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【WEEKEND PLUS】(72) 8月の高校野球交流大会を巡って朝日と毎日が醜い争い

20200710 02
中止された春のセンバツ高校野球の代替試合として、来月、阪神甲子園球場で交流大会が開かれるが、『毎日新聞』と『朝日新聞』が後援に名を連ねるという光景が、野球界のみならず、新聞業界でも話題となった。しかしその裏では、系列の在阪準キー局が放映権を巡って鍔迫り合いを繰り広げていた。対立したのは『朝日放送(ABC)』と『毎日放送(MBS)』の2社だ。全国的には『NHK』が試合の中継を行なうが、関西エリアでは春の大会はMBS(※地上波では決勝戦のみ)、夏はABCが其々中継してきた。今回は夏に行なう大会だが、きっかけは“春のセンバツ大会の代替”という主旨である。この為、両放送局が共に「自分のところで放送する」と主張。32の出場校が1試合ずつ行なう為、試合数は16と春のセンバツの約半分の上、スポンサー収入も限られた大会なのに、だ。また、無視できないのがインターネット中継である。朝日新聞とABCはIT企業と共に『バーチャル高校野球』というサービスを展開し、近年、ユーザー数を伸ばしてきた。毎日新聞とMBSも同様のオンライン中継を行なっている。こうしたインターネット配信による広告収入もばかにならない他、MBSは過去のセンバツ大会の試合について個別に有料で配信しているのだ。放映権料無料の甲子園は放送局の重要コンテンツ故に手放せず、主催者も交えて落としどころが探られている。


キャプチャ  2020年7月号掲載
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テーマ : スポーツニュース
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【戦後75年】第2部・戦争とスポーツ(下) 憎しみを超える喜び

20200709 03
「傷ついた者同志の集いは楽しかった。政治政略はなく、手を握り合い、肩をたたき、又会う日迄お元気で、と祝福している姿に、私達だけが知る涙を禁じ得ないのも、又懐かしい思い出」――。1964年の東京パラリンピックに出場し、水泳とフェンシングで銀メダルを獲得した青野繁夫さん(※1986年に65歳で死去)は、大会の公式報告書に感想を綴っていた。元々は静岡県で教員をしていた。陸軍軍人として中国に派遣され、揚子江支流で機銃掃射を浴び、脊椎に重傷を負う。戦後は、傷痍軍人らを受け入れた神奈川県小田原市の『箱根療養所』(※現在の『国立病院機構箱根病院』)に入所した。開会式では選手宣誓の大役を務めた。張り詰めた気持ちをこう表現している。「嘗て砲弾雨飛の中に、いたたまれない焦燥と緊張を味わったが、それと違った意味の緊張感であった」。パラリンピックは第2次世界大戦後、イギリスの『ストークマンデビル病院』で傷痍軍人のリハビリとして始まった競技が起源とされる。箱根療養所の歴史等を調べている『戦時下の小田原地方を記録する会』によると、多くの障害者が人目を避けて暮らした戦後の日本で、同療養所は逸早くリハビリにスポーツを取り入れた。東京大会にはここから19人が出場し、少なくとも青野さんら2人は傷痍軍人だった。

