が近付き、研究者の地位やヨーロッパ大陸との関係が微妙になってきた。フランスのエマニュエル・マクロン大統領は、「どうぞフランスへ」とそうした人々を手招きする。海外からの人材受け入れも好機が訪れている。日本経済は、雇用市場の改革を進めるのに適した環境にある。4~6月期の国内総生産(GDP)速報値は、前期比年率換算で実質4.0%増。アメリカの2.6%、ヨーロッパのユーロ圏19ヵ国2.3%を大きく上回る。『SMBC日興証券』が試算した世界経済の成長率は、実質3.9%だ。勢いの勝る新興国を含めても、日本の伸びは遜色ない。4%の伸びは、確かに出来過ぎの面がある。前期比0.9%増の個人消費も、野菜価格高騰の一巡やエコポイント等の過去の需要促進策の買い替え、好天によるレジャー支出な等、天候要因が支えた。住宅投資や設備投資の増勢、昨年決めた経済対策の押し上げも効いた。7~9月期は、高成長の反動と東日本の天候不順が気がかりだ。それでも、日本経済の地力はついてきたと見ることはできる。日本のGDPは、2016年1~3月期から6四半期連続でプラス成長を続ける。『BNPパリバ証券』は、日本経済の潜在成長率を0.7%程度と試算している。1年半に亘り、潜在力を上回る伸びが続いている。消費心理は、緩やかながら好転の兆しがある。供給側のデータを基に日銀が算出した消費活動指数は、4~6月期に前期に比べ1.1%上昇し、2014年の消費増税の直前以来の伸びになった。可処分所得の内、消費に回す割合を示す消費性向も、年初から上昇している。息の長い経済成長の下、完全雇用の中で人手不足に悩む日本。今の環境を追い風に、攻めの改革に踏み出す好機だ。 (本社コメンテーター 菅野幹雄)


⦿日本経済新聞 2017年8月23日付掲載⦿

テーマ : 労働問題
ジャンル : 政治・経済

【中外時評】 積み残された労働市場改革

第2次安倍政権の発足から5年近くの間に顕著だったのは、人手不足を背景とした雇用の安定度を表す指標の改善だ。政権発足の2012年12月と直近の今年8月を比べると、求職者1人に何件の求人があるかを示す有効求人倍率は0.83倍から1.52倍に上昇。完全失業率は4.3%から2.8%に低下した。しかし、日本が成長する上でカギになる指標は思わしくない。人がどれだけ付加価値を生んでいるかを表す労働生産性は伸び悩んでいる。今年度の経済財政白書によると、1986~1991年のバブル期には時間あたりの労働生産性の伸びが年平均3.8%あったが、2012~2016年は同0.7%に留まる。生産性の低迷を反映し、1人あたり名目賃金の年平均上昇率も、バブル期の3.6%に対し、2012~2016年は0.4%と低い。このままでは、進行中の経済の構造変化を日本の企業が乗り切るのは難しい。労働力の減少は今後本格化する。人工知能(AI)等の技術革新が進む第4次産業革命とグローバル化は、世界の企業の競争を一段と激化させる。どれも企業に迫っている課題は、働き手1人あたりの付加価値を高めることだ。人件費や企業が払う社会保障費を合わせた“雇用コスト”の負担を和らげる上でも、生産性の向上は重要だ。1970年代の石油危機を皮切りに、『プラザ合意』後の円高、バブル崩壊、リーマンショックと、日本企業は人件費削減に追われてきた。だが近年、定年後の雇用継続や非正規社員の待遇改善等、人手不足の深刻化もあって、雇用コストを押し上げる要因が増えている。潮目の変化がみられ、コスト増を吸収して成長できるだけの生産性の伸びが一段と求められている。生産性の向上は、有望分野への経営資源の集中、研究開発の強化、IT活用等、企業自身が動かなければ始まらないのは勿論だ。その上で、政策面で企業が活動し易い環境を整えているかが問われる。

