【知られざる戦国武将の真実】(22) 宇佐美定満――謙信の名軍師は実在せず、モデルも全くの別人?

20180713 07
“宇佐美定行”という名の軍師をご存知の方も多いだろう。大河ドラマ『天と地と』(NHK総合テレビ)にも出てきた上杉謙信の名参謀である(※しかも演じたのは渡瀬恒彦)。ところが、この人物は実在しない。『北越軍記』なる書物の作者が勝手に拵えたものなのだ。理由は、「信玄に山本勘助という名軍師がいる以上、上杉にもそんな存在が必要だ」というもの。そのモデルとなったのが、今回ご紹介する宇佐美定満である。勿論、謙信の家臣であり、越後・琵琶島城主。上杉二十五将、上杉四天王の1人であり、後世には越後十七将にも数えられている。天文19(1550)年には、謙信に反抗した坂戸城主の長尾政景を屈服させたとか。しかし、史料を紐解くと、その他に目立った戦功が見当たらないのだが…。それもその筈。定満が宛てた手紙に、こんな内容のものがあるのだ。「知行を1ヵ所も渡されていない」「私は無力なので、家来の者たちも困惑している」。果たして何故、これが“有名軍師”宇佐美定行のモデルとなったのか? 理由は簡単。北越軍記の作者は軍学者の宇佐美定祐。定満の孫だったのである。なので、実際にいた祖父を“盛って”扱ってしまった可能性が高い。想像力たるや恐るべしといったところだろう。実際、出自や業績にも不明な点が多く、異説も多い定満。天下の『朝日新聞』によれば、平成になってその名が記事に出てくるのは1回だけ。定満の死に様が、池に舟を浮かべて酒宴を催した際、池に飛び込み、そのまま溺死したものだったというもの(※『上杉家御年譜』より。朝日新聞新潟版2008年4月3日付)。どうせならこれも異説であってほしいというのが、歴史ファンの願いかもしれない。 (フリーライター 瑞佐富郎)


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【知られざる戦国武将の真実】(21) 高坂弾正――絶世の美男子に“甲斐の虎”もメロメロ

20180706 08
戦国大名には様々な異名があるのは周知の通り。“独眼竜”伊達政宗、“日本一の兵”真田幸村、“狸親父”徳川家康、“甲斐の虎”武田信玄等々。うち、“逃げ弾正”と称されたのが、今回ご紹介する高坂弾正(※高坂昌信)。武将には望ましくない通り名だが、その内実を聞いてびっくり。逃げるは逃げるでも、女性から逃げていたという。つまりは絶世の美男子。更には何と、あの武田信玄からラブレターを貰っていたというから驚きだ。説明しよう。弾正は16歳の時、信玄に取り立てられた。恋文は、信玄が25歳、弾正が19歳の時のもの。内容は、「弥七郎には度々言い寄ったけれども、腹痛だからと断られて、何もありませんでした。絶対嘘ではありません。弥七郎に夜伽をさせたことはありません。【中略】貴男と仲良くしたくて色々手を尽くしているのに、却って疑われてしまい、困っています」。つまり、弥七郎という男とは何もなく、思いは弾正一筋というのである。弾正は後に武田二十四将の1人に数えられ、北信濃の海津城の城代職を任されるまでに。こちらは信玄のライバルである上杉謙信の天下である越後の国境近く。信玄はそれほど弾正を信頼し、高評していたことになる。何せ、この恋文、東京大学の史料編纂所が所蔵しているのだが、文書としては“起請文”という類のもので、書かれた内容について“神仏に誓って嘘偽りなく守る”もの。「貴男への思いは本物」と言ったところか。何れにせよ、信玄に男色家の気があったのは確かなようだ。ところで、この起請文。本来なら公文書として専用の紙に書くのだが、信玄のこちらは普通の紙に書かれている。つまり、公にしては拙いが、言う気持ちは公式なものと変わらないという訳で…。こちらのほうも中々の戦略家だったのかもしれない。 (フリーライター 瑞佐富郎)


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【知られざる戦国武将の真実】(20) 武田信廉――影武者は実兄弟に限る、実在した信玄の偽物!

