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【百年の森・明治神宮物語】第7部・復興(02) 神道指令の激震、境内には仮殿完成

https://www.sankei.com/life/news/200710/lif2007100007-n1.html


キャプチャ  2020年7月10日付掲載
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【本当は怖い戦国時代】(15) 釜茹での刑にされた大泥棒・石川五右衛門

20200709 07
石川五右衛門の生年や出身地はわかっていない。伝承の一説によれば、伊賀流忍者の抜け忍で、16歳で主家の宝蔵を破り、番人3人を斬り殺して黄金造りの太刀を奪い、諸国を放浪して盗みをはたらいた。盗む相手は権力者だけで、義賊として庶民の英雄になっていたとされている。普段から華麗な服装で駕籠に乗り、供の家来を引き連れて大名行列を装って傍の目をくらまして、武家や有カ者の屋敷に押し入っていたとされる。これらの伝承は江戸時代に入って、敵役の豊臣秀吉に反抗するヒーロー像として語られたものが多い。だが、豊臣秀吉が支配する京都所司代の前田玄以に捕らえられて、一族郎党と共に処刑されてしまう。スペインの貿易商であるヒロンの記録『日本王国記』に、15人の頭目が捕らえられ、京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述がある。『イエズス会』の宣教師であるモレホンは注釈を入れて、“lxica va goyemon”とはっきり名前を書いている。また、日本側の記録としては、公家の山科言経の日記『言経卿記』に、文禄3年8月24日(※1594年10月8日)の記述で、「盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。 同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり」との記載があり、誰が処刑されたか記されてはいないものの、宣教師の注釈と一致している。『続本朝通鑑』にも同様の記述があり、釜茹でにされたのは事実と思われる。

五右衛門は子供と一緒に処刑されたことになっているが、高温の釜の中で自分が息絶えるまで子供を持ち上げていた説と、苦しませないようにと一思いに子供を釜に沈めた説がある。しかし、縛られもせずに釜の中に入れられることは不自然であり、子供を持ち上げることはできない。後者が自然だろう。五右衛門は長年に亘って盗みや殺人を繰り返しており、処刑自体は当然のことである。朝鮮出兵の最中、国内は男子がいなくなり、治安は良くなかった。そこを荒らし回ったのであるから目をつけられ、見せしめに一網打尽にされたのだろう。それにしても、何故一族郎党が一挙に処刑されたのか。これについては様々な説があって、一つには豊臣秀吉暗殺説がある。忍者出身の五右衛門は秀吉暗殺を請け負い、隙を伺ううちに発覚して捕まったという。これなら一族郎党が処刑されても不自然ではない。もう一つは、秀吉の寝室に忍び込んだ際、千鳥の香炉が鳴いて知らせた為、捕えられたというもの。直接、秀吉の香炉を狙う等とは不敬極まりなく、治安を大幅に乱すからだろう。因みに、釜茹での刑は古くは中国で行なわれており、反乱分子を釜茹でにした後、肉を諸侯に食べさせた事例等もある。古代ローマではキリスト教徒に対する処刑方法としてよく使われた。日本では戦国時代末期に織田氏、武田氏を始め、讃岐の仙石氏、会津の蒲生氏等が治めた地でも、釜茹での刑が行なわれていたとされる。秀吉に高い評価を受け、会津90万石を領した大大名の蒲生氏郷は、この刑を好んで行ない、大釜を鋳造し、罪人に木靴を履かせて、ゆっくりと烹殺。これも油を注いだ為、瞬時に沸騰して皮膚が赤爛れとなる惨刑だったと言われている。江戸時代に入ってからは、元和年間(※1615~1624年)に姦通の末に夫を殺害した田上弥右衛門の妻・たねが、釜煎りの刑に処されている。また金沢藩で、寛文6(1666)年、奉公先の家等6ヵ所に放火し、金銀等を盗取った女のぬいが、釜煎りにされた記録がある。しかし、これ以降、流石に残虐過ぎて中止されたようだ。石川五右衛門の墓所は、現在、京都の『大雲院』にある。大雲院は浄土宗の単立寺院で、天正年間に織田信長・信忠父子の菩提を弔う為、貞安上人が創建した。天下の覇者と大泥棒の組み合わせは、何とも皮肉なものである。辞世の句は“石川や 浜の真砂は 尽きぬとも 世に盗人の 種は尽きまじ”。


