【New Theories of NINJA】(02) 忍者は手裏剣を使っていなかった!?

忍者の代名詞として世界中で知られる手裏剣。ところが、実は忍者がこれを武器として使っていた根拠は無いという。一体、どういうことなのか? (取材・文/フリーライター 友清哲)

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忍者といえば手裏剣――。誰しもそんなイメージを強く持っている筈だが、実は現存する記録の中に、手裏剣の存在を匂わす記述は殆ど無いという。実際、忍者の役割を鑑みれば、大量の手裏剣を携帯することには重量面で不都合があるし、当時の製鉄技術を想像すれば、こうした“使い捨て”の武器というのはどうにも効率が悪いように思う。忍者が武器を使うのは、主には逃走や撹乱の為であり、戦国時代のように殺傷目的で敵を攻撃する必要があった場合には、寧ろ鉄砲を得意としていた。戦国時代の初期、1543年にポルトガル船が種子島に漂着したことから、鉄砲が伝来。これをきっかけに火薬の扱いを研究・発展させた伊賀や甲賀の忍者たちは、閃光弾・懐中鉄砲・百雷銃といった高効率の武器を編み出す一方、射撃訓練を重ねて鉄砲の名手を多数輩出したのだ。但し、手裏剣が実在したのは紛れもない事実。といっても、これは忍者の為の武器ではなく、武士が弓や槍等と同列に修練したものだった。忍者はこれを“繋急避難用”に1~2枚ほど携帯し、穴を掘ったり石垣を登る際の取っ掛かりとしたり、或いは時に刃先に毒を塗って使ったというのが、今のところの通説となっている。なお、「手裏剣の起源は仏教の法具にある」との説もあり、この点では忍者のルーツを修験者に求める説と合致する。忍者にとっての手裏剣とは、量産型の武器ではなく、御守りのようなものだったのかもしれない。

■“忍者=手裏剣”のイメージは浮世絵から?
緊急避難や逃走の必要がある場面で、忍者が身の周りの物を敵に投げ付け、撹乱を試みたのは事実です。しかし、古文書の類いを紐解いても、忍者が手裏剣を使っていたという証拠はありません。江戸時代に武術の1つとして手裏剣術が存在したのは事実ですが、忍術とは無関係のもの。但し、江戸時代には既に忍者が手裏剣を持つ姿が浮世絵で描かれており、当時からこうした“誤解”が生まれていたことがわかります。忍者が手裏剣を投げていたというイメージが現代にこれほど浸透しているのも、100年以上も前から定着していたからなのかもしれませんね。 (三重大学人文学部教授 山田雄司)


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【New Theories of NINJA】(01) 「忍者のイメージは、その時代の文化を反映しながら変化してきた」――山田雄司氏(三重大学人文学部教授)インタビュー

忍者研究の第一人者を三重大学に訪ねた。本来の研究対象は“怨霊”や“崇り”であるという山田雄司氏だが、2012年より地域と共に忍者研究に取り組んできた。改めて、“リアルな忍術”について解説を頂こう。 (聞き手/フリーライター兼編集者 友清哲)

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――忍者に関する研究書は多数存在していますが、実態とはかけ離れた情報を伝えるものも少なくありません。
「そうですね。私自身もこれまで様々な関連本を読みましたが、根拠に乏しい記載が多いのは事実です。しかし、学術的な研究を進めるには、原典となる確かな資料にあたる必要があります。そこで、古文書や忍術書の類いを繙いていくうちに少しずつ、これまで一般的にイメージされてきた忍者像の多くが誤りであることがわかってきた訳です」

――山田先生は2012年から、地域と連携する形で研究をスタートしたそうですが、どのように研究を進められてきたのでしょうか?
「例えば、伊賀流忍者博物館が所蔵する忍術書の数々。それらは長らく非公開とされてきましたが、三重大学の研究材料として活用させて頂く機会を得たことは大きな前進でした。また、時系列毎に近代の文献を追っていくと、大正時代に伊藤銀月が著した文献を基に、藤田西湖が様々なアレンジを加えて発表していることがわかります。いずれも高名な忍術研究者で、藤田西湖は甲賀流忍者の末裔を名乗っていました。その真偽はさておき、この人物は周囲に自分を忍者だと思わせる術に長けた、まさに忍術使いのような方だったと思います」

――それは具体的には?
「実際に忍術修行をされていた方なので、本当にできることもあったんです。例えば、全身に針を刺したり、ガラスのグラスを食べてしまったり…。そういった特殊技能を見せた上で、『こうした修行が忍者には不可欠だった』と明言する。しかしその一方で、『忍者は20mの高さから飛び降りることができる』と語りながら、それを実演することはしませんでした。つまり、言葉は悪いですが、巧みに虚実を織り交ぜることで、本当はできないことでもできるように思わせていた訳です。これは忍術の在り方そのものだと私は思いますね。あるものを無いように見せ、無いものをあるように見せるという」

