【知られざる戦国武将の真実】(03) 足利義輝――塚原卜伝に一之太刀を伝授される!?

20180219 01
室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝といえば、塚原卜伝から一之太刀を伝授され、“剣聖”上泉伊勢守からも教示を受けたとされる、戦国を代表する剣豪の1人としても有名である。ただ、将軍と雖も、時は戦国下克上の時代。その生い立ちから苦難の連続であった。僅か11歳で元服し、父である12代将軍・足利義晴から将軍職を譲位されるも、管領職であった細川晴元との対立にて連戦連敗を喫し、近江国坂本まで逃れ、その後もその細川晴元を破った三好長慶との戦いにて、ほぼ京に居られず、1558年に三好一族との和睦がなり、やっと京に落ち着いたという有様であった。二条御所に居を定め、将軍職としては戦国大名たちの調停に奔走し、伊達(※晴宗と植宗)の騒動、武田晴信(※信玄)と上杉輝虎(※謙信)、島津貴久と大友義鎮(※宗麟)、毛利元就と大友義鎮、松平元康(※徳川家康)と今川氏真、上杉・北条・武田等の調停を頻繁に行なった。但し、これは天下泰平の世の為というよりは、失墜した将軍家の権威を復活させる示威行為であり、剣の道への盲信も「武の象徴としての権威的行為でもあった」と言われている。実は、塚原卜伝からの一之太刀伝授も記録が無く、「江戸時代の創作ではないか?」という噂もあるのだ。そして何より、義輝に疑問符が付く記録が残っている。戦国時代から江戸初期にかけて活躍した俳人・松永貞徳の『載恩記』には、「たいへんな悪御所(※将軍)であり、闇夜に刀に黒紙を巻いて辻斬りを行なっていた」という記載も存在している。1565年、二条御所に1万余の三好松永勢を迎え撃ち、寄せる敵兵を斬っては捨て斬っては捨て…と伝承される壮絶な最期であったが、実は辻斬りや人斬りの噂の将軍に手を焼き、排除したというもう1つの事実があったようである。 (編集者 御田晃生)


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【知られざる戦国武将の真実】(02) 北条早雲――素浪人から戦国大名に昇り詰めた男ではない

20180212 01
「下克上の元祖」「一介の素浪人から戦国大名に昇り詰めた男」「国盗り物語の主人公」「戦国の風雲児」――。北条早雲(1432又は1456-1519)のイメージだ。しかし、文献研究が進み、実は今では、上記の“伝説”の殆どが覆されている。はっきり言ってデマばかりであった。北条早雲は自身で“北条”を名乗っていない。早雲の息子で、第2代(※後北条氏第2代))の北条氏綱からである。早雲は、当時は伊勢新九郎盛時といった(※これが現在の定説)。新九郎は通称である。号は早雲庵宗瑞。自身では伊勢盛時・伊勢宗瑞と名乗った。父親の伊勢盛定は大名ではないが、足利将軍家の重臣で、駿河守護の今川家と同格の家柄だった(※つまり早雲は素浪人ではない)。後に早雲(※又は伊勢家)は今川家と様々に絡んでいく。早雲は盛定の所領である備中(※現在の岡山県)荏原荘で生まれ、暫くは同月に住み、後に父同様、将軍の奉行として仕官する。そして、運命の応仁の乱が勃発。今川義忠(※早雲の実の姉又は妹の北川殿が正室)が若くして戦死すると、今川家は分裂。義忠の嫡子だった竜王丸(※当事6歳、後の今川氏親)の相続に早雲が奔走する。この功績により、早雲は駿河国内に城と所領を与えられ、今川氏の家臣ながら大名化。これが後に早雲の伊豆討ち入りや相模乗っ取りへと繋がっていく。明応2(1493)年、早雲は幕府の命により、将軍の一族であり、伊豆に居住する足利茶々丸を討つ為、伊豆に攻め入る。5年掛けて伊豆を平定。そのまま伊豆を所領とした。その後は相模の小田原を奪取し、名実共に戦国大名となった。早雲の伊豆討ち入りは、東国の戦国化の嚆矢とされる。 (フリーライター 太田宏人)


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【知られざる戦国武将の真実】(01) 朝倉教景――権威名を名乗ることで“正当性”をアピール