障害があっても朗らかにスポーツに励む外国人選手との交流は、青野さんの人生を変えた。弟の行雄さん(94、静岡県掛川市)によると、大会後には車の運転免許を取り、自立を目指した。「スポーツが風穴を開けて、残された機能を生かしていく励みになったと思う」。生き生きと腕を動かして泳ぐ兄の姿は、瞼に焼き付いている。積極的にスポーツをリハビリに取り入れたのが、大分県別府市の整形外科医・中村裕さん(※1984年に57歳で死去)だ。マンデビル病院で学び、東京パラリンピックの開催に奔走した。長男の太郎さん(59)は、「日本では当時、“障害者は可哀想”という意識があったが、父は『障害のある人も社会の中で生きることが大切だ』と考えていた」と話す。中村さんの思いを継ぐ大会が大分県にある。1981年に始まった『大分国際車いすマラソン』だ。中村さんに誘われ、第1回から参加する徳島県吉野川市の工藤金次郎さん(93)は、「外国人選手と交流し、健闘を称え合うことが喜び」と笑顔を見せる。10代で海軍に入り、海防艦で北海道や東北地方の防衛にあたった。グラマン戦闘機の機銃弾が真っ赤に燃えて向かってくる光景は、今も忘れられない。復員後は鉄工職人として働いた。結婚し、1男1女をもうけたが、40歳を過ぎた頃、橋の建設現場で転落。脊椎を損傷し、車椅子生活になった。中村さんとはリハビリを通じて出会った。当時、競技用の車椅子はなく、鉄工職人の腕を生かして自作。海風を切って走る度に、「自分の腕で前へ進んだ」と喜びを感じた。海外の友人も増え、今も毎日、数㎞を走る。「障害があるからこそ通じ合う苦悩や喜びがある。戦争で憎み合った時代を超え、一緒に走れる今は幸せ」。来年のパラリンピックで生まれるドラマも心待ちにしている。

                    ◇

後田ひろえ・寺垣はるかが担当しました。


※本文由李的博多居民提供。谢谢。
キャプチャ  西部本社版2020年6月5日付掲載

テーマ : 社会ニュース
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【戦後75年】第2部・戦争とスポーツ(中) 世界と競う、「これが平和」

20200708 05
ゲームカウント2-2で迎えた最終ゲームも、イングランドの選手にリードを許していた。「負けて帰れない」。相手の動き、そしてボールの行方だけを目で追った。胸元に球が来た時、最も力を込められるフォアハンドで打ち返した。ボールが相手のコートで弾んで逆転――。1957年、スウェーデンのストックホルムで開かれた卓球の世界選手権の女子シングルスで、長崎市出身の江口冨士枝さん(87)は世界の頂点に立った。女子団体と混合ダブルスでも優勝し、3冠を達成した。“卓球ニッポン”と称賛された1950年代をリードした選手。「取柄は卓球が好きなことだけ。人の何倍も努力するしかなかった」。自分に厳しい生き方の根底には、戦火をくぐり抜けた体験があった。5人姉妹の末っ子として生まれた活発な少女。戦前の長崎では、眼鏡橋の下の川で魚を捕まえ、父が営む美容院がある商店街を走り回った。小学2年生の時、家族で大阪に移り住んだ。1945年、『B29』の空襲で、自宅があった繁華街の難波は焼夷弾で焼かれた。夜空に立ち上がる紅蓮の炎と、無数の遺体が目に焼き付いている。半年後には発疹チフスに罹り、生死を彷徨った。卓球を始めたのは中学に入ってから。「一番初めに再開されたのが卓球部だった。でも、板きれを繋ぎ合わせた急拵えの卓球台は凸凹していた」と苦笑いする。

