見た目の演出ばかりに凝って肝心のストーリーは超低レベル…『君の名は。』の新海誠監督に代表されるサブカル受けアニメクリエイターの作品が駄作過ぎて薄っぺらい!

ジブリ映画以外では過去最大のヒットとなっているアニメ映画『君の名は。』(東宝)。感動作と評される本作だが、そんなのは思考停止したバカの感想だ。近年増えつつある雰囲気だけのクリエイターを徹底批判する!

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近頃、あるアニメ映画が俄かに注目を集めている。新海誠監督の『君の名は。』だ。当初、監督自ら「目標は20億」と公言していた興行収入は、封切りからたった1ヵ月で111億円を突破。更に、そこから10日足らずで130億円を超え、今や日本映画の歴代興行収入ランキングで6位に名を連ね、大ヒットを飛ばし続けている。その反響たるや凄まじく、公開直後から『ツイッター』等のSNSでは「感動した!」「泣いた!」等と絶賛の嵐が吹き荒れ、テレビ等の大手メディアでも連日特集が組まれるほどの過熱ぶりを示している。そんな熱狂の渦を生み出した作品のストーリーは次の通り。ド田舎に住む巫女兼女子高生の三葉(みつは)は、ある日突然、都会の男子高校生である瀧(たき)と体が入れ替わってしまう。急激な変化に戸惑いつつも、憧れのアーバンライフを満喫する三葉だったが、ある事実が判明してストーリーは一転。実は、三葉の住む町は、3年前に隕石の落下で消滅しており、三葉も既に死んでいたのだ。いつの間にか恋に落ちていた2人は、すったもんだの挙げ句、3年前の世界で町民たちを危機から救うことに成功。しかし、「入れ替わりが終わると記憶が消える」という仕様の為、2人は相手の名前すら忘れてしまう結果に。そして数年後、都会でバッタリ会った2人は、こう呟く。「君の名前は?」――。

実際、劇場に足を運んでみると、多くのカップルたちが2人のキャピキャピした掛け合いに一喜一憂し、終盤では啜り泣きが場内を包むほど心に響いている様子だった。監督はインタビューで、「喜怒哀楽、全ての感情の起伏を楽しんでもらいたい」と語っているが、まさに“してやったり”な成果と言えるだろう。だが、ちょっと待ってほしい。本作を観賞した者として、これだけは断言しておきたい。どんなに贔屓目で見ても、『君の名は。』は到底、“感動作”と呼べる代物ではない。それどころか、あまりにも杜撰過ぎる脚本に、開いた口が塞がらなくなるレベルだ。元々、映画の中でも“アニメ映画”というジャンルは、20年前と比べて年間上映本数が3倍にまで膨れ上がっており、今が最盛期・円熟期だと言っても過言ではない。本来、このように成熟した娯楽コンテンツでは、作り手は洗練され、ユーザーもまた目が肥えている。その為、あまりに酷い作品は大ヒットまでは達しない筈なのだ。しかし、何故か『君の名は。』は大成功を収めてしまっている。老舗の東宝による配給や、他者に流され易い日本人気質を鑑みても、これは異常とも言える事態である。何故、監督はこんな代物を平気で世に出し、またそれがウケてしまったのか。作品の問題点を分析しつつ、昨今の人気アニメ映画にみられる共通の課題を浮き彫りにしていこう。先ずは、『君の名は。』を分析するに当たり、抑えておきたい前提がある。それは、「映画等の“物語”という娯楽は全て、ストーリー・キャラクター・演出という3つの要素で構成されており、“感動を呼ぶ物語”を作る為には、ストーリーとキャラクター、この2つこそが最も重要である」という事実だ。何故なら、“物語”は抑々、“あるキャラクターの人生を追体験する行為”であり、それで感動できるのは、そのキャラクターに共感し、喜怒哀楽を一緒に味わうことができるからだ。その為、感動を生む為に監督がすべきことは、“続きが気になるストーリー”と“リアルな感情を持ったキャラクター”を作ることである。曲・背景・表現技法等の“演出”は、飽く迄もその2つを盛り上げる為のもので、装飾品的な役割だ。では、そういった観点で『君の名は。』を分析してみよう。