20180205 01
“教景”という名は、越前朝倉氏の第伍代当主である朝倉教景(※美作守)を嚆矢として、合計5人が名乗っている。このような例は、日本の武家史上、他に例を見ない。因みに、美作守教景(1380-1463)は典型的な戦国武将であり、まさに自らの実力を頼りに下克上に生きた。美作守教景は越前守護斯波氏の家臣であったが、直接の主従関係の無い室町幕府の求めに応じ、度々関東に出兵して戦功を重ねた。この辺りの複雑な命令系統に、室町幕府の支配体制の“弱さ”が垣間見えるようだ。既に各地の守護は守護大名(※領主)化し、幕府の命などには従わない。そこで幕府は、美作守教景のような野心家を使い、幕府の敵を攻撃したのである。彼は勲功によって6代将軍の足利義教に気に入られ、足利将軍家が代々使っていた諱“教”を賜り、以降、“教景”と名乗った。つまり、“教景”は朝倉家にとって将軍からのお墨付きの証なのである。美作守の孫の教景(※第7代当主の孝景)の時代に、斯波氏を蹴落として越前を平定。越前守護となる。このような下克上は、当時としては珍しくなかったが、将軍よりの権威ある名を代々名乗ることで、自分たちの“正当性”を暗にアピールしていたのかもしれない。因みに、一時的にしろ“教景”を名乗ることが許されたのは、朝倉家当主(※又は実質的な嫡流・統率者)で、ある意味、“屋号”のようなものだったのかもしれない。現在わかっているだけで、美作守教景(※第5代当主)・家景(※第6代)・孝景(※第7代、英林孝景・朝倉敏景)・朝倉教景(※英林孝景の五男、以千宗勝)・朝倉宗滴(※英林孝景の八男)が“教景”を名乗っている。 (フリーライター 太田宏人)


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【1億人の戦争記録】(01) 東京大空襲の悲劇は山の手にもあった

20180118 01
昭和20年3月9日22時半頃だった。警戒警報のサイレンが鳴り響き、真空管の丸型ラジオから「B29編隊東京湾接近中」の放送が流れ、その頃には慣れっこになっていた我が家にも何故か緊張が走った。しかし、警戒警報は直ぐに解除され、「やれやれ、やっと寝られるわ」と、麻布二の橋の我が家に普段と変わりない夜が訪れた。しかし、そのB29編隊は囮の一団だったようで、直ぐその後の午前0時7分、別の編隊が帝都上空に飛来したのだ。その数325機。深川エリアを皮切りに空爆が開始された。被災は下町のみではなかった。同じ日に芝・麻布の一部も狙われ、多くの死傷者が出た。筆者は、これまであまり語られていない芝・麻布界隈が焼き尽くされた事実を、今でも鮮明に覚えている。当時中学2年生だった筆者の通う中学校が芝公園内にあり、学校から徒歩通学できる距離にあった私は防火班に組み込まれ、空襲時には何が何でも学校に馳せ参じなければならない任務を背負わされていた。母に見送られて家を後にした私は、高射砲の音を耳にしながら学校目がけて走った。家を出て直ぐ目にしたのは、麻布十番通の炎だった。いつもの通学路も炎で、辛うじて古川沿いの空き地から中の橋を通り、芝公園に向かえるかと川向こうを見たが、そこも火の海だった。「それなら赤羽橋だ」。呟きながら行く手を見ても、空一面が真っ赤に染まっている。赤羽橋から芝園橋へ行くと、警防団のおじさんたちが並んでいる。「ここから先に入れませんか? 学校の防火班なんですけど」「無理無理。増上寺の五重塔も焼け落ちたし、本殿も燃えているよ。虎ノ門までは火の海だ」。

