未だソープが“トルコ”と呼ばれていた50年前、札幌のトルコは全国からやって来る愛好者で人気を呼んでいました。お店所属のトルコ嬢の写真を店頭に並べたり、キャスト全員の写真をチラシに掲載して配ったりと、これまでにない客寄せの宣伝をしていたからです。今では本人の写真を週刊誌の広告に掲載したり、風俗専門誌やインターネット上に載せることも珍しくありませんが、昔は「体を売っていることを世間に知られるなんて、死ぬよりつらい」といった風潮がありました。が、札幌のトルコ嬢は顔出しすることに躊躇することなく、「商売になることなら何でもやってやる」との先進性を持っていたのです。北海道という土地柄のせいもありました。本土では、町内会の人達はご先祖さまの時代から知り合いで、勝手なことをしたら村八分に遭う恐れがあったのですが、北海道は戦後の繁栄と共に街がつくられました。だから、ご近所さんも皆、土地の人間ではなく、親しく付き合う機会がない為、自由に生きることが許される風土がありました。今日においても、風俗のみならず、AVの世界でも北海道出身の女性が多いのは、そのせいのような気がします。その頃、札幌ではオリンピックが開催され、商売の英会話教材販売のほうも順風満帆でした。
札幌市内には40軒ほどのトルコがあったように記憶しています。病みつきになって、1日に多い日では3軒のお店をハシゴしていたのです。よくもそんな精力があったものだと自分のことながら恐れ入るのですが、中でもお気に入りのトルコ嬢がいて、贔屓にして通っていたお店がありました。毎週1回は必ず顔を出していたのです。そのゾッコンだったトルコ嬢は必ずしも選りすぐりの美形というわけではありませんでしたが、体が合いました。“おもてなし上手”と言ったほうがいいかもしれません。“濃厚接触”の折には「凄い、プロみたい、上手よ」と口走り、私を有頂天にさせてくれるのでした。そして、“交渉中”に何度も「またイッちゃう、どうしよう」と白目を剥いて、しがみついてくる所作をしました。「ひょっとしたら自分は道産子一の種馬かもしれない」と自惚れさせられたのです。ある日、いつものようにその店に行くと、顔馴染みの店長に彼女が死んだことを知らされました。4日ほど前にヒモのヤクザと、彼女に夢中になっていたお店のお客と3人で、彼女のマンションで自殺を遂げたというのです。彼女に溺れていた身として心が大きく揺さぶられ、それから3日間ほどはショックで家から一歩も外に出ることができませんでした。何かの拍子に彼女の「凄い、プロみたい、上手よ」としがみついてきた姿が頭に浮かびます。あの褒め上手がエロ事師道の支えとなった気がします。
村西とおる(むらにし・とおる) AV監督。本名は草野博美。1948年、福島県生まれ。高校卒業後に上京し、水商売や英会話教材のセールスマン等を経て裏本の制作・販売を展開。1984年からAV監督に転身。これまで3000本の作品を世に送り出し、“昭和最後のエロ事師”を自任。著書に『村西とおるの閻魔帳 “人生は喜ばせごっこ”でございます。』(コスモの本)・『村西とおる監督の“大人の相談室”』(サプライズBOOK)等。

2022年9月1日号掲載
テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体