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【“本物の大人”の為の世界史この100年】(17) 揺れ続けるスペイン内戦への評価…歴史とは何なのか?



国際秩序は大国間の合意だけで形成され、地続きの中小国はそれに翻弄されるだけなのか。スペイン内戦(※1936~1939年)は当初、左派中心の共和国政府に対し、後に独裁者となるフランシスコ・フランコを中心とする軍や保守派が反乱を起こした内戦ではあったが、結局、諸外国を巻き込み第二次世界大戦、更には冷戦への前哨戦となった。戦間期、多様性を重視して纏まりを欠いたスペインでは、アメリカのフランクリン・ルーズベルトやイギリスのウィンストン・チャーチルのような傑出したリーダーは不在だった。二度の世界大戦の狭間に勃発したスペイン内戦から、現代の世界情勢へどのような歴史的類推(※アナロジー)を引き出せるのか。第一次世界大戦を経験した欧州各国は、戦争回避の為に『国際連盟』等集団安全保障体制の構築に期待を寄せたものの、最終的にその理想は崩壊することになる。スペイン内戦に際し、全面戦争を回避すべく、フランスやイギリスは共和国政府への支援を見送り、紛争の拡大防止を選択したつもりだった。英仏を中心とした不干渉委員会には、ドイツやイタリア、ソビエト連邦等27ヵ国が参加した。しかし、これは全ての列強が尊重して初めて大規模な戦争への発展を阻止できる仕組みだ。結局、フランコ率いる反乱軍には独伊が、共和国政府側にはソ連が介入し、内戦は一見、ファシズムと反ファシズムの代理戦争の様相を呈していく。アドルフ・ヒトラー政権下のドイツは全欧州を巻き込む戦争は望んでいなかったものの、スペインの左傾化を阻止し、英仏のヘゲモニー(※覇権)を崩す為の好機と見做していた。イタリアのベニート・ムッソリーニもまた、イギリスの地中海における覇権の弱体化の好機と見做していた。一方、ソ連のヨシフ・スターリンは共和国政府の敗北は望まないが、ドイツに対抗する為にも、英仏を刺激するような革命的左翼の徹底的な勝利も回避したかった。共和国側には、共産主義者や社会主義者、無政府主義者等、抑も思想的に相容れない人々が同居し、足並みは揃っていなかった。スターリンは、特に自身の政敵であるレフ・トロツキーに同調する思想の人々を抹殺すべく刺客を送る等、共和国政府側内の粛清を進めていく。この際のソ連の経験は、第二次世界大戦後、ソ連勢力圏となったポーランド等東欧を支配する中で応用された。スペインから見た各国の態度は、欺瞞的・偽善的であった。結果的に、共和国政府は世界から見殺しにされるが、内戦に勝利して第二次世界大戦を切り抜けたフランコ政権も、数年間はファシスト政権として国際的に非難される。特に『国際連合』の常任理事国となったソ連は、国連からのスペイン排斥決議を強力に支持した。では、スペイン内戦の波紋はどのように拡大したのか。空間・時間的に広い視点から考えると、また違った景色が見えてくる。内戦当初、反ファシズムという国境を越えたイデオロギーによる団結の下、国際義勇軍が派遣された。ソ連からは勿論、アメリカからも共産党系の義勇軍が派遣された。そして共和国政府側で戦った人物の中には、後に各国で頭角を現す人々がいた。

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例えばユーゴスラビアの指導者ヨシップ・ブロズ・チトー、1970年代後半のイギリスで首相以上に影響力のある人物と言われた労働界の重鎮ジャック・ジョーンズ等である。また、内戦から戦後にかけてのスペイン史においては、アメリカが大きな存在感を放つ。大部分の石油を輸入に頼っていたスペインでは、内戦時の燃料供給は死活問題であった。アメリカでは、1935年より交戦国への武器輸出、資金貸し付けを禁止した中立法が存在した。しかし、それは結果的に共和国政府の武器輸入の権利を制限することとなった。航空機会社は既に受注していた製品を共和国政府へ輸出できなくなった一方、石油・自動車会社はドイツ経由で反乱軍へ物資を売却していた。戦後孤立したフランコ独裁政権はアウタルキー(※自給自足)政策をとるが、石油を持たぬ国が行なうのは無謀であった。だが冷戦の時代となり、アメリカは地政学的重要性を認識し、スペインに接近。アメリカ軍基地設置や経済協力を定めた『米西協定』を締結し、日本に先立つこと1年、1955年に国連加盟を成し遂げた。ある石油メジャーの執行役員は、アメリカ国務省の懸念をスペイン側に伝え、対米強硬派のスペイン外相を解任するよう圧力をかけ、スペインの工業大臣の人選に意見する等、フランコ政権末期まで内政干渉を行なっていた。こうした動きは冷戦期アメリカの対中南米政策で適用されたものであり、戦間期から戦後にかけてのアメリカ外交の一端を垣間見ることができる。報道という観点からも興味深い事例がある。写真家のロバート・キャパがスペイン内戦の戦場で撮影したとされた写真『崩れ落ちる兵士』は、世界にスペイン内戦を印象付ける一枚となった。だが近年、これは戦闘の瞬間ではなかったことが明らかとなっている。

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【日本の領土を考える】(11) ドラマには“続編”があった