政府の働き方改革では、賃金を職務や成果で決める“脱時間給”や残業規制の制度案が纏まった。これらは時間の効率的な使い方を促し、生産性向上を後押ししよう。しかし、肝心な点が働き方改革は手薄だ。人が柔軟に仕事を移っていける流動性の高い労働市場の整備は進んでいないからだ。人材を社会全体に効率的に配分し、成長に繋げることができていない。『リクルートワークス研究所』によれば、事業活動に活用されていない“社内失業”者は2015年に401万人。2025年は415万人に増える見込みという。総務省の調査では、非正規社員で不本意ながら働いている人が2016年に297万人いた。これらの人たちが自らの力を発揮できる仕事に移れるようになれば、国全体の生産性の底上げが期待できる。大きな問題は、成長産業への人の移動が少ないことだ。同所の調査では、転職者の内、成長率が高い業種に就業した人の割合は2015年に17%、2016年は15.9%と停滞している。成長分野であっても、人材の供給不足で生産性の伸びが鈍る心配がある。実は、流動性の高い労働市場作りは2013年に、政府の規制改革会議の雇用部会が提言している。「能力開発の強化等を通じ、生産性の低い部門から高い部門への労働移動を促すことが重要だ」とした。能力開発は、公共職業訓練を改革する余地が大きい。「失業者が念頭にある教育課程を見直し、在職者が受講し易い短期のコースを拡充すべきだ。自宅で学べるインターネット講座も必要」と、同所の大久保幸夫所長は指摘する。職業紹介の強化へ、民間の人材サービスを活用し易くする規制改革も求められる。ドイツが2000年代に進めた労働市場改革では、職業紹介機関に数値目標を立てさせ、競争を促した。日本のハローワークも、紹介業務の民間開放を進め、競争を起こす必要がありはしないか? 労働市場改革は1つひとつの施策が地味だが、日本の成長力を高める基盤になる。衆院選後、政権の枠組みがどうなるかに拘わらず、疎かにできない課題だ。 (上級論説委員 水野裕司)


⦿日本経済新聞 2017年10月12日付掲載⦿

テーマ : 労働問題
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【Deep Insight】(48) 風化するリーマンの悪夢

アメリカと北朝鮮の応酬には身構えざるを得ない。だが、それ故に、市場には良い影響を齎したかもしれない。先週の世界的な株売りは、投資家がリスクの存在に気付いたことの裏返しでもある。マネーはそれほど寛容だった。大盤振る舞いは、ここ数ヵ月、世界の茶の間の話題もさらっていた。サッカーのブラジル代表・ネイマール選手の移籍金は2億2200万ユーロ(※約290億円)だった。過去最高の2倍以上だ。ジャンミシェル・バスキア作の肖像画は、アメリカの芸術家の作品として最高の1億1050万ドル(※同120億円)で落札された。こちらは予想の2倍弱。世界的なカネ余りの断面だ。市場で起きていることも、その延長線上にある。先ず、機関投資家に資金が押し寄せている。例えば、トムソンロイターによると、世界の買収ファンドに集まった資金は今年の1~7月で3442億ドル。このペースが続けば、過去最高だった2007年の4930億ドルを大きく超える。溢れるマネーを運用しなければならないからこそ、大きなリスクも取る。“ジャンク債”、つまり信用度が極端に低い企業の債券への投資熱は象徴的だ。投資家は、信用度が低い企業に対し、投資の見返りに高い利回りを要求する。アメリカの格付け会社『S&Pグローバルレーティング』によると、2008年のリーマンショックの後には、アメリカのジャンク債の利回りがアメリカ国債より平均17%ポイント以上も高かった。それが今は4%ポイント強だ。投資家はリスクが高い債券を、利回りが低くても買っている。雰囲気は、リーマン危機に至る混乱が本格化する直前の2006年と似ている。「カネはどこにでもある」。同年末、『ゼネラルエレクトリック(GE)』の最高経営責任者(CEO)だったジェフリー・イメルト氏は、こう豪語していた。「資金はいくらでも安く調達できる」という自信だった。投資家は、悪化した条件で投資する以上、正当化する理由が必要だ。“マーシャルのk”が話題になるのも、そんな事情からだろう。「ベストな理論だ」。マーシャルのkを解説したニューヨークのエコノミストに最近、投資家からお礼のメールが届いている。マネーサプライがGDP(国内総生産)の何倍かを示すのがマーシャルのkだ。マネー経済の発達で上昇してきたが、リーマン危機後の世界的な金融緩和で上昇ピッチは増した。急増しているお金が、資産の価格を押し上げる――エコノミストのこんな解説だった。「価格上昇は説明できる」と筆者も思う。但し今は、だ。