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【百年の森・明治神宮物語】第7部・復興(01) 占領…壁画に傷、外苑に自由の女神

https://www.sankei.com/life/news/200703/lif2007030010-n1.html


キャプチャ  2020年7月3日付掲載

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【沖縄戦75年・悲劇の司令部壕】(下) 「春は来る。死んではいけない」

20200703 05
「ガマの入り口近くに、破傷風にやられた人たちが隔離されていて、きついものだからバタバタ暴れてね。もっと奥に入ると粗ムシロがひいてあって、そこに(負傷した)将兵がどんどん入ってくるんです」――。沖縄戦末期の昭和20年6月、首里城(那覇市)地下の第32軍司令部壕から摩文仁(糸満市)に移動し、野戦病院に配属された大嶺直子さん(94)が見た、ガマと呼ばれる自然壕の様子だ。「私は(負傷者に)食事をあげたり、包帯を取り換えたりしていたんです。今でも覚えているのは、兵隊さんがね、ポケットから写真を出して、私に『これ、家族なんだよ』って」。傷は重く、助かる見込みはない。大嶺さんは「やりきれない」思いだったという。摩文仁のある沖縄南部の喜屋武半島には、アメリカ軍の砲爆撃から身を守る大小のガマが無数にあった。持久戦に徹する日本の第32軍がここを決戦の地に選んだのは、戦術的には正解だったとされる。6月以降もアメリカ軍は苦戦を強いられ、上陸軍トップの第10軍司令官、サイモン・ボリバー・バックナー・ジュニア中将も6月18日に戦死した。しかし、県民にとっては悲惨極まりなかった。多くのガマで日本軍将兵と避難民が混在することになり、激烈な戦闘に巻き込まれたからだ。アメリカ軍は手榴弾、ガス弾、火炎放射器を使って、次々にガマを潰していく。混乱の中で軍紀が乱れ、一部の日本軍将兵が避難民をガマから追い出したり、スパイと見做して殺害したりしたという証言も残されている。

第32軍高級参謀、八原博通大佐の手記によれば、軍は首里の司令部壕から撤退するにあたり、県民を戦場外の知念半島に避難させ、そこに蓄積していた食料や被服を与えることにしていた。しかし、この指示は徹底されず、殆ど県民に伝わらなかった。更に、軍は6月以降、高等女学校生による看護隊(※学徒隊)や旧制中学生らによる鉄血勤皇隊等を順次解散。玉砕する部隊から切り離した。“生きて虜囚の辱めを受けず”の戦陣訓が徹底されていた時代。解散令は却って混乱を招き、集団自決等の悲劇も起きた。摩文仁のガマで負傷兵らの看護をしていた大嶺さんも、突然の解散令に「死のう」と思った一人だ。「どうせ死ぬなら司令部と一緒にと、仲間で集まって、摩文仁のあの丘を上っていったんです」。丘の頂近くに、ごつごつした岩のガマ(※左上画像)がある。今は鉄格子で固く閉じられ、中を窺い知ることはできないが、当時はここで牛島満軍司令官ら軍首脳が最後の作戦指揮を執っていた。大嶺さんは、首里でお世話になった木村正治後方参謀に、どうしてもお礼が言いたかった。だが、直接言葉を交わすことができず、少し離れたガマに学友らと身を寄せ、最後の時を待った。そこへ、木村参謀からの伝令が届いた。「2枚程の罫紙にね、こう書かれていたんです。『沖縄には必ず春が来る。だから死んではいけない。生きなさい』って」。翌日の未明、学友4人と手を繋ぎ、ガマを抜け出た。崖伝いに戦場から離れ、あてのない逃避行。昼は崖下に潜み、夜は崖上の畑等で食料を探した。辛かった。怖かった。でも、「死んではいけない」と思った。大嶺さんがアメリカ軍の収容所に入るのは、終戦後の9月である。大嶺さんのように、日本軍の将兵から「生きろ」と言われた県民は少なくない。私立積徳高等女学校の『ふじ学徒隊』も、解散の際に部隊長が「決して死んではならない」と言い聞かせ、壕から送り出している。しかし戦後、こうした話は「戦争を美化する」として切り捨てられ、日本軍の残虐性ばかりが誇張して伝えられているのが実情だ。昭和20年6月23日、牛島軍司令官と長勇参謀長らは摩文仁のガマで自決。同じ頃、木村参謀も戦死した。それから75年。結婚した大嶺さんは、子供や孫たちと穏やかな日々を送っている。だが、一時も忘れたことはない。「あの時、木村参謀から『生きなさい』って言われたから、今の私があるんです」。 (川瀬弘至、写真も)