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製糖業を始め、南洋で幅広い事業を展開した『南洋興發』。同社の募集に応じて内地(※日本)から南の海へと渡った移民には、沖縄や東北出身者が多かった。全く環境の違う熱帯の地で甘蔗(※サトウキビ)等を育てる苦労は、並大抵ではなかっただろう。『戦火と死の島に生きる』(※著・菅野静子)に昭和2年、同社の開拓移民団として山形県からテニアン島に渡った著者一家の艱難辛苦の日々が綴られている。〈のこぎりで一本一本を切りたおし、くわで木の根を掘りおこして(甘蔗の)畑にするまで、全部父と母とふたりだけの労力でやる〉。こうした労働者の努力に支えられ、南洋興發の製糖業は急成長。入植者も膨れ上がり、南洋群島全体の日本人は最盛期で10万人近くにまで増加する。だが、戦局の悪化と共に、南洋群島は悲劇的な結末を迎えてしまう。同書による。昭和19年6月にアメリカ軍はサイパン島へ上陸。翌7月に守る日本軍は玉砕し、犠牲者になったのは民間人だけで1万人近い。南洋興發の事業は壊滅。同社は終戦後、『連合国軍総司令部(GHQ)』によって解散を命じられ、社長を務めた“シュガーキング”こと松江春次(※1876-1954)は公職追放となる。だが、そのドラマには“続編”があった。昭和30年代、民放テレビの世界紀行番組でサイパンが取り上げられた。未だ日本人の海外旅行が自由化されていない時代である。その画面に松江の銅像(※右画像、撮影/佐藤良一)が偶然、映し出されたのを家族が見つけた。後に伝えられた話によれば、大戦中、進攻してきたアメリカ軍に対し、現地の島民が「(松江は)大きな功績があった人だ」と体を張って銅像の破壊を阻止したという。

時代が更に進んだ平成9(1997)年、松江の孫で航空会社勤務の佐伯圭一郎(75)が代表となって、功績の顕彰や銅像等の整備を行なう、日米の関係者による『シュガーキング基金』を発足させる。平成15(2003)年には、現地の行政や歴史文化博物館等の協力を得て、日・英・チャモロの3つの言語による紹介板が設置され、再披露の除幕式が行なわれた。説明文の最後は、こう締め括られている。〈この事業家の開拓者精神、勤勉さ、先見性そして信念の大切さを今もわれわれに思い起こさせてくれる〉。現在はアメリカの自治領(※コモンウエルス)となっているサイパン等の北マリアナ諸島で使用されている高校歴史教科書。大きくページを割いた日本統治(※『国際連盟』の委任統治)時代の記述の中に、松江と製糖業が登場する。松江の顔写真入りで紹介される記述には、第一次世界大戦(※1914~1918年)中、日本の先行事業者の失敗で棄民となった1000人の労働者を救おうとして、松江の南洋興發がサイパン島で製糖業を立ち上げ、後に“シュガーキング”と呼ばれる程の成功を収めたこと。南興は更に、テニアン、ロタ各島にも事業を広げ、地元の経済が大いに発展を遂げたこと等が詳細に紹介されている。破格の扱いと言っていい。日本統治時代の評価がわかるだろう。2000年代には日本の高校生がサイパンを修学旅行で訪れるようになった。先駆けとなったのは神奈川県の県立高校。期間中は松江の銅像や戦跡を訪問、島民との交流等のプログラムが組まれ、殆ど知らなかった日本人の先人の苦闘と業績に触れる。担当した『ジャルパック』の元サイパン支店長、大澤元文(77)は言う。「サイパンといえばどうしても“玉砕”のイメージが先行してしまう。大志を抱いて海を渡った日本人の大変な努力によって産業が興され、現地の島民にも喜ばれ、仲良くやっていたという歴史があることを知ってもらいたかったのです」。松江の発想力、行動力のスケールは並外れて大きかった。南洋群島から“外南洋”と呼ばれたニューギニア、蘭印のセレベス等にも進出。ニューギニア島のオランダ領(※西半分)の買収案まで提案する。それは武力によるものではなく、産業立国の“南進論”だった。当初、「碌な資源も産業もない」として日本政府内に出ていた“南洋群島放棄論”を見事に覆してみせた先見性。今こそ日本人が学ぶべきであろう。南洋群島の日本人の歴史は決して、戦争の悲惨さだけではない。戦後の松江は穏やかな日々を過ごした。同居していた孫の松宮伊佐子(77)は、こう懐かしむ。「祖父が私達に南洋群島の話をすることは殆どなかった。過去を振り返ることなく、現在を大事にしていたと思います。ただね、月に一度くらい、南洋興發時代の元部下が訪ねてきて一緒に酒を飲む。その姿が本当に楽しそうでした」。 《敬称略》 (編集委員 喜多由浩)


キャプチャ  2022年8月31日付掲載

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【日本の領土を考える】(10) “海の満鉄”と呼ばれた南洋興發

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松江春次(※1876-1954)率いる『南洋興發(南興)』は“海の満鉄”の異名を取った。満鉄(※『南満洲鉄道』)とは、日露戦争(※1904~1905年)に勝利した日本が獲得した『東清鉄道』の支線(※長春―大連)の事業主体として、国等が出資して設立された国策会社だ。鉄道のみならず炭鉱、製鉄、ホテル、調査等の事業、日本人が居住する地域(※鉄道付属地)の教育(※満鉄立の初等―高等教育機関)や医療・衛生(※満鉄医院、医大の設置)等の行政面をも担う、巨大コンツェルンに発展してゆく。満洲国建国(※昭和7=1932年)以降は、行政権の同国への移譲や重工業部門の切り離し(※満鉄改組)、時の政権の意向等によって影響力は徐々に縮小されてゆくのだが、日本による初期の満州経営は満鉄を主体として行なわれたと言っていい。では何故、南興が満鉄になぞらえられるようになったのか。“北”の開発・経営を担った満鉄に対し、“南”の南洋群島(※日本が委任統治)にとどまらず、外(表)南洋と呼ばれていた蘭印のニューギニアやセレベス、ポルトガル領ティモール(※何れも当時)等の地域で幅広く事業を展開し、日本による南洋開発の主体となったからだ。南(=N)と興(=K)を組み合わせた同社の社章も、満鉄(※Mとレールの組み合わせ)の社章と、それとなく似ている。現地の教育や医療・衛生を担った点も満鉄と同じだ。大正期、先ずサイパン島からスタートした南興の製糖事業は、近接するテニアン、ロタの各島へと拡大してゆく。それに伴って、内地(=日本)から遠く離れた南洋の島へ渡ってきた日本人移民にとって、子弟の学校や健康問題は大きな懸念材料であったろう。