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歴史や基地問題って知っていますか? “沖縄好き”を公言するヤツらがどいつもこいつも絶望的にバカ

「沖縄料理は不味い」と正直に言おうものなら、直ぐに「沖縄差別だ」等と罵声が飛び込んできます。でも、皆さんは沖縄が歩んできた苦難の歴史を本当に知っていますか? 知りもしないのに「沖縄大好き!」とか言っている頭のスッカラカンな人々に対し、沖縄の真実を伝えます。

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本誌第23号に掲載された記事『沖縄料理 どれもこれも絶望的にマズい』が、ありがたいことにインターネット界隈を中心に話題を呼んでいるみたいです。同記事は、編集部員が全て実食した上で沖縄料理の素晴らしさをレポートしたものでしたが、我々の真意が伝わらなかったのか、主に『ツイッター』等で「この記事書いた奴、沖縄料理に親を殺されたんですか?」「編集者の良識を疑う」「沖縄出身ではないですが不快になりました」「この記事書いたライター沖縄入都市禁止、てか、日本から出てけばいいのに。沖縄は最高ですよ」「とにかく謝れ」等、頭のおかしい書き込みだらけだったのです。因みに、謝る必要性は全く感じていませんが、冗談の通じないこの人たちに一言マジレスさせて頂くとすれば、「残念ながら沖縄料理に親は殺されていないです…。ご期待に添えずすみません」ということでしょうか。まぁ、そんなヨタ話は置いておいて、この沖縄料理マズい炎上事件には大きな特徴があります。概ね、怒りを露わにしているのは沖縄県民ではなく、“沖縄好き”を標榜する只の“本土人”に過ぎないのです。彼らの特性を簡単に言い表すなら、真面に物事を考えることなく、何事も脊髄反射で判断しているということ。例えば沖縄料理にしても、真摯に向き合い、味わうこと等なく、雰囲気で「美味しい」と言っているに過ぎません。大体シビアな気持ちで食べれば、沖縄料理なんて雑な食べ物が美味しいなんてことはあり得ませんから。

また、沖縄自体についてもそれは同様です。「南の島、青い海、ダイビング、素朴な住人、非日常感、最高! ウェイ!」といった具合に、ただ漠然としたイメージの沖縄が好きなだけで、真実の沖縄が好きな訳ではないし、抑々、表層的な部分以外に関心があるのかどうかも微妙です。まぁ、こういう書き方をしてしまえば「沖縄の歴史や文化にも興味がある」とか言い出すに違いありませんが、現段階で歴史や文化を踏まえないで「沖縄が好き」とか言っている時点でアウトでしょう。まぁ、彼らの頭の中では「京都・温泉・田舎が好き」と言っているのと沖縄は、ほぼ同義です。序でに言えば、抑々、沖縄県民は本土人に対してこれっぽっちも好意を抱いていません。そりゃあ、確かに少なくとも観光に来てカネを落としてくれる人間には優しくするかもしれませんし、日本人の幻想の中にある沖縄人を演じるでしょう。でも、そんなのは紛い物です。現実には、沖縄の人は本土人のことが大嫌いなのです。そんな人たちを相手に、自分が嫌われていることにも気付かずに、「沖縄が好き」と口にしていること自体が痛々しいと思いませんか? では何故、沖縄人は本土の日本人のことが嫌いなのでしょう? それは、長い歴史の中で、本土人が沖縄に対して行ってきたことが全てなのです。先ず大前提ですが、日本は大和民族による単一民族国家ではありません。明治以降の同化政策によって、恰も琉球民族もアイヌ民族も無かったかのようにされていますが、少なくとも多民族国家です。そして沖縄は、嘗て琉球民族が治めていた琉球王国という別の国家でした。琉球王国は1429年に成立し、以来400年以上に亘り、名目上は独立を保っていたのですが、1872(明治5)年に日本は琉球藩を設置し、1879(明治12)年には明治政府が琉球王に首里城を明け渡させて、沖縄県を設置。これによって、琉球王国は日本に強制併合され、減びます。この一連の日本による沖縄侵略の過程を“琉球処分”と呼び、今でも沖縄県民はその恨みを忘れていません。朝鮮人なんて、今は独立国家なのに、日韓併合の件をいつまでも根に持ってブツブツ言っている訳ですから、国を減ぼされた沖縄人が怒るのも当たり前です。“沖縄好き”を標榜する日本人たちは、自国が減ぼした国の跡地について、無神経にも「サイコー!」とか言って燥いでいる訳です。正直、「恥を知れ!」と言いたいです。しかも、本土人が沖縄で働いた蛮行は、それだけではありません。無理矢理、琉球を日本に併合しておきながら、本土人は沖縄の人たちを差別し続けたのです。