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すると、本作は“感動”を売りにした作品なのに、先の3大要素が全くチグハグだということに気付かされる。そして同時に、監督は全編を通して演出のみに注力し、ストーリーや活きたキャラクターを描くことには殆ど目を向けていないことがわかる。例えば開始早々、ヒロインの三葉が「来世は都会のイケメン男子にして下さーい!」と叫ぶシーンがある。しかし、三葉は別にボーイッシュでもなければ、粗野な娘でもない。それどころか、外見はとてもガーリィーであり、物腰も柔らかく、後のシーンでは“スイーツが大好き”という演出も出てくる。明らかに“男子になりたい女子”ではなく、その発言にはまるで説得力が無い。このことは、作品の主題である“恋愛描写”についても同じことが言える。普通、恋愛ものを作る時、初対面から始まる場合は、必ず“恋に落ちたキッカケ”を盛り込むものだ。意識すらしていなかった相手が、ある瞬間、特別な存在に変化する。その心の動きが見えるからこそ、視聴者はそれに共感し、応援したくなってくるのだ。だが、本作の主人公カップルは、それが最後まで一切描かれない。入れ替わって早々、三葉は瀧の体でスイーツを食べまくり、アルバイト先の女先輩とのデートを楽しんでいた。それが突然、自分の体に戻った時に、瀧に会いたくて東京に行ってしまうのだ。先輩との仲に嫉妬したり、瀧の意外な一面(魅力)に気付いたり…そんな心の動きは一切無い。恋するどころか、気になる相手ですらない瀧を、いきなりストーキングするのである。更に、瀧のほうでも酷いエピソードがある。先の経緯で上京した三葉は、偶然にも(広い東京で)瀧を見つけ、声をかけるのだが、瀧に「お前、誰?」と怪訝そうに返されてしまう。何故なら、三葉がいるのは3年前の世界で、瀧にとっては単なる不審者だからだ。だが、何故か瀧は、その不審者が去っていくのを態々追いかけ、別れ際に髪留めの紐を貰い、しかもそれを何年も肌身離さず身に着ける。どんな思考プロセスか、まるでわからない。これら不可解な現象は、何故起こったのか。女の子らしい娘が理由も無く「男になりたい」と叫んだり、好きでもない男をストーキングしたり、キモい不審者の髪留めを後生大事に身に着けたり、真面な人間ならあり得ない行動だ。それは、「監督が見せたい展開が先に用意してあり、そこにキャラクターを無理矢理当て嵌めているだけ」だからだ。

つまり、新海監督にとって、キャラクターは“人間”でなく、“自らに都合のいい駒”でしかない。本作は、脇役に至るまでこんな調子で、一貫した性格・活きた感情を持った人間が全く描けていない。その為、作中の人物の行動やセリフといった全てが上っ面で、胡散臭い茶番にしか見えないのである。更に、人間を描けないことに加えて、脚本作りに関しても監督はセンスが無い。例えば、ラストシーンでは、お洒落な歌が激しく悪目立ちする中、事件から数年ぶりにバッタリ会った2人が、タイトルそのまま「君の名前は?」と声を揃えて終了する。あまりにも無枠ではないだろうか。キャラクター作りもダメ、脚本もダメでは、感動など起こるべくもない。つまり、監督が時系列をグチャグチャにしたり、綺麗な背景を頑張って書いたりするのは、全て小手先の演出でしかなく、己の未熟さを誤魔化す為なのだ。では、そんな駄作である『君の名は。』は何故、これほどヒットしたのか。その秘密はツイッターにある。ツイッターは自己顕示欲旺盛で、他人に興味がない輩ばかり。だからこそ、作中のキャラクターに感情が無くても気付かず、それっぽい演出とそれっぽいシーンの垂れ流しだけで、感動した気になってしまったのだ。そして、「感動した!」とツイートしまくった為、大勢が騙されて劇場に行き、ヒットに繋がったのである。だが、騙される人に罪は無い。罪があるのは、こういった駄作を平気で世に出す新海誠である。しかも悪いことに、こういった芸風の監督は年々増えており、新海同様、そこそこ人気が出てしまっている。そんな彼らの共通点は、やはり“人間の感情を描けない”ことだが、何故そんな監督が量産されたのか。詳しく掘り下げていこう。人間を描けないのに“感動”を売りにした作品を、自信満々に垂れ流す新海誠。昨今は『パプリカ』(ソニーピクチャーズクラシックス)の今敏(故人)、『バケモノの子』(東宝)の細田守、『サカサマのパテマ』(アスミックエース)の吉浦康裕等、似た芸風の輩たちが我が物顔でのさばっている。素直に“雰囲気だけの実験映像”として売ればいいものを、何故か彼らは「感動作でござい!」とのたまうのだ。実は、その責任の一端は、過去のクリエイターたちにあった。その最たる代表が、『AKIRA』(東宝)の大友克洋である。同作は当時、革命を引き起こした記念碑的作品だった。中でも注目されたのは、まるで写真のように精密な建物が清々しく破壊される描写等、ビジュアル面での表現だ。その圧倒的な描画力は、世のクリエイター志望たちを悉く痺れさせた。勿論、先に挙げた新海タイプたちも、少なからず大友の影響を受けている。しかし、彼らは悪いことに、「作画を兎に角リアルに描きさえすればバカ売れする!」と誤解してしまったのだ。確かに、AKIRAはビジュアル面の凄さばかりが話題に上るが、それは「金田と鉄雄の確執等、キャラクターの感情をしっかり描いた」という前提あっての成功だ。だが新海タイプたちは、そういった人間ドラマの要素を汲み取ることができなかった。それで、「ストーリーやキャラクターの感情は二の次で、見た目の演出だけを頑張る」という今の芸風が確立してしまったのだ。