「我々は意図的に、史上最大の国債バブルを造ってきた」。イギリスの中央銀行『イングランド銀行』の幹部であるアンドリュー・ハルデイン氏が、危機後の世界的な金融緩和の副作用を激白して話題を呼んだのは、2013年のことだ。国債等を買い続けた結果、日米欧の中銀の資産は当時で危機前の2倍、今では3.5倍に膨らみ、マネーの増加を後押ししてきた。だが今、『連邦準備理事会(FRB)』が金融引き締めを進めている通り、カネ余りと資産価格の上昇を演出した仕組みも終わりが見えてきた。“国債バブル”からの軟着陸は可能なのか? ナスダック総合株価指数の動きも、これからチャート専門家の関心を集めるだろう。近年の急騰の軌跡が、1989年末をピークに急落する日経平均株価と不気味にも重なるからだ。仮に、今後も当時の日経平均を追うとすれば、アメリカのハイテク企業の“株式バブル”は今年末に崩壊する。だからといって、カネ余りの長期化も限界がある。資産価格が上昇しても賃金が増えない傾向が世界的に続き、持てる人々とそうでない人々の格差が社会不安を招く恐れが出てきた。『国際労働機関(ILO)』によれば、世界の実質賃金の伸びは2015年、年1.7%に留まり、2年連続で低下した。問題は、市場がこんな危うさに気が付いているかどうかだ。「“音楽が鳴っている間は踊らなければいけない”という格言もある」。先月、東京の株式ストラテジストが顧客向けにこう述べ、投資の継続を薦めていた。これは2007年7月、アメリカの『シティグループ』のチャールズ・プリンスCEOが、降りるべき投資競争から降りられない危うい心理を吐露した一言だ。反面教師の失言は、10年を経て前向きな格言に変わった。プリンスCEOは、発言の4ヵ月後に損失を計上して引責辞任し、シティは経営危機に突入した。資金力を誇ったGEも2008年には資金繰りに窮し、イメルトCEOは当時のヘンリー・ポールソン財務長官や著名投資家のウォーレン・バフェット氏に泣きついた。そんなリーマン危機の悪夢が風化している。ネイマール選手の移籍金も、ナスダックの高騰も、200年で8回も債務不履行(デフォルト)したアルゼンチンの100年国債に3倍以上の申し込みがあった今年6月の一件も、其々に説得力のある理由があるのだろう。だが、このようなことが何故一斉に起きるのか、マネーがいつまで大盤振る舞いを続けられるのか、自信を持って説明できる人は少ない筈だ。格言ならば、2008年に死去した投資家のジョン・テンプルトンの言葉を筆者は信じる。「強気相場は悲観の中に生まれ、懐疑の中で育ち、楽観の中で成熟し、陶酔の中で消えていく」。楽観の中で、陶酔の芽はちらついている。 (本社コメンテーター 梶原誠)