『南洋群島教育史』(※昭和13年、南洋群島教育会編)のテニアン尋常高等小学校(※昭和4年開校)の行をみてみたい。〈製糖事業をテニアン島に拡張して多数の従業員を移住せしめたが、その子弟には就学児童も少なくなかった。会社は必要に迫られて、昭和三年四月二十五日テニアン児童教育所を創立し…児童七十一名を一教室に収容して授業を開始した〉。この教育所は後に南洋庁立の小学校へと移管される。中等教育機関も同様だ。南洋群島教育史によれば、サイパンの私立南洋家政女学校(※昭和11年開校、後に南洋庁立サイパン高等女学校)の校舎・寄宿舎は、南興社長の松江が寄贈した。サイパン実業学校(※昭和8年開校)実習用地も同社所有地を使っている。“自前”で有能な従業員を養成する為、各島には社立の製糖所附属学校も設けた。勿論、学費等はかからない。南洋群島教育史によると、昭和12年現在のテニアン製糖所附属専修学校の教員数は23人、生徒数は男74人、女3人の計77人となっている。内地の中・高等教育機関へ留学する者を対象とした奨学金制度もつくった。南洋群島には、サイパンとパラオに高等女学校、パラオの中学校(※旧制)しかなかったからである。この制度で内地の旧制中学や大学に進んだ現地の島民子弟も多かったという。各島にある南興の医務室は、住民の医療に貢献した。松江著の『南洋開拓拾年誌』(※昭和7年)を引こう。〈官立病院もあるが、当社はサイパン、テニアン共各立派な医務室を建て、五、六名の医師を置き、レントゲン等を初め一通りの設備は総て整へ、数名の産婆も置き、移民の健康衛生状態に細心の注意を払っているのである〉。こうした努力もあって、同書によれば、南洋群島の出生率は世界一になったという。南興がサイパン島等でサトウキビ運搬用に敷設した軽便鉄道には、旅客車両が連結され、“生活の足”にもなった。生活必需品の供給や各種の娯楽も同社におうところが大きい。再び南洋開拓拾年誌を引く。〈倶楽部を設け…玉突などの娯楽、野球、庭球、柔剣道等一通りの運動は何でも出来る【中略】移民の生活必需品即ち米、味噌、醤油、衣服等は一切内地から取り寄せるのであるが…当社は酒保制度を設け物資の配給に任じ…移民の便宜を図っている【中略】社外新聞も二、三発刊を見るに至った〉。利用したのは同社関係者だけではない。昭和6年にサイパンで生まれ、沖縄出身の両親が農業や食品業に従事していた『南洋群島帰還者会』会長の上運天賢盛(90)は、「味噌等は南興から貰えたのだ、と記憶している。南興の倶楽部では映画をよく観ましたよ」と懐かしむ。上運天によれば、サイパンでは日本人や島民の間である種のヒエラルキーが存在し、最上位に置かれていたのは南興の関係者だったという。満鉄が映画会社(※『満洲映画協会』)までつくったのと比べると、ややスケールは違うが、会社の厚生施設を使った各種イベントやスポーツ大会等によって現地の住民を楽しませたのは、満鉄と共通している。先の大戦末期、南洋群島はアメリカ軍の攻撃によって徹底的に蹂躙され尽くした。南興も満鉄も終戦によって解散を余儀なくされる。日本人の血と汗と情熱によって築かれた施設や資産の全てを失ったのである。現地の島民も“悲”と“喜”の両方を味わう。1983年、北マリアナ自治領文化芸術局等の協力で書かれた『北マリアナ諸島に昇る太陽』(※ロバート・ラッセル著)には、現地の島民からヒアリングした“日本統治時代の生活”が幾つか載っている。日本統治へ厳しい意見も見られる中で、サイパンのチャランカノア村在住の75歳の住民はこう語っている。〈私の一番大切な時代は、日本が統治していた時代でした…快適なほど自分の家族を養うことができました…私たちは何があっても満足し、幸せでした〉。 《敬称略》 (編集委員 喜多由浩)


キャプチャ  2022年8月17日付掲載

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【河野有理の考】(01) 日本史の来歴をたずねて



20231023 09
本連載では、様々な日本史を並べて比べ見るということをしてみたい。ここでの日本史には、“日本という国や社会についてのある程度の纏まった長さを扱う歴史記述”といった程度の曖昧な定義を与えておきたい。想定している典型的な例は、個人の著作、つまり一人の手で書かれた日本の通史である。独力でというのが大事なところなので、たとえ書名として“日本通史”と銘打っていても、複数人が時代別に分担して執筆したものは含めない。したがって、(その読者数は極めて多い筈だが)いわゆる山川出版社『日本史』等の教科書類もこれに含めない。教科書は通常、複数人で執筆され、しかも検定を経て刊行されるからである。本連載は、個人が一人で書いた通史としての日本史を主として取り上げる予定である。尤も、通史といってもその定義もまた中々難しい。抑も、どの時代から話を始めれば通史になるのかは必ずしも自明ではない。それは、どのような時間的・空間的纏まりを日本と見做すかという著者の史眼や史観と、密接不可分に結び付いているからである。したがって、ここでいう通史というのも、歴史的事象を漏れなく満遍なく、バランスよく扱っている歴史叙述であるということを必ずしも含意しないことは強調しておきたい。寧ろ反対に、本来無限に存在する歴史的事象のうちで何をどのように取捨選択するか、その結果としてある纏まりを如何にして造形するか、そうしたことを意識している歴史叙述のことを、ここでは通史的な仕事として意識しているというわけである。纏まりの長さではなく、それを切り出す際の史眼や史観に注目するというのが肝心なところである。