キャプチャ  2020年6月25日付掲載

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【沖縄戦75年・悲劇の司令部壕】(中) 「死ぬのが普通だと思っていた」

20200703 04
那覇新都心と呼ばれる那覇市北部の新興商業地域。『沖縄都市モノレール』おもろまち駅から徒歩10分程の、小高い丘へ続く階段を100段上り詰めたところに、戦跡を示す石碑が設けられている(※右画像)。昭和20年5月12~18日、アメリカ軍将兵がシュガーローフと名付けたこの丘で、アメリカ軍第6海兵師団と日本軍守備隊が激突した。後に日本軍が沖縄本島の南端、摩文仁(糸満市)への撤退を決めることになる首里攻防戦の一つである。圧倒的火力で押し寄せるアメリカ軍を日本軍が何度も撃退し、文字通りの死闘となった。あまりの激戦に発狂するアメリカ軍将兵が続出、シュガーローフは陥落するも、アメリカ軍の損害は死傷2662人、戦争神経症1289人に及んだ。それから75年、日本軍にも多大な犠牲が出たこの戦跡を訪れる人は殆どいない。石碑の傍に立てかけられた3本の卒塔婆が、僅かに両軍犠牲者の御霊を慰めるだけだ。「沖縄戦といえば、南部の住民被害のことばかり語られるが、首里攻防戦を始め、戦いの全容を正しく後世に語り継ぐべきだ」と、沖縄戦等の戦没者を祀る沖縄県護国神社の加治順人宮司(55)が言う。沖縄の海が無数のアメリカ軍艦船で埋まり、“鉄の暴風”と呼ばれる猛烈な砲爆撃が始まったのは、昭和20年3月下旬からである。4月1日、アメリカ軍は沖縄本島中西部に上陸、その日のうちに中央の飛行場を制圧した。一方、首里城(那覇市)地下の第32軍司令部壕を拠点とする日本軍は、防御に不向きな海岸線を放棄し、内陸部で徹底抗戦する作戦だった。