この頃、日本は復興への道を歩み出していた。『日本卓球協会』によると、1946年には第1回国民体育大会が開かれ、卓球も正式競技に。1949年には、他競技に先駆けて国際競技団体への再加盟が認められた。娯楽の少ない時代、卓球は手軽なスポーツとして人気を集め、国際大会で活躍する日本人選手は人々を励ました。ただ、父からは「飯しゃもじ(=ラケット)は銭にならん」と反対された。医師を目指すことを条件に卓球の道を認めてもらい、進学先の大学では、びっしり詰め込まれた実習の合間にフットワークを鍛えた。練習の相手は男性コーチ。強烈な球を受け損なう度に 体育館を兎跳びで1周するノルマを自分に課した。初めて世界と戦ったのは1954年の世界選手権。開催国のイギリスでは日本人への風当たりは強く、ミスをする度に会場が沸いた。それでも自分たちのプレーを続け、男女団体で優勝。試合が終わり、相手の選手と健闘を称え合った時、「これが平和なんだ」と実感した。1959年、ドイツでの世界選手権を最後に現役を退き、卓球の普及に取り組んだ。人生で最も輝かしい瞬間は、ストックホルムでの3冠だったと思う。「焼け跡から立ち上がろうとした時代の熱気に押され、世界と戦うことができた」。小倉市(※現在の北九州市)出身で、1968年メキシコ五輪マラソン銀メダリストの君原健二さん(79)も、「生きるか死ぬかの時代を体験したからこそ、五輪でライバルと競い合える平和のありがたさを感じた」と語る。空襲から逃れる為、防空壕に逃げ込んだ。戦後、小倉が原爆の投下目標だったと聞かされ、衝撃を受けた。中学2年生の時、友人の誘いで駅伝クラブに入り、食料難の中で、選手に選ばれると試合前に貰える生卵や飴が魅力で、練習に精を出すようになった。高校卒業後、強豪実業団として知られていた『八幡製鉄』(※現在の『日本製鉄』)の陸上部に。1964年の東京から3大会連続で五輪の男子マラソンに出場。市民ランナーとして、75歳までフルマラソンに参加した。五輪に向けて一人で黙々と走るトレーニングは苦しかった。「何の為に」と思うこともあった。そんな時は、「原爆が北九州に落とされていたら、自分はいない。生かされているんだから頑張ろう」と言い聞かせた。大舞台で力を振り絞れたのは、その思いがあったからだ。


※本文由李的博多居民提供。谢谢。
キャプチャ  西部本社版2020年6月2日付掲載

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【戦後75年】第2部・戦争とスポーツ(上) 戦地に散った五輪選手

平和の祭典、民族の融和、戦後復興のシンボル――。スポーツの国際大会には、時代の求めに応じて、様々な願いが託される。1年間延期された東京五輪・パラリンピックも、新たに新型コロナウイルスに打ち勝つとの決意が込められた。戦火の時代を生きたアスリートらは、どんな思いで大会に臨んだのか。その軌跡を辿る。

20200708 04
綿毛の付いた帽子を被った兵士が、3人の中国人と肩を並べ、朗らかに笑う1枚の写真。裏面には「さむい」「ぼうしを見て下さい」と、柔らかな文字でメッセージが綴られている。兵士は、山口県萩市出身の阿武厳夫さん(※左画像の左から2人目)。慶應義塾大学に在学中の1932年、ロサンゼルス五輪の400mリレーで5位に入賞した陸上選手だ。出征先の中国から同市の少年に写真を送り、受け取った堀誠一さん(88)は80年以上、アルバムで大切に保管してきた。2人を繋いだのは1938年、尋常小学校1年だった堀さんが作った慰問袋だった。布袋に石鹸や歯ブラシ、手紙を入れて戦地に送った。堀さんの袋が阿武さんに渡り、礼状と写真が届いた。堀さんは、「兵隊さんからお礼が来ることなんて殆どなかった。縁を大事にする律義な人だったのだろう」と振り返る。何度か手紙のやり取りが続いたが、阿武さんは1939年、中国南部の崑崙関付近の戦闘で命を落とした。29歳だった。翌1940年、堀さんは地元で営まれた慰霊式に招かれ、初めて阿武さんが五輪選手だったと知った。遺族からは形見として、五輪予選大会のメダルと銀のスプーンを譲り受けた。「オリンピックにまで出た人が、何故戦争で死なないといけなかったのか。戦争がなければ選手の育成にも力を尽くしたかもしれない」と目を伏せた。