本連載では、アカデミックな歴史学の訓練を受けた狭義の歴史学者だけでなく、作家やジャーナリストの書いた日本史も扱う予定である(※寧ろそちらの場合のほうが多いかもしれない)。それは、アカデミズムに属する歴史学者は、専門性を重視するあまり、史眼や史観の露出に禁欲的である場合が少なくないからである(※アカデミックな通史が通常は複数人で分担執筆されるのもその為である)。また、上記のような趣旨から、純然たる創作物、例えばいわゆる歴史小説も扱う予定である。一見すると通史という字面からは離れてしまうように見えるかもしれないが、お許しいただければ幸いである。では、史眼や史観に沿って切り出される纏まりとしての日本史。それを並べて見ていく際に、どのような点を意識するのか、或いはどのような点を敢えて意識しないのか。第一に、ファクトチェックは重視しない。重視しないというと語弊があるかもしれない。史実と合致しているか否か。合致していれば100点満点、していなければ0点という態度では臨まないということである。本連載で扱っていく過去の日本史叙述については、当然、研究の進展に伴い、現在では誤りとされている記述が多く含まれている。こうした記述については、当然、気付いた限りで指摘していくことにしたい。だが、「史実とは違いますね」ということで話を終わらせるより、寧ろその誤りによってどのような“お話”が可能になっているかということに着目したい。歴史叙述が客観的事実と適合しているか否かよりも、その歴史叙述が持っている“お話”(※ナラティブ)性のほうに多く照明を当てたいということである。第二に、そうした“お話”(※ナラティブ)について、規範的評価はさしあたり行なわない。つまり、その善悪を問わないということである。これは、その其々の“お話”が含意しているある種の規範的主張、「こういう日本は良い(悪い)」を無視するという趣旨ではない。寧ろ、それはその“お話”の読みどころであろう。ここで善悪を問わない、とはそういった“お話”についての道徳的善悪を評価の基準にしないということである。極端に単純化した例を敢えて挙げるとすれば、「これは日本を悪く書いているから良い」とか「これは日本を良く書いてあるから悪い」といった評価の仕方をしないということである。それは勿論、筆者が全ての価値判断から中立な立場を維持しているということを意味しない。本連載は、日本という纏まりの歴史を扱うという点で、明らかに選択的な価値判断を行なっている。歴史は、日本であれ韓国であれアメリカであれ、政治共同体の単位に応じて書かれる必要は必ずしもない。個人の歴史があり、地域の歴史があり、世界(※グローバル)の歴史があり、人類という種の歴史があろう。そうした様々に書かれ得る可能性のある歴史の中で、本連載では態々、日本という政治共同体に応じて書かれた歴史叙述に関心を持っているのである。その意味に限っては、例えば本書は百田尚樹『日本国紀』ともその関心の範囲を共有していると言える。序でに言えば、詳しくは次回で扱うように、近年では自国の歴史を纏まりとして記述することに関心を寄せるのは、保守や右翼的な政治思想に特徴的な性格となりつつある。

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【“本物の大人”の為の世界史この100年】(16) 山県有朋の死から100年…明治日本は何を目指したのか?



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“かたりあひて 尽しゝ人は 先だちぬ 今より後の 世をいかにせむ”――。今年9月、安倍晋三元首相国葬の場で菅義偉前首相が読んだ弔辞の中に、1909年に暗殺された伊藤博文を偲ぶ山県有朋の和歌が引用されて話題を呼んだ。安倍氏が議員会館に遺した『山県有朋』(※著・岡義武、岩波書店)の線が引かれた一節が、件の歌であったという。『JR東海』の葛西敬之名誉会長の葬儀後、安倍氏は自身の『フェイスブック』で故人から薦められた同書にあった歌を紹介している。それから僅か3ヵ月後、他ならぬ安倍氏を偲ぶ歌として広まったのは奇縁のなせる業である。元老・山県有朋が没して100年。人々が様々に山県を語る様子を目の当たりにして、筆者は大変驚くと共に、ある論文が頭に浮かんだ。有馬学の『山県有朋の語られ方』(※編・伊藤隆『山県有朋と近代日本』、吉川弘文館)である。誰かが山県を語る時、そこにあるのは等身大の山県ではなく、近代日本政治の“悪役”としての象徴的な記号であった。明治立憲制が確立しつつある時代に、山県は政党政治家にとって旧時代の権力者であり、自由民権運動を抑圧した議会主義の敵手であった。だが山県が没すると、政党政治が実現に向かう中で、その存在は過去のものとなる。そして敗戦後に山県が再び語られ始めた時、そこには“多頭一身の怪物としての戦前日本を肥大させた張本人”との評価が加えられた。1958年に刊行された岡の著作が「彼の一生を語ることは、明治・大正史を語ること」と述べるのも、当時の時代背景と無縁ではない。一方で、岡の描いた山県像が古びない魅力を持つのは、山県を飽くなき“権力追求者”として捉えながらも、実証的史料を用いて等身大の山県の一面を拾い上げた為だろう。そして岡の著作以降、『山縣有朋関係文書』(※山川出版社)の刊行等により研究が進展し、山県の実像はより精緻で立体的に深化しつつある。そこで、山県と近代日本が向き合った課題を考えてみたい。

