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【日本の領土を考える】(05) 江戸川乱歩と南洋ブーム

20230526 13
探偵小説の巨匠、江戸川乱歩(※1894-1965)が描く物語の世界は怖い。心底怖い。『芋虫』(※昭和4年)は、戦争で食欲と性欲以外、殆どの機能を失った夫の介護をする妻が“完全なる支配者”になるべく、唯一残った夫の目を潰してしまう。『人でなしの恋』(※大正15年)は、愛する人形を妻に壊された夫が人形と“心中”する結末がショッキングだ。他にも、『人間椅子』・『屋根裏の散歩者』・『陰獣』等、タイトルからして怖い。淫靡で、怪奇的で、背徳感漂うテイストの物語を借りて、乱歩は人間の秘められた欲望や業を、容赦なくあぶり出してゆく。そんな乱歩が、南洋を舞台にした冒険小説を書いている。対英米戦開戦目前の昭和15(1940)年から、児童向け雑誌『少年倶楽部』で連載を始めた『新宝島』だ。南洋の島に漂流した3人の少年が、勇気と知恵で、あらゆる困難に立ち向かう物語である。そこに登場するのは、大海の孤島であり、椰子の実やパンの木、海賊や難破船であり、恐ろしい猛獣や大蛇、人喰い人種(の気配)である。それらが当時、内地(=日本)から見た南洋のイメージだったのだろう。いやいや、昭和35年生まれの私が少年時代に胸を躍らせて見た、怪獣映画やテレビ等で描かれた南洋だってそう変わりはない。未知の世界におけるワクワク、ドキドキの冒険譚、夢とロマンとスペクタクル――。南洋には、そんな神秘的な印象が付き纏う。尤も、『新宝島』単行本の序(※昭和17年6月)によれば、乱歩が意図したのは、漂流者のサバイバル生活を描いたロビンソン・クルーソーのような物語だったのだが――。それはさておき、同じ『少年倶楽部』に連載され、人気を博した漫画(※絵物語)『冒険ダン吉』(※島田啓三作)は、昭和8年から始まっている(※昭和14年まで)。やはり、舞台は南洋だ。

本紙に平成23年に連載された『“冒険ダン吉”になった男 森小弁』(※著・将口泰浩)は、明治中期にミクロネシアに渡り、様々な事業や学校建設等で同地の近代化に尽くした森小弁(※1869-1945)の波乱の生涯を描いた、事実に基づく小説だ。森は『冒険ダン吉』のモデルとされている。単行本のプロローグで、将口はこう書いた。〈…勇敢で賢いダン吉は原住民の信頼を得て酋長となり、病院や小学校、鉄道、日の丸神社を作り、キリンの戦車にまたがり、海賊とも戦った。当時、トラックやパラオなどの南洋群島は日本の委任統治領であり、南進論の高まりとともに日本人の目が南に向けられていたという時代背景もあり、人気を集めた〉。乱歩は、後に代表作となる名探偵の明智小五郎と怪人二十面相が対決するシリーズの第1作『怪人二十面相』(※昭和11年)にも南洋を登場させている。失踪し、10年ぶりにボルネオ島から帰国した富豪の長男が二十面相の変装だった、という設定だ。実は乱歩には、早稲田大学卒業後の大正5年に大阪の貿易商社に勤め、南洋との取引に従事した経験がある。僅か約1年で辞めてしまったが、その経験を小説の舞台設定として借りたのだろう。“南進論”の高まりと共に日本の社会に巻き起こった南洋ブームは、森小弁が海を渡った明治以降、何度も起きている。仕事や移住先を求め、資源や交易先を探し、更には国の安全保障の為に、日本人は南へ南へと向かう。第一次世界大戦(※1914~1918年)後に、ミクロネシアの南洋群島を『国際連盟』の委任統治領とした大正期以降、南へ向けられる視線は更に熱量を増し、昭和のブームへと繋がっていく。『新宝島』や『冒険ダン吉』等の物語は昭和のブームを背景とし、ブームを再生産する役割を担った。多くの子供達が、未だ見ぬ夢のような世界での冒険譚に胸を躍らせたであろう。彼らが成人した時、南を目指す動機付けとなったかもしれない。昭和の南洋ブームは、戦争の足音と共に不即不離の関係となってゆく。乱歩が『新宝島』の連載を始めた昭和15年7月、第二次近衛文麿(※1891-1945)内閣が発足。国家的な南進策へと舵が切られる。従来、海軍主導だった南進論に、伝統的に北進論中心だった陸軍も“乗った”のだ。創作者にとってそれは、窮屈な思いを余儀なくされることにもなった。実は、昭和15年の乱歩は『新宝島』以外の作品を全く書いていない。日中戦争以降、娯楽性の強い探偵小説が書けなくなり、冒頭に紹介した『芋虫』に至っては“反戦小説”として発禁処分にされてしまったからである。乱歩は、前出の『新宝島』の序でこう書いた。〈この物語は、大東亜戦争勃発以前、昭和15年度に執筆したものであるが、当時既に我々の南方諸島への関心は日に日に高まりつつあったので、その心持が、物語の舞台を南洋に選ばせたものであろう…〉。序を書いた昭和17年6月といえば、開戦から連戦連勝を続け、南進を続けていた日本軍がミッドウェー海戦で空母4隻を失う大敗を喫し、アメリカ軍に反転攻勢を許すきっかけとなった時期と重なっている。但し、それは後にわかることだ。南方作戦を展開する日本軍は、更に南の蘭印(※インドネシア)やパプアニューギニア(※オーストラリアの信託統治領)、ビルマ(※ミャンマー)等にまで駒を進め、軈て泥沼化してゆく。『新宝島』では、少年達が大量の金を産する原住民の村に辿り着く物語が描かれている。アメリカから石油等の輸入を止められた日本は、南に資源を求める他なかった。『新宝島』は単なる少年向けの冒険譚でない。当時の国際情勢や世相を見事に反映させた“一味違う”秀作と見るべきだろう。 《敬称略》 (編集委員 喜多由浩)


キャプチャ  2022年6月8日付掲載
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【“本物の大人”の為の世界史この100年】(10) テロと戦争への道を拓いた大正日本経済のグローバル化