20180629 09
『影武者』(東宝)と言えば黒澤明監督の名作映画。武田信玄の影武者を演じることになった小泥棒を描いたものだが、実は現実の歴史の中にも、この武田信玄の影武者を演じた男がいるから驚きだ。それも小童ではない。80騎を指揮し、武田二十四将の1人として活躍した有名武将だった。それが武田信廉。信玄の弟で、側近ですら見分けがつかぬほど信玄に似ていたという。1548年、上田原の合戦では、退却した信玄の代わりに信玄の鎧兜を身に付け、本陣に留まり、敵の村上義清と一騎打ちを行ない、村上軍の足止めをした。1573年、武田信玄が駒場で亡くなった西上作戦の際には、信玄が健在であることをアピールする為、信廉が影武者となって武田勢は甲斐へ戻ったとか。また、北条氏政が信玄の死去を確かめる為、使者を甲斐に派遣したが、その際も影武者としてこれを欺いたという。その他にも、就寝中の信玄の影武者等も演じた為、斬った忍者は数え切れぬほどだとか。変装の達人でもあり、時には敵将に化けて密偵活動も行なっていたというから驚きだ。絵画の面でも傑出した才能で、人物の風貌の特徴を見抜くのに長けていたのかもしれない。ところで、有名武将に限られなければ、戦国時代に影武者は多く、真田幸村等は名もなき者数人に同じ格好をさせて、敵を撹乱するのが好きだったとか。信玄のライバルである上杉謙信も、川中島の戦いの際には、自らの影武者の一兵卒の荒川伊豆守と武田信玄を戦わせている。尤も、これは信玄側が彼と謙信を間違えただけで、無名の武士と戦ったのでは恥ずかしいので、謙信の影武者と戦ったことにでっちあげた説も。こういう時こそ、実は信玄側の正体は信廉だったという機転が欲しかったかも!? (フリーライター 瑞佐富郎)


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【知られざる戦国武将の真実】(19) 山本勘助――実在も眉唾だけどその能力も不確実!

20180622 08
2007年の大河ドラマ『風林火山』(NHK総合テレビ)の主役と言えば山本勘助。武田信玄の下で軍略や築城術に腕を振るった名軍師として、一躍、人々の認知を得たのは記憶に新しい。ところが、この山本勘助、長らくその存在が疑問視されてきた。というのも、唯一、歴史書に記載があったのが、武田の軍法を記録した『甲陽軍艦』という書物なのだが、その内容の殆どが後年のでっちあげであり、つまりは資料的価値ゼロだった為である。ところが、まさにこれは2007年までの話。丁度、大河ドラマが放送された同年に、勘助の実在を証明する文書が見つかったのだ。それも、武田信玄が長谷の名家・黒河内家に宛てたもので、内容の大意は「山本勘助を大将として、城攻めの準備をしろ」というもの。これにより、山本勘助が実在の人物であり、且つ大将クラスの人物だということがわかったのである。だが、更にところが、である。これを根底から覆す事実が、既に現代では明らかになっているのだ。抑々、戦国時代には“軍師”というものは存在しないのである。戦国時代から天下統一までの日本語を採集・編集した『日葡辞書』に、“軍師”という言葉は無い。最も近いもので“軍配者”だが、その説明にはこうある。「戦争に対し、吉凶を判断し、進発すべき日を決めるもの」。つまり、占い師である。事実、山本勘助も“丸日取り”という軍配用団扇を使っていた。団扇の縁に沿って34個の丸が配列してあり、内訳は4種類。白丸、黒丸、真ん中から白と黒に分かれる丸が、配色を左右に違え2種類。更に、1年365日を先の4つの丸で割り当てた一覧表もある。そして、これが記載されているのが、前出の虚実綯い交ぜの甲陽軍艦なのだった。結局、大河ドラマ視聴者が思う山本勘助が実在しなかったことだけは、占いの類より余程明らかだったのだ。 (フリーライター 瑞佐富郎)


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誰が何と言おうと明治維新は正しかった――日本の植民地化を狙った欧米を排除、エビデンス無き“反薩長史観”を斬る!





