“スパイ王”と呼ばれた日本人――『陸軍中野学校』創設者・秋草俊の華麗なる謀略人生

第2次世界大戦終戦直前、ソビエト連邦の諜報機関から“スパイマスター”と警戒され、ブラックリスト入りした謎の日本人がいた。巨大な陰謀に巻き込まれながらも、情報戦の最前線に立ち続けた軍人の数奇な生涯とは――。 (取材・文/ノンフィクション作家 斎藤充功)

20170127 05
時代を経たことがわかる1枚の書類。日付は“昭和14年”。終戦の6年前で、日本がソ連軍に満州とモンゴルの国境で大敗北し、7700人の戦死者を出した『ノモンハン事件』が起きた頃である。内地では“戦争協力”が国民の義務となっていた時代、“卒業証書”といった言葉には悠長な響きすらある。だが、この書類に書かれた『後方勤務要員養成所』という間き慣れない名には、日本の裏面史において重要な意味がある。“後方勤務”というが、実体は頭脳集団を養成した学校である。陸軍が極秘で造ったこの養成所に集められた“エリート”たちは、専門の軍事学に始まり、イギリス、ドイツ、フランスといった諸外国の地政学を学び、派遣国の言葉・気象学・心理学、更には忍術といったことまでを叩き込まれた。通信実習では外国の電信を傍受して解読する技術を、写真技術では盗撮の技術を磨いた。勿論、“殺し”のテクニックも学んでいた。後方勤務要員養成所とは、後にその卒業生が世界で活躍した、現在も謎に包まれたスパイ(謀報)集団『陸軍中野学校』のことである。この書類は、これまで発見されていなかった第1期生の“幻の卒業証書”である(右画像)。そして、後方勤務要員養成所長と書かれた“秋草俊”は、陸軍中野学校創設者の1人で、“スパイマスター”と呼ばれた人物であった。異端の軍人・秋草俊の生涯については、資料が極端に少ない。1930年代半ばから謀報活動をしてきた人物だけに、秘されてきた事実が多いのは当然ではある。

1894年、栃木県足利市生まれ。陸軍派遣学生として東京外語学校に入学し、後にハルピンへ留学。その後は軍人として関東軍特務機関に身を置く等し、1936年に東京の参謀本部のロシア班長(中佐)として転任。1939年に中野学校初代校長となるが、同年に辞任し、翌年にベルリンへ。その後帰国し、更に満州に転じ、終戦を向かえる。以上が、ざっとした経歴である。ロシア語のエキスパートとして留学する等、当時として華々しいエリートコースであることがわかるが、戦争の時代、多くの軍人がそうであったように、秋草の晩年も壮絶であった。1945年8月9日、ソ連軍が満州に侵攻。同19日、空挺部隊120人が落下傘で現地へ入り、この少人数で鉄道・橋・通信施設等の重要施設を制圧。当時、近隣の平房(ピンイン)に施設があった、細国兵器開発で知られる『第731部隊』も捜索したと言われている。「関東軍情報部長(ハルビン特務機関)だった父は、15日の玉音放送を本部で聴いた後、関東軍の指示で本部の資料を全て焼却することを部下に命じました。翌日、731部隊長だった石井四郎中将が父を訪ね、こう持ちかけたと言います。『専用機を香坊(シアンファン、ハルピン郊外の地)に待機させているので、2人でハルピンを離脱しよう』と。ですが、断ったそうです。『責任者として、自分1人がハルピンを離れることはできない。ソ連軍による逮捕は覚悟しているので、閣下お1人でお逃げ下さい』と」。秋草の子息である靖(82)は、当時をこう語る。靖は、東京から父親の元に疎開しており、ハルピン中学校の2年生であった。陸軍中野学校創設者の秋草と731部隊創設者の石井がハルピンで会っていたことは、これまでどの資料にも書かれていなかった。秋草がスパイマスターとして頭角を現すのは1933年、陸軍中野学校創設の6年前に遡る。ロシア語のスペシャリスト、更にはヨーロッパ文化に精通している人物として、当時、“ブレム”と呼ばれていたハルピンの『白系露人事務局』の設立に取り組んでいた秋草は、日ソ両軍の情報戦の最前線都市となっていたハルピンで、反ソ団体として台頭していた『ロシアファシスト党』とも密に連携して、反ソ宣伝活動を積極的に行っていた。現地参議本部に転任するが、ハルピン時代の人脈を活かした対ソ情報の収集力を飛躍的に向上させ、“対ソ情報の第一人者”として評価を固めることになる。勿論、ソ連もその動きを把握しており、秋草を“スパイマスター”として警戒し、第一級の危険人物としてブラックリストに登録した。