山県は長州の下級武士の家に生まれた。短い間ながら吉田松陰や高杉晋作の知遇を得て、奇兵隊軍監として活動した。戊辰戦争に参戦後、1年間程訪欧して徴兵制の重要性を理解し、帰国後に軍制改革を推進する。廃藩置県等、士族の既得権解体を伴う大改革である。山県は陸軍の中枢にあって廃刀令を建議し、徴兵制軍隊を建設する等、主に軍事面から明治維新において大きな役割を果たした。その過程で、山県は三度、失脚の危機に直面している。だが、西郷隆盛や伊藤博文、井上馨らの助力によって失脚を免れた。山県の公的伝記『公爵山県有朋伝』は、彼が陸軍内で確固たる地位を順調に築いたように描くが、明治政府の実態は藩閥文官の政治力が強く、山県の日本軍の建軍は伊藤ら文官との協力なくしてはなし得なかった。また山県は、台湾出兵や西南戦争の中で混乱する陸軍の指揮系統を整理し、人事や作戦に関する外部の干渉を防いで、軍の自律性を保った。更に、西南戦争後に山県は参謀本部条例を制定して、作戦を担当する参謀本部(※統帥部)を陸軍省から独立させた。これらは、のち昭和期に軍の独走を許す“統帥権の独立”を用意したとされる。ただ、当時は反目し合う薩長の連携が重要課題で、陸軍省と参謀本部を同格として人事ポストを分け合う必要があった。陸軍部内の調整に、山県は常に悩まされ続けていた。また、山県は参謀本部長として、日本軍人にその在り方を説いた『軍人勅諭』の制定に関わった。「世論に惑はず、政治に拘らず」との一節は、軍人に政治不関与を求めたものである。更に、初の政党内閣である大隈重信内閣を経た後に、これもまた昭和期に軍に悪用される軍部大臣現役武官規定を設け、陸軍大臣と海軍大臣に現役の軍人を充て、政党の軍への介入を防いだ。自由民権運動を起源とする政党が政府に参入し、軍を指揮することを山県は強く警戒した。従って山県は、政党に接近を強める伊藤と対抗する。同時に、山県が求めたのは軍の政治的中立であり、これを単純に昭和陸軍の政治介入の起源とは見做せない。イギリス的な議会政治の効用を重んじた伊藤に対して、三度訪欧した山県は、憲法や地方制度を熱心に学ぶ中で親ドイツ主義的思想を形成した。パリを訪れた山県は、ブーランジズム(※反政府運動)による騒擾を目の当たりにし、政党議会主義への不信を確たるものにする。山県は君臣道徳の強化を求めると共に、官僚による政治を擁護し、軍や官界の要路に網の目の如く勢力を張り巡らせた。だが、“保守頑迷”とされる山県は、二度の首相を務める中で、税財政においては議会政党と提携する現実的な政治手腕を発揮する。山県の発想は、議会の存在を排除するものではなく、自身が国家全体の調整者(=元老)として、伊藤と共に“政府・軍部・議会を包括した政治空間”のコントロールを目指すものであった。

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【沖縄復帰50年・“同化”の先に】(下) 消えゆくウチナーグチ

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沖縄独自の言葉を▽「主に使う」1.7%▽「共通語と同じくらい使う」12.3%▽「あいさつ程度使う」14.6%――。沖縄県が昨年度、県民を対象に調査した結果だ。県は2013年度から調査を重ねるが、昨年度はこの3つの選択肢を合計した“使う”人の割合が28.6%にまで減少し、過去最低となった。「わからない」「使う機会がない」「周りに使う人がいない」。自由記述欄にはそんな回答が並ぶ。県は、消滅の危機にある沖縄独自の言葉を“県民のアイデンティティーの拠り所”と位置付け、継承や普及に取り組んできた。2013年度からの普及計画では、“使う”人の割合を2022年度に88%まで高める目標を立てた。だが、逆にこの10年で消滅の危機は強まったのが現実だ。“♪我(わん)がなま うんぐとぅーし あびてぃんなー 分かいんちゅん居(う)らんなてぃ(※俺が今こうやって話しても 分かる人もいなくなって)=『JIN JIN JIN』。沖縄を拠点に活動するラッパーのGACHIMAFさん(38、右画像、撮影/喜屋武真之介)は、島の現状に対する怒りを沖縄の言葉と日本語が入り交じったリリック(※歌詞)で表現する。幼い頃から家族や友達との会話は沖縄の言葉だった。中学生の頃から好きだったヒップホップのリズムに乗せ、沖縄の言葉でリリックを書き始めたのは17歳の時。「ウチナーグチ(※沖縄の言葉)の響きやリズムが格好良かった」。

日本に復帰した後の沖縄に生まれた。だが、子供ながらに「アメリカに占領されている」と感じた。育った北谷町砂辺地区にはアメリカ軍関係者向けの住宅が並び、少し歩くと広大なアメリカ軍嘉手納基地の金網が延々と続く。日中は轟音を立てて戦闘機が飛び、深夜は酔ったアメリカ兵達が路上で騒ぎ、投げたガラス瓶が割れる音が響いた。恐怖を感じた。一方で、基地と共存してきた街の様子も見た。親戚が経営するスナックの周辺には、嘗てアメリカ兵向けの風俗街として栄えた跡があった。「沖縄には一括りにはできないダークで重たい部分がある」。GACHIMAFさんが今、沖縄の言葉で歌うのは、不条理や矛盾の中で人々が生きてきた歴史が込められているように感じるからだ。1972年の日本復帰後、北谷町では一部の基地がアメリカ軍から返還された。その一帯に建ったのは、日本本土や外国資本のホテル、飲食チェーン店。雇用は生むが、収益は県外に流れる“ザル経済”と指摘される。復帰から50年経っても、沖縄の1人当たりの県民所得は全国で最も低い。「表面的には発展したように見えるが、本当に自分達の実になり、沖縄は豊かになっているのか。寧ろ“日本化”されて失ったものがあるのではないか」。明治時代に日本に編入された沖縄では、“標準語励行”のかけ声の下、学校で沖縄の言葉を使った子供達に“方言札”をかけさせた。言葉の規制は、戦後のアメリカ統治から日本復帰を目指す中でも繰り返された。GACHIMAFさんは『ネオ運玉義留』という曲のミュージックビデオで、“琉球諸語励行札”と書いた木札を首から下げて歌った。日本との同化を進めていった沖縄の歴史への皮肉だ。前段で紹介した『JIN JIN JIN』という曲のリリックは、こう続く。“♪方言札からちゃっさ大和(やまと)化さっとーてぃん 我や引ち継ちじょーんど(方言札からどんなに日本化されても 俺は引き継いでいるぜ)”。GACHIMAFさんはステージでこう言う。「沖縄のものはダサいと言われるが、これがどれだけ格好良いか。どう吸収して、新しい形で表現するかが俺の使命だ」。

          ◇

(西部本社報道部)宮城裕也が担当しました。


キャプチャ  西部本社版2022年12月18日付掲載

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【沖縄復帰50年・“同化”の先に】(中) 植え付けられた皇民化