バチバチと生木が爆ぜる音。立ち木に沿って駆け上がる炎。山火事そのものの芝参内。まさにそれは地獄絵だった。けれども、火炎の隙間から何とも言えぬ香りが漂っていた。目指す学校へ辿り着くことができなかった私は、兄も姉も学徒動員で家にいなかったので、残してきた母が心配になり、一旦、家に引き返し、母に実情を報告した。「芝公園も増上寺も火の海で、警防団のおじさんたちに止められて行かれなかった。でも、とてもいい匂いがした」「仕方がない。火の勢いが収まってからにしなさい。ここは大丈夫そうだから。匂いはきっと増上寺さんのお香でしょう」。ふと我に返って見上げた空には、B29の編隊が炎の光に照らされながら、難いほど悠々と東京湾から続々と侵入してきていた。玄関先に荷物を纏めていた母は、筆者を労いながら次の行動を指示した。「そうか、未だ空襲警報中だった」。午前3時近くに空襲警報が解除された頃、どこからともなく煤けた顔をし、憔悴しきった人々が防空頭巾で頭を覆い、リュックサックを背負い、足を引きずりながら家の前を通り過ぎて行く姿を見掛けるようになった。後からわかったのだが、本所や深川からやっと避難してきた被災者たちだった。「何とか動けそうだから学校へ行ってみる」「そういえば米田先生の所は神谷町だから、やられたんじゃないの?」「そうか。今度は神谷町のほうへ行ってみる」。兄も筆者もお世話になった歴史の先生が神谷町に住んでいたことを思い出し、急に心配になった。やや火の収まりが感じられ、夜明け近くなった頃を見計らって学校に向かい、再挑戦を目論んだ筆者は、赤羽橋から芝参内を抜けるルートを避け、飯倉1丁目から神谷町に向かう坂道を選んだ。中央に市電の線路が走り、かなりの道幅の道路だったが、線路を挟んだ両側の家は燃え落ち、市電の架線が至る所に垂れ下がっていた。危険な道程だったが、「早く学校へ…」の気持ちが飯倉1丁目の坂上まで押し上げてくれた。「凄い! 酷い!」。坂上から神谷町方面を見下ろした筆者は思わず呻いた。赤羽橋から飯倉1丁目までよりも凄惨な、筆舌に尽くし難い地獄絵が広がっていた。狭い道路の中央に市電の架線が垂れ下がり、両側の家々は未だ燻り続け、車道のあちこちに焼け焦げた荷物が足の踏み場も無いほど散乱していた。異臭は赤羽橋付近より強くなった気がした。進むのに邪魔になる車道上の焼け残りを道の両脇に寄せようと、燻っている荷物を足で転がして愕然とした。と同時に、申し訳ない気持ちで一杯になった。何とそれは焼死体だったのだ。焼け焦げて土管のように見えた部分が背中だった。逃げ遅れた人々が両側からの火攻めに遭い、熱を避けようと背を丸めて倒れたのだろう。内側は辛うじて焼け残り、もんぺ(※戦時中の着物)の端が覗いていた。そんな多くの焼死体を跨ぎながら、中学校へ辿り着いて目にしたものは、焼け残った時計塔と憔悴しきった当直の先生だった。「ご苦労さん、ご覧の通りだ。手の付けようがないから家に帰りなさい。お宅だって大変なんだろうから」。どうにもなす術がなかった学校を後に、心配だった歴史の先生を探しに神谷町へと急いだ。

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【徴用工は不幸だったのか】(02) 戦時動員――想像以上に良い待遇、消し去られた史実

20180105 01
“在日論”と呼ばれる分野がある。論文・エッセイ・ノンフィクション作品等からなるこの分野に特徴的なのは、在日韓国・朝鮮人の犠牲者性と日本国の暴力性を執拗に語り続けるという態度で、語り口には無論、ある程度の多様性があるが、“在日犠牲者論”の性格を逸脱する例は少ない。この犠牲者論的在日論、単行本だけでも数百点に上ると思われるが、1冊突出した本がある。朴慶植(1922-1998)が1965年に刊行した『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)がそれで、日本の“罪の政治学”においてこれだけの影響力を発揮した本はない。この本が存在しなかったら、“戦後補償訴訟”を知識人や弁護士たちが提起することも、また『国際労働機関(ILO)』のような国際機関に朝鮮人・中国人の強制連行や強制労働の問題が提訴されることもなかったであろうと、朴の後継者の1人である歴史学者の山田昭次は言うが(※『在日朝鮮人史研究』第28号、1998年12月)、同感である。とりわけ1972年、『朝鮮総連』がこの本を媒介にして日本人に呼びかけ、朝鮮人戦時労務動員の調査・発掘を始めたことの意義は大きい。それは軈て、様々な論稿や著書や史料集を生み出すと共に、強制連行論の大衆化に貢献するのである。朴は当時、朝鮮大学校歴史地理学部の教員。この本は、朝鮮と日本の友好親善と連帯をより強化する為の1つの材料として纏めてみたものだという。よくある党派的な本の1冊であることがわかるが、しかし、これは並みの党派的な本ではない。朴は、“朝鮮人強制連行”という熟語が日本人の心に集団的な後ろめたさの感覚を植え付けることを直感した人であると共に、その物語を作った人でもある。