20230512 14
経済のグローバル化は、一般的には一国の経済全体に好影響を与える。一方で国内産業を国際競争に晒すことにもなり、その結果、競争力のない産業が衰退したり、商品やサービスの価格や賃金が低く抑えられ、貧困層が拡大したりすることは現在でも広く見られる。それにより国民の不満が高まり、社会が不安定化したり、大衆迎合主義(※ポピュリズム)的な政治が行なわれるようになったりすることも多い。嘗ての日本でもそのような現象が見られた。日露戦争後、巨額の外債の支払い等で国際収支の危機に直面していた日本にとって、第一次世界大戦の勃発(※1914年)はまさに天祐(※天の助け)であった。大戦勃発当初は経済混乱が起きるが、1915年後半に入ってからは、多くの軍需物資を必要とする欧州の連合国向け輸出や、中立を保ちながら連合国への輸出を激増させていたアメリカへの輸出が急増した。大幅な輸出超過により、日本は債務国から債権国へと転換した。また、国際的な船舶需要急増により造船業が発達し、欧州からの輸入が困難になったことで、機械工業、化学工業、鉄鋼業等重化学工業も国内代替化が進み、急速に発展した。既に発展していた紡績業や製糸業等繊維産業も、欧州からの輸出の急減により、その穴を埋める形で日本からの輸出が急増した。こうして、第一次世界大戦は日本経済の工業化を大きく促進した。また工業化の進展により、京浜、京阪神の工業地帯には多くの労働者と、それを相手とする小売商等が集まるようになり、都市化も加速することになった。

未曽有の好景気により、急激に事業を拡張した既存の経営者や、新たに参入した経営者は、派手な活動を行なうようになった。特に、事業を通じてにわかに資産を築き、豪勢な屋敷を建てたり、派手な芸者遊びをしたりする“成金”と呼ばれる人々が注目を集めた。また、工場に勤める一部の労働者に高い賃金が払われたり、都市住民が増加したことにより木炭価格が上昇したりして、“職工成金”や“炭成金”も登場する等、多くの国民が成金時代に浮かれた。成金という言葉には、「庶民の夢を実現してくれた」「庶民の代弁者」「ロマンに満ちた英雄」という国民の憧れの意味も含まれていた。しかし、大戦ブームで国民の収入が増加するに従い、米穀消費が急増すると米穀は不足気味になり、米価は1917年以降上昇していく。1918年に入ると米価急騰につられて食料品価格も2倍以上に高騰し、低所得層の生活は苦しくなっていった。同年7~8月には米騒動が勃発して全国に広がり、米穀商には民衆が押しかけて米の安売りを要求した。一時期は憧れの対象とされた成金への反発も強まった。大戦で急成長した総合商社『鈴木商店』の本店が食料品価格高騰の元凶とも見做され、焼き打ちされた(※実際には鈴木商店の大番頭である金子直吉は質素な生活を送っており、成金とは程遠かったが)。政府は警察の他、軍隊を出動させて米騒動を鎮圧し、2万5000人以上が検挙された。既に明治末期から日比谷焼き打ち事件(※1905年)のような大衆暴動が起きていたが、大正時代に入り、第一次憲政擁護運動(※1912~1913年)のように国民の権利を求める大衆の動きが強まっていた。米騒動は、それが再び暴力的な形で現れたものであった。一方、第一次世界大戦終結後(※1918年11月)、暫くは戦後復興への期待からブームが続いたが、1920年には反動恐慌が起きてバブルは崩壊し、成金の多くは没落した。また、大戦中に上昇した物価が高止まりしたことにより、実質為替レートが高位になり、大戦中に成長した重化学工業や軽工業は、大戦後に国際市場に復帰した欧州企業との間で不利な競争を強いられた。事後的に見れば、1920年代の日本は緩やかな経済成長が続いており、国際的にも大戦で疲弊した欧州諸国と比較して、日本経済の成長率は高いほうであった。だが、特に外国企業との競争激化が財やサービスの価格低下を齎し、それにより大戦ブームの時期と比べて“慢性不況”が続いているという意識が広まった。こうした中で、1923年には関東大震災が起きた。経済は大きなダメージを受け、企業の手形の支払いは猶予されるが、それが不良債権化して銀行の経営を圧迫し、昭和金融恐慌(※1927年)を引き起こすことになる。また、ロシア革命(※1917年)と米騒動を契機として、社会主義思想の広がりを防ぐ為に都市部の労働者・住民の生活が重視されるようになり、米穀を低価格で供給することが目指された。一方で、大戦後は輸出の減少により国際収支も悪化した為、米穀輸入よりも植民地である朝鮮・台湾における米穀の増産と日本本土への移入が重視された。

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【“本物の大人”の為の世界史この100年】(09) 失敗したイギリスの宥和政策…現代と重なる“第二次世界大戦前夜”



20230417 10
ウクライナで進行している戦争は、日を追う毎により一層凄惨なものとなっており、依然として平和への道程は遠いように思える。戦争は“武器”の戦いであると同時に、“言葉”の戦いでもある。軍事力の規模では大きくロシアに劣るウクライナは、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領が優れた演説を繰り返すことによって、人々の心と感情を揺さぶる、いわゆる“ハーツアンドマインズ”においては有利な戦いを行なっている。3月8日のイギリス議会での演説で、ゼレンスキー大統領は次のようにイギリス国民に語りかけた。「我々は決して降伏しない。決して負けない。どんな犠牲を払っても、国を守る為に、海で、空で、森で、街頭で戦い続ける」。これは1940年、ナチスドイツとの戦争で、決して妥協せずに戦争を続ける強い意志を示したウィンストン・チャーチル首相の演説を意識したものであることは、明瞭であった。そしてそれは、明確な一つのメッセージを意味している。即ち、ロシアに対する宥和政策は拒絶するという姿勢であり、独立や自由を獲得するまでは戦いを止めないという意志である。そして、イギリス国民にとっての歴史の中でも“最も偉大な指導者”と評価されるチャーチルの言葉を参照することで、イギリスからの、そして国際社会からのより力強い支援を得ることを目指したのであろう。2月24日にロシア軍がウクライナへの侵攻を開始した時、多くの人々は圧倒的な戦力バランスの非対称性を根拠に、「強大なロシア軍を前にしてウクライナがそれに抵抗することは不可能だ」と認識していた。寧ろ、「犠牲を少なくする為にも、早期にロシアとの停戦交渉を行ない、ウクライナこそがロシアに譲歩を示すべきだ」という声や、「もう降伏するしかない」という声が日本の内外から聞こえてきた。