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【通州事件・80年目の真実】(下) 「忘れるな7.29、今こそ声を上げる時」――藤岡信勝氏(『新しい歴史教科書をつくる会』副会長)インタビュー

中国で起きた前代未聞の日本人虐殺事件『通州事件』。事件発生から80年目、事件をこのまま風化させてはならない。この事件から、現代を生きる私たちが知るべきこと、学んでおかなければならないことがある。この悲劇を未来の糧とせよ――。 (聞き手/本誌編集部)

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――通州事件を考える時、南京事件は避けて通れません。
「どちらも同じ年に中国大陸で起こった虐殺事件とされてきましたからね。1997年にアイリス・チャンの“レイプオブ南京”が出版されました。これは英語圏で初めてとなる“南京大虐殺”を宣伝する本で、内容は捏造された写真や雑多な偽証言等をかき集めたに過ぎませんが、最大の狙いはサブタイトルに表れています」

――“The Forgotten Holocaust of World War Ⅱ”とあります。
「第2世界次大戦の忘れられたホロコースト、つまり“南京はホロコーストだった”という定義付けが目的だった訳です。ホロコーストは絶対悪で、ナチスの犯罪として定着していますから、これを否定することは人道的に許されない。ホロコーストを否定する論者は、所謂“リヴィジョニスト=歴史修正主義者”とされて、徹底的批判の対象となる。英語圏に対して、南京事件が忘れられたホロコーストだったとイメージ操作する、謂わば言葉の魔術なんですね」

――今は“慰安婦問題=ホロコースト”に仕立てようとしていますね。
「私は当時、南京事件に関してはレイプオブ南京の検討から始めた訳です。その結果、南京事件は完全な宣伝創作物であって、“事件”と言えるものが存在しなかったことがわかりました。事件の規模の解釈という話ではなく、事件自体が存在しなかった。確かに、双方の兵士に多くの犠牲者はいますが、それは戦争ですから虐殺とは異なります」

――日本軍にも中国軍にも多数の死者が出ています。
「双方の数字は食い違っていますが、どちらの言い分を信じるかとなった時に、結果的に宣伝力の大きいほうが信じられる訳ですね。中国が対外的な宣伝工作費に投じる予算は、約1兆円と言われています。あらゆる手段でロビー活動やスパイ活動を展開して、潤沢な資金を使って国家ぐるみで工作を進めている訳です。そして2015年10月、ユネスコに南京事件を登録した訳ですね」

――記憶遺産ですね。
「正確には“世界の記憶”事業です。ところが、登録した約12アイテムの史料の実物を、中国は未だに公表していないのです。公表する為に世界の記憶に指定するのが趣旨なのに、指定だけして肝心の中身を公表していない」

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遂に発見! 日本最強の諜報機関養成所、『陸軍中野学校』殺しの教科書

戦中・戦後の闇を駆け抜けた日本最強の諜報機関養成所『陸軍中野学校』。その実態は、卒業生らの証言によって、おぼろげながら伝えられている。だが遂に、諜報機関のバイブルでありテキストである中野学校の教材資料を発見。その恐るべき内容を今、明らかにする! (取材・文・写真/ノンフィクション作家 斎藤充功)

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終戦時に全て焼却処分されたと言われた陸軍中野学校の教材資料一式が、新潟の旧家に保存されていることを、筆者は所有者の自宅で確認した。持ち主の齋藤津平氏は、中野学校“8丙”の卒業生であった。「久しぶりに蔵の中を整理したんです。机の上に忘れていた布製のリュックサックがありまして、中の物を取り出してみると、中野時代の教材が入っていたんです。どうして蔵の中にあったのか、その時は思い出せなかったんですが、中に日記(※“修養録”と表題が書かれている)もありまして、読んでみて理由がわかったんです。リュックサックを送ってくれたのは、親しくしていた同期の由良見習士官で、彼は私の私物を実家に送る時に、教材を間違えて入れてしまったんです。後に未回収が問題になったこともないので、私は忘れていました」。筆者は、修養録と記されたノートを読んでみた。1945年2月9日のページには、意外なことが記されていた。「晴れ・“風と共に去りぬ”を見学す。宣伝映画としては当を得たものなり。然して、映画内容よりアメリカ人の気質を知り得たることは幸いなり。南部アメリカ人の野性的にして闘争的なスピレットは軽視すべからず、些細な情報源からも敵の国民性を観察すること必要なり。映画よりかかる教訓を得たるは可なり」。資料はノートの修養録の他に、粗末なワラ版紙にガリ版と和文タイプで印刷された教材が保存されており、それらがぼろぼろに風化することなく、判読できる状態で今日まで残されていたのは奇跡と言える。それと、所有者の津平氏が蔵に忘れていたことも幸いした。いずれにしても、中野学校の教材一式は貴重な資料であることに変わりはない。