阿武さんは1909年、萩市東部にある旧大井村で、『大井八幡宮』宮司の家に生まれた。幼い頃から俊足で、甥の浩さん(62)は「スピードが出過ぎて、運動場のカーブを曲がれなかったそうです」と笑う。境内に真っ直ぐ延びる100m程の参道で練習を積み、旧制萩中学校等で頭角を現した。1930年2月5日付の本紙朝刊は、慶大生だった阿武さんを「日本陸上競技界に彗星の如く出現した百米ランナー」と紹介。足だけでなく、腕振りの為に胸もバランスよく鍛えているという言葉を掲載している。ロサンゼルス五輪の400mリレーでは3走を担当した。1走は、“暁の超特急”と呼ばれた吉岡隆徳さんだった。一人息子をもうけ、陸上誌の記者として活動したが、日中戦争が勃発した翌年の1938年に召集され、山口歩兵第42連隊の上等兵として中国戦線で戦った。同連隊の記録は、阿武さんが戦死する2日前、崑崙関付近で約10万の敵が攻撃を開始し、翌日には砲撃で陣地が吹き飛ばされる猛攻を受けたと伝えている。1976年モントリオール五輪の陸上走り高跳びに出場した広島市立大学の曽根幹子名誉教授の調査によると、戦争で死亡した日本人オリンピアンは38人に上る。ベルリンのスポーツ博物館の定義に沿って“戦争や暴力で亡くなった五輪選手”とし、原爆の後遺症で死亡した選手らも含む。曽根名誉教授は、「生真面目にスポーツに打ち込み、体力もあったオリンピアンは、戦地でも率先垂範だった。持てるだけの爆弾を背負って泳ぎ、敵に突っ込んだ選手もいた」と話す。阿武さんの母校である大井小中学校では、昇降口に写真プレート(※縦53㎝、横65㎝)が飾られ、運動会のリレーには“阿武厳夫杯”と冠が付くが、足跡を知る人は多くない。東京五輪の機会に伝えようと、地元の大井公民館は先月11日から特設コーナーを設けて、写真や所縁の品を展示し始めた。少年期の堀さんの元には、写真がもう1枚届いていた。写っていたのは、中国人男性と服を取り替えて笑顔を見せる阿武さんだった。「五輪で様々な国の人と交流したからこそ、戦時中でも人を差別しない心を持ち続けたのだろう」。堀さんは、オリンピアンが抱いた平和の魂に思いを馳せた。


※本文由李的博多居民提供。谢谢。
キャプチャ  西部本社版2020年6月1日付掲載

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日立製作所が傘下バスケットチーム売却模索…事業の選択と集中の犠牲に

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事業の選択と集中を進めている『日立製作所』が、スポーツ分野にもメスを入れる。身売りの対象となりそうなのが、プロバスケットボールリーグ『Bリーグ』に所属する『サンロッカーズ渋谷』で、前身は日立本社バスケットボール部。チームカラーは日立時代から受け継ぐ黄色だ。2015年には全日本選手権大会で優勝した実績も持つが、2018~2019年のシーズンは東地区で27勝33敗の4位と、やや振るわなかった。運営会社は『株式会社日立サンロッカーズ』。日立は同社の身売り先を探している。だが、野球やサッカーのような人気が未だ確立されていないバスケットボールだけに、買い手探しは「中々上手くいかない」(日立関係者)。ホームアリーナを青山学院大学内の青山学院記念館とし、渋谷密着を目指しているチームだけに、「元気なIT系企業が買ってくれれば」(同)という目論見のようだ。


キャプチャ  2020年4月号掲載

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【共に闘う・TOKYO 2020】(07) 種目間、1秒でも早く

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パラリンピックのトライアスロンは、3種目計25.75㎞(※スイム750m、バイク20㎞、ラン5㎞)で競う。“ハンドラー”と呼ばれる競技パートナーが選手を支える。『日本トライアスロン連合』の事務局員で、ハンドラーとしても活動する大岩葵さん(26、左画像右)は、「成績を左右するので責任は重大」と話す。ハンドラーは、脚等の障害で車椅子を使う選手が出場するクラスで活動する。スイムを終えた選手のウェットスーツを脱がしたり、次のバイク種目の為に手こぎ自転車(※ハンドサイクル)への乗り込みを支援したりする。バイクを走り切れば、競技用車椅子(※レーサー)への乗り換えを支えて、最後のランへ送り出す。こういった種目と種目を繋ぐ“トランジション”の所要時間も合計タイムに含まれる為、「(自動車の)F1のピット作業に似ているかも」と表現する。トランジション中に順位が変わることもあり、“第4の種目”とも位置付けられる。自身もトライアスロン選手だっただけに、好成績に繋げようと懸命だ。大岩さんは愛知県立岡崎西高校時代に世界ジュニア選手権の日本代表となり、東京女子体育大学を経て地元のクラブチームで指導。