4月4日以降、首里への進軍を本格化したアメリカ軍は、随所で日本軍の反撃を受け、それまでの楽勝ムードは一変する。宜野湾市の嘉数高地を巡る攻防戦では、戦車部隊まで総動員したアメリカの第24軍団を日本の第62師団が16日間に亘り食い止め、双方に死傷者が続出した。圧倒的な兵力差にも拘わらず、日本軍がこれほど力戦したのは、沖縄県民の献身的な協力に支えられていたからだ。高等女学校生による看護隊(※学徒隊)や、旧制中学生らによる鉄血勤皇隊も動員された。「(私たちも)死ぬのが普通だと思っていた」。第62師団野戦病院に配属された県立首里高等女学校『瑞泉学徒隊』の新垣芳子さん(94)が語る。「着の身着のままで4ヵ月間、虱もいっぱい付いているけど、汚いとも思わない。もう何もかも忘れて、病気の兵隊さんのお世話をした」。首里を中心に徹底防戦を図る日本軍。しかし、アメリカ軍上陸から凡そ1ヵ月後、その作戦に狂いが生じる。奮戦しつつもジリジリ後退する戦況に焦燥感を抱いた軍参謀長らの主導で、5月3~5日、攻勢に転じる総攻撃が行なわれたのだ。これが大失敗だった。堅固な洞窟陣地から飛び出た日本軍は忽ちアメリカ軍の砲撃に晒され、大打撃を受けて退却した。しかも、この総攻撃で一気に戦力を消耗し、5月18日にはシュガーローフも奪われた為、第32軍司令部は22日、南部へ撤退する方針を決めた。27日の深夜、折からの豪雨と夜陰に紛れ、軍首脳が壕を出る。牛島満軍司令官、長勇参謀長、八原博通高級参謀――。目指すは摩文仁だ。撤退にあたり、壕の主要部分は爆破され、坑口は土砂で埋まった。この撤退が、首里後方にいた多くの沖縄県民の運命を狂わせたのは疑いない。第32軍の後を追って南部へ逃れようとする避難民が続出。その上にアメリカ軍の砲爆撃が降り注ぎ、多数の死傷者が出た。3月26日から6月23日まで3ヵ月間に及ぶ沖縄戦で、県民の死者・行方不明者は約12万2000人に上るが、その6割以上が6月以降の犠牲だ。第32軍は元々、首里で最後の決戦を行なう方針だった。それを貫徹していたなら、戦後の県民感情は全く違っていたかもしれない。第32軍司令部の事務員だった大嶺直子さん(94)は、軍首脳が壕を撤退する数日前に解散令を受け、摩文仁へ移動していた。「南部に着いたら、ここが戦場とは思えないくらい、静かな一時がありました」。しかし軈て、摩文仁の丘は、世界中のどこより悲惨な戦場と化してしまう。 (川瀬弘至、写真も)


キャプチャ  2020年6月24日付掲載

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【沖縄戦75年・悲劇の司令部壕】(上) 「牛島閣下はお優しかった」

沖縄は今日、戦後75年目の慰霊の日を迎える。沖縄戦とは何だったのか。第32軍司令部に従軍した女性らの証言を元に振り返る。

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那覇市東部の丘陵にある国営『首里城公園』。世界遺産の城址等を巡る観光順路からやや外れた、鬱蒼と樹木の茂る西側の斜面に、朽ちかけたコンクリート遺跡がある。沖縄戦における日本陸軍の拠点、第32軍司令部壕の防御施設(※左画像)だ。壕の坑口は土に埋もれ、正確な位置は今もわからない。ただ、戦後の研究等から、この地下凡そ30mに坑道があり、南北に延びていることが明らかになっている。無線等が完備され、将校室を始め、電信室、救助室、食糧貯蔵庫、炊事場や浴室もあった。尤も、野戦築城の為、公式の図面は残されていない。5つある坑道の総延長は千数百mに及ぶが、実地調査が可能なのは第5坑道の入り口からの約150mと、第3坑道の約140mで、その先は土砂で埋まっている。壕内には将兵らの遺品の他、撤退時に取り残された多数の負傷兵らの遺骨が埋まっているとされる。しかし、大部分は詳細不明で、土砂と歴史の厚いベールに閉ざされたままだ。75年前、この壕に住み込み、軍の事務員をしていた女性が、現在も沖縄県内で暮らしている。大嶺直子さん(94)。昭和19年に沖縄県立第二高等女学校を卒業し、校長の推薦で第32軍司令部の事務員となった。牛島満軍司令官を始め、長勇参謀長、八原博通高級参謀らとも接した、数少ない生存者の一人である。「私の兄も陸軍軍人で、士官学校時代に校長をしておられたのが、奇しくも牛島閣下でした」と大嶺さん。事務員になって間もなく、牛島軍司令官から「金城(※大嶺さんの旧姓)君の妹さんだね」と声をかけられ、感激したという。