そのような疑念を払拭する為にも、ゼレンスキー大統領はチャーチルの言葉を参照して、宥和政策を拒絶する強い意志を示す必要があったのだ。国際政治とは基本的に、極力政治(※パワーポリティクス)により動いている。とりわけ19世紀の欧州では、大国政治を基礎とした国際秩序が成り立っており、その中で小国の存立と安全はあくまでも大国の意志によって決定されていた。そのような国際政治は、20世紀になると大きく変化していった。国際連盟成立により戦争の違法化が進み、一国に対する侵略を国際社会全体の平和と安全に対する挑戦と受け止めて、集団安全保障により侵略を阻止する設計図が創られた。だが、結局はそのようなリベラルな国際秩序は1930年代に挫折する。大国は自国の利益や安全を最優先して行動し、国際秩序の規則や規範を骨抜きにするような利己的な面が目立つようになる。一方、『国際連盟』の常任理事国であった中心的な大国であるイギリスでは、世界恐慌によって国内経済が大きく混乱する中で、平和主義に浸かった国内世論は戦争を何よりも嫌い、1931年の満州事変に際し、日本に対して強硬な制裁を発動することを控えるという政治的判断を行なった。また、1935年のイタリアによるエチオピアへの侵略の際にも、ナチスドイツという最大の脅威に対抗する為にもイタリアと連携する必要を感じ、初期の段階ではイタリアの侵略を容認する意向であった。更には、1936年にドイツがヴェルサイユ条約やロカルノ条約での合意を裏切り、フランスと国境を接するラインラント地方の非武装化の前提を反故にして、ドイツ軍を派兵し、ラインラントに進駐することになった。だが、イギリスはドイツの行動を容認した。1930年代のイギリス外交は、軍事的脅威を前にして宥和政策を示すことで危機を乗り越えようとしていた。即ち、戦争を回避することを何よりも最優先し、国際法を違反して軍事行動を起こした諸国に対しては、宥和的な姿勢を示して軍事行動を事実上黙認した。また1938年9月には、チェコスロバキアのズデーテン地方割譲を要求するドイツに対し、英仏2つの国際連盟常任理事国は連盟規約を破って、連盟加盟国のチェコスロバキアの領土を当事国の了解も得ずに一方的に解体して、ズデーテン地方をドイツ領として併合することを認めてしまった。当時のイギリス首相であるネヴィル・チェンバレンにとっては、“我々の時代の平和”を確保する為であれば、チェコスロバキアという小国はいわば“贖罪の羊”であった。貪欲なナチスドイツの領土的野心の前に、チェコスロバキアは自らの意志を表明する権利さえも奪われてしまった。大国による権力政治と、小国の解体、そして国際的な合意を無視した横暴な要求が、1930年代の欧州の国際秩序を破壊することになった。だが、アドルフ・ヒトラーの前に譲歩を繰り返すことは、決して平和の保証とはならなかった。寧ろ、ヒトラーに対して自らの正しさを証明する機会を提供し、ドイツ国内での権力基盤を強化する役割を担い、同時に迫りくる世界戦争を引き寄せる結果となった。壊れたのは国際秩序だけではなく、国際正義や国際道徳もまた蹂躙される結果となった。イギリス政府が進めた宥和政策は、平和を維持することはなく、1939年9月のドイツによるポーランド侵攻により、世界戦争が幕を開けた。

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【“本物の大人”の為の世界史この100年】(08) 現代アメリカ外交の起源…ウィルソン主義は何を目指したのか?



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ドナルド・トランプ前政権下で掲げられた“アメリカ第一主義”に、特に西側諸国が翻弄されたことは記憶に新しい。ジョー・バイデン政権下で国際協調・多国間主義を重視する“国際主義”へと揺り戻しがあったが、国内の分断等により、アメリカ政治は一層不安定さを増しつつある。また、アメリカが国際主義に基づき主導的役割を果たし維持してきた法の支配に基づく国際秩序も、台湾やウクライナを巡る中国やロシアとの対峙等により、依然として危機的状況の最中にある。日本は戦後、アメリカによる“自由主義的民主主義的国際主義”の秩序の中で、安寧を享受してきた。だが、抑もアメリカの国際主義とは何なのかを知る必要があるのではないだろうか。アメリカは1776年の建国後、19世紀を通じ、世界との関わりは乏しかった。西部開拓等の内的発展に注力し、外交に向き合わなくともよかったのだ。軈てアメリカが大国化し、世界と直面せざるを得なくなる20世紀初頭、今日に至るまでのアメリカ外交の大方針を決定付ける人物が現れる。第一次世界大戦への参戦を決断し、『国際連盟』創設を提唱した、民主党のウッドロー・ウィルソ大統領(※在任は1913~1921年)である。現代アメリカ外交の普遍的特質として定着するに至った彼の外交理念を“ウィルソン主義”と呼ぶ。それを体現するキーワードは幾つもあるが、ここでは重要なものとして、“民主主義の擁護”・“反帝国主義”・“民族自決主義”の3点を挙げる。1点ずつ見ていこう。

ウィルソンは、アメリカが育んできた“民主主義”や“正義”の概念を、国際紛争の解決や平和維持の為に適用することに、全幅の信頼を寄せていた。欧州の君主制を否定して共和国として独立し、“人民主権”を謳う合衆国憲法を基軸に据えたアメリカは、19世紀末まで欧州列強の手が届かない新大陸に閉じこもる中で、民主主義の価値観を完成させていった。そのことへの自負が、アメリカの常識が世界の常識であるとする“アメリカ例外主義”であり、ウィルソンもそれに強く後押しされていた。第一次世界大戦へ参戦したのも、当時のドイツ帝国に代表される専制政治や軍国主義への対抗と、イギリスやフランス等民主主義国家の防衛を、アメリカ自身の安全保障の問題と結び付けて捉えていたからである。これがアメリカを長年縛ってきた、欧州への不干渉政策“モンロー主義”を乗り越えさせることになった。ただ、ウィルソン政権期を通じ、国際主義が一貫して存在したとは言い難い。1917年に参戦する以前、ウィルソンが参戦しない理由として挙げていたものは、正しく“アメリカ第一主義”であった。転機となったのは、1915~1916年のアメリカ主導による英独和平仲介が挫折したことだ。ウィルソンは政策を大転換し、アメリカは最早、欧州諸国間の紛争調停役にとどまるのではなく、戦後国際秩序を創設する主導的推進者となることを決意した。“反帝国主義”についても、当初からウィルソンが明確にその主張を有していたわけではない。1898年にアメリカはフィリピンを併合し、帝国主義国家の一員となっていた。ウィルソンはその現状に対し、当時の多くの革新主義者と同じように、「帝国主義は後進地域に文明を齎す手法である」と認識し、暗黙の了解を与えていた。だが、英独仏露といった帝国主義国家の対立によって引き起こされた第一次世界大戦は、帝国主義を近代文明発祥の地たる欧州を崩壊させかねない程の安全保障問題へと転化させていた。そして、2つの世界大戦における専制国家・軍国主義国家との争いを経て、アメリカの対外政策のイデオロギー構造の中に、反帝国主義が持続的な形で根付くようになったのである。更に重要なのが、1918年にウィルソンが発表した、大戦後の世界平和実現の為の包括的な処方箋とも言うべき『14ヵ条の平和原則』であろう。この中で創設が提唱された国際連盟は、その理念が第二次世界大戦後の『国際連合』に引き継がれ、今日の国際秩序の根幹を成している。この原則の中で謳われたのが、其々の民族が自らの政府を持つ権利を認める“民族自決主義”である。ドイツ帝国等の帝国主義国家が割拠していた中・東欧やバルカン半島で、世界大戦後に民族自決に従い、ポーランドやチェコスロバキア等の新生国家が誕生した。また、アジアやアフリカの植民地では、独立運動の指導者が民族自決を繰り返し唱えることとなる。だが、理想視されたウィルソンの民族自決に対して、彼の考え方を精査すれば、実態は少々異なっていることがわかる。特に中国やインド等の独立運動の指導者達は、ウィルソンへ過剰な期待をし、幻滅していった。