⦿日本経済新聞 2017年8月18日付掲載⦿

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【変見自在】 政府なき新聞

トーマス・ジェファーソンの独立宣言草稿には、“奴隷貿易の廃止”があった。奴隷で食っているジョージ・ワシントンらが反対して、そこだけが削られた。そう書くとジェファーソンはとても立派な人に見えるが、それは間違いで、ヴァージニア州の彼の農場には600人もの黒人奴隷が囲われていた。この数字は、アメリカの大統領の中でも突出している。奴隷から生きた歯を抜いて総入れ歯を作っていたワシントンですら、400人しか保有していなかった。その理由は、女奴隷を多く買って子を産ませ、大量に繁殖させていたからだ。彼の言う奴隷貿易廃止は、「輸入奴隷に頼らず、安い国内産の需要を高めよう」という商売っ気にあった。繁殖用奴隷に手を出す白人も多かった。イギリスの捕鯨船長であるへミングスも、ブリーダーの1人であるジョン・ウェルズの持ち物に手を出して、混血のベティが生まれた。可愛いベティに今度はウェルズが手を出してサリーが生まれた。血が薄まったサリーは、「殆ど白人に見え、髪の毛もまっすぐだった」と伝えられる。このウェルズの白人の娘であるマーサが、ジェファーソンの妻になる。9歳のサリーは、マーサ付きの家内奴隷としてジェファーソン家に入り、彼が駐仏大使になった時もパリに同行している。それから10年後、彼が第3代アメリカ大統領に就任した時、いざこざのあった新聞記者のジェームス・カレンダーが、地元紙に「大統領は駐仏大使時代に黒人女中のサリーに男の子・トーマスを産ませた」と報じた。この時代のアメリカには、有色人種との性交を禁ずる異人種間結婚禁止法があった。違反すれば追放か、奴隷に落とされるか、場合によっては死刑さえあった。

モニカ・ルインスキーの比ではない大醜聞だが、ただ、カレンダーの記事は誤報だった。“隠し子のトーマス”はいなかったし、ジェファーソンがサリーを孕ませたのはパリから戻って数年後のことで、その事実は20世紀最後にやっと解明された。カレンダーは自滅し、最後は川に嵌って死ぬが、この偽りの醜聞はジェファーソンの政治生命を十分に脅かした。彼は、新聞の持つ力を早くから評価した政治家だった。「新聞無き政府か、政府無き新聞かと問われれば、躊躇いなく後者を選ぶ」という彼の言葉が残されている。彼はアレクサンダー・ハミルトンと連邦政府の権限について争った時も、『ナショナルガゼット』を丸抱えにして世論を味方にした。その意味で、新聞を議会より強力な政治手段と認めていたが、一方でカレンダーのように、その力を私怨や政治工作に使って、政局を操りかねない危険性も指摘していた。“政府無き新聞”とは、「政府が無くても新聞が世論も政治も動かせる」という意味も含んでいる。実際、ジェファーソンが新聞について語る言葉は正直で厳しい。「新聞で信頼に足ることを語っているのは広告だけだ」「新聞を読む人より新聞を読まない人のほうが教養は高い」「真実でないものならいつでも、いくらでも新聞に載っている」。新聞記者になりたいという学生を説得した彼の言葉が残る。「新聞とは、あらゆる真実を入れると二目と見られぬ醜いものにして吐き出す装置のことだ」。日本にもそんな新聞がある。北朝鮮の核暴走を朝日新聞という装置に入れると、「米国製憲法をないがしろにするな」(根本清樹論説主幹)になる。安倍解散も“森友と加計の疑惑隠し”に変わる。森友の隣地が、辻元清美の世話で倍近い14億円引きになったことは隠し、加計も「首相のお友だちならカネが動いた筈」という根本の邪推だけ。「証拠はいらない。疑惑だ疑惑だと連呼すれば馬鹿な国民は騙せる。政局にできる」と根本は考える。でも、彼が手本にしたカレンダーは、小さな連邦政府論では真面を語っている。根本には、その真面さの片鱗も無いのが悲しい。


高山正之(たかやま・まさゆき) ジャーナリスト・コラムニスト・元産経新聞記者・元帝京大学教授。1942年、東京都生まれ。東京都立大学法経学部法学科卒業後、産経新聞社に入社。警視庁クラブ・羽田クラブ詰・夕刊フジ記者を経て、産経新聞社会部次長(デスク)。1985~1987年までテヘラン支局長。1992~1996年までロサンゼルス支局長。産経新聞社を定年退職後、2001~2007年3月まで帝京大学教授を務める。『高山正之が米国・支那・韓国・朝日を斬る 日本人をますます元気にする本』(テーミス)・『アジアの解放、本当は日本軍のお陰だった!』(ワック)等著書多数。