20231011 04
「標準語生活をしましょう」――。そんな標語が書かれたポスターが、街角や友人宅に張られていた。沖縄県宜野湾市の仲村元惟さん(85、左画像、撮影/宮城裕也)が幼い頃、1940年代の記憶だ。1879年に日本に編入され、同化政策が進められた沖縄。1937年に日中戦争が勃発し、国を挙げた戦争への協力が求められると、日本本土から来た県の指導者層は県民に“日本精神”を植え付けようと、独自の言葉や風習を改めるよう一段と強く迫った。“仲村渠”や“安慶名”といった沖縄独特の姓は“仲村”や“安田”等と日本風に。“標準語励行”が呼び掛けられ、多くの学校で“方言札”が使われた。仲村さんは、1944年に入学した国民学校での体験をこう振り返る。「方言で話しているのを先生に見つかると、『標準語を使いなさい』と怒鳴られ、方言札をかけさせられた。兎に角、怖かった」。教員の前では上手く使える標準語だけを使い、友達と話していても自然と口数が減った。方言札が回ってくるのを避ける為、札をかけている子には誰も近寄らないようになった。仲村さんの父は軍人だった。「日本本土から来る兵隊と話せるように」と、家でも標準語の使用を求められた。「息苦しさを感じた。日常の言葉を使えないということは『無言であれ』ということ。差別ですよ」。

方言札をかけさせるだけでなく、教員が平手打ちをしたり、廊下に立たせたりする学校もあった。1938年に當真嗣長さん(91)が入った沖縄県恩納村の国民学校では、終業時に方言札を持っていると罰金として1銭を教員に取られた。「家が貧乏で、子供にとって1銭は大金だった。誰かに方言札を渡そうと必死で、同級生の足を踏んで態と方言を話させた」。日中戦争では沖縄からも兵士が戦地へ送られた。「沖縄出身兵は天皇への忠誠心が薄い」「意思疎通に不自由する」。そんな言説や劣等感を拭おうと、学校では日本との同化だけでなく、国の為に身を捧げる若者を育てる“皇民化教育”が進められた。太平洋戦争末期の1945年、沖縄にアメリカ軍が上陸し、日本軍との間で地上戦となった。皇民化教育を受けた学生達は『鉄血勤皇隊』や『学徒隊』として戦場に駆り出され、命を落とした。一方で、日本軍は「沖縄語を話した者は間諜(※スパイ)と見做し、処分する」という命令を出し、実際に日本兵に殺害された住民もいた。7歳だった仲村さんも、アメリカ軍の砲撃が降り注ぐ中を逃げ惑った。父は現地の日本軍に召集されて帰ってこなかった。生き残った仲村さんは戦後、アメリカに統治された沖縄で中学校の教員となる。その学校で再び出会ったのが方言札だった。日本人としての意識を根付かせようと、教育現場では再び“標準語励行”が叫ばれ、全ての教員が学級で方言札を使っていた。新人教員だった仲村さんも従わざるを得ず、沖縄の言葉を使った罰として自作の札を生徒に渡した。「標準語を強いた罪の意識が消えない」。今、後悔の念に苛まれる。沖縄の教育史が専門の沖縄大学・新城俊昭客員教授は言う。「戦前の皇民化教育を総括しないまま、沖縄は戦後も祖国復帰の名の下に方言を規制した。本土復帰後に方言を話す人が減るのは必然だが、自ら言葉を規制した影響も小さくない」。


キャプチャ  西部本社版2022年12月17日付掲載

テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

【沖縄復帰50年・“同化”の先に】(上) 祖国へ、痛みの方言札

明治時代に日本となり、太平洋戦争後に日本から切り離された沖縄。揺れ動いた日本との関係の中で、失われたものがある。日本復帰から50年となった2022年の終わりに、沖縄の言葉を巡る歴史を見つめ直す。

20231011 03
「あがー!」。突然、背後から蹴られ、生徒が思わず声を上げる。“あがー”は沖縄の言葉で“痛い”の意味。「今、方言喋ったな」。蹴った生徒がにんまりして、“方言札”と書かれた長さ20㎝程度の木板を渡す。1960年代後半、崎原恒新さん(79、沖縄市)が教員を務めていた与勝中学校(※現在の沖縄県うるま市)では、こんな光景が繰り返された。「態と叩いたり蹴ったりして方言を言わせ、札を回す。どの子も違和感なくそれを受け入れていた」と振り返る。長方形の板に紐や縄を通して首からぶら下げさせる方言札。起源は明治時代末期の1900年代に遡る。沖縄では1879年、独立国家だった琉球王国が明治政府によって廃され、一つの県として日本に組み込まれた。県は言葉や風習等の“日本化”を進め、教育現場では“標準語励行”のスローガンの下、沖縄の言葉を使った生徒への罰として方言札が使われた。そんな戦前の“同化教育”の産物が、何故戦後も使われ続けたのか。背景には、異民族による統治の下で人々が募らせた“祖国復帰”への思いがあった。戦後27年間、沖縄はアメリカの統治下に置かれ、日本と切り離された。“基地の島”ではアメリカ兵が事件を起こしても正当に裁かれず、子供が犠牲になるアメリカ軍機の事故が度々起きた。