ところで、この“朝鮮人強制連行”という熟語、1980年代以後は学校教科書にも記載されているから、価値中立的な歴史用語と考える人がいるかもしれないが、とんでもない。『朝鮮人強制連行の記録』のまえがきの末尾で、朴はその執筆意図をこう記している。「在日朝鮮人が過去どのような苦難な道を歩いてきたか、特に太平洋戦争中の朝鮮人強制連行の問題を通して、帝国主義侵略者の正体を明らかにするとともに、在日朝鮮人の民主主義的民族権利を守るために、また帝国主義侵略者からうけた思想的残滓を少しでも除去し、朝鮮と日本の友好親善、真の平等な国際的連帯のために本書がいくぶんなりとも役にたてばと念願している」。この文から明らかになるのは、この本が歴史の本であるとしても、極めて政治化した歴史の本であるということである。実際のところ、朴が試みたのは、嘗て“内地移送”・“集団移入”、或いは単純に“引率”と言われていた事象を、“強制連行”というおどろおどろしい言葉に置き換え、それに見合う事例を次々に提示してみせたということである。朝鮮人強制連行論とは、端的に言って、戦時期に朝鮮人の男たちが炭鉱や建設現場で経験した犠牲者性と、日本国の加害者性や暴力性を語るものである。しかし、その犠牲者性とは、戦場に駆り出された日本人の男たちを代替する性格のものであったことを忘れてはならない。朝鮮人にも志願兵制度はあったが、徴兵制が適用されたのは戦争末期の1944年9月になってからのことだ。つまり、朝鮮人強制連行論とは、朝鮮人の男たちが炭鉱や建設現場に駆り出されていたまさにその時間に、日本人の男たちが戦地に赴いていたことには触れないまま、死と隣り合わせにいた兵士たちより、鉱山や建設現場で苛酷な労働に従事していた朝鮮人たちの犠牲者性を語るのだが、これを私たちはフェアな態度と見做すことができるだろうか? 初めて『朝鮮人強制連行の記録』の本を見かけたのは1969年、四ツ谷の書店であったが、買おうとは思わなかった。そのおどろおどろしいタイトルに恐れをなしたということもあるが、どこか他人事のようにも思えたからである。その時にはよもや、この朝鮮人強制連行論が軈て日本の学校教科書に記載され、日韓のみならず、世界中のメディアや学界や官僚たちの標準的な歴史観になろうとは想像もしなかった。今思うに、これは自分が生きている時代に経験した殆ど奇跡のような出来事であった。この本の成功の秘訣は、何よりもそのネーミングの妙にあったと思う。“朝鮮人強制連行”とは、日本の尊厳を傷付ける烙印語の性格を持ちながらも、日本人の心に集団的な後ろめたさの感覚を植え付ける道徳語の性格も備えている。

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【2018年の日本を読み解く】(10) 維新150年、葛藤が鍛え上げた“明治の精神”

20180101 21
今年は明治維新から150周年にあたります。この節目にあたって、“明治の精神”について考えてみたいと思います。明治という時代は、まさに日本の歴史の激動期であり、そこには様々な思想・感情の動きがありました。その中でも、私が“明治の精神”を最もよく表していると思うのは、大正元年9月13日、明治天皇の大葬の日の乃木希典大将の殉死です。これは、江戸時代から息衝いていた武士道精神、その最後の表れだったと思いますが、興味深いのは、この乃木の殉死に対する当時の人々の反応です。この時、芥川龍之介や白樺派の文学者たちは「時代錯誤だ」と批判しました。志賀直哉が日記に記した「『馬鹿な奴だ』という気が、丁度下女かなにかが無考えに何かした時感ずる心持と同じような感じ方で感じられた」という感想が有名ですが、彼ら明治10年・20年代生まれの人たちは、近代的な観点から乃木の行為を「無意味なものだ」と感じた訳です。それとは全く違った反応を示したのが、幕末生まれの森鴎外であり、夏目漱石でした。鴎外は乃木の死を知るや、殉死を扱った短編『興津弥五右衛門の遺書』を書き上げました。僅か5日後の18日には『中央公論』に原稿を渡しています。漱石は、その1年半後に発表した『こころ』で、明治天皇崩御の報に接した先生に、「自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積だ」と語らせ、乃木の殉死への共感を記しています。後の研究では、「これは死と再生をテーマにしているのだ」という解釈が有力だそうです。「明治という旧来のものと決して、新しい自分への一歩を踏み出す為に、鴎外や漱石は自らを作品の中で殺したのだ」と。私は、この解釈は完全に的外れだと思います。鴎外は文久2(1862)年生まれ、漱石は慶応3(1867)年生まれ。当時、もう50歳前後になっていた。この頃の50歳といえば立派な老人です。今更再生もありません。