キャプチャ  2017年10月12日号掲載

テーマ : 報道・マスコミ
ジャンル : 政治・経済

【誰の味方でもありません】(22) 国民食が冷凍ピザの国

夢遊病のように、真夜中にチョコレートを食べるという習性がある。自分では全く記憶に無いことも多く、目覚めると枕の周りが真っ黒で、吐血したのかと驚いた時もあった。実際は、チョコを食べかけて口に銜えたまま寝てしまっただけである。流石に、32歳にもなってこんなことを繰り返していては拙いと、最近はガムテープで梱包したり、態と天井に近い棚に隠す等、チョコ封印作戦に乗り出した。しかし、所詮は無駄な努力。起きると決まって、チョコの残骸が散らばっているのだ。先日は、初めての幻聴を経験した。その日もいつものように、真夜中にチョコレートを食べようとキッチンへと向かった。冷蔵庫からチョコレートを取り出そうとした瞬間である。突如、身体の奥底から「やめて」という声が聞こえたのだ。若しかしたら幽霊かもしれない。慌てて寝室へ戻る。しかし、幽霊がそんな栄養士みたいな指摘をしてくれるだろうか? 恐らく、「チョコを食べてはいけない」という無意識が生んだ幻聴だったのだろう。一安心と思い、チョコを口にして、再び眠りに就いた。チョコレートを本格的に食べるようになったきっかけは、大学時代に交換留学で訪れたノルウェーだ。ノルウェーは、本当に人々が食事に無頓着な国だった。例えば、代表的なノルウェー人の食事はこんな感じ。

朝は各自がパンにチーズやジャムを挟み、サンドウィッチを作る。余分に作ったサンドウィッチを学校や職場に持参し、それがそのまま昼食になる。そして、夜は国民食の冷凍ピザ。「温かい食事は1日に1度あればいい」という発想らしい。尤も、最近は食事情が若干マシになったようで、友人が「社食で温かい料理が食べられるようになった」と大喜びしていた。元々、寒冷な地域で大した食材が無かったことに加えて、男女共働きが当たり前で、“ゆっくり食事を作る人”がいないことが遠因だろうか。しかも、物価が異様に高い国だ。当時はレートも悪く、ペットボトルの水が500円、マクドナルドでセットを頼めば2000円近くするといった有様だった。そんなノルウェーで出会った奇跡が、『フレイア』という会社のミルクチョコレートである。ミルクの濃厚な味わいと、頭痛と胸焼けがするほどの甘さ。日本の市場で受けいれられるかはわからないが、僕が世界で一番好きなチョコレートだ。『デイリーミルク』や『リンツ』等、日本でも買える甘いチョコはあるが、一番はフレイア。あまりにも好き過ぎて、海外輸出の可否を問い合わせたことまである。残念ながら温度管理ができないので、原則として北欧以外の地域には輸出できないとのことだった。ノルウェーに行く機会があったら、黄色いパッケー ジが目印のフレイアのチョコを探してみてほしい。僕もチョコを買う為だけに、冬のノルウェーに行くかを迷っている。一緒にチョコ中毒仲間になりませんか?


古市憲寿(ふるいち・のりとし) 社会学者。1985年、東京都生まれ。東京大学大学院博士課程在籍。慶應義塾大学SFC研究所上席所員(訪問)。著書に『希望難民ご一行様 ピースボートと“承認の共同体”幻想』(光文社新書)・『絶望の国の幸福な若者たち』『誰も戦争を教えてくれなかった』(共に講談社)等。近著に『大田舎・東京 都バスから見つけた日本』(文藝春秋)。