日本への復帰を願う声が高まる中、教育を担う沖縄教職員会が目指したのが、子供達を“日本国民”として育てることだった。教職員会は日の丸を学校や家庭で掲げる運動を展開し、子供達には標準語の使用を促した。一部の地域で復活したのが方言札だった。崎原さんらによると、夕方、授業が終わった際に方言札をかけていた生徒には、教室の戸締まりや清掃を一人でさせるといった罰を科す学校があった。一方、標準語を上手く話すことができる生徒を表彰し、記念品を贈る学校もあった。厚紙や段ボールに“方言太郎”と筆書きした札も一部で使われていたという。中学教諭で、沖縄教職員会を前身とする県教職員組合の委員長を1990年代に務めた新垣仁英さん(82、宜野湾市)は、方言札で言葉を規制した過去を「沖縄は日本の一つで、日本語が使えないと拙いということでの動きだったが、行き過ぎた考え方だった」と省みる。崎原さんら与勝中の教員は、方言札まで使う必要があるのか、議論したことがあった。崎原さんは「劣等感を生徒に植え付けることになる」と反対したが、「標準語に慣れなければ、将来、生徒が本土に渡った時に意思疎通ができず、差別される」と別の教員から反論され、それ以上は言い返せなかった。実際、当時は沖縄出身者に対する偏見や差別があった。日本は1960年代、高度経済成長に沸き、沖縄からも多くの若者が集団就職で本土へと渡ったが、部屋の賃貸契約を拒まれたり、飲食店に“沖縄県人お断り”と張り紙がされたりすることがあった。1972年5月、沖縄は念願の日本復帰を果たした。だが、祖国への熱い思いは既に冷めていた。日米の沖縄返還交渉の中で、復帰後も多くのアメリカ軍基地が沖縄に残ることが決まったからだ。時を同じくして、方言札も学校から消えた。今、那覇市の県立博物館・美術館には、与勝中学校で嘗て使われた方言札が常設展示されている。崎原さんが歴史の一幕を後世に残したいと、同館に貸し出したものだ。皮肉にも復帰後の沖縄では標準語を話す人が自然と増え、沖縄独自の言葉は今や消滅の危機にある。崎原さんは懸念する。「自分達の言葉を失うということは、自分達の物の考え方の土壌を失うということだ。まさかこれほど急速に方言が消えていくとは…」。


キャプチャ  西部本社版2022年12月16日付掲載

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【“本物の大人”の為の世界史この100年】(15) 今もアメリカに残る“黄禍論”…人種主義なる病と向き合うには?



20230925 03
コロナ禍のアメリカで“アジアンヘイト”が止まらない。アジア人の外見をしているだけで「コロナ菌、国に帰れ!」等と言われ、いきなり殴られたりするのである。中には、ただ散歩していただけで突き飛ばされて、命を落とした人もいる。当時のドナルド・トランプ大統領は、このようなヘイトを抑えようとするどころか、スピーチライターが“コロナウイルス”と書いた部分を自ら“中国ウイルス”と書き直したり、“武漢ウイルス”と呼んだりして逆に煽った。恰もアジア人は襲ってもよいとお墨付きを与えているかの如くであった。こうしたヘイトは、何も目新しいものではない。18世紀末にドイツ皇帝のヴィルヘルム2世が唱えた、「東アジアの人々が数に任せて白人国家に襲い掛かり、世界の覇権を握るのではないか」という説、即ち“黄禍論”の系譜に属するものである。当時からアメリカ社会はアジア人を異質で有害なものとしていた。100年以上前、西海岸のサンフランシスコで伝染病が流行った時も、確たる証拠もないのに市の衛生当局は原因をアジア人と決めつけ、その居住区を封鎖した。白人は自由に出ることができたが、アジア人が封鎖区から出ることは禁止された。第二次世界大戦後、アメリカ社会は紆余曲折を経つつも、人種差別と決別する道を歩み、21世紀に入るとアフリカ系初のバラク・オバマ大統領を誕生させた。しかし、過度のポリティカルコレクトネス(※政治的正しさ)に対する疲れ等もあり、トランプ政権の誕生等揺り戻しを経験していた。人種差別的発言を繰り返すトランプ氏に対する広範な人気は、異質なアジア人に対する恐怖がアメリカ社会に未だ根強く残っていることを示している。

この恐怖の矛先は、現在は中国脅威論の下、中国が主なターゲットとなっているが、それ以前の主な対象は日本であったことを忘れてはならない。アメリカの非白人にはアジア系の他にアフリカ系も存在するが、アフリカ系に対しては自分達が奴隷として連れてきてしまったという罪の意識があり、「アフリカに追い返すべき」と唱える人々は少数派である。だがアジア系は、頼まれもしないのにアメリカにやって来て、安い賃金で白人の職を奪って働き、その利益をアメリカ国内には齎さず、出身国に持ち帰ってしまう忌むべき存在として見做されている。黄禍論は欧州からアメリカへ伝わった。ただ、黄禍論を主に想像上の概念としてのみ捉えた欧州に対し、アメリカでは様相が異なっていた。西海岸には大量のアジア系移民が既に存在し、その為、黄禍論が殊更深く根付いたのである。その恐怖の中身は、当初は中国人の数の多さに対するものであったのが、日本が日露戦争で欧米列強と互角以上の戦いができることを世界に示す日本にも向けられるようになる。戦間期にアメリカが特に恐れたのが、「サムライの国である日本の優秀な軍人が、膨大な数の中国人を軍事教練し、日中合同して欧米に襲いかかってくる」という日中合同論である。第一次世界大戦中、日米は同じ連合国側でドイツと戦った為、日本を異質なものと見る考え方は一時的に影を潜めたが、終戦後直ぐに噴き出すことになった。1919年のパリ講和会議を前に駐日アメリカ大使は、「人種差別撤廃提案を巡り、人種が同じ日中が共闘するだろう」とする根拠のない説を信じ、ワシントンに打電していた。山東半島の旧ドイツ植民地の処遇を巡り、激しく対立する日中が共闘することなどあり得なかったにも拘わらず、である。続いて開催されたワシントン軍縮会議(※1921~1922年)には、日英同盟を破棄させようというアメリカ側の狙いも含まれていた。日米戦争が起こった時、日英同盟により、同じ白人国家である米英が戦ってしまう、それは避けねばならない、と。「軍縮会議が失敗に終われば、 第一次世界大戦を遥かに凌ぐ大戦争が起き、その結果、世界は黄色人種に支配されてしまう」と主張する論者も少なくなかった。有力紙『ボストングローブ』の編集者モーガンは、その戦争を“絶滅文明間戦争”と呼んだ。この時期の日本外交が心を砕いたことの一つは、欧米列強が黄禍論的思考に走ることがないようにすることである。日本以外は全て白人国という欧米列強中心の当時の国際政治の舞台において、黄禍論が蔓延ることは日本にとって致命的であった。それは日本の孤立を意味したからである。日本政府は、常に黄禍論に対して国際関係において気を配らなければならなかった。1924年の排日移民法制定直後に、加藤高明首相がアメリカ人ジャーナリストのインタビューに応じて、“アジア連合”を強く否定したのもその為である。当時、数少ない極東の国際関係の専門家であるクラーク大学のジョージ・ハバード・ブレイクスリー教授が、「排日移民法等のアジア人に対する侮蔑的措置が汎アジア感情を醸成し、日中同盟が実現するかもしれない」と論じたことに象徴されるように、日中への懸念がアメリカ社会に見られた。

