【村西とおるの「全裸で出直せ!」】(97) 自分に諂う者は敵で、𠮟る者は先生
老人は私に向かい、「ここで待っていなさい」と言い捨て、杖の音をカツーン、カツーンと響かせながら、D銀行本店の中に入っていきました。その威風堂々たる立ち振る舞いに、入り口の警備員も最敬礼して迎え入れたのです。それから10分程経って、老人が現れ、 「頭取が急に大蔵省に呼ばれたというんで会えんかったが、来週の約束を取り付けたから、今日のところは帰ろう」と言うのでした。その夜、再び老人を銀座のクラブに招待し、宴を催しました。前夜と同じ料金の100万円は、これも先行投資と考えれば少しも惜しいとは思いませんでした。すると、老人が別れ際に「明日は向島に」と言う。翌日、老人のご要望通り、向島の料亭で芸者遊びをしました。すると、その夜の別れ際に、今度は「神楽坂にも」と申されたのです。これも40億が手に入るまでの辛抱と、歯を食いしばって老人のご希望に応え、翌日も神楽坂の料亭で芸者遊びに興じました。その次の日の昼頃です。神楽坂に詳しいということで、前夜一緒に老人との遊びに同行を頼んだ友人が血相を変えて私の事務所にやって来たのです。「あの野郎はとんでもない嘘吐きだ。昨晩、タクシーで送った後に後ろをついて行ったら、中野の木造ボロアパートに入っていったんだよ。何が大物だ、40億円は任せておけ、だ。詐欺師だよ」と色をなして怒るのでした。
その夜、老人を件の銀座のクラブに誘い出し、問い詰めると、「本性を現しやがったな」と怒りの声を上げたのです。「そんなことだろうと思って尾行をされているのがわかったから、態々ボロアパートに入ってみせたんだよ。わしはお前さんを信用し、40億のお金を出してやろうとしたのに、よくもコケにしやがったな!」と、顔を達磨のように真っ赤にして怒鳴ったのです。私は即座にその場に土下座をして、「申し訳ありません、許して下さい」と白旗を上げたのですが、一緒にいた友人は「馬鹿らしい」と捨て台詞を吐いて、店から出て行きました。その夜、老人のご機嫌をとり結ぼうと、米つきバッタとなり男芸者を続けたのです。未練でした。帰りには老人の袖の下に「お食事代です」と20万円の札束をねじ込みました。老人は目を細め、「出してやるから心配するな」との頼もしい言葉を残し、タクシーの人となったのです。私は老人が乗ったタクシーの尾灯が遠く見えなくなるまで頭を深く垂れ、見送ったのでしたが、それっきり老人の消息は絶えました。それから暫くして、です。老人が銀座界隈では有名な“出す出すジジイ”であることを知ったのは…。
村西とおる(むらにし・とおる) AV監督。本名は草野博美。1948年、福島県生まれ。高校卒業後に上京し、水商売や英会話教材のセールスマン等を経て裏本の制作・販売を展開。1984年からAV監督に転身。これまで3000本の作品を世に送り出し、“昭和最後のエロ事師”を自任。著書に『村西とおるの閻魔帳 “人生は喜ばせごっこ”でございます。』(コスモの本)・『村西とおる監督の“大人の相談室”』(サプライズBOOK)等。
2021年4月22日号掲載
その夜、老人を件の銀座のクラブに誘い出し、問い詰めると、「本性を現しやがったな」と怒りの声を上げたのです。「そんなことだろうと思って尾行をされているのがわかったから、態々ボロアパートに入ってみせたんだよ。わしはお前さんを信用し、40億のお金を出してやろうとしたのに、よくもコケにしやがったな!」と、顔を達磨のように真っ赤にして怒鳴ったのです。私は即座にその場に土下座をして、「申し訳ありません、許して下さい」と白旗を上げたのですが、一緒にいた友人は「馬鹿らしい」と捨て台詞を吐いて、店から出て行きました。その夜、老人のご機嫌をとり結ぼうと、米つきバッタとなり男芸者を続けたのです。未練でした。帰りには老人の袖の下に「お食事代です」と20万円の札束をねじ込みました。老人は目を細め、「出してやるから心配するな」との頼もしい言葉を残し、タクシーの人となったのです。私は老人が乗ったタクシーの尾灯が遠く見えなくなるまで頭を深く垂れ、見送ったのでしたが、それっきり老人の消息は絶えました。それから暫くして、です。老人が銀座界隈では有名な“出す出すジジイ”であることを知ったのは…。
村西とおる(むらにし・とおる) AV監督。本名は草野博美。1948年、福島県生まれ。高校卒業後に上京し、水商売や英会話教材のセールスマン等を経て裏本の制作・販売を展開。1984年からAV監督に転身。これまで3000本の作品を世に送り出し、“昭和最後のエロ事師”を自任。著書に『村西とおるの閻魔帳 “人生は喜ばせごっこ”でございます。』(コスモの本)・『村西とおる監督の“大人の相談室”』(サプライズBOOK)等。

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