私は、芥川や志賀らに代表される“新時代”の風潮、人間を近代合理主義的な視点で割り切れると思う連中に対する怒りだったと思うのです。人間とはそんなに簡単なものではないという。鴎外も漱石も、生まれたのは江戸時代です。彼らは、江戸時代の教養・道徳・情緒と形(※礼儀・佇まい)を十分に身に付けて育ちました。そしてその上で、圧倒的な西洋の科学文明に直接接し、激しく格闘を続けた世代です。彼らは謂わば、葛藤の世代でした。私は、鴎外・漱石たちこそ本当の“明治人”だと思います。それに対して、芥川や白樺派、後の大正デモクラシーを支えた世代は“大正人”です。彼らは日本にいながらにして、西洋の思想や知識を身に付けた、或いは身に付けたと思い込んだ世代でした。そして、西洋的・近代的な考え方・価値観を、旧い日本的なものに代わるものとして受け止めた世代でもありました。私は、この差は大きかったと思います。鴎外・漱石は共にヨーロッパに留学した、当時のトップエリートです。謂わば、文明開化を体現する存在でもありました。しかしその一方で、それ以前の日本人の在り方も深く知っていた為に、常に伝統と近代双方への自省と懐疑を繰り返していた。そうして、自分の思想を鍛え上げていったのです。漱石には、こうした考えを非常に明快に語った講演があります。明治44年の『現代日本の開化』で、漱石は「日本の開化は、西洋からの圧力に対応する為にやらざるを得なかった。外発的なもので、無理を重ねたものだ。これを自覚しないと、軽薄で、虚偽の、上滑りなものになってしまう」と警告しているのです。この漱石の予言は的中しました。大正世代のインテリたちは、ゲーテやカント等の舶来の教養を一生懸命身に付けましたが、そこに葛藤が無い、日本という根が無い為に、結局は借り物の思想になってしまい、その危うさに気付けなくなってしまったのです。大正デモクラシーを謳歌しているうちにロシア革命が起こる。すると、インテリたちはマルクス主義にあっという間に被れます。そして、昭和10年代になって、ナチス等の台頭を見て、今度は一気に軍国主義に流されてしまった。つまり、海外の思潮(※トレンド)を無批判に受け入れたという意味では、マルクス主義も軍国主義も同じなんです。この危うさは現代にも通じるものです。「冷戦が終わって、もうイデオロギーの時代は終わった。これからは経済だ」となると、一気に新自由主義・グローバリズム全盛の時代になった。これは、大正世代の“上滑り”・“虚偽”・“軽薄”と共通しています。明治人・漱石の批判は、現代日本にも当て嵌まるのです。そして、もう1つの明治の精神、それは“志”でした。「男子志を立て郷関を出ず、学もし成る無くんばまた還らず」という気迫です。私は熊本を旅したことがありますが、小国町という山村から北里柴三郎が生まれ、地震の被害にも遭った益城町からは徳富蘇峰という大ジャーナリストが生まれた。北里はコッホの下で破傷風菌の純粋増養に成功し、最初のノーべル賞を確実視されながら、人種差別の壁に阻まれた天才医学者です。ケンブリッジ大学やコロンビア大学からも引く手数多だったのに、「日本の為に自分の研究を生かしたい」と言って帰国するのです。そうした“志”が、日本の小さな村々にまで脈打っていた。明治という時代を振り返る時、そこには自国の文化に深く根差した“葛藤”と、「日本の為に」という“志”があったことを、今こそ思い起こすべきでしょう。 (お茶の水女子大学名誉教授 藤原正彦) =おわり


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【徴用工は不幸だったのか】(01) 軍艦島――地獄ではなかった炭坑の島、坑夫同士は運命共同体