津平氏が蔵から持ち出してきた資料を並べてみると、教材の表題は『国体学』を始め、『謀略』・『宣伝』・『諜報』・『偵謀』・『人に対する薬物致死量調』・『伝染病ト炙法』・『重慶政権ノ政治』・『経済動向観察』等と書かれた資料が9点に及んだ。積み上げると10㎝のボリューム。宣伝教材には面白いものもあり、例えば謀略放送を企画にする時は、ゲーテの戯曲『ファウスト』に登場するメフィストの気持ちを真似る方法を解説している。「謀略放送とは親しい友人の間に水を差して互いに疑惑の目を以って見るように導き、遂に闘争をさせるということである。まず敵国民なり、前線兵士なりに同情して言う。そこで“メフィストフエレス”の様に一言耳に囁き、それによって為政者なり、将校なり疑わせ、聞く者の心に偽みを起こさせるのである【後略】」。メフィストの心理を謀略放送に用いる等、中々斬新なアイディアを研究したものである。これなど、女性の口説き文句としても、充分現代にも通用する手口ではなかろうか。他にも、謀略の本義や薬物の致死量を解説した教材もあり、当時の中野学校の教育内容が相当レべルの高いものであったことが、これらの資料で裏付けされた。中でも、謀略の本義のテキストは、以下のように解説している。「国家間の闘争は武力に依るのみならず、政治・経済・思想等いわゆる総力戦の全部門にわたり行はるるものにして、従って平戦時とも軍事・経済・思想等国家対外施策全部門にわたり用いらる【後略】」。内容は現代の情報戦にも通じる謀略の本質を解いており、当時の中野学校が如何に“見えない戦争(Unseen War)”を実戦向きに教育していたのかを、この教材は教えてくれる。津平氏ら“8丙”の学生は、1945年7月15日に移転先の富岡校を卒業しているが、8丙の教科川間は中野時代と富岡時代を併せて7ヵ月間であった。だが、終戦間近になると戦局が切迫してきた為、より実践を想定した演習や訓練が主体となった。「英語班・支那班・ロシア班の3班があった中で、私は支那班に席がありました。富岡時代は諜報員としての教育よりも、図上演習による遊撃戦。アメリカ軍の本土上陸を想定した、所謂ゲリラ戦のシュミレーションを各地でやっていました。それは群馬の高崎であったり、埼玉の児玉、或いは本庄といった町でした。当時、アメリカ軍との決戦場は関東平野と南九州が想定されていました」と、津平氏は語っている。


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【通州事件・80年目の真実】(上) 何故『南京大虐殺』と『通州事件』は似ているのか?

中華民国の首都・南京を占領した日本軍が暴虐の限りを尽くし、30万人を虐殺したという『南京大虐殺』。『通州事件』から4ヵ月後、何故、似たような虐殺事件が起きたと中国は主張するのか? (『史実を世界に発信する会』会長代行 茂木弘道)

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東京裁判で突如持ち出されたのが南京大虐殺である。1937年2月23日に日本軍は中華民国の首都・南京を陥落させたが、「入城した日本軍が30万の中国軍民を殺害した」という告発である。判決では、「南京が占領された後、最初の2~3日の間に少なくとも1万2000人の非戦闘員である中国人男女子供が無差別に殺害され、占領の1ヵ月の間に約2万の強姦事件が市内に発生した。また一般人に成りすましている中国兵を掃討すると称して、兵役年齢にあった中国人男子2万が集団的に、更に捕虜3万以上が武器を捨てて降伏してから72時間のうちに殺害された。なお、南京から避難していた市民のうち5万7000人が日本軍に追いつかれて収容され、彼らは飢餓と拷問にあって、ついに多数の者が死亡し、生き残ったうちの多くは機関銃と銃剣で殺された」と結論されている。多くの日本人にとっては、まさに寝耳に水であった。何しろ、南京に日本軍が入城した時には、150人もの記者・カメラマン等がそれを追って南京に入り、精力的に取材を行い、写真と共に記事を送ってきていたからである。南京は城壁に囲まれた都市で、城壁の長さが丁度山手線と同じ長さで、面積は山手線の内側の8割ほどなので、150人の記者・カメラマンは市内狭しと駆け回って取材していたのである。その代表的な記事が、東京朝日新聞の12月20日付に掲載された河村特派員撮影の1ページを使った組み写真『平和甦る南京』である。朝日には次々と、この連載版が掲載されている。『きのふの敵に温情 南京城内親善風景』(12月22日)、『南京は微笑む 城内点描』(12月25日)、「手を握り合って越年 日に深む南京の日支親善』(12月30日)、『五色旗の下に 南京復興の足取り』(2月13日)といった具合である。朝日新聞が特別ではなく、他の新聞・雑誌も似たような報道である。