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【日本の領土を考える】(04) 委任統治委員を務めた柳田国男

20230216 01
新渡戸稲造(※1862-1933)は明治34(1901)年、日本の台湾統治の礎を築いた総督府ナンバー2、民政長官の後藤新平(※1857-1929)に請われて渡台、製糖業の革新・発展に多大な貢献をした人物である。その後の新渡戸は京都、東京両帝大教授、旧制一高(※東京)校長等を経て、大正9(1920)年1月に創設された『国際連盟』(※本部はスイスのジュネーブ)の事務次長に就任する。海外が長く世界に日本人の精神の在り方を知らしめた英文の『武士道』出版(※明治33年)による国際的な知名度も買われたのだろう。第一次世界大戦(※1914~1918年)後、戦争抑止を掲げて発足した国際連盟で日本は、戦勝国の連合国側の一員として、イギリスやフランス等と共に常任理事国となる。国際連盟の初仕事は大戦の戦後処理だった。時計の針を戻そう。第一次世界大戦に日本は当時、同盟国であったイギリスの要請で参戦、ドイツが中国や南洋に持っていた領土(※租借地を含む)を占領する。ドイツ領だった赤道以北の南洋群島を巡っては、日本が大戦中に実効支配を進め、軍政を敷く。だが、既に大戦中から、権益の分配を巡って各国の国益はぶつかり合っていた。事前の協議で日本は「戦後、南洋群島を自国領とする」ことを求めたが、オセアニアの自治領の懸念等に配慮せねばならないイギリスや、フィリピン、グアムを持つアメリカは日本の太平洋における権益拡大を警戒した。戦後の1919年1月、パリ講和会議でアメリカ大統領のウッドロウ・ウィルソンが提案した国際連盟の創設等、新たな国際体制づくりに向けた協議が始まった。

委任統治は、戦勝各国が占領した地を領土として自国に組み入れるのではなく、委任を受けた国(※受任国)が国際連盟の監督下で統治を行なう方式である。被統治住民の自由を、ある程度まで確保し、軍事基地化を禁じるケースもあった。当のアメリカは国際連盟への加盟を議会で否決され、不参加となったが、各国の思惑の“落とし所”として、委任統治制度案が通ってしまう。日本は、パラオやサイパン等南洋群島の受任国となる。各受任国は、統治報告書を国際連盟へ提出し、常設の委任統治委員会で検討・評価されることとなった。大正10(1921)年、その委任統治委員に新渡戸の推しで就任したのが、『遠野物語』等の著作で知られ、日本民俗学の祖と呼ばれた柳田国男(※1875-1962、左上画像)である。新渡戸と柳田は『郷土会』という研究会を通じて、親しい関係にあった。当時の柳田は貴族院書記官長を辞めて官僚生活にピリオドを打ち、『朝日新聞社』に身を置いた。台湾以来、“現地の実情に沿った統治”との主張を持っていた新渡戸が、考え方が近く、“野に下った”柳田に目をつけたのだろう。役人生活に嫌気が差していた柳田は、一旦は固辞したが、説得されて受諾する。留学経験がなかった柳田には、欧州での生活への期待もあった。大正11年7月、柳田はジュネーブに入り、9月の第2回国際連盟総会に参加した他、世界共通語としてつくられたエスペラント語の普及に新渡戸と共に尽力している。ただ、国際連盟を主導していたのはイギリスやフランスを中心とする欧州であり、新興国である日本の発言力は大きいとは言えない。柳田はその現状を目の当たりにする。国連での共通語であるフランス語や英語の語学力不足も、痛感させられていた。『柳田国男伝』(※編・柳田国男研究会)にこうある。「(柳田は)権謀術数の渦巻く国際場裏で、言葉の問題のために駆け引きがうまくできず、会議の主導権を取り切れないでいる日本人の悩みを感じ、また、情報の一方通行のために、日本のことにまるで無知な外国人の態度を嘆いている」。統治委員会の仕事は、各受任国が提出する統治内容のリポート(※年報)を受けて、審議することだ。日本が大正12年に提出した年報を見てみよう。行政一般や労働、経済、教育、公衆衛生、財政、人口――等の項目毎にデータと説明が記されている。冒頭に「(国際連盟の決定で)統治条項決定セラレルヤ日本政府ハ…漸次各島ノ守備隊ヲ撤退セシメ…」と態々記しているのは、軍事的な利用を禁じた取り決めへの揶揄だったろうか。各国の報告は“一方通行”であり、委員会側が受任国に再三、詳細な資料を求めても反応は鈍かった。委員会によるコントロールは形式的なものに過ぎず、柳田は、思い描いた国際連盟での仕事と現実との乖離に、次第にストレスを感じるようになってゆく。「結局委任統治という組織が“妙な理窟倒れの人工的なもの”」(※『ジュネーブの思ひ出』から)と思い知った柳田は、大正12年12月に委任統治委員を辞任。“紹介者”の新渡戸とも事実上、袂を分かつ。以降の柳田は、民俗学の研究活動に邁進することとなる。余談めくが、柳田の直ぐ下の弟である松岡静雄(※1878-1936)は海軍少佐として、第一次世界大戦中の南洋群島・ポナペ島の占領・軍政に関わった。その経験は静雄を“南洋研究”の道へと向かわせる。『南溟の秘密』や『ミクロネシア民族誌』等を著した静雄の一連の研究内容は、「柳田の起源論的な発想と重なりあう…」(※『柳田国男伝』から)。柳田にも“海”への憧れがあった。旅先の伊良湖岬(※愛知県)で見た椰子の実に思いを寄せ、それを学友の島崎藤村(※詩人)が『椰子の実』に詠ったエピソードはよく知られている。藤村の詩に曲が付けられ、その歌は昭和11年、ラジオ『国民歌謡』として有名になった。 《敬称略》 (編集委員 喜多由浩)


キャプチャ  2022年5月25日付掲載

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【“本物の大人”の為の世界史この100年】(07) 何故日本は軍縮から脱退したのか…“艦隊派悪玉論”を再検討する!