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ゾルゲより早くスターリンに対ソビエト情報を流した日本人スパイの正体――日本政府から“エコノミスト”と呼ばれた男は如何にして極秘情報をソ連に流したのか

20160802 03
「【モスクワ13日共同=松島芳彦】太平洋戦争が始まった1941年、日本政府内部に暗号名“エコノミスト”と呼ばれる旧ソビエト連邦の日本人スパイが存在し、日本の対米開戦方針にかかわる重大情報をいち早くスターリンに報告していたことが8月13日までに、ソ連国家保安委員会(KGB)の前身であるソ連内務人民委員部(NKVD)の極秘文書から明らかになった」――。平成17(2005)年8月、共同通信のモスクワ駐在記者が、戦前の日本人スパイに関係するスクープ記事を流した。この記事では、“エコノミスト”が日米開戦に関係する重大情報をソ連側に流した政府内部の人間であることを示唆している。更に記事は、「当時の左近司政三商工大臣が9月2日、要人との昼食で、日米交渉決裂なら開戦となり『9月、10月が重大局面』と明かしたと報告」。では、昼食会で左近司に情報を漏らしたのは誰であったのか。“エコノミスト”の正体を内閣情報局の天羽英二総裁と推論する研究者もいるが、筆者は別人の高毛礼茂ではないかと考えている。高毛礼の名が浮上したのは、1954年2月に発覚した『ラストボロフ事件』の日本側情報提供者として逮捕された時である。当時、高毛礼は外務省経済局経済第2課の事務官で、ラストボロフ事件に関連して国家公務員法違反容疑で逮捕されたが、彼の戦前の顔は、前出の左近司が大臣辞任後に社長になった国策会社『北樺太石油会社』でロシア語の通訳として働き、モスクワ駐在員として3年間務め、帰国したのは日米開戦の1年6ヵ月前であった。ロシア語を学んだのは、ハルビンに置かれていた『日露協会学校』(後のハルビン学院、高毛礼は同校の第1期生)である。彼がソ連に流した情報は、御前会議で允裁された日本の“南選”決定という最高機密を左近司から得たものとされているが、確証は無い。彼は裁判で6年余り戦ったが、その間、自らの無罪を主張し、具体的に「金銭の授受は一切無い。ソ連側の人間と接触したのは事実だが、機密資料等は渡していない」と述べていた。戦前・戦後を通じて“ソ連のスパイ”になったとされる高毛礼。その業績は何といっても、国策決定の最高機密であった「日本は対ソ戦を準備しつつ“対米英戦”を決定した」という極秘情報を、ゾルゲよりも早くスターリンの許に伝えたことであろう。ラストボロフ事件の裁判では、高毛礼の過去は殆ど語られることはなかった。スパイ“エコノミスト”は、実在した日本人であることは間違いあるまい。彼はラストボロフ事件で懲役8ヵ月の判決で服役し、出所後は宗教法人『修養団捧誠会』本部に勤めた。そこで30年余り仕事をして事務局長になり、94歳で亡くなった。 (ノンフィクション作家 斎藤充功) 《敬称略》

■参考資料
『修養団捧誠会25年史』『天羽英二日記』(同資料刊行会編)
『哈爾濱学院史』(恵雅堂出版)
『戦後政治裁判史録』第2巻(第一法規出版)
『警視庁公安外事警察資科 ラストボロフ事件総括』『日米開戦50年目の真実』(拙著、時事通信社)


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【ヒロシマ・71年目の悲願】(上) トルーマンの孫が語る謝罪と責任の意味