20180619 03
今年9月、慶応から明治へ改元されてから150年となる。政府は「明治の精神に学びたい」として、祝賀行事を予定している。またNHKでも、維新三傑の1人とされる西郷隆盛を主人公とした大河ドラマ『西郷どん』が放送されており、日本中が“明治150年”で盛り上がっているが、これに水を差そうとしているのが“明治維新過ち論”であり、“反薩長史観”なるものである。原田伊織氏の著書『明治維新という過ち』(毎日ワンズ)や、本誌2月号に武田鏡村氏が書いた「薩長の明治維新が日本を誤らせた」等である。論者による多少の違いはあるが、「明治維新とは、薩摩や長州がテロや殺戮等によりクーデターを起こし、天皇の名の下にそれを正当化させたもので、不当だ」という趣旨のようだ。筆者も、維新が綺麗事だけで成就したとは決して考えない。明治時代を通じ、薩摩閥や長州閥が弊害を齎したことがあることも認める。しかし、維新の最大の目的であり、果実でもあった“欧米列強に対抗できる中央集権国家”樹立への評価を抜きにして、その過程のみを批判し、貶めることは、日本人として看過できない。何点か反論したい。先ず、王政復古の見方である。慶応3(1867)年12月、岩倉具視ら革新派公家や大久保利通・木戸孝允ら薩長の指導者たちは、明治天皇の名による『王政復古の大号令』で新政権樹立を宣言すると共に、大政奉還を申し出ている将軍の徳川慶喜に、官位と領地の返上(※辞官納地)を命じた。狭義の意味での明治維新だが、「これは、武力を背景に薩長と朝廷が強引に幕府から権力を奪ったクーデターである」というのが反薩長史観派の主張である。

だが、この大号令を仔細に読めば、①摂政・関白という朝廷の機関と幕府を廃絶して新たな政治機関を設ける②神武創業の始めに基づいて高官・武人・身分の上下に区別なく公務に尽くせ――の2つに力点が置かれていることがわかる。“神武創業”とは、初代神武天皇による建国である。つまり、「公家政治でも武家政治でもない、全く新しい政治を始める」と呼びかけているのであり、新建国宣言だ。ペリー来航以来、「この国難を乗り切る為には、中央集権国家の樹立、つまり挙国一致政権しかない」というのが、狂信的暗殺者たちを除く当時のリーダーたちに共通した認識だった。特に文久3(1863)年、共に単独で西欧諸国と戦って敗れた薩摩や長州には、その意識が強かった。その有力なアイディアの1つが、将軍家や雄藩等武家と朝廷が一体となる公武合体論だった。徳川慶喜による大政奉還もその延長上にあり、慶喜は天皇の権威の下に、徳川家を議長とする諸大名の議会を作る意向だった。この為、反薩長史観論者は「平和裏に政権移譲が行なわれたのに、薩長がこれをブチ壊した」と批判する。だが実は、この公武合体政権の試みは既に一度失敗していた。元治元(1864)年2月、京都で『元治国見会議』が開かれた。孝明天皇も臨席、近衛忠房ら朝廷首脳部、それに将軍着任前の一橋慶喜、松平春獄ら有力諸侯が集まり、今後の政治の在り方や外交方針を話し合った。だが、何ひとつ決めることはできず、抜きん出たリーダーも現れなかった。これを見た岩倉や大久保らは、「公武体では挙国一致はならない」と判断。将軍も諸侯も朝廷首脳も排除した創業――主政復古に踏み切ったのだ。つまり、目的はあくまで中央集権国家の樹立であり、王政復古はそのひとつの過程だった。だから、新政府は「これでは不十分だ」として、明治4年には武士たちに自己犠牲を強いる廃藩置県にまで踏み込んだのだ。維新を単なる権力争いとすることが如何に浅薄な見方かがわかるだろう。因みに、王政復古の大号令では当初、公家たちの間から「神武創業ではなく、一時的に天皇親政を実現した“建武の中興”に倣うべきだ」との意見もあったが、「小せぇ小せぇ」とばかり却下された。そこには親政ではなく、“立憲君主制”の萌芽とも言えるものがあった。だから、王政復古は“時代錯誤”で、“天皇を現人神として崇める思想を強要する”ようなものでは決してなかった。次に、「武力を背景に天皇を利用した」という批判である。確かに、王政復古の大号令や廃藩置県の布告は、薩摩や土佐の兵士や御親兵が厳重に警備する中で行なわれた。戊辰戦争では新政府側が“錦の御旗”を掲げていた。しかし、大将である徳川慶喜が“恭順”の意を示し、事実上新政府を認めた以上、旧幕府軍は抵抗勢力でしかなかった。政府軍が抵抗勢力を抑え込もうとするのは当然だった。抑々、武力による権力奪取が不法というのなら、平家を討った源氏の鎌倉政権や、大阪で豊臣政権を壊滅にまで追い込んだ徳川政権の存立基盤はどうなるのか? 彼らも軍事力で政敵を破ると共に、天皇の権威を借りる形で政権を得た。それに比べれば、明治維新はまだまだ平穏に行なわれたと言ってもいい。