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1921年にワシントンで開催された軍縮会議(※翌1922年に条約締結)や、1930年に開催され軍縮条約が締結されたロンドン海軍会議等、列強の艦艇保有量を比率によって制限しようする海軍軍縮会議に対する日本海軍のコミットメントについては、長きに亘って多数の研究や評論、当事者の回想が蓄積されてきた。その中では、海軍軍縮条約体制脱退までの日本海軍部内の動向について「“押しつけられたロンドン条約”の神話や“劣勢率”のノイローゼは、もともと合理主義をモットーとしてきたはずの海軍の内部、とくに軍令部系や艦隊勤務の青年将校らの間に、強烈な反英米感情や、海軍の体質になじまぬ一種の精神主義を浸透させていった」(※著・池田清『海軍と日本』、中公新書、1981年)と指摘される。したがって、1930年代前半の日本海軍について一般に抱かれている印象は、「視野が広く合理的思考の持ち主が存在せず、軍縮条約に強硬に反対する”艦隊派”に主導され、反米感情と精神主義が力を増した。その結果として軍縮体制からの離脱があった」ということになる。しかし近年、この分野で進展した実証研究の成果や、公開された一次史料の内容からは、そのような理解から更に数段、進化した解釈が可能となっている。海軍部内の作戦・軍縮・軍備の担当主務者が作成した部内資料(※現在では歴史史料と言える)を元に、歴史的経緯を再構成してみたい。

先ず、海軍部内はワシントン軍縮条約締結時も、それ以降のロンドン海軍会議開催までの間も、軍縮体制受け入れの方針では一致しており、軍令・軍政部門が深刻な対立を生じていたとは言い難い。但しロンドン軍縮条約は、1936年末の有効期限が満了すると共に無効となり、それ以降の海軍軍縮については、1935年に会議を開催して関係諸国が協議することとなっていた(※1934~1935年の第二次ロンドン軍縮会議)。1934年になる締約国間では、日本海軍が同年末日までにワシントン条約の廃棄通告に踏み切るかどうかが重大な関心事となっていたが、既にこのかなり前の時点で、海軍は同条約の廃棄を既定路線とすることで部内の意見が一致していた。戦後に防衛庁(※当時)が編纂した太平洋戦争の公刊戦史においては、「ロンドン条約締結以来日本海軍部内では、ワシントン条約の満期時廃棄は既定の事実と考えられており、条約を存続させる意向を示唆するような史料は、まったく見当たらない」と記されている。いわゆる“艦隊派”の行動(※策動)だけによって日本はワシントン・ロンドン両条約体制から脱退した、とは言い切れないことになる。海軍省軍令部との間では、ロンドン軍縮条約締結に伴う海軍兵力改定・整備の作業が進められたが、当面は1932年に開催された、ジュネーブにおける『国際連盟』の軍縮会議(※国際連盟一般軍縮会議)の結果を待って、兵力が決定されることとなった。ところがその後、東アジアと欧州其々で軍縮体制が大きく動揺する事態が生じた。前者は言うまでもなく、1931年に発生した満州事変と、1933年の日本の国際連盟からの脱退通告である。そして後者は、国際連盟一般軍縮会議が(連盟国及び非連盟国60ヵ国を合わせた史上未曾有の規模となり、日本全権団の海軍随員も軍縮体制の枠内で日本に有利な提案を積極的に検討、実施したにも拘わらず)、第一次世界大戦後の国際秩序において自国のみが軍備を制限されているのを不服とするドイツが、米英仏伊の4ヵ国に“軍備平等権”の原則を承認させ、寧ろ軍縮か逆行した以外、何ら積極的な成果を見ずに休会となったことである。前者の一連の事態により、“艦隊派”が満州支配による日本の発展を評価し、その路線が齎す影響(※対米関係の緊張と悪化)に備えて海軍力の拡充を訴え、軍縮体制からの離脱を唱えていったことは知られている。だが、後者もまた、海軍部内の作戦・軍縮・軍備其々の担当主務者にとって、「世界の主要国政府が最早、軍縮体制の形成・維持による国際協調に熱意を失った象徴」と感じられた、極めて重大な出来事であった。そして、ドイツの勢力拡大の根拠であった軍備平等権は、海軍当局者にとって極めて注目される原則であった。この軍備平等権原則は、第二次ロンドン軍縮会議で日本全権に軍備平等を主張させ、会議の不成立と“無条約状態”への突入を志向した”艦隊派”によって1933年秋頃から唱えられたことは、広く知られている。

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【日本の領土を考える】(03) 台湾から南洋群島へ

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台湾は、近代国家の道を歩み始めた日本が初めて異民族統治を行なった地である。日清戦争(※1894~1895年)に勝利し、清から領有権を得た。“前段”がある。明治4(1871)年、台風に遭い台湾へ漂着した琉球・宮古島の島民54人が殺害された。明治政府は清国に対処を求めたが、台湾は“化外の地”として取り合わなかった為、日本は明治7年4月、軍を台湾へ派遣する(※台湾出兵)。日本軍の海外派兵は、これが初めてだった。この時期、明治の新政府内では、“南”の台湾出兵問題と共に、“北”への征韓論が巻き起こっていた。開国に応じない朝鮮への出兵案である。その先には、南下を狙う大国・ロシアの存在がちらついていた。だが、当時の日本にロシアと一戦構える国力はない。征韓論派は敗れ去り、日本は“南”へ向かう。台湾出兵で日本軍は、問題の発端となった島民を殺害した台湾の先住民族の地域等に侵攻するが、マラリアによって多数の戦病死者を出してしまう。結局、イギリスの仲介で同年10月、清が見舞金を支払うこと等の条件で両国の和解が成立した。日本は台湾に足がかりを得ると共に、“南”の琉球の島民について日本が保護に動き、清も抗議しなかったことから、“琉球は日本に帰属する”という国際的な認識が定着する。明治9年には、やはり“南”の小笠原諸島の領有を日本が宣言。国際社会に日本領であることを周知した。この前年の明治8年、ロシアとの間で『樺太・千島交換条約』が結ばれたことは前回書いた。この時点で、日本は“北”で事を起こすことを避けたのである。駐露特命全権公使として交渉役を務めた榎本武揚(※1836-1908)も、次第に“南”へ傾いてゆく。