“謝罪(apology)”――。バラク・オバマ大統領の広島訪問を前に、日米両国で俄かにこの言葉への注目が高まっている。オバマは日本人に謝罪すべきなのか。日本国民はアメリカの大統領に謝罪を求めるのか。戦時中の行為を巡る“謝罪”について、日本はこれまで他国から求められることはあっても、こと原爆に関してアメリカにそれを求める声は大きくなかった。では、国家間の話ではなく、“当事者同士”という個人レベルの謝罪についてはどうなのか。日本には大勢の被爆者と、その血を受け継ぐ子孫たちがいる。一方、アメリカ側にも当事者はいる。その中心的な存在が、原爆投下を決断し、指示した第33代大統領のハリー・トルーマンだ。トルーマンは1972年に死去したが、その血を引く人物が近年、日本の被爆者と交流を続けている。クリフトン・トルーマン・ダニエル、58歳。彼の母親はトルーマン元大統領の1人娘で、ダニエル自身は娘と2人の息子の父親だ。戦後生まれのダニエル自身は、第2世界次大戦の“当事者”ではない。しかも、アメリカでは今も原爆投下を正当化する声が根強い。にも拘らず、彼は何故被爆者の体験をアメリカに伝える活動を続けているのか。祖父が下した決断と、どう向き合ってきたのか。それを知りたくて、今月14日、シカゴにあるダニエルの自宅を訪ねた。閑静な住宅街にあるレンガ造りの一軒家。日本のように靴を脱いで上がったリビングで、元大統領の目鼻立ちをはっきりと受け継いだダニエルは、2時間余り、片時も記者から視線を逸らすことなくインタビューに答えてくれた。ダニエルの言葉を通して、“謝罪”と“責任”の本質を探る――。

20160706 05

――オバマ大統領の広島訪問の話をする前に先ず、おじいさんについて聞かせて下さい。トルーマン元大統領は、貴方にとってどんなおじいさんでしたか?
「私にとっては普通の“おじいちゃん”だった。ヒロシマとナガサキについて話す時、『おじいさんから話を聞いたか?』とよく質問されるが、答えはノーだ。祖父は、私が15歳の時に亡くなった。私たち兄弟は未だ子供で、相父に会うのはクリスマス・感謝祭・春休み等、学校の長期休暇中だった。折角の休みに、歴史の授業が展開されるような質間はしたくなかった。抑々、私たち家族は祖父の大統領時代についてあまり話をしなかった。祖父母も私の両親も、私たち兄弟に“普通”の生活を送らせようとしていた。だから、私たちはハリー・トルーマンの家系に生まれたことを重大なこととは考えていなかった。私が原爆について学んだのは、一般の人と同じく、歴史の教科書や先生を通してだ。アメリカ史を学び始めるのが9歳か10歳で、より総合的な歴史を学ぶのは高校に入ってからだ」

――どのように教わったのですか?
「とてもシンプルだ。歴史の教科書は今も昔も、アメリカ史を全て網羅しないといけない。分厚い教科書の中で、原爆についての記述は1~2ページ。内容は、原爆が投下された理由と犠牲者の数、キノコ雲の写真くらいのものだ。原爆の実態や具体的な被害、人々が受けた傷の深さについての記載は一切無く、『原爆が戦争を終わらせた』『日本とアメリカはトモダチになり、今は全てが上手くいっている』といった内容だった。私の印象もそのようなものだった」

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「私の母は軍艦島の遊女でした」――幻の軍艦島遊郭50年目の新証言

「母が軍艦島に来たのは、実家が借金を抱えていたからです。それを返す為に売られたんですね」――。長崎県佐世保市のファミレスで話す小田美枝子さん(69)は、こちらが拍子抜けするくらい臆することなく、母親が軍艦島の遊郭で働いていたことを証言してくれた。この時、閉ざされていた歴史が動いた! (取材・文/フリージャーナリスト 酒井透)

20160607 01
取材で入手した“端島美人連中”の写真。地元の郷土史家お墨付きのもので、軍艦島の遊女が写っているとされる。一番右上が小田美枝子さんの母親と思われる女性。身嗜みもしっかりしている。