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薩長の明治維新が日本を誤らせた――“薩長史観”は真っ赤な嘘! 吉田松陰・西郷隆盛・勝海舟の大罪





20180619 02
薩長史観とは何か? それは、明治維新で薩摩や長州が行なった様々なテロ・殺戮・強奪・強姦等の犯罪行為を、絶対的天皇主義の下で正当化する史観のことである。今年、安倍政権は明治維新150年を記念して盛大な事業を行なおうとしている。菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と語っているが、果たして明治維新の精神は真から礼賛に値するものなのであろうか? 明治維新は、薩摩の西郷隆盛や大久保利通、長州の木戸孝充らの徳川幕府を倒した英雄的な活躍ばかりに目が向けられている。だが、彼らは国内を二分する無益な戊辰戦争を強引に引き起こして、日本の国土を血に染めたのである。“無益な国内戦争”と言ったのは、既に無血の政権移行が行なわれていたからである。徳川慶喜による朝廷に政権を返還した大政奉還である。これは“慶応維新”と言うべきもので、平和的な権力の移譲だった。坂本龍馬はこれを絶賛して、新政府の組織と人事に着手している。何が何でも武力による政権奪取を狙っていた薩長は、龍馬を目の仇として暗殺したという説には頷けるものがある。更に薩長は、大政奉還を無効にする為に、幕府直轄領の返納を強要したばかりか、天皇の名を騙って“討幕の密勅”をでっち上げる等、様々な策を弄して幕府軍を挑発した。西郷隆盛は直接、薩摩藩士に命じて、江戸で強盗・殺人等“薩摩御用盗”と言われる騒乱を起こさせ、江戸城を放火して大坂にいる幕府軍を憤激させ、鳥羽伏見の戦いを惹起したのである。

この時に“錦の御旗”が掲げられたが、“官軍”を自称する為に、これもでっち上げられたものである。そして“官軍”の美名の下で、逆らうものを“朝敵”や“賊軍”として、暴虐の限りを尽くすのである。薩長史観では語られないものが未だある。長州の吉田松陰が軍事テロを唱え、それが天皇がいる御所を襲撃する蛤御門の変に繋がっていたことである。自ら“尊王”と言いながら、天皇を拉致して政治的に利用しようとした。松陰はまた、朝鮮を始め近隣諸国を侵略して支配することを説き、それが明治政府の軍国主義と侵略主義に深く影響していたことである。松陰の松下村塾の門下生は様々なテロを実行したが、特筆すべきは初代内閣総理大臣になった伊藤博文は、まったく無辜の国学者を暗殺していた殺人者であったことである。明治維新の過程で血に塗れた人物が政治のトップに立っていたということは、明治政府の体質を如実に表わしている。薩長は“尊皇攘夷”を叫んで、開国した幕府を揺さぶったものの、下関戦争や薩英戦争で大敗すると、攘夷を棄てて尊皇を基軸として討幕を目指す。だが、孝明天皇の理解が得られないとわかると、岩倉具視の協力を得て天皇を毒殺。代わって、薩長の息がかかった明治天皇を擁立する。そして、薩長が行なった数々の暴虐行為は、天皇を絶対視することですり替えたのである。“王政復古”という時代錯誤の号令は、薩長の行為を糊塗して、国民が一致して天皇を現人神として崇める思想を強要するものであった。こうした思想の強制は『教育勅語』に表わされる。「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」。これは「いざという時には一身を捧げて、皇室国家の為に尽せ」というもので、「無条件に天皇に命を捧げることが愛国心だ」というものである。だが、実際は天皇というよりは、薩長の為政者が恣意的に国民を支配し従属させる為の愛国教育に他ならなかった。こうした軍国主義・侵略主義・絶対天皇主義は明治維新によって生じたもので、これが太平洋戦争の敗戦まで続いたのである。明治維新の精神と行動を容認する薩長史観が、日本を滅亡に導いたといっても決して過言ではない。薩長史観が触れることのない明治維新の歴史的な汚点は未だある。西郷隆盛と勝海舟の会談による江戸城無血開城は、「明治維新が薩長主導の下で平和裏に行なわれた」という印象を与えてきた。だが、これもまやかしで、“官軍”による“賊軍”の掃湯が密約されていたのである。希代の陰謀家である西郷は、開城の条件として「徳川慶喜を助けた藩主は厳罰に処す」として、「これに異を唱えるものは断罪する」とした。勝はこれに同意して、暴挙を起こした者は“官軍”が鎮圧するとの要請を受け入れている。つまり勝は、“官軍”に逆らうものを“賊軍”として討伐することを容認していたのである。後に福沢諭吉は、無抵抗に西郷に屈した勝の卑劣な態度を糾弾する。賊軍征討の名目を得た西郷は、凄惨な戊辰戦争を強行した。西郷は“敬天愛人”を唱えたというが、実際の行動は“汚天殺人”と言っていいほどである。

