【“本物の大人”の為の世界史この100年】(17) 揺れ続けるスペイン内戦への評価…歴史とは何なのか?
国際秩序は大国間の合意だけで形成され、地続きの中小国はそれに翻弄されるだけなのか。スペイン内戦(※1936~1939年)は当初、左派中心の共和国政府に対し、後に独裁者となるフランシスコ・フランコを中心とする軍や保守派が反乱を起こした内戦ではあったが、結局、諸外国を巻き込み第二次世界大戦、更には冷戦への前哨戦となった。戦間期、多様性を重視して纏まりを欠いたスペインでは、アメリカのフランクリン・ルーズベルトやイギリスのウィンストン・チャーチルのような傑出したリーダーは不在だった。二度の世界大戦の狭間に勃発したスペイン内戦から、現代の世界情勢へどのような歴史的類推(※アナロジー)を引き出せるのか。第一次世界大戦を経験した欧州各国は、戦争回避の為に『国際連盟』等集団安全保障体制の構築に期待を寄せたものの、最終的にその理想は崩壊することになる。スペイン内戦に際し、全面戦争を回避すべく、フランスやイギリスは共和国政府への支援を見送り、紛争の拡大防止を選択したつもりだった。英仏を中心とした不干渉委員会には、ドイツやイタリア、ソビエト連邦等27ヵ国が参加した。しかし、これは全ての列強が尊重して初めて大規模な戦争への発展を阻止できる仕組みだ。結局、フランコ率いる反乱軍には独伊が、共和国政府側にはソ連が介入し、内戦は一見、ファシズムと反ファシズムの代理戦争の様相を呈していく。アドルフ・ヒトラー政権下のドイツは全欧州を巻き込む戦争は望んでいなかったものの、スペインの左傾化を阻止し、英仏のヘゲモニー(※覇権)を崩す為の好機と見做していた。イタリアのベニート・ムッソリーニもまた、イギリスの地中海における覇権の弱体化の好機と見做していた。一方、ソ連のヨシフ・スターリンは共和国政府の敗北は望まないが、ドイツに対抗する為にも、英仏を刺激するような革命的左翼の徹底的な勝利も回避したかった。共和国側には、共産主義者や社会主義者、無政府主義者等、抑も思想的に相容れない人々が同居し、足並みは揃っていなかった。スターリンは、特に自身の政敵であるレフ・トロツキーに同調する思想の人々を抹殺すべく刺客を送る等、共和国政府側内の粛清を進めていく。この際のソ連の経験は、第二次世界大戦後、ソ連勢力圏となったポーランド等東欧を支配する中で応用された。スペインから見た各国の態度は、欺瞞的・偽善的であった。結果的に、共和国政府は世界から見殺しにされるが、内戦に勝利して第二次世界大戦を切り抜けたフランコ政権も、数年間はファシスト政権として国際的に非難される。特に『国際連合』の常任理事国となったソ連は、国連からのスペイン排斥決議を強力に支持した。では、スペイン内戦の波紋はどのように拡大したのか。空間・時間的に広い視点から考えると、また違った景色が見えてくる。内戦当初、反ファシズムという国境を越えたイデオロギーによる団結の下、国際義勇軍が派遣された。ソ連からは勿論、アメリカからも共産党系の義勇軍が派遣された。そして共和国政府側で戦った人物の中には、後に各国で頭角を現す人々がいた。

例えばユーゴスラビアの指導者ヨシップ・ブロズ・チトー、1970年代後半のイギリスで首相以上に影響力のある人物と言われた労働界の重鎮ジャック・ジョーンズ等である。また、内戦から戦後にかけてのスペイン史においては、アメリカが大きな存在感を放つ。大部分の石油を輸入に頼っていたスペインでは、内戦時の燃料供給は死活問題であった。アメリカでは、1935年より交戦国への武器輸出、資金貸し付けを禁止した中立法が存在した。しかし、それは結果的に共和国政府の武器輸入の権利を制限することとなった。航空機会社は既に受注していた製品を共和国政府へ輸出できなくなった一方、石油・自動車会社はドイツ経由で反乱軍へ物資を売却していた。戦後孤立したフランコ独裁政権はアウタルキー(※自給自足)政策をとるが、石油を持たぬ国が行なうのは無謀であった。だが冷戦の時代となり、アメリカは地政学的重要性を認識し、スペインに接近。アメリカ軍基地設置や経済協力を定めた『米西協定』を締結し、日本に先立つこと1年、1955年に国連加盟を成し遂げた。ある石油メジャーの執行役員は、アメリカ国務省の懸念をスペイン側に伝え、対米強硬派のスペイン外相を解任するよう圧力をかけ、スペインの工業大臣の人選に意見する等、フランコ政権末期まで内政干渉を行なっていた。こうした動きは冷戦期アメリカの対中南米政策で適用されたものであり、戦間期から戦後にかけてのアメリカ外交の一端を垣間見ることができる。報道という観点からも興味深い事例がある。写真家のロバート・キャパがスペイン内戦の戦場で撮影したとされた写真『崩れ落ちる兵士』は、世界にスペイン内戦を印象付ける一枚となった。だが近年、これは戦闘の瞬間ではなかったことが明らかとなっている。
スポンサーサイト