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【日本の領土を考える】(09) 今も残るシュガーキングの業績

20230918 03
サイパン島の中心街、ガラパン地区にある『シュガーキングパーク(砂糖王公園)』。そこに、戦前に建てられた日本人企業家の銅像がある。日本統治(※『国際連盟』の委任統治)時代の南洋群島で製糖業振興に多大な貢献をした、シュガーキングこと松江春次(※1876-1954、右画像、『松江春次記念館』提供)だ。昭和9(1934)年に建てられた銅像は、台座を含めると高さが10mを超える立派なもの。激戦だった先の大戦を生き抜き、今も日本の方角を見つめている。松江の銅像は、南洋群島の統治官庁である南洋庁特別会計の黒字化(※昭和7年度以降)を記念して建てられた。つまり、国庫からの支援(※補充金)がゼロとなり、南洋庁財政の自立が達成されたのである。外地では台湾に次ぐ快挙。因みに、朝鮮は終戦までずっと赤字財政であった。黒字化へ貢献したのが、松江率いる『南洋興發』の製糖工場がつくる砂糖だった。同社が支える南洋群島の砂糖生産量は、昭和13年度に約7万5000トン、価格にして約2500万円。当時の1円は現在の2000円相当なので、現在の金額に換算すると約500億円になるだろうか。南洋庁は内地へ移出する砂糖に出港税をかけた。『南洋庁統計年鑑』(※南洋庁編、昭和9年)を見てみたい。昭和7年度の租税収入(※約321万円)中、出港税収は約309万円で実に9割超。南洋庁の歳入全体(※約795万円)の約4割を占めている。まさに砂糖サマサマであったろう。これが原資となって、現地の教育や医療、交通等近代化整備が図られたのである。日本の南洋統治が、最初から順調だったわけではない。南洋庁が発足した大正11(1922)年度には、国庫から約524万円(※因みに同じ年度の朝鮮には約1500万円)もの補充金が支出されている。南洋群島は「資源も産業もなく、カネばかりかかる」として、放棄論が囁かれる始末だった。

こうした放棄論に対し、「宝の持ち腐れではないか」と反論し、敢然と立ち上がったのが、アメリカ留学で最新の技術を学び、台湾で製糖会社の経営に携わっていた松江だった。『大南興を築くまで 松江春次氏伝』(※著・西田鶴子、昭和16年)を引こう。〈新領土の開拓をする人が、日本国中に一人も居ないと云ふ事は、欧米へ聞こえても国家のために恥だと思ふのです。【中略】折角幾多同胞が血を流して占領した土地を、再び放棄するやうな、そんな事は絶対にしたくありません〉。明治の男の気骨、日本人としての矜持を感じさせるセリフではないか。松江は、新天地である南洋群島での製糖業起業に“新たな可能性”を感じ取っていた。熱帯の南洋群島の自然環境は、砂糖の原料である甘蔗(※サトウキビ)の大産地であるハワイやジャワに似ており、台湾と比べても高水準の成長速度や収量が見込まれた。一方で、小島が分散し、甘蔗栽培を行なうには狭い土地(※南洋群島全域を合わせて東京都程)や日本から遠い分、輸送コストがかかる懸念もある。大戦中の軍政期から進出していた先行事業者のチャレンジは、専門的な技術や資本力にも欠け、悉く失敗に終わっていた。植え付けた甘蔗は害虫の被害に見舞われ、惨憺たる結果。“夜逃げ”同然で事業者が撤退した後には、内地から集められた約1000人の移民労働者が“棄民”のように残されていた。丁度、日本の統治がスタートした頃だ。棄民を放置したとあっては、国連を始めとする国際社会から非難を浴びかねない。外地で土地開発や植民事業を行なう国策会社の『東洋拓殖(東拓)』が救済に乗り出し、先行事業者の負債や設備、労働者を引き継ぐ新会社を設立することになる。事実上の経営トップとして白羽の矢が立てられたのが松江であった。大正10(1921)年11月、資本金300万円で新たに南洋興發が発足する。松江の孫で、『シュガーキング基金』の代表を務める佐伯圭一郎(75)は言う。「叔父(※春次の次男)にも聞いたが、祖父は『兎に角、棄民を救わねば』という思いだったのでしょう。(旧会津藩の)武士の家に生まれた祖父には、お金儲けよりも、日本人として大事にせねばならない精神があったのだと思いますね」。灼熱の土地で病害虫と闘いながら、未踏のジャングルを切り開いて甘蔗を栽培。製糖工場を建設し、運搬用の鉄道を敷く――といった労苦は、並大抵なものではなかったろう。流石の松江も1~2年は失敗続きだった。害虫による被害が凄まじい。追い打ちをかけるように、大正12年9月、関東大震災で東京の倉庫にあったなけなしの砂糖までが全滅。南洋興發は資金繰りが悪化。松江は私財を擲って、やっと倒産を免れた。内地では放棄論が再燃する。砂糖の専門家(=松江)が陣頭指揮を執り、国策会社(=東拓)がてこ入れをしてもだめなのだ、と。それでも松江は諦めない。害虫駆除の為に一旦、甘蔗農場を焼き払い、耐性の強い品種をジャワから導入。更に、ハワイから害虫の天敵となる蝿の一種を取り寄せ、害虫の駆除に成功する。生産量が安定し始めたのは3年目のことだった。 《敬称略》 (編集委員 喜多由浩)


キャプチャ  2022年8月3日付掲載

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