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【知られざる戦国武将の真実】(18) 松永久秀――戦国一のヒール大名、調略・謀略に長けた男

20180615 07
謀略や術計渦巻く戦国時代だが、一番のヒールといえば、今回ご紹介する松永久秀をおいて他にはいないだろう。何せ、その人生は裏切りと謀反の連続。旧主家の三好長慶を裏切り、暗殺。更に、将軍の足利義輝を殺害し、京の都を牛耳ろうとした。奈良・東大寺の大仏の焼き討ちも敢行している。歴史上、主君殺しと将軍殺しと大仏の焼き討ちを行なった者など他にいない。織田信長も、「常人では一つとして成せないことを三つも成した男」と久秀を評している。しかし、この久秀、織田信長が京都入りすると、あっさりと降伏。敵わぬとみてとったのだ。その眼力含め、裏では連歌や茶道に長けた教養人、且つ領国に善政を敷いた名君として知られており、一言では括れぬダーティーヒーローといったところだろう。この久秀で有名なのが、その死に様。何と、“日本初の爆死をした男”なのである。信長に攻められて信貴山城に立て籠もるが、信長から「名器・平蜘蛛茶碗を差し出せば許す」と言われると、何とその茶器に火薬と共に爆死。火薬は同茶器に詰め、しかも辞世の句が“この平蜘蛛の 釜と俺の 首の二つは やわか信長に 見せざるものかわ”なるものだったから、怖いほどの情念を感じよう。享年68。ところが、である。近年、この久秀の爆死自体が嘘だったという説が有力となっている。それによれば、久秀は爆発を文字通りの煙幕として単身逃走。平蜘蛛茶碗を別の葛城城に隠し、後に豊臣秀吉にそれを進呈。目立たぬ側近として、穏やかな余生を送ったという。いずれにせよ、最後の最後で歴史家の目をも裏切ったのは、ダーティーヒーローの面目躍如と言えるだろう。 (フリーライター 瑞佐富郎)


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【知られざる戦国武将の真実】(17) 斎藤道三――親子2代で国盗り伝説、斎藤道三は2人いた!?

20180608 09
宮本昌孝の作品に『ふたり道三』(新潮文庫・徳間文庫)という歴史小説がある。戦国時代、油商人から身を起こし、守護・土岐氏を追いやり、美濃一国を手中に収めた斎藤道三は2人いたという快作で、それは父と子。2代に亘り美濃を平定したという話である。ところが、これがフィクションと思いきや、事実そのもの。1962年から始まった岐阜県史編纂の過程で、道三没後4年頃に書かれた『六角承偵条書写』という古文書から、道三の美濃盗りが本当に父子2代で行なわれたことがわかったのだ。息子の名は斎藤義龍。こちらは京都・妙覚寺の僧侶だったが、美濃の混乱の際に出陣。父に加担し、美濃の平定に尽力したのである。市井の知る斎藤道三の人となりについては、1963~1966年にかけて『サンデー毎日』で連載された司馬遼太郎の『国盗り物語』が基底となっている節があるが、ここで活躍するのは道山ひとり。抑々、子供の名前が道三じゃないのに、この史実が明らかになってからは、矢鱈と“ふたり道三”と称されることも、この司馬史観に対する反駁と思われる。司馬先生、一体何を思うだろう? ところが、このふたり道三説にもとんでもないオチが。道三は、この義龍に結局殺されてしまうのである。弟を2人殺した上での義龍のクーデターだったが、岐阜は長良川を挟んで行なわれた親子の対決は、軍勢道三2000に対して義龍1万7000。劣勢は明らかだった。死の直前、道三が「さすが道三の子にて候」と讃えたのは有名な話だが、物悲しさは募ろう。やはり、道三は1人のほうがよかったのかもしれない。 (フリーライター 瑞佐富郎)