沖縄戦時の日本軍については戦後、避難民を壕から追い出す等、横暴非道に語られることが少なくない。だが、大嶺さんが接した将兵はそうではなかった。「牛島閣下は温厚で、大変お優しかったですよ。長参謀長は何というか、荒々しい感じがしましたが、私たちに直接怒るということはありませんでした。八原大佐は、いつもキリッとしていましたね」。特に思い出深いのは木村正治後方参謀。東京に同じ年頃の一人娘を残しており、「私たちといると娘さんのことを思い出すのか、本当に優しく接して下さった」と話す。首里城の地下に構築された巨大な壕に司令部が入ったのは、アメリカ軍が沖縄本島に上陸する直前の昭和20年3月だ。当時の参謀の手記等によれば、壕内は高さ約2m、幅約3m。空からの1トン爆弾と、海からの40センチ砲弾にも耐えられるよう、頑強に設計されていた。一方で湿気が酷く、換気も悪くて、特に壕の最深部は人間が居住できる状況ではなかった。「軍司令官や各参謀にはちゃんとした部屋があって、私ともう一人は参謀付の筆生(※事務員)だったから、その近くのちょこっと凹んだところで寝泊まりしていました」。大嶺さんが記憶の奥を一言一言辿るように話す。「それは蒸し暑いし、ジメジメしていましたが、お国の為だと一生懸命だったから、その時はあまり辛いとは思いませんでしたね…」。太陽の光は届かないものの、壕内には無数の電灯が24時間灯けられ、宛ら不夜城である。アメリカ戦艦の40センチ砲弾が直撃した時は流石に激しく揺れるが、壕が崩れることはなかった。日を追う毎に激しさを増す砲爆撃。しかし、壕にいる限り、あまり危険は感じなかったという。大嶺さんが戦争の悲惨な現実を目の当たりにするのは、それからだ。アメリカ軍上陸から1ヵ月半余り。圧倒的な物量に押され、5月中旬の首里攻防戦で劣勢となった第32軍司令部は、壕を放棄して沖縄本島の南端、摩文仁(糸満市)への撤退を決める。この決定が、75年後の現在も沖縄県民の心を抉る程の悲劇を招くのである。 (川瀬弘至、写真も)


キャプチャ  2020年6月23日付掲載

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【本当は怖い戦国時代】(14) 恐怖!戦国合戦での応急処置法

20200702 08
戦場で負傷はつきものだ。この為、軍隊には常に衛生兵がおり、最低でも一命は取り止める為、その場で負傷兵に応急処置を施す。合戦が日常的であった戦国時代にも、衛生兵に相当する金創医なる兵が、負傷者に応急処置を施した。金は“金属”の意。太刀、槍、矢、弾丸等金属を指す。創は“創傷”の意。金属による創傷を処置するから金創医というわけである。尤も、この金創医、“医”という字がついているが、医学の知識は皆無である。合戦に出るのが怖いが、領主に逆らうのも怖いので、応急処置専門で従軍してきた輩ばかり。早い話がヤブ医者揃いなのである。こんなだから、応急処置法も首を傾げたくなるような方法が殆どだ。例えば、戦場で必ずある出血。刀創で出血した場合には、“自分の小便を温めて飲む”が治療法だった。自分の尿を飲むことに関しては、現代でも飲尿が民間療法として行なわれているから然して驚かないとして、“葦毛の馬の血を飲ませる”は首を捻らざるを得ない。しかも、態々“葦毛”と指定しているあたり、何か特別な効果を期待したのだろうか。これよりも信じられないのが、“馬糞を溶かした汁を飲ませる”という処置法だ。傷と動物の糞。考え得る限り最悪の取り合わせだが、この馬糞汁処置法については確かな記録が残っている。時は永禄5(1562)年3月、北条氏康・武田信玄の連合軍が、上杉謙信の支配下にある武州松山城(※現在の埼玉県比企郡吉見町)を攻めた。この攻防戦の最中、武田方の米倉種継なる武士が腹部に銃創を負ってしまう。出血によって見る間に膨れ上がる腹部。誰もが「最早助からぬ」と思った時、「馬の糞を水に溶かして飲めば助かる」と、馬糞を椀に入れ、水に溶かして差し出した者があった。