こんなところで、どうして殺人 、それも大量虐殺など起こり得るのか、人々が仰天するのも無理はなかった。しかし、『GHQ』による徹底した言論統制、日本軍の犯罪行為プロパガンダ、そして東京裁判(これを“文明の裁き”と東京大学の横田喜三郎主任教授は呼んだ)による断罪等によって、“歴史的真実”にされてしまったのである。教科書までが「国民はこういう事実を知らされなかった」と書くありさまである。左翼は「日本・日本軍弾劾の証拠である」と、機会ある毎にこれを取り上げた。では、南京虐殺なるものの実態はどのようなものだったのだろうか? 結論的に言えば、“南京戦”はあり、日本軍が圧勝して大量の中国兵が戦死したが、南京虐殺はおろか、南京事件なるものも存在していなかったというのが実態であった。その証拠の第一は、『チャイナイヤーブック』1938年版の記述である。上海の『ノースチャイナデイニューズアンドへラルド』が発行する、伝統ある英字年鑑である。この年鑑の1937年の出来事の要約べージに、「12月23日、日本軍南京占領」と書かれている。それだけである。ところが、過去の主な出来事のところに、「1927年3月24日、南京暴行事件」と書かれているのである。これは、国民党革命軍が南京の日米英領事館を襲った事件のことである。即ち、南京事件なるものは1927年に起こっているだけで、1937年には起こっていないということを、権威ある英字年鑑は語っているということである。南京戦があり、日本軍が入城した。しかし、そこで虐殺はおろか、南京事件と呼べるようなことも起こっていなかったということを、当時の一流年鑑が述べているのだ。日本の新聞等の報道が真相を伝えていたことの傍証にもな る訳である。第二の証拠は、台北の『国民党史館』で亜細亜大学の東中野修道教授が発見した『国民党宣伝部国際宣伝処工作概要 1938~1941』である。“極機密”印の付いた国民党の内部向け資料なので、宣伝色は薄く実態が記述されているとみることができる。ここに、南京戦を挟む11ヵ月の間に、国際宣伝処は南京から避難した漢口において300回の記者会見を、外国人記者を集めて開いたことが書かれている。日本軍の悪行を外国人記者に宣伝することを目的としたこの300回の記者会見で、「南京で日本軍が市民虐殺を行った」だとか、「捕虜の不法殺害を行った」だとか、唯の一度も発表していないということである。“虐殺があったという信者”には信じられない事実が、国民党内部資料には記述されているのだ。第三に、同時代資料として『南京安全地帯の記録(Documents of Nanking Safety Zone)』がある。南京に残った外国人が組織した国際委員会が、日本大使館宛てに出した抗議文・依頼書、その他活動記録を、国民党の国際問題委員会が監修して、上海の『Keiiy&Walsh』が発行した英文書である。貴重な一次資料である。ここには殺人が26件記録されているが、その内、目撃のあったものは1件のみである。その1件も合法的なものと注記されている。つまり、目撃のある不法殺害は1件も載っていないのである。虐殺が横行していて、こんなことがある筈がない。

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“スパイ王”と呼ばれた日本人――『陸軍中野学校』創設者・秋草俊の華麗なる謀略人生

第2次世界大戦終戦直前、ソビエト連邦の諜報機関から“スパイマスター”と警戒され、ブラックリスト入りした謎の日本人がいた。巨大な陰謀に巻き込まれながらも、情報戦の最前線に立ち続けた軍人の数奇な生涯とは――。 (取材・文/ノンフィクション作家 斎藤充功)

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時代を経たことがわかる1枚の書類。日付は“昭和14年”。終戦の6年前で、日本がソ連軍に満州とモンゴルの国境で大敗北し、7700人の戦死者を出した『ノモンハン事件』が起きた頃である。内地では“戦争協力”が国民の義務となっていた時代、“卒業証書”といった言葉には悠長な響きすらある。だが、この書類に書かれた『後方勤務要員養成所』という間き慣れない名には、日本の裏面史において重要な意味がある。“後方勤務”というが、実体は頭脳集団を養成した学校である。陸軍が極秘で造ったこの養成所に集められた“エリート”たちは、専門の軍事学に始まり、イギリス、ドイツ、フランスといった諸外国の地政学を学び、派遣国の言葉・気象学・心理学、更には忍術といったことまでを叩き込まれた。通信実習では外国の電信を傍受して解読する技術を、写真技術では盗撮の技術を磨いた。勿論、“殺し”のテクニックも学んでいた。後方勤務要員養成所とは、後にその卒業生が世界で活躍した、現在も謎に包まれたスパイ(謀報)集団『陸軍中野学校』のことである。この書類は、これまで発見されていなかった第1期生の“幻の卒業証書”である(右画像)。そして、後方勤務要員養成所長と書かれた“秋草俊”は、陸軍中野学校創設者の1人で、“スパイマスター”と呼ばれた人物であった。異端の軍人・秋草俊の生涯については、資料が極端に少ない。1930年代半ばから謀報活動をしてきた人物だけに、秘されてきた事実が多いのは当然ではある。