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【知られざる戦国武将の真実】(16) 浅井長政――我々の認識とは違う戦国のイケメン条件

20180528 01
“イケメン武将”の話になった時、必ず名前が挙がるのが浅井長政だ。浅井久政の息子にして、浅井氏3代目当主。その美男イメージは各種コンピューターゲームでも流布されているが、実を言って、彼を美男子とした史料は嘗て無い。果たして本当にイケメンだったのだろうか? 確かに、生き様はイケメンだった。浅井家は元々、近くの六角家に支配されていた。この背景から、父・久政が長政を婿養子に出そうとすると、長政の怒りが爆発。六角家と戦い、勝利を収め、格好良く。浅井家の自由を得たのだ。義理人情にも厚かった。織田信長の妹・お市と結婚し、義理の兄弟の関係にも拘わらず、織田が浅井と昵懇だった朝倉義景を強引に攻めようとすると、悩んだ挙げ句、友情を取り、義景に加担。結局敗れ、29歳で自刃した。更に、イケメンの印象を助長させたのが、妻のお市の方。こちらは戦国一の美女とされ、それを謳う各種史料も残っている。更に、織田家と浅井家の仲が険悪になり始めた時も、2人は娘を出産している。絶世の美女だったお市が身を任す旦那な訳だから、きっとイケメンだろうという訳である。しかして、残っている長政の肖像画を見てみれば…むむむ、お世辞にもイケメンとは言えぬような…。説明しよう。戦国時代においては、その時代柄、やはり強い男がモテた。長政は今で言う美男子なる記述こそ史料には無いが、その体躯については堂々たる長身だったとあり、近年の研究では身長180㎝程だったと算定されている。当時の平均身長は約158㎝だったから、大男の部類、そして当時でいうイケメンだった訳だ。なお、妻のお市は身長170㎝程だったとか。これって…。そういえば、女も強いに越したことはない時代ではあるが。いずれにせよ、2人が当時の美男美女カップルだったことに間違いはないのであった。 (フリーライター 瑞佐富郎)


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【知られざる戦国武将の真実】(15) 朝倉義景――産まれるの早過ぎた、“凡将”評価覆らず!?

20180521 01
“凡将”というと必ず名の上がる武将がいる。朝倉義景。100年に亘って越前国を治めた名門、朝倉氏の第11代当主である。その評価は、「おっとりとした風流人、優柔不断で武将としての覇気が足りず、ここぞというときの決断に欠ける」(※『歴史読本』2011年4月号)。実際、そんな逸話には事欠かなかった。1567年、将軍・足利義昭が上洛を果たそうと義景に武力支援を募るも、義景は応じず。結果、将軍は織田信長の元に参じ、その威容を拡大させることに。1569年には織田から将軍御所造営への参加を求められたが、これを無視して姉川の戦いになり、一敗地に塗れた。1572年、浅井長政の守る近江小谷城へ織田が攻め込んだ為、救援に義景は駆けつけるも、織田の速攻で既に同城は裸城同然に。救援を中止して帰ると、その途中で織田軍の猛攻を受け、大敗。従兄の朝倉景鏡に「大野の賢松寺に移られよ」と諭され、そちらへ敗走した。とはいえ、風雅を嗜んだ義景。宣教師のルイス・フロイスは、彼の治めていた時期の越前を「日本において最も高貴」と評した。よって、そんな優美な義景にファンも多く、近年では再評価の動きも。1998年に行なわれた識者による講演会では、「将軍への武力支援を拒んだのは、当時、最愛の妻と子を亡くし、とてもそんな精神状態でなかったからだ」というフォローも。聴衆も大きく頷いていた。地元の福井で行なわれた講演だったが。 ところで、義景の最期だが、件の賢松寺に入ると軍勢に囲まれて、自刃。この軍勢、何と従兄の景鏡のものだった。つまり、最期は身内に裏切られたのだ。死後、いくら高評されても、やはり大事なのは生きている時点での評価なのかもしれない。 (フリーライター 瑞佐富郎)


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