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2018年春に日本トライアスロン連合に転職し、東京パラ出場を目指す土田和歌子(45、八千代工業、左上画像左)のオーストラリア遠征に帯同した。土田は、車椅子陸上の5000m等で金メダルを獲得したベテランアスリート。活躍の場を広げ、オーストラリアで過酷なレースに挑む姿を見て、大岩さんは心を動かされた。「大会後のミーティングで、『もっと勉強して皆さんのサポートをしたい』と言ったことを未だに覚えている」と振り返る。一人前のハンドラーになる道は簡単ではなかった。選手の成績を左右する重圧に加え、脊髄損傷の土田の下肢の可動域等を把握しきれず、怪我をさせる心配から、「恐る恐るやっていた」。その後、練習では動画を撮る等工夫を重ね、食事を共にする等して、信頼関係を構築。初陣から1年後の昨年5月には、トランジションの時間を計1分近く短縮してみせた。視覚障害クラスのガイドランナーにはメダルが与えられるが、ハンドラーにはない。それでも大岩さんは、「2人の相性がタイムに直結するやり甲斐がある」と笑う。大会毎に必ず一緒に笑顔で撮る記念写真は、メダルにも勝る勲章だ。 (大舘司) =おわり


キャプチャ  2020年3月17日付掲載

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【共に闘う・TOKYO 2020】(06) 精密投球支える黒子

20200408 05
“ランプ”と呼ばれる滑り台のような補助具から転がり出たボールが、目標球(※ジャックボール)の傍にぴたり。正確な投球で、試合を優位に進める。昨年12月のボッチャ日本選手権。20歳の河本圭亮(※東郷町施設サービス、右画像左)が好ショットを連発、脳性麻痺・運動機能障害BC3のクラスを制し、初の東京パラリンピック代表に内定した。「対戦相手の2~3手先を読むのが自分の持ち味。ポジティブな部分を強みにし、本番まで“技の魔術師”と呼ばれるくらい、自在にコントロールできるようにしたい」と意気込む。傍らに寄り添うのは母の幸代さん(49、右画像右)。「アシスタントとして凄く緊張した。(河本に)ついていくのが精いっぱい」と、安堵の表情を見せた。重度障害者のスポーツであるボッチャは、障害の程度によって4クラスに分かれるが、一部のクラスは選手をサポートするアシスタントを1人つけることができる。最も障害が重い河本のクラスは、自分で投球ができない為、アシスタントは重要な役を担う。試合中、アシスタントは選手の指示に従って、ランプの位置の調整等を行ない、歪みがちなボールを真円になるよう丸めて、ランプの上に置く。

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あくまで選手のサポートが役目である為、動作に入った選手に触れることが出来ない。また、試合の進行中に振り返ってコートを見ることや、選手に戦術的な指示を送ることも認められていない。「彼が主導権を持って私が動くという感じで、その指示がないとあたふたする」と幸代さんは笑う。河本以外にも、選手の妻ら家族がアシスタントを務める場合が少なくない。筋ジストロフィーの難病を抱える河本にとって、試合以外の練習や遠征の健康管理等、24時間体制で支えてくれる幸代さんの存在は特別だ。「練習の送迎や、家のことを犠牲にして練習につき合ってくれることもある。戦術が上手く組み立てられなくて迷った時、一緒に苦しんでくれたり、喜んでくれたりしてくれる」と感謝を忘れない。前回のリオデジャネイロ大会で銀メダルの広瀬隆喜(※西尾レントオール)や杉村英孝(※伊豆介護センター)ら実績のあるベテランに、若い河本らが加わることで、東京大会では日本のメダルラッシュが期待される。パラでは、BC3のアシスタントもメダルの授与対象だ。河本は自身と共に、幸代さんにもメダルを贈ることが、最高の恩返し・親孝行になると信じている。 (畔川吉永・田上幸広)