キャプチャ  2017年10月12日号掲載

テーマ : 政治・経済・社会問題なんでも
ジャンル : 政治・経済

【ヘンな食べ物】(57) 激マズ! 謎のインド人の納豆カレー

ミャンマー北部の町・ミッチーナで納豆取材をしていた時のこと。現地でも珍しい“竹納豆”を偶然入手した。知り合いになった納豆売りのおばさんが「お土産に」と言ってくれたのだ。発酵させた納豆を、傷まないように塩と唐辛子と一緒に竹に詰めたという。喜んだ私の直ぐ横に、何故か偶々インド人の経営する食堂があった。「あっ、ここでこの納豆をカレーにしてもらおう!」と思った。以前、どこかで「インドでは納豆をカレーに入れる」と聞いたのをふと思い出したのだ。行き当たりばったりでは右に出るものはいない私は、早速、店に入った。店主らしきインド人(※30代の男性)に、「この納豆をカレーに入れてくれる?」と訊いた。すると、如何にもフレンドリーな感じの店主は、「オーケー、どんなカレーがいい?」とそこまで英語で言うと、いきなり「鶏肉? 豚肉?」と日本語で訊いた。「えっ、日本語を話せるの?」と驚いて訊くと、「ノー。日本語は知らない」と涼しい顔。“鶏肉”と“豚肉”だけ、どこかで憶えたらしい。それにしては発音が正確で、自然な話しぶりのように思えたが。ちょっとヘンな気はしたが、兎も角、鶏肉カレーを頼んだ。しかし、彼が怪しいのは言語だけではなかった。私が竹筒から取り出した納豆を、不思議そうな面持ちで眺めている。「作れるの?」と訊くと、「あっ、大丈夫、大丈夫」と早口で言うのだが、その“大丈夫”は昔、インドで商人やリキシャーの運転手に騙された時に散々耳にした“大丈夫”によく似ていた。そういう怪しいインド人同様、この店主も私が疑いだした途端、急に動きが速くなり、口を挟む隙を与えず、大鍋から作り置きのカレーを掬ってフライパンに入れ、そこに納豆をドカンと投入した。

カレーは予想に反してインド風ではなく、脂っこいビルマ風のようだ。「こんな調理法でいいのか?」と首を捻ったら、それを見透かしたように、彼はくるっと振り向くと、ニヤッとして言った。「結果はどうなるかわかりませーん!」。完璧な日本語だった。「ええーっ、やっぱり日本語を知っているんじゃないか! どこで習ったの?」と訊いたが、彼はポカンとしている。真顔で「日本語は話せないし、習ったこともない」と英語で言う。とぼけている様子でもない。じゃあ、どうしてこんな複雑で非一般的な日本語を、ドンピシャの場面で使えるのか? 英語とビルマ語でいくら問い質しても埒が明かず、どさくさに紛れるように、彼はフライパンの納豆カレーをどさっと皿にあけた。「外国語を“鶏肉”・“豚肉”・“結果はどうなるかわかりません”の3つしか知らない人間が存在するのか?」という異常な謎が残ったものの、兎も角、納豆カレーの試食だ。だが、1口食って気が遠くなった。不味い。劇的に不味い。竹納豆はお土産用である。長期間保存する為に、塩と唐辛子が大量に入っていたのだ。それを味見すらせず、ビルマ風の脂ギトギトで味の濃いカレーにぶち込んだのだから、たまったものじゃない。カレーのルウに納豆をかけて直に食べているような感じだ。気付けば、いつの間にか店主は姿を消しており、若いスタッフがちゃんと1皿分のカレー代金を請求するのだった。何と、これでカネを取るのか! これは今に至るまで、私が食べた中で最高に不味い納豆料理であり、このインド人は今まで世界中で会った中で最も謎に包まれた人物の1人となったのだった。


高野秀行(たかの・ひでゆき) ノンフィクション作家。1966年、東京都生まれ。早稲田大学第1文学部仏文科卒。『幻獣ムベンベを追え』(集英社文庫)・『アジア未知動物紀行』(講談社文庫)・『世界のシワに夢を見ろ!』(小学館文庫)等著書多数。


キャプチャ  2017年10月12日号掲載

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ジャンル : 旅行

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