「武田武士ともあろうものが、畜生の糞汁を飲んでまで助かろうと思わぬ!」と気色ばむ米倉。すると、事の一部始終を見ていた甘利三郎四郎がやってきた。甘利は種継の上役に当たる。この三郎四郎、「そなたは道理がわからぬの。死ねばそれまでだが、生きながらえれば再び、武田家のお役に立つではないか。小物はいざ知らず、誠の武士なれば生き延びて功名をなすものぞ」と諄々と諭すや、馬糞汁の入った椀を手にし、「一段と味が良いわ」と美味そうに飲んで見せた。上役が飲んだものを配下が拒むわけにはいかない。意を決して馬糞汁を飲み干すと、不思議にも腹部に溜まっていた血が下り、銃創が治ってしまった。以上は武田流軍学の書『甲陽軍艦』中に記されているものだ。古記録にある点、現実に行なわれた治療法と断じて良かろう。だが、細菌感染等は大丈夫だったのだろうか? 考えると身の毛がよだつ。矢が目に刺さった時の処置法等は、更に身の毛がよだつものである。江戸時代に記された『雑兵物語』には、この場合の対処法として、次のように記されている。

一、先ず、いきなり矢を抜かないこと。目の玉も一緒に飛び出してしまうぞ。
二、木の根元に胡坐をかかせ、頭を木に押し付けよ。
三、矢を抜く時には手で抜いてはならぬ。毛立て箸か釘抜きを使って抜け。

同書の挿絵には、矢が刺さって目から血を吹き出している武士に対し、雑兵が先に記した方法で応急処置を施している様子が描かれている。この時代、麻酔といえば、金創医の唱える怪しげな呪文しかない。当然、麻酔効果などなかろう。麻酔なしで、目に刺さった矢を抜かれる痛み。想像すら躊躇われる。この他にも、“蝮に噛まれたら傷口の肉を抉る”等、様々な応急処置法があった。ヤブ医者だらけの衛生兵に、怪し過ぎる応急処置法の数々――。戦場で負傷することは、討ち死にすることより怖かったのではなかろうか。


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【百年の森・明治神宮物語】第6部・戦火(04) 満身創痍、“祈りの場”変わらず