20171127 04
「戦時期に日本に“強制徴用”されて、苛酷な労働を強いられた」と訴える訴訟が韓国の裁判所に提訴され、相次いで日本企業に補償を命令する判決が出されている。文在寅政権は、いずれ“徴用工”被害の対日補償交渉を求めてくるだろう。今年7月末には、“強制連行”されて苛酷な労働を強いられた“徴用工”の脱出劇を描いた韓国映画『軍艦島』(※柳昇完監督)が公開された。軍艦島とは、長崎港の南西海上にある端島の別名で、2015年7月、『明治日本の産業革命遺産』の構成資産の1つとして、ユネスコの世界文化遺産に登録されたが、韓国は官民を挙げて強制労働批判キャンペーンを展開。『軍艦島』の映画も。その一環なのだろう。“徴用工”には新しいアイドル(=偶像)も誕生している。韓国の市民団体がソウルの日本大使館前の“慰安婦像”に並んで“徴用工像”を設置するという計画がそれで、釜山や光州にも設置の計画があるという。その際、“慰安婦像”が“平和の少女像”の姿をとったように、“徴用工像”も少年像の姿をとるようで、これで韓国には“戦争犯罪国家日本”に立ち向かう男女平等の犠牲者像が並び立つことになる。一方、書店には児童用の絵本『軍艦島 恥ずかしい世界文化遺産』(※ユン・ムニョン作、ウリ教育)が並べられていて、次世代への刷り込みに怠りない。セドリという幼い朝鮮人の少年が軍艦島に強制連行され、他の朝鮮人少年と共に奴隷労働を強いられるという物語だが、戦時期の端島で働いていたのは青壮年の坑夫たちであって、朝鮮人の少年がいたとしたら、それは島の小学校に通う児童ではなかったか?

強制連行論・強制徴用論は先験的に、朝鮮人に対する民族差別的な人権蹂躙を語り、それに見合う事例を展示してみせるが、実際のところ、戦時期の端島にいた日本人労働者と朝鮮人労働者の間に明瞭な民族差別を探すのは困難であろう。とはいえ、慰安婦問題であれ徴用工問題であれ、日本に対する戦争責任批判は良心的日本人が韓国人に焚き付けたという側面もあるから、問題は複雑である。他民族に対する“恨”の感情、ルサンチマンの感情とは、本来、飼いならされるべきもの、封じ込められるべきものであって、活性化させるべきものではない。しかし、そのことに韓国の政治家や知識人は自覚的でなかったし、良心的日本人にもそのセンスが欠けていた。こうして、1980年代以後の日韓には、「親の仮面をかぶって演じる偽善劇」(※田中明)の時代が暫く続いた。偽善劇を演じないと日韓交流も円滑にいかないから、“被害者”の仮面を被った韓国人に合わせて“加害者”の偽善劇を演じる日本人も少なくなかったし、無論、それを真面目に演じる日本人もいたのである。偽善劇の時代は“罪の政治学(politics of guilt)”の時代でもあった。罪の政治学とは、負の過去の告白と償いを中心思想とする新しい世界宗教で、そのよく知られた例はドイツが実践するホロコーストへの償いであり、戦後のドイツがその教育や社会化を通して、国民に新しい良心の体系を刷り込んできたことは周知の通りである。敗戦国家として出発した日本にも、類似した体験がある。軍国主義日本批判は戦後日本のメディアや学界の主要関心事であり、人権思想や平和主義は日本型“罪の政治学”の副産物であった。部落差別の解消を目的にして行われた同和対策事業は、日本的な罪の政治学の実践の例であり、中国やコリアに対する贖罪や在日に対する反差別運動もあった。1980年代以後、韓国から繰り返される“歴史認識”批判に日本人が概ね違和感を提示しなかったのは、戦後の日本の学界やメディアの実践の成果と言うべきもので、教科書問題・在日・靖國といったイシューを経て、今は徴用工の時代を迎えているのである。しかしこの数年の間、日本では罪の政治学に対する反発がいつになく高まり、贖罪派日本人にも以前よりは注意深さが見てとれる。とはいえ、変化が待ち受けているという訳ではない。韓国人には罪の政治学によって損失を被っているという感覚が稀薄であるから、自己反省の気運が出てくることを期待するのは難しいし、日本人の場合も、罪の政治学や“ポリティカルコレクトネス(PC=政治的正しさ)”が世界の新しい規範であることに気が付いているエリートたちには、抵抗の気運は少ない。異議を唱えているのは、エリートというよりは大衆たちなのである。扨て本稿は、今日、韓国や日本で加害・被害の関係として語られることの多い日本統治期の日本人と朝鮮人との関係を、主には戦前の新聞資料を使って眺め直してみようとする試みである。

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【New Theories of NINJA】(07) 始まりは孫子の兵法から? 忍術の深淵なる歴史

実在した忍術は、どのようなものだったか? そして、どのような歴史を経て育まれたものなのか? 今日に伝えられる忍術の変遷を紐解いていこう。 (取材・文/フリーライター兼編集者 友清哲)