先述した小笠原諸島や南洋群島、更には明治24年に外務大臣に就任すると、移民課を新設し、メキシコ等への殖民を推進する。“北”への進出には強大な武力が必要だ。だが、未だ欧米列強の関心が比較的薄かった“南”の島々なら日本が買収して、日本人を移民させ、太平洋に一大経済ネットワークを構築する――。それが榎本の考えだったろう。“武力”によるものではなく、“産業・貿易”立国論である。冒頭に戻れば、“南”の第一歩が台湾統治であった。明治28年から始まった台湾統治に、日本は当初、苦労を重ねるが、そのスタイルは後の外地統治(※経営)のモデルとなる。道路・鉄道、港湾のインフラを整備し、学校や病院を建て、農業や産業を興して、近代化を図ってゆく方式だ。そして、台湾は日本の南洋開発・研究の拠点となる。全国に9つしかなかった帝国大学が台湾(※台北帝大)にできたのは昭和3(1928)年で、内地の大阪、名古屋帝大よりも早い。台北帝大には、熱帯農学の研究科や熱帯医学研究所、南方人文研究所、南方資源科学研究所等が次々とつくられた。その拠点で、甘蔗(※サトウキビ)を始めとする熱帯作物の品種改良や新種開発、或いは台湾出兵でも日本兵を苦しめたマラリア等熱帯病の研究が進められてゆく。日本が台湾で発展させた代表的な産業のひとつが製糖業だ。明治34年に渡台した新渡戸稲造(※1862-1933)が甘蔗研究の先鞭をつけ、収量が劣り、病気にも弱い台湾の在来種に代わってハワイ産の品種等の導入を提言。製糖会社も次々と台湾に設立され、台湾で粗糖(※原料糖)にして内地(※日本)で精製し、白糖にするビジネスモデルが確立した(※後には台湾でも白糖を生産)。それまで約4分の3を輸入に頼っていた砂糖は、完全自給を達成。そのうちの約85%を台湾産が占め、満州や中国にも輸出されるようになったのである。台湾の製糖会社は、第一次世界大戦後に日本が南洋群島の統治(※『国際連盟』の委任統治)を始めると、新たなビジネスチャンスと捉えて勢い込む。何しろ、亜熱帯の台湾よりも熱帯の南洋群島のほうが、甘蔗の成長は1.5倍以上早い。内地への距離が遠い分だけ輸送コストは嵩むが、収量が増える分だけ“ペイする”という目論見だった。ところが、大手に先行して、南洋群島・マリアナ諸島のサイパンで製糖工場をつくった業者は技術力もなく、無残な失敗に終わってしまう。“弱点”も見えてきた。小さな島の集まりである南洋群島は、全ての面積を合わせても東京都と同じ程度しかなく、九州に近い大きさの台湾と比べても甘蔗の栽培地を確保し難い。熟練した労働力の確保も課題とみられた。各島に散らばっている現地の島民は全部合わせても5万人程度で、“労働”という意識にも欠けている。大手製糖各社の南洋群島に関する興味が失われていく中で、敢えて南洋群島へ進出した男がいた。今も当地で“シュガーキング”と称される松江春次(※1876-1954)である。松江が初代社長に就いた『南洋興發』は初期の苦難を乗り越えて、サイパン、テニアン、ロタの各島に製糖工場を建設。最盛期には計約7万5000トン(※昭和13年度)の砂糖の生産に成功する。日本が委任統治した南洋群島は当時、内南洋、或いは裏南洋と呼ばれていた。更に、外側が外南洋(※表南洋)である。蘭印(※現在のインドネシア)やニューギニア、オセアニア(※フィリピンを含む場合も)等の地域だ。日本軍は昭和17年、蘭印ジャワでオランダ軍を破り、軍政を敷く。甘蔗の主産地である同地に糖業試験所を設け、品種改良等の研究を行なっている。各事業者も挙って外南洋へ進出した。昭和16年の南洋興發の『創立20周年』に、同社が進出した拠点の地図が掲載されている。蘭印セレベスでは、ヤシ園やヤシの実の果肉を原料とするコプラ貿易等、ニューギニアは綿花やジュート(※黄麻)からつくられる繊維、ポルトガル領ティモールではコーヒー、ゴム、キナ(※マラリアの特効薬であるキニーネの材料)等と手広く事業を展開した。日本から数千㎞も離れた“南”の島々へ渡り、産業、農業振興や学術研究、教育、医療、治安維持等に尽くした日本人の物語を、これから書いてゆく。 《敬称略》 (編集委員 喜多由浩)


キャプチャ  2022年5月11日付掲載

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【WEEKEND PLUS】(300) 翼の上から見た戦争…統制下の民間パイロット、空で見た敗戦の未来



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CDをセットしたオーディオ機器のスピーカーから、男性の声が流れ始めた。半世紀前に録音されたハスキーな声。時折、風鈴の音や、行き交う電車の音も聞こえてくる。「そうそう、この声ね」。東京都荒川区の民家で暮らす服部正子さん(84、右画像の中央、撮影/猪飼健史)は、居間の食卓で目を細めながら男性の声に耳を傾けた。笑い声も交じる軽妙な口調で、パイロットになった経緯を語っている。それは、激動の時代を歩んできた人生そのものだった。声の主は羽太文夫さん(※1978年に76歳で死去)で、服部さんの父親。1901年に生まれた。航空局(※当時)が民間パイロット育成の為に陸軍に委託して公募した航空機操縦生の1期生となった。1921年のことだ。1924年に本紙に入社。その後、航空課に配属され、太平洋戦争中に航空部長を務めた。77年前に終わった太平洋戦争での出来事を取材していた私は、戦地から原稿や写真を運んだ新聞社のパイロットとして羽太さんの存在を知り、この春から関係者の取材を始めた。羽太さんの音声は先月上旬に聞かせてもらった。服部さんの夫、守さん(89、同右)が1974年に3本のカセットテープに録音していたのだ。守さんは、義父の羽太さんが日本航空界の草創期を生きた人物と知り、インタビューさせてほしいと頼み込んだ。録音機とマイクロホンを持参し、2日間で計約1時間半に亘って質問を繰り返し、当時のパイロットの心境を伝える“声の記録”が残った。