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キャプチャ  2020年6月26日付掲載

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【本当は怖い戦国時代】(13) 佐々成政と黒百合伝説

20200625 07
佐々成政は織田信長の家臣であり、豊臣秀吉のことを心から嫌っていた。勇猛果敢で、奇略と度胸一つで尾張の小城であった比良城の城主から、越中一国の領主にまでのしあがった成攻だったが、秀吉への対抗は無残な結果に終わる。疲れ果て、富山城に戻ったところ、更に追い打ちをかける事件が発覚した。成政の愛妾の早百合が、近侍の岡島金一郎と不義を働いたというのだ。激高した成政は、詮議もなく、金一郎を手打ちにした。そして、早百合は一本復の下に引き出された。「上様、早百合が何でそのようなことをしましょうか! 信じて下さりませ」。木に吊るされた早百合は泣き叫んだ。苦痛と侮辱に耐え、身を捩らせた。しかし、成政は残忍にも、それを冷たい笑みで見ながら、太刀を手にしていた。この時の成政は、いつもの成政ではなかった。何かに憑りつかれているようだった。だが、それも成政の本質でもあったろう。そう感じた早百合は、氷のように怯えた心から、一気に灼熱の怒りに変わった。「おのれ! 人に非ず! 今にみておれ! 早百合の恨みが届くものなら、立山に黒百合を咲かせてみせようぞ! 汝の身を滅ぼしましょうぞ!」。流石の成政もその気迫に驚き、目を背けた。「おのれ、不埒な女め! 成敗してやる!」。残忍な刃は早百合の柔らかい肌を無残に刺し、切り裂いた。絶叫が庭に鳴り響いた。翌年から立山の尾根に、世にも珍しい黒百合の花が咲き乱れた。成政は、早百合を成敗した時に発した恨み節等は、すっかり頭から離れていた。元々豪放であり、女も多く抱えていたからだ。器に盛られた黒百合を見ても、何の動揺も見せなかった。

天正13(1585)年8月、秀吉の富山攻略から和を講じた成政は、肥後国(※現在の熊本県)の守護職に封じられた。当時、肥後国は最も難治であり、諸侯たちにも恐れられる場所だった。秀吉も成政を嫌っており、領内の反乱で倒れてしまえばいいと思って配置した。若し上手く肥後国を治めきれたら大物、その時は殺すのみだ。成政は、それに気付かないほど屈託のない性格でもあったが、何か秀吉には和らげるようなことをしなければならないことは感じていた。その為、秀吉の正室・ねね(※北の政所)に取り入ることを考えついた。丁度、大阪城内で花の会が催される時期も近く、立山の黒百合を送ることにしたのだ。正室側につくということは、側室の淀君の鼻を開かすことになる。それができれば、北政所は我が身に尽くしてくれるに違いない――。成政なりに女同士の敵対構図を利用した政略を考えた。そうして成政が黒百合を献上すると、北政所は大層喜んだ。「しめしめ、これで自分の地位は安泰」と勝手に喜ぶ成政だった。しかし、女同士の戦いはそう簡単なものではない。侍女の告げ口から、淀君の耳に黒百合の話が入ってしまう。淀君は直ぐに石田三成を呼び、早馬を出して黒百合を大量に手に入れた。黒百合に敵うのは黒百合しかない。そしていざ、花の会の当日。あふれんばかりの黒百合が花器に盛られ、その妖艶な香りと神秘的な色合いに秀吉の心は釘付けになった。勿論、その花の持ち主は淀君である。淀君は、北政所の黒百合が数本疎らに入った花器を見て、せせら笑った。隣に同じ黒百合があっても、貧相に見えただけ。北政所は敗北を知った。そして、この一連の恥は成政の企てだと思い込んだ。これだけの黒百合を献上できるのは、成政が淀君に送ったに相違ない。私を陥れる為に。しかし、女の恨みに疎い成政は、そんなことは露知らずであった。その3年後、肥後国内での動乱を鎮める為に武力行使を行なったことに対し、秀吉の怒りを買い、成政は申し開きの書状を北政所に送った。しかし、北政所は、その手紙を読まずに切り裂いた。いつかの成政が早百合を切り裂いた時のように、冷酷に、冷淡に。呼び出しを受けた成政は、遥々、播州尼崎まで来ていた。「北政所はとりなしてくれるようだ。わしだとて、御前の前に出れば立派な申し開きをしてみせる」。意気揚々と法園寺にて、秀吉からの使者を待った。そこに訪れた使者は、こう言った。「佐々成政、切腹申し付ける!」。無念――。ただ一言、成政は崩れ落ちた。享年53。それは、早百合の死からそう遠くない時だった。


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【百年の森・明治神宮物語】第6部・戦火(03) アメリカ軍計画にはなかった神宮空襲

https://www.sankei.com/life/news/200619/lif2006190015-n1.html


キャプチャ  2020年6月19日付掲載

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George Clooney

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