20171120 01
高名な忍術研究家である奥瀬平七郎が遺した文献には、「忍術の源泉は、6世紀に仏教と一緒にした中国の兵書“孫子”である」と明記されている。孫子は、中国春秋時代(※紀元前400年前後)の軍事思想家・孫武が著したとされる書だ。それまで、戦争の勝敗は多分に運に左右されるものと考えられてきたが、孫武は勝利を招く為の方法を理論化し、体系化した。例えば、「勝算を高める為には、敵と自軍の総合戦力を比較調査し、予め勝敗を予見することが重要だ」と述べている。これにより、明らかな負け戦を避け、自軍の戦力アップに一層励むべしという訳だ。これは、今日の外交にも通ずる考え方だろう。そこで重要なのが間(※スパイ)であり、情報戦を制する為に日本で初めて忍びを使ったのが聖徳太子であり、蘇我馬子であったとされる訳だ。とりわけ、大和朝廷の豪族であった蘇我氏は、外来文化を最初に摂取する立場にあるから、その族長である馬子と聖徳太子が孫子の兵法の影響を色濃く受けるのも納得できよう。なお、馬子が漢系の渡来人を間として使い、蘇我氏の政敵を次々に暗殺したのに対し、聖徳太子は3人の忍びを使って広く世間の情報を集めている。その3人の内の1人が服部氏族で、子孫の服部家長が伊賀流忍術の開祖となった経緯がある。その後、時代の進行と共に忍びは諜報の為の術を磨き、その発展の過程で山伏兵法等の影響を受けながら育まれたのが忍術である。

尤も、山伏兵法は中国から伝来した武術に近く、諜報用というより戦闘用のテクニックであったようだ。忍術が持つ二面性の一端は、ここに端緒がある。忍術書は幾つも現存しているものの、敵方の目に触れることを恐れてのことか、隠語が使われていたり、敢えて詳細な解説を省いた記述が目立つ。その為、数ある忍術をどう体系化するかは悩ましいところだが、『伊賀上野観光協会』の纏めでは、伊賀流忍術は主に9項目に分類されている。薬方術・火術薬方・忍具術等は、その名称からして推して知るべしだが、他の項目については『萬川集海』の中に詳しい記述がある。例えば、将知術というのは、主に敵の秘計を知る為の察知術。陽忍術・陰忍術というのは其々陽術・陰術とも呼ばれ、姿を現しながら敵中へ入り込むのが前者で、姿を隠して忍び入るのが後者である。陽忍術には、味方のふりをして敵に取り入ったり、敵の中の不満分子に働きかけて寝返らせたりする、人心掌握の手法が多分に含まれているのが特徴だ。翻って陰忍術は、敵の守りを掻い潜って忍び入る、まさに隠密としての手口に他ならない。なお、甲賀の忍術書『甲賀奥義之博』には、敢えて自身が優れた忍者であることをアピールし、敵の戦意を喪失させる手法こそを“陽忍の術”と記してもいる。これは、現代の街中で見かける警察官立ち寄り所の掛札と同じ効果を狙ったものだろうか。この他、鉤縄等を使って石垣を登る“登術”や、水蜘蛛を使う“水術”、竹筒等を壁等に当てて隣室の会話を盗み聞きする“盗聴術”等、今日に伝えられる忍者の技術は枚挙に暇が無い。因みに、どう考えても虚飾の域を出ない“分身の術”についても、実は古文書に痕跡がある。無極量情流なる流派に伝わる伝書の中に、「真言を唱えることで1人が7つの身に分身できる」という記述があるのだ。尤も、それがどのような真言であるのか、そしてどのような原理であるのかについては一切の言及が無く、真相は藪の中である――。 =おわり


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【New Theories of NINJA】(06) 忍術とは何か…多分野に亘る深い知識を活用した忍者たち

忍術書には様々な忍術の技術が書き記されている。それは目的を果たす為、或いは生きる為の知恵の集積だ。フィクションの世界とは一線を画す、リアルな忍術を追っていこう。 (取材・文/フリーライター兼編集者 友清哲)