「凄い倍率を勝ち抜いてパイロットになり、事故なく生き抜いた人の話を次の世代に残したいという思いからでした」。守さんはそう振り返る。私が今夏に初めて服部さん夫婦に取材した後、電子機器メーカーに勤めていた守さんがテープのデータを復元し、CDで羽太さんの声を再生してくれた。「世界一周のニッポン号の機体を出したのは海軍。だから私は(陸軍から)出られなくなった」。羽太さんの声がそう語り始めた。ニッポン号は、本紙の企画で1939年に世界一周を果たした飛行機だ。8月26日に羽田を出発。北米や南米、アフリカ、欧州、アジアを巡り、10月20日に帰還した。56日間で約5万3000㎞に及んだ“空の旅”は、当時の日本を沸かせた。ニッポン号は、海軍の九六式陸上攻撃機の機体をベースにしていた。本紙役員が海軍次官だった山本五十六中将に直談判し、計画への支援を要請したとされる。羽太さんの肉声が「出られなくなった」という事情を説明する。「海軍の飛行機を飛ばすのに、陸軍の者を出してやる必要はないと言われて、(陸軍が)召集解除しねぇんだ」。本紙社史には、「名パイロットとしてその名を知られていた」羽太さんが機長の候補だったと記されている。しかし、「この時、陸軍に応召中だったので陸軍当局に交渉したが、世界一周飛行計画が海軍の全面的な支援を受けていたせいか、召集解除を断ってきた」という。一生に一度の大役を、羽太さんは不運にも逃した。しかし、音声は「そのほうが良かったんだ」とあっけらかんとして言う。名誉や出世より、現役で飛行機に乗ることに拘った。「定年くらいまでは飛行機に乗るつもりでいたんだから」。戦時中、本紙航空部員の仕事は、戦地にいる特派員の原稿や写真を運ぶだけではなかった。陸海軍の嘱託を兼務し、軍の統制下で輸送任務にも関わった。厳しい勤務をこなしながら家族を守った。「1人で母親の役割もしていましたから、子供につらい顔は見せませんでした」。当時の父の姿を、服部さんはそう振り返る。終戦間際、羽太さんは長野県に疎開した妻を病気で失っていた。羽太さんは戦争で同僚の殉職も経験した。1943年12月23日、本紙航空部員5人の乗った飛行機が、陸軍の嘱託で南方の基地への輸送任務中、敵艦の攻撃を受けてハルマヘラ島(※インドネシア)に墜落した。同じ日の朝刊は1面で“敵兵満載の艦艇連襲 48隻以上を撃沈破”の大本営発表を伝えていた。しかし、戦況は違った。同盟国のイタリアは3ヵ月前に米英を中心とした連合国に降伏し、日本も着実に敗戦へ向かいつつあった。陸軍が航空部員ら全員の“戦死”を公表したのは、翌1944年7月にまでずれた。羽太さんは機長として社機を自ら操縦し、5人の遺骨を日本へ持ち帰った。このうちの1人に、航空部員だった吉田重雄さん(※当時32歳)がいた。吉田さんは、羽太さんが乗れなかったニッポン号で副操縦士を務めた人だった。テープの名残なのか、「プツン」と音をたててCDの再生が終わった。羽太さんはインタビューの中で、吉田さんの死を含めて戦争については語らなかった。

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【呉座勇一の「問題解決に効く日本史」】(12) 鎌倉時代に制定された“憲法”に戦国大名はどう対応したか?

鎌倉幕府は貞永元(1232)年8月10日に『御成敗式目』51ヵ条を制定し、幕府の基本法典とした。だが、言うまでもなく、僅か51ヵ条で全ての法的紛争を処理することは不可能である。実際、北条泰時も弟の重時に宛てた手紙の中で、式目で漏れた問題については「後に追加立法する」と語っている。この御成敗式目の不備を補う為、或いは時代を経て新たに生じた事態に対応する為に制定された単行法令は、当時“式目追加”と呼ばれた。歴史学界では“追加法”という。興味深いことに、こうした立法姿勢は室町幕府にも継承され、室町幕府は式目に代わる基本法典を制定せず、式目や鎌倉幕府の式目追加を受け継ぐと共に、随時必要に応じて個別立法を行なった。こうした単行法令も前代同様、式目追加と呼ばれた。鎌倉時代と室町時代とでは、武家社会の在り方も大きく異なる。にも拘わらず、式目の改正は行なわれず、単行法令の追加で対応した。室町幕府法は、貨幣経済の発展に対応した経済関係立法が多いことに特徴があるが、式目本文に対しては一句たりとも修正を加えていない。戦国大名が制定した分国法にも同様の傾向が見てとれる。天文5(1563)年に伊達稙宗(※政宗の曽祖父)が制定した分国法『塵芥集』(※全171条)には、式目を参照した条文が散見されるが、時代の変化に合わせて式目の趣旨を改変している。一例を挙げると、式目13条“人を殴つの咎の事”は以下のような内容だ。「殴られた者は、その恥を雪ぐ為に復讐を考えるものである。だから、他人を殴る罪は決して軽いものではない。よって、侍(※武士)が他人を殴った場合には、その所領を没収する。所領を持っていない侍については流罪に処す。郎従(※侍の家来)が他人を殴った場合は、その身柄を拘束する」。

これを踏まえたと思われる塵芥集40条は、次のような内容である。「他人を打擲する罪について、侍の場合は所領を没収する。所領を持っていない者の場合は他国に追放する。しかし、殴られた者が、伊達家の裁定を待たずに、個人的に報復することがあってはならない。そのようにやり返した者については、所領を没収する。所領を持っていない者については他国に追放する」。塵芥集では、殴った者を処罰する式目の規定を踏襲するに留まらず、応戦した者を処罰する規定を付加している。“先に手を出したほうが悪い”というのは一つの考え方だが、相手がいなければ喧嘩にはならないのだから、喧嘩をなくそうとしたら、報復に対しても厳しく処罰しなければならない。いわゆる“喧嘩両成敗”に近い発想と言えよう。なお、武士の世界での喧嘩とは、しばしば殺し合いを意味する。伊達稙宗が応戦する側の罪を盛り込み、喧嘩を徹底的に取り締まろうとしたのは、それだけ戦国時代には紛争が多かったことを物語る。戦国乱世において紛争を抑止する上で、式目の規定は不十分で時代遅れだった。稙宗は戦国時代の厳しい現実に法を適応させる為、塵芥集の制定という形で式目を実質的に修正した。このような対応に追われたのは伊達氏だけではない。この時期の戦国大名たちは、激動の時代において領国を統治する為に、続々と分国法を成立させた。鎌倉以来の武士達の憲法とも言うべき御成敗式目自体の変更ができない中、戦国大名達は分国法による“解釈改憲”を通じて、時代に対応した独自の立法を行なったのである。