1894年、栃木県足利市生まれ。陸軍派遣学生として東京外語学校に入学し、後にハルピンへ留学。その後は軍人として関東軍特務機関に身を置く等し、1936年に東京の参謀本部のロシア班長(中佐)として転任。1939年に中野学校初代校長となるが、同年に辞任し、翌年にベルリンへ。その後帰国し、更に満州に転じ、終戦を向かえる。以上が、ざっとした経歴である。ロシア語のエキスパートとして留学する等、当時として華々しいエリートコースであることがわかるが、戦争の時代、多くの軍人がそうであったように、秋草の晩年も壮絶であった。1945年8月9日、ソ連軍が満州に侵攻。同19日、空挺部隊120人が落下傘で現地へ入り、この少人数で鉄道・橋・通信施設等の重要施設を制圧。当時、近隣の平房(ピンイン)に施設があった、細国兵器開発で知られる『第731部隊』も捜索したと言われている。「関東軍情報部長(ハルビン特務機関)だった父は、15日の玉音放送を本部で聴いた後、関東軍の指示で本部の資料を全て焼却することを部下に命じました。翌日、731部隊長だった石井四郎中将が父を訪ね、こう持ちかけたと言います。『専用機を香坊(シアンファン、ハルピン郊外の地)に待機させているので、2人でハルピンを離脱しよう』と。ですが、断ったそうです。『責任者として、自分1人がハルピンを離れることはできない。ソ連軍による逮捕は覚悟しているので、閣下お1人でお逃げ下さい』と」。秋草の子息である靖(82)は、当時をこう語る。靖は、東京から父親の元に疎開しており、ハルピン中学校の2年生であった。陸軍中野学校創設者の秋草と731部隊創設者の石井がハルピンで会っていたことは、これまでどの資料にも書かれていなかった。秋草がスパイマスターとして頭角を現すのは1933年、陸軍中野学校創設の6年前に遡る。ロシア語のスペシャリスト、更にはヨーロッパ文化に精通している人物として、当時、“ブレム”と呼ばれていたハルピンの『白系露人事務局』の設立に取り組んでいた秋草は、日ソ両軍の情報戦の最前線都市となっていたハルピンで、反ソ団体として台頭していた『ロシアファシスト党』とも密に連携して、反ソ宣伝活動を積極的に行っていた。現地参議本部に転任するが、ハルピン時代の人脈を活かした対ソ情報の収集力を飛躍的に向上させ、“対ソ情報の第一人者”として評価を固めることになる。勿論、ソ連もその動きを把握しており、秋草を“スパイマスター”として警戒し、第一級の危険人物としてブラックリストに登録した。

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ゾルゲより早くスターリンに対ソビエト情報を流した日本人スパイの正体――日本政府から“エコノミスト”と呼ばれた男は如何にして極秘情報をソ連に流したのか

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「【モスクワ13日共同=松島芳彦】太平洋戦争が始まった1941年、日本政府内部に暗号名“エコノミスト”と呼ばれる旧ソビエト連邦の日本人スパイが存在し、日本の対米開戦方針にかかわる重大情報をいち早くスターリンに報告していたことが8月13日までに、ソ連国家保安委員会(KGB)の前身であるソ連内務人民委員部(NKVD)の極秘文書から明らかになった」――。平成17(2005)年8月、共同通信のモスクワ駐在記者が、戦前の日本人スパイに関係するスクープ記事を流した。この記事では、“エコノミスト”が日米開戦に関係する重大情報をソ連側に流した政府内部の人間であることを示唆している。更に記事は、「当時の左近司政三商工大臣が9月2日、要人との昼食で、日米交渉決裂なら開戦となり『9月、10月が重大局面』と明かしたと報告」。では、昼食会で左近司に情報を漏らしたのは誰であったのか。“エコノミスト”の正体を内閣情報局の天羽英二総裁と推論する研究者もいるが、筆者は別人の高毛礼茂ではないかと考えている。高毛礼の名が浮上したのは、1954年2月に発覚した『ラストボロフ事件』の日本側情報提供者として逮捕された時である。当時、高毛礼は外務省経済局経済第2課の事務官で、ラストボロフ事件に関連して国家公務員法違反容疑で逮捕されたが、彼の戦前の顔は、前出の左近司が大臣辞任後に社長になった国策会社『北樺太石油会社』でロシア語の通訳として働き、モスクワ駐在員として3年間務め、帰国したのは日米開戦の1年6ヵ月前であった。ロシア語を学んだのは、ハルビンに置かれていた『日露協会学校』(後のハルビン学院、高毛礼は同校の第1期生)である。彼がソ連に流した情報は、御前会議で允裁された日本の“南選”決定という最高機密を左近司から得たものとされているが、確証は無い。彼は裁判で6年余り戦ったが、その間、自らの無罪を主張し、具体的に「金銭の授受は一切無い。ソ連側の人間と接触したのは事実だが、機密資料等は渡していない」と述べていた。戦前・戦後を通じて“ソ連のスパイ”になったとされる高毛礼。その業績は何といっても、国策決定の最高機密であった「日本は対ソ戦を準備しつつ“対米英戦”を決定した」という極秘情報を、ゾルゲよりも早くスターリンの許に伝えたことであろう。ラストボロフ事件の裁判では、高毛礼の過去は殆ど語られることはなかった。スパイ“エコノミスト”は、実在した日本人であることは間違いあるまい。彼はラストボロフ事件で懲役8ヵ月の判決で服役し、出所後は宗教法人『修養団捧誠会』本部に勤めた。そこで30年余り仕事をして事務局長になり、94歳で亡くなった。 (ノンフィクション作家 斎藤充功) 《敬称略》