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恐らく、彼らみたいなタイプは、富野由悠季の『機動戦士ガンダム』(名古屋テレビほか)や、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』(東映)を見ても、「シャアザクの動きカッケー!」「戦車のキャタピラの動きスゲー!」等、見た目の表現や世界観ばかりに気を取られていたに違いない。そんな性格であれば、『イノセンス』(東宝)の押井守や、『新世紀エヴァンゲリオン』(テレビ東京系)の庵野秀明らのように、売れた途端に実写映画に走る軽薄な行動も、憧れの対象だったことだろう。このように、感情の描けない未熟なクリエイターたちが台頭したのは、先駆者たちにも責任があった。しかし、今や彼らが多くの若手の手本となってしまっている以上、この負の連鎖は止まらない。日本のアニメ映画界に活路はあるのだろうか? 新海タイプのクリエイターたちをこれ以上増やさない為には、どうすればよいか? それにはやはり、優れた作品を数多く観て、パターンを理屈で頭に叩き込むしかないだろう。実は、それにピッタリの教材がある。エンタメ大国のアメリカで、不動の地位を邁進し続ける“王者”ディズニーの作品だ。中でも、最近公開された『ズートピア』は、キャラクター作りやストーリー作りにおいて、まさにパーフェクトな教科書と言える。何故なら、ズートピアは彼ら新海タイプたちができないことを、完璧に行っているからだ。個性豊かなキャラクターたちが一貫した性格を持ち、その揺るがない信条に従って、ドラマチックな物語を紡いでいく。姿こそは動物だが、キャラクターたちはまるで実在しているかのように、説得力を持って描かれているのだ。しかも、“バディームービー”という枠組みながら、アクションからサスペンス、ロマンスまで、エンタメの全ての要素を詰め込んでいる。大人も考えさせられる差別問題をも盛り込みながら、決して説教臭くならない匙加減も絶妙。テンポや間の取り方も抜群で、つまり、ストーリーも非の打ちどころが無いのである。そして、それらを作り出したのは20人以上の脚本家(※クレジットには7人)。更に、脚本だけで実に数年もの歳月をかけ、プロットを何度も最初から練り直し、ある脚本家は400回以上も書き直したという。その結果、エンターテインメントのお手本のような素晴らしい作品が完成したのだ。これこそが、まさしく“プロフェッショナルの仕事”だろう。流石の新海タイプのクリエイターたちでも、ズートピアを5000回ほど観れば、自分たちの作品が如何に幼稚で、無味乾燥で、つまらないものか、うっすらとでも理解できるのではないだろうか。人を感動させる為には何が必要で、何が最も重要なのか。新海監督を始めとする、演出重視で、それしか取り柄の無いクリエイターたちは、今一度、初心に帰って学び直すべきだろう。次世代の若者たちが第二・第三の新海誠にならない為に正しい道を示すことは、先達の責務なのだから――。


キャプチャ  2016年12月号掲載

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