呉座勇一(ござ・ゆういち) 歴史学者・信州大学特任助教・『国際日本文化研究センター』機関研究員。1980年、東京都生まれ。東京大学文学部卒。著書に『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)・『頼朝と義時 武家政権の誕生』(講談社現代新書)・『戦国武将、虚像と実像』(角川新書)等。


キャプチャ  2022年12月27日号掲載

テーマ : 歴史
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【日本の領土を考える】(02) 南進論と北進論の始まり

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日本が近代国家の道を歩み始めた明治維新以降、“南進論”と“北進論”が交互に、或いは同時期に主張・展開され、時に熱気を帯び、終戦まで続く。ここでは海軍(※南進)、陸軍(※北進)といった軍事的な意味だけでなく、野心や夢、志を伴った日本人の南・北への関心や関与という意味で使う。“南”は台湾からフィリピン、仏印(※インドシナ)、マレー半島、南洋群島、蘭印(※現在のインドネシア)、オセアニア等。“北”は朝鮮半島から満州・関東州(※共に現在の中国東北部)、北支那(※同中国)、樺太・千島、シベリアを望む地域を指すことが多い。日本人が南・北を目指す目的は、大きく3つあったろう。①移民先の開拓②貿易・天然資源獲得・商圏拡大等の経済的目的③安全保障上の軍事的理由――。①の移民は人口増加に伴って、国土が狭い日本からハワイやアメリカ本土、南米、東南アジア、太平洋の島々等に新天地を求めて、多くの日本人が海を渡る。昭和7(1932)年の満洲国建国で日本が影響力を持つようになると“満州ブーム”が起きた。日本人のみならず、当時、日本統治下にあった朝鮮人も満州を目指す。第一次世界大戦後、『国際連盟』の委任統治領となった“南”の南洋群島は面積も狭く、日本からの距離も遠いが、自然環境がアドバンテージだった。満州や樺太のような寒冷地ではなく、食にも事欠かない。尤も日本人(※民間人)人口では、満州・関東州(※約150万人)や樺太(※約40万人)に比べると、南洋群島は10万人前後であったが。

②も天然資源に乏しく、農地にも限りがある日本にとっては必然であったろう。最初に統治した台湾で、日本人は製糖業や稲作を質・量共に画期的に革新させて現地を潤すと共に、内地(※日本)や他国への主要な移・輸出品となっている。砂糖は南洋群島、蘭印等更に“南”へ向かう。ゴムや鉱物、繊維、後には石油の確保が南進の大きな目的となってゆく。米は“北”の満州や朝鮮でも栽培された。満州からは大豆や石炭等が日本へ齎され、樺太では製紙業、水産業、石炭等が内地を支える。農業や工業の活性化は現地の近代化に大いに寄与した。軈て、これらの地域を欧米支配の軛から解放し、自立する『大東亜共栄圏』の思想が掲げられる。但し、軍事的な勢力拡大は欧米との摩擦を生み、戦争によって悲劇的な結末を迎えることになるのだが。幕末にオランダへ留学、日本人として逸早く世界的な視野を持ち、“北”にも“南”にも関わる男のことを書きたいと思う。明治新政府で外務大臣等重要閣僚を歴任した榎本武揚である。幕臣が“生き残る”道を蝦夷地に求めて戊辰戦争を戦い、敗れながらも、才を惜しんだ官軍側の黒田清隆(※後に第2代首相)らによって助命された。黒田は北海道開拓使官吏に榎本を登用し、“北”との関わりが始まる。榎本の仕事でよく知られているのは、樺太の帰属を決めた『樺太・千島交換条約』(※明治8年)だろう。安政年間の『日露和親条約』で、千島列島については択捉島と得撫島の間に国境線が引かれたが、樺太は境界が定められないまま、日露住民の混住が続いていた。榎本は駐露特命全権公使として、帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクへ赴き、ロシアとの交渉を託される。樺太は北海道とほぼ同じ面積(※約7万6000㎢)を持つ細長い島で、古来、ギリヤークやオロッコ、アイヌ等の先住民が狩猟生活を送っていた。日本は江戸期に樺太を北蝦夷と名付け、松前藩が進出。19世紀初頭には間宮林蔵が樺太北部を探索し、樺太が“島”であることを発見している。明治初年当時、樺太に住む日本人人口は南部の漁業従事者を中心に2000人強であった。一方のロシアは、シベリアを東進、更に南下を進めて樺太に到達する。但し、ロシアがこの極東の島を必要としたのは、主に囚人の流刑地としてであった。日露の混住が続く中で、ロシア軍による日本人漁民への襲撃事件等が相次ぎ、日本にとってロシアの存在は大きな脅威となってゆく。樺太全島の支配を目指すロシアとの交渉は難航した。榎本は、樺太に両国統治地域の“線引き”を行なう案を提示。ロシアが応じないとみると、交換条件として“軍艦の譲渡”等を持ち出して揺さぶりをかけている。ロシアは、得撫島等“中部千島”のみ、との交換を主張した。但し、内々の明治政府の方針は当初から“樺太放棄も止むなし”であった。明治維新から間もない日本には、大国・ロシアと軍事的に事を構える力はないと判断されたからである。後は条件闘争になった。結局、ロシア側が千島列島全島の譲渡や樺太における日本側資産の買い取り等を交換条件として、樺太全島はロシアに帰属することで同条約は締結された。日本にとっては、幕末期に欧米列強と結ばされた不平等条約とは違って、“初めて対等な立場で締結した国際条約”である。落としどころと考えていた通りの決着と言っていい。ところが、内情を知らない民衆(※世論)は榎本の態度を弱腰として非難した。国家を背負って難しい交渉を重ねた榎本の心情は如何ばかりであったろうか。榎本の目は軈て“南”へも向けられる。明治9年に小笠原諸島に対する日本の主権が国際社会で認められるや、同島への殖民やコーヒー、たばこ等の栽培を提言。更に翌10年には、当時、スペインが支配していた後の南洋群島の一部を日本が買い取り、殖民や農産物の栽培。更にはインドやオーストラリアとの交易の拠点とする――といったアイデアを提唱している。榎本の考えは、軈て“南”に可能性を求めた多くの日本人によって実現されていくことになる。 《敬称略》 (編集委員 喜多由浩)


キャプチャ  2022年4月27日付掲載

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