■参考資料
『修養団捧誠会25年史』『天羽英二日記』(同資料刊行会編)
『哈爾濱学院史』(恵雅堂出版)
『戦後政治裁判史録』第2巻(第一法規出版)
『警視庁公安外事警察資科 ラストボロフ事件総括』『日米開戦50年目の真実』(拙著、時事通信社)


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【ヒロシマ・71年目の悲願】(上) トルーマンの孫が語る謝罪と責任の意味

“謝罪(apology)”――。バラク・オバマ大統領の広島訪問を前に、日米両国で俄かにこの言葉への注目が高まっている。オバマは日本人に謝罪すべきなのか。日本国民はアメリカの大統領に謝罪を求めるのか。戦時中の行為を巡る“謝罪”について、日本はこれまで他国から求められることはあっても、こと原爆に関してアメリカにそれを求める声は大きくなかった。では、国家間の話ではなく、“当事者同士”という個人レベルの謝罪についてはどうなのか。日本には大勢の被爆者と、その血を受け継ぐ子孫たちがいる。一方、アメリカ側にも当事者はいる。その中心的な存在が、原爆投下を決断し、指示した第33代大統領のハリー・トルーマンだ。トルーマンは1972年に死去したが、その血を引く人物が近年、日本の被爆者と交流を続けている。クリフトン・トルーマン・ダニエル、58歳。彼の母親はトルーマン元大統領の1人娘で、ダニエル自身は娘と2人の息子の父親だ。戦後生まれのダニエル自身は、第2世界次大戦の“当事者”ではない。しかも、アメリカでは今も原爆投下を正当化する声が根強い。にも拘らず、彼は何故被爆者の体験をアメリカに伝える活動を続けているのか。祖父が下した決断と、どう向き合ってきたのか。それを知りたくて、今月14日、シカゴにあるダニエルの自宅を訪ねた。閑静な住宅街にあるレンガ造りの一軒家。日本のように靴を脱いで上がったリビングで、元大統領の目鼻立ちをはっきりと受け継いだダニエルは、2時間余り、片時も記者から視線を逸らすことなくインタビューに答えてくれた。ダニエルの言葉を通して、“謝罪”と“責任”の本質を探る――。

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――オバマ大統領の広島訪問の話をする前に先ず、おじいさんについて聞かせて下さい。トルーマン元大統領は、貴方にとってどんなおじいさんでしたか?
「私にとっては普通の“おじいちゃん”だった。ヒロシマとナガサキについて話す時、『おじいさんから話を聞いたか?』とよく質問されるが、答えはノーだ。祖父は、私が15歳の時に亡くなった。私たち兄弟は未だ子供で、相父に会うのはクリスマス・感謝祭・春休み等、学校の長期休暇中だった。折角の休みに、歴史の授業が展開されるような質間はしたくなかった。抑々、私たち家族は祖父の大統領時代についてあまり話をしなかった。祖父母も私の両親も、私たち兄弟に“普通”の生活を送らせようとしていた。だから、私たちはハリー・トルーマンの家系に生まれたことを重大なこととは考えていなかった。私が原爆について学んだのは、一般の人と同じく、歴史の教科書や先生を通してだ。アメリカ史を学び始めるのが9歳か10歳で、より総合的な歴史を学ぶのは高校に入ってからだ」