上に掲載した“端島美人連中”と書かれている写真を見つけてから暫くして、軍艦島(端島)の元島民の方から信じられないような情報が齎された。「遊女の娘さんがおるから、会いに行ってみるとよか!」。この情報を教えてくれた方とは、これまでに何度も会っていた。全く考えてもいなかった展開だった。“遊女の娘さん”という方に会うことができたのは、それから数ヵ月後のことだった。長崎県佐世保市内にあるファミリーレストランで待ち合わせて、話を伺った。「私、本当の両親の顔も何も知らないんですよ…」。土曜日だったということも手伝って、夫を伴って現れた女性は、席に座ると、このように話し始めた。小田美枝子さん(69)。昭和21(1946)年に佐賀県佐賀市で生まれた。「私は、生まれて直ぐに養子に出されたんです。そこが軍艦島でした。“両親”は子供を持っていませんでした。父のほうに問題があったのでしょうね。母が遊女をやっていたことを知ったのは、私が中学生の頃でした。『(本当の)両親に会いたいか、知りたいか…」と聞くので、その時に教えてもらったんです」。小田さんに会う前、電話では少し話を伺うことができたが、本当に会えるかどうかについては一抹の不安があった。何故ならば、本人にとっては、隠しておいてもいいような過去を表に出すことになるからだ。しかし、そのような心配をする必要はなかった。「私は、子供の頃から母に虐待を受けていました。箱火鉢で使っていた火箸の後端部分で殴られたこともあります。艾を押し付けられたこともあります。怒ると斧なんかを投げて、食器を割るようなこともありましたね。昼間から焼酎を飲んでいましたよ。近所の人たちはそれを知っていたので、何度も余所の家で過ごしました。実は、私の前にもう1人養女がいたのですが、2歳で亡くなっているんです…。虐待が原因だったようです。近所の人たちは、母のことを“鬼”と言っていましたね。『貴女を貰ったのは、(年を取ってから)自分の面倒を見てもらう為だったのよ!』と言われたこともあります。18歳の頃には、ちょっと島に戻った時に、5階から投げ落とされこともあるんです。それに対して、父は仏様のような人でした。子供が大好きだったので、可愛がってくれましたよ。母は、父が56歳の時に肺の病気で亡くなってから、島を離れました。その後、2度再婚をして72~73歳で亡くなっていたと思います。写真は1枚も持っていません。母が軍艦島に来たのは、実家が借金を抱えていたからです。それを返す為に売られたんですね。10代の頃だと思います。その前は、佐世保の食堂で働いていたそうです。父は五島(列島)の福江の出身で、教員をしていたみたいですね。軍艦島の炭鉱では、三菱の社員として、30年くらい石炭を掘る仕事をしていたと思います。父が(当時のお金で)100円を払ったことによって、母は(“遊郭”から)請け出してもらうことができたんです。遊女を辞めてからは、ずっと家で過ごしていました。母は、いつも自分のことを“俺”と言っていましたね。趣味はパチンコで、島でもやっていましたし、長崎にも遊びに行っていました。煙管も吸っていましたね。家のことは何もしませんでした。トイレ当番もやらないので私がしていましたし、洗濯も自分のものだけしかしませんでした。お菓子なんかは、私に食べられたくないので、天井から紐で吊していましたよ。でも、着物は一杯持っていましたね。洋裁・編み物・料理は上手かったですね。自分でパーマをかけることもできましたし、布団の打ち直しをすることもできました。どこで覚えたのでしょうか、器用だったです。昭和37(1962)年に亡くなっている筈ですが、今生きていたら100(歳)は超えているでしょうね」。

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知られざるインテリジェンス機関としての『731部隊』――生体実験・生体解剖等を行ったとされる“黒い太陽”、公文書発掘で初めて明らかとなった秘密部隊の実像