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フィクションの世界で忍術といえば、巻物を口に銜えてドロンと姿を変える類いのものが幅を利かせているが、それが脚色された虚構であるのは言わずもがなである。しかし、忍者は確かに、彼ら独自の知恵と工夫を体系化し、後の代に伝承してきた。“○○の術”と明確に名付けられるものもあれば、忍者が日常的に使ったテクニックもある。その多くは、今日でいうところの化学や天文学、或いは心理学等の知識の応用である。例えば、忍者は地磁気の存在を理解していた訳ではないだろうが、縫い針や薄い鉄の板を使って簡易な方位磁石を作り、方角を測定していたというから驚かされる。また、植物学の知識を駆使し、自生する植物の種類を見極めて水場の場所を見つけるな等、豊かな知恵をもって野山をサバイブしていたのだ。任務が長期に及ぶ場合、水の確保はとりわけ重要で、穴を掘って地面に耳を当て、地下水の鼓動を探したり、鳥の羽を地面に突き刺して、数時間後に羽に水満が上ってくるのを確かめて水の在り処を探す等、複数の手段を状況や環境に応じて使いこなしていた忍者たち。こうした知見は、謂わば“お婆ちゃんの知恵袋”に近いもので、自然の法則を熟知していればこその技術と言える。

とはいえ、中には非科学的な作法もある。数ある流派の中でも伊賀は、実は呪術的な機式を伝えることで知られている。修験道の流れを組む儀式的なものも少なくないが、例えば鹿の皮で誂えた袋を使う“真鹿袋之法”は、詳細こそ不明だが、どんな場所にも忍び込める秘術であったという(※瞬間移動のようなものだろうか?)。この他、催眠術や心理トリックのような技術を駆使する一定の効果が見込めそうな技も多く、それらが忍者の神秘性を高めた輝面もあるだろう。尤も、そのおかげで伊賀は織田信長に“魔性の国”と呼ばれ、忌み嫌われることとなるのだが。周囲を山に囲まれた伊賀の盆地には、都から逃れてくる他地域の一族も多く、古くは大和朝延の呪術を司っていた物部氏が移り住んだとの説もある。呪術等の宗教的な儀礼が、自然の法則を活用した技術と組み合わさり、それらが総称して“忍術”と括られたというのが真相だろう。また、忍者が高い身体能力を備えていたのは事実だ。抑々、車も飛行機も無い時代、態々鍛えずとも彼らは十分な体力を備えていたと推測できるが、城壁を登ったり、天井に張り付いたりする筋力を養う為に、木に長時間ぶら下がる等して腕や指を鍛えたと言われる。更に、忍者が重視していたのが呼吸法で、通常の呼吸とは逆に、息を吸った時に腹を凹ませ、息を吐く時に膨らませる“逆呼吸法”を駆使することで、通常の2~3割増しのパワーを発揮したという。実際、腹式呼吸によるパフォーマンスアップの効果は、現代のスポーツ科学でも認められている通りである。そうした鍛錬の他、忍者は睡眠についても研究を重ねていたという。これは、自身の回復に充てる目的も然ることながら、月明かりの無い日等、人間の眠りが深くなる日を選んで敵陣に忍び込むことで、任務の成功率を上げたのだ。忍者とは、斯様に豊かな知見を駆使するエキスパート集団であった訳だ。


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【New Theories of NINJA】(05) 忍者が“印”を結ぶ意味とは?

映画や漫画等に登場する忍者が、「臨、兵、闘、者…」と九字を切るシーンを誰しも見たことあるだろう。この作法には一体、どのような意味があるのか? (取材・文/フリーライター兼編集者 友清哲)

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忍者は修験道の影響を色濃く受けている。「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前」と印を結ぶ姿等は、その最たるものだろう。これは日本密教に伝わる『九字護身法』で、9つの真言を唱えることで邪気を払う意味がある。実際、忍術書の中でも、この九字護身法に関する記述が認められている。但し、多くの忍術書には呪術的な記載と実用的な技術が混在しており、当時の人たちにとっては、印を結んで真言を唱えると姿が消える術と、雲を見て天気を予想する技術には、明確な境が無かったのかもしれない。修行を積んだ忍者は、印を結ぶことによって集中力を高めながらリラックスし、理想的な精神状態を作り上げることができたという。言うなれば自己暗示の一種だが、大きな仕事に臨む直前や、突然の窮地に心の平穏を取り戻す際等、忍者にとって拠り所となっていたと推察される。こうした技は、現代のビジネスマンにも応用可能なのではないだろうか?

■印を結ぶ効果は科学的に認められている
修験者は嘗て、「山へ入る前に印を結ぶことで、自分が護られる」と信じていました。忍者も、これを受け継いだのでしょう。今日で言うところのおまじないのようなものですが、実際、印を結ぶことで脳波が安定することは科学的に証明されています。尤も、あくまでそれも修行の成果であり、一流アスリートが集中力を高める為に行うルーティンのようなものですね。 (三重大学人文学部教授 山田雄司)


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