キャプチャ  2020年3月11日付掲載

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【共に闘う・TOKYO 2020】(05) 同時にペダル、力結集

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数あるパラリンピック競技の中でも、パートナーの力量が最も成績に直結する種目の一つが、視覚障害の自転車だ。“タンデム”という2人乗り自転車で行なわれ、前に乗る“パイロット”と呼ばれる晴眼者が、後ろの障害者と共にペダルを踏んで前へ進む。弱視の木村和平(23、楽天ソシオビジネス、左画像右)は、パイロットの倉林巧和(28、同、左画像左)とのペアで東京パラ出場を目指している。タンデム自転車は、ペダルは前後が連動して動き、ハンドル操作は前だけだ。2人のペダルを踏むタイミングが合わないと上手く加速できず、体を傾ける角度が少しでもずれるとタイムロスに繋がってしまう。パイロットは、ハンドル操作と前への推進力は勿論、勝負所を判断して後ろの選手をリードする等、重要な役割を担う。木村は、「後ろの選手は、前に乗る選手を100%信頼しないと自転車に乗れない。パイロットなしではできない競技」と話す。パイロットの倉林は元々、アジア選手権や国体での優勝経験がある国内トップ級の自転車選手だった。

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2016年リオデジャネイロ大会への出場が叶わず、翌2017年の世界選手権限りで引退し、教員になろうと考えていた時、『日本パラサイクリング連盟』の関係者から誘われた。「自分が今までやってきたことが評価され、声をかけて頂いた。もう一度チャンスをもらえたと思い、東京を目指そうと思った」。同年からペアを組む2人は、2018年から同じ企業に所属して練習に励んでいる。木村は「相手への不信感があると上手くいかない。殆どの時間を一緒に過ごせて、一つひとつの疑問を解決できているのは良いこと」と言い、「スピードを上げた落とした、ここはペダルを踏んでほしいというところは、倉林さんの踏み方を通じて察知できるようになってきた」と、手応えを口にする。2018年のアジアパラ大会で2つの金メダルを獲得し、今年1~2月に行なわれたトラックの世界選手権では、4000m個人追い抜きで自己記録を更新して8位に入る等、着実に力を伸ばしている。今年予定されているロードの世界選手権で好成績を残して、日本の出場枠を増やし、東京パラ代表の座を手にすることを目標に定めている。倉林は言う。「世界上位との差は縮まっている。東京パラリンピックに必ず出て、メダルを獲得したい」。夢の舞台へ、二人三脚で進んでいく。 (矢萩雅人)


キャプチャ  2020年3月8日付掲載

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【共に闘う・TOKYO 2020】(04) ペースや駆け引きで協力

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昨年11月、アラブ首長国連邦のドバイで行なわれたパラ陸上世界選手権。男子5000m(※視覚障害T11)で25歳の唐沢剣也(群馬県社会福祉事業団、右画像右)が激しい競り合いを制し、銅メダルに輝き、東京パラリンピック代表に内定した。唐沢は「伴走者2人と協力してしっかり走ることができた」と、ガイドランナーの茂木洋晃(24、右画像左)と星野和昭(38)に感謝した。陸上の視覚障害アスリートにぴたりと寄り添うのが、“ガイドランナー”と呼ばれる伴走者だ。選手のパフォーマンス向上に貢献する重要な仲間である。5000m以上の種目では、伴走者2人が交代で出場できる。唐沢はルールを活用し、タイプの違う2人の走力をレースに生かした。3000m付近まで、若い茂木が果敢にペースをアップ。終盤は大学陸上部のコーチ経験があるベテランの星野が務め、冷静な駆け引きを繰り広げた。「勝負は星野さんに代わる後半だと思っていた。前半、唐沢さんをリラックスさせることを考えた」と茂木。唐沢は前半で息が上がりかけたが、伴走者の交代を機にペースを整えた。星野は、「世界とは未だ力の差はあるが、今日は実力の120%くらい出せたと思う」と振り返った。