20160523 01
日本陸軍が1936年に中国のハルピン近郊に設立した『731部隊』(以下、731)。この秘密部隊の創始者で初代部隊長だった石井四郎軍医中将(右写真)は、活動の中軸を当初の給水活動から防疫活動へ強引に移し、更には生物兵器開発へと突き進んでいった。抗日分子と判断した中国人やソ連人等を“マルタ(丸太)”と呼んで、彼らを多数使って非人道的な秘密の人体・生体実験、及び生体解剖をハルピン郊外の平房研究所で大規模に実行。また寧波等、華中の都市や前線で生物兵器を人体に使用し、多くて1000人の中国人の死者を出したという(常石敬一『細菌兵器と日本軍七三一部隊』-『世界戦争犯罪事典』)。筆者は5年前に、アメリカ陸軍インテリジェンス機関がGHQの民間課報局並びに民事検閲局に出した、占領下の日本の731関係者の郵便物検閲を要請したウォッチリスト(1946年2月の要監視対象リスト)を見つけた。その冒頭で、石井四郎・細菌戦・平房研究所、そしてアメリカ軍に尋問を受けた人物及び、彼らの仲間との会合等、あらゆる情報を郵便物検閲で発見するよう指示していた(拙著『GHQの検閲・諜報・宣伝工作』、8頁)。GHQは占領以来、石井等731の主要メンバーから、戦争責任を問わない代償に、膨大な実験・実戦データや生物兵器の開発情報を独占的に入手しようと必死であった。この文書には石井を先頭に、内藤良一(後の『ミドリ十字』設立者)・正路倫之助・吉村寿人・緒方規雄(何れも戦後医学界の要人)に加えて、石原莞爾(元中将で満州事変の首謀者)等12名の肩書や住所が列挙され、更に部隊関係者と思われる9人のリストが出ている。

石原は、日本の中国侵略を中止させようと動いた中心人物との評価が昨今高い。その石原が731のお尋ね者リストに入っているのは何故か。今回、731の関係資料を漁っている時、その疑問を解く資料に巡り合わせた。1928年の張作霖爆殺事件を起こした河本大作の証言がそれである。「満洲事変勃発後の1933年頃、関東軍副参謀長石原莞爾少将が研究再開を進言し、同時に牡丹江付近で研究と実験をおこなうよう提案した。こうして、関東軍によってこの研究がはじめられたのである。…石原莞爾はこのことについてかたく機密を保持していた」(河本大作 1953年4月10日 中央档案館他編『証言 人体実験-七三一部隊とその周辺』、59頁)。満州侵略の火付け役として中国共産党政権から戦争責任を追及されていた河本が、自身の罪の軽減の為に石原を引き出したとの憶測もあろう。だが、石原のGHQウォッチリストへの登載は偶然ではなかった。列強との軍事力競争で遅れを認識した合理主義者の石原が、石井の提案に飛びついたらしい。「生物兵器開発は資源の少ない日本では不可欠」との石井の意見に耳を貸したのは、石原だけではなかった。後の陸軍省軍務局長である永田鉄山や参謀本部作戦部長の鈴木率道も同様だった(青木冨貴子『731』、52頁)。軍中枢で石井の主張を積極的に排斥した者は、今のところ見当たらない。陸軍中野学校卒業生の満州での活動を追っていたら、『アジア歴史資料センター』で『関東軍防疫給水部略歴』(以下、“略歴”Ref.C 12122501100)という筆者の知らない文書に出会った。関東軍防療給水部とは、731の正式名である。“略歴”は1963年に厚生省援護局が作成したもので、『“悪魔の飽食”ノート』(森村誠一)の巻末に収録されたことがあるが、説明が無く、その後の731関連本では取り上げられていない。この文書の冒頭には、関東軍直轄部隊として731は「部隊長以下全員軍医薬剤官及び衛生下士官兵をもつて編成し各部隊の防疫給水及細菌の研究予防等の業務に従事」とある。医師・薬剤師・衛生下士官だけの特殊な軍隊であることもわかる。次に編成が出ている。

昭和15、8.22 “ハルピン”において編成改正完結、左記の編成をもつて、細菌の研究を担任、各部隊の防疫給水、血清、痘症、予防ならびに練成隊において青少年の教育を実施す。
本部“ハルピン”総務部 第一、二、三、四部
          資材部 教育部(練成隊)
          診療部
支部 牡丹江、孫呉、林口、大連、海拉爾。

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