――どのように教わったのですか?
「とてもシンプルだ。歴史の教科書は今も昔も、アメリカ史を全て網羅しないといけない。分厚い教科書の中で、原爆についての記述は1~2ページ。内容は、原爆が投下された理由と犠牲者の数、キノコ雲の写真くらいのものだ。原爆の実態や具体的な被害、人々が受けた傷の深さについての記載は一切無く、『原爆が戦争を終わらせた』『日本とアメリカはトモダチになり、今は全てが上手くいっている』といった内容だった。私の印象もそのようなものだった」

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「私の母は軍艦島の遊女でした」――幻の軍艦島遊郭50年目の新証言

「母が軍艦島に来たのは、実家が借金を抱えていたからです。それを返す為に売られたんですね」――。長崎県佐世保市のファミレスで話す小田美枝子さん(69)は、こちらが拍子抜けするくらい臆することなく、母親が軍艦島の遊郭で働いていたことを証言してくれた。この時、閉ざされていた歴史が動いた! (取材・文/フリージャーナリスト 酒井透)

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取材で入手した“端島美人連中”の写真。地元の郷土史家お墨付きのもので、軍艦島の遊女が写っているとされる。一番右上が小田美枝子さんの母親と思われる女性。身嗜みもしっかりしている。

上に掲載した“端島美人連中”と書かれている写真を見つけてから暫くして、軍艦島(端島)の元島民の方から信じられないような情報が齎された。「遊女の娘さんがおるから、会いに行ってみるとよか!」。この情報を教えてくれた方とは、これまでに何度も会っていた。全く考えてもいなかった展開だった。“遊女の娘さん”という方に会うことができたのは、それから数ヵ月後のことだった。長崎県佐世保市内にあるファミリーレストランで待ち合わせて、話を伺った。「私、本当の両親の顔も何も知らないんですよ…」。土曜日だったということも手伝って、夫を伴って現れた女性は、席に座ると、このように話し始めた。小田美枝子さん(69)。昭和21(1946)年に佐賀県佐賀市で生まれた。「私は、生まれて直ぐに養子に出されたんです。そこが軍艦島でした。“両親”は子供を持っていませんでした。父のほうに問題があったのでしょうね。母が遊女をやっていたことを知ったのは、私が中学生の頃でした。『(本当の)両親に会いたいか、知りたいか…」と聞くので、その時に教えてもらったんです」。小田さんに会う前、電話では少し話を伺うことができたが、本当に会えるかどうかについては一抹の不安があった。何故ならば、本人にとっては、隠しておいてもいいような過去を表に出すことになるからだ。しかし、そのような心配をする必要はなかった。「私は、子供の頃から母に虐待を受けていました。箱火鉢で使っていた火箸の後端部分で殴られたこともあります。艾を押し付けられたこともあります。怒ると斧なんかを投げて、食器を割るようなこともありましたね。昼間から焼酎を飲んでいましたよ。近所の人たちはそれを知っていたので、何度も余所の家で過ごしました。実は、私の前にもう1人養女がいたのですが、2歳で亡くなっているんです…。虐待が原因だったようです。近所の人たちは、母のことを“鬼”と言っていましたね。『貴女を貰ったのは、(年を取ってから)自分の面倒を見てもらう為だったのよ!』と言われたこともあります。18歳の頃には、ちょっと島に戻った時に、5階から投げ落とされこともあるんです。それに対して、父は仏様のような人でした。子供が大好きだったので、可愛がってくれましたよ。母は、父が56歳の時に肺の病気で亡くなってから、島を離れました。その後、2度再婚をして72~73歳で亡くなっていたと思います。写真は1枚も持っていません。母が軍艦島に来たのは、実家が借金を抱えていたからです。それを返す為に売られたんですね。10代の頃だと思います。その前は、佐世保の食堂で働いていたそうです。父は五島(列島)の福江の出身で、教員をしていたみたいですね。軍艦島の炭鉱では、三菱の社員として、30年くらい石炭を掘る仕事をしていたと思います。父が(当時のお金で)100円を払ったことによって、母は(“遊郭”から)請け出してもらうことができたんです。遊女を辞めてからは、ずっと家で過ごしていました。母は、いつも自分のことを“俺”と言っていましたね。趣味はパチンコで、島でもやっていましたし、長崎にも遊びに行っていました。煙管も吸っていましたね。家のことは何もしませんでした。トイレ当番もやらないので私がしていましたし、洗濯も自分のものだけしかしませんでした。お菓子なんかは、私に食べられたくないので、天井から紐で吊していましたよ。でも、着物は一杯持っていましたね。洋裁・編み物・料理は上手かったですね。自分でパーマをかけることもできましたし、布団の打ち直しをすることもできました。どこで覚えたのでしょうか、器用だったです。昭和37(1962)年に亡くなっている筈ですが、今生きていたら100(歳)は超えているでしょうね」。

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