20200407 07
先天性の病気で、小学4年生の頃に視力を失った唐沢がパラを目指すようになったのは、2016年リオデジャネイロ大会がきっかけ。早朝と群馬県立点字図書館の勤務後、毎日の練習には伴走者が必要だが、茂木・星野を含む伴走者ら約10人のチーム『からけん会』で一丸となってサポートする。「日本では、トップレベルのランナーでも、日々の練習に付き添う伴走者を探すのが難しい」と、『日本ブラインドマラソン協会』の安田享平理事(52)は指摘。実家のトマト農園で働きながら、唐沢を支えている茂木らの存在は貴重だ。また、伴走者は高い走力が必要だが、選手を安全に最後まで導くことが大きな役割だ。選手を引っ張ったり、先にゴールラインを通過したりすれば失格となる為、難しさもある。今回の世界選手権のレースでも、ベテランの日本人選手が先にゴールしたが、伴走者の規則違反で失格となった。唐沢は、東京パラではマラソンや1500mにも出場する予定。パラでは、1人で伴走する場合はメダルが貰える。茂木は、1500mでは1人で唐沢に伴走する。茂木は、「唐沢さんのおかげで、(健常の)陸上とは全く違う競技を経験できて感謝している。他の伴走者の思いも背負って、本番の舞台に立ちたい」と力を込める。 (畔川吉永)


キャプチャ  2020年3月6日付掲載

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【共に闘う・TOKYO 2020】(03) 体をコツン、0.01秒左右

20200407 05
パラリンピック競技の視覚障害者競泳のレースでは、プールサイドに見慣れない長い棒を持った人たちが選手を待ち受ける。選手が壁に迫ると、先端に小さなクッションが付いたその棒で体を叩き、ターンやゴールのタイミングを知らせる。好記録を出す為には欠かせない、“タッパー”と呼ばれる役割だ。タッパーが叩くのが早過ぎても遅過ぎても、ターンやフィニッシュ直前の泳ぎにロスが生じ、その僅かな差が勝敗を分けることもある。選手の実力が拮抗すればするほど、タッピングの重要性も増していく。2016年リオデジャネイロ大会で銀2個、銅2個のメダルを獲得した木村敬一(29、東京ガス)のタッパーを長年務める等、多くの選手を導いてきた寺西真人氏(60)は、タッパーを“選手の目”と表現する。「タッピングで選手が速くなるわけではないが、選手の力を100%出させてあげるのがいいタッパー」。選手毎に異なる泳ぎの速さや、タッピングへの反応速度、ターンし易い位置等を頭に叩き込み、阿吽の呼吸で合図を出す。

「タイミングが0.03秒ずれたら負ける。指1本分、0.01秒以内の勝負」と言い切る。寺西氏は筑波大学付属視覚特別支援学校の元教諭。30年程前に水泳部を作ったのをきっかけに、タッパーを務めるようになった。2004年アテネ大会で初めてパラリンピックへ。男子50m自由形では、絶妙なタッピッグで、河合純一氏(44、現在は『日本パラリンピック委員会』委員長)の金メダル獲得に貢献した。「嬉しくて、体がふわっと浮いた感覚だった」と振り返る。以降、リオまで4大会連続で役割を果たしてきた。「タッパーの重要性は、最近になって漸く知られてきた。二人三脚でやっているつもりなので、選手と同じように勝てば嬉しいし、負けたら悔しい」とやり甲斐を感じている。『日本身体障がい者水泳連盟』の担当者は、「日本は海外に比べ、タッピングが記録に影響するという意識が強い」と話す。日本では監督やコーチがタッパーを務めることが一般的だが、海外では「誰でもいい」と、視力のある選手が他の選手を叩く場合もある。東京大会でも複数のメダルが期待される視覚障害者競泳。寺西氏にとっては「多分最後」の大会だ。それだけに目標も高い。「また自分で金メダルの瞬間を叩きたい」。16年前のアテネのあの感覚を、東京でまた味わいたいと意気込んでいる。 (脇西琢己)


キャプチャ  2020年3月5日付掲載

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George Clooney

Author:George Clooney

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