【東京情報】 岩波の功罪

【東京発】神保町の書店街を歩いていたら、『岩波ブックセンター』入り口の自動ドアに張り紙があった。「店主急逝のため誠に勝手ながら、11月23日よりしばらくの間、休業させていただきます」。購入した本が入った紙袋を両手に抱えたアルバイトの小暮君が言う。「ご存知なかったんですか? 岩波ブックセンターを運営する信山社が、東京地裁から破産手続き開始の決定を受けたんです。新聞記事によると、当初は岩波書店の関連会社が運営していたが、2000年に岩波と資本関係の無い信山社が引き継いだそうです。信山社会長で、店主の柴田信さんが亡くなったことも影響したのでしょうか…」。昼時だったので、いつもの洋食屋に入り、メンチカツと生ビールを注文。店で落ち合ったフランス人記者は、既にワインを飲んでいた。「俺も驚いたんだ。神保町を散歩する時に、よく立ち寄ったからな。薄暗い感じが心地良かったんだ」。嘗ての日本では、岩波の書籍や雑誌『世界』を読んでいるのがインテリの条件という時代があった。しかし、今は見る影もない。フランス人記者が顎鬚を撫でる。「岩波の“世界”は左翼一色の雑誌で、天皇制排斥を訴える歴史学者の羽仁五郎や、東京大学の政治思想史学者だった丸山眞男が論客の常連だった。PR誌の“図書”も左翼の巣窟だったな。昔は大江健三郎の連載があったり、最近だと池澤夏樹か…」。確かに、岩波は左にブレていた。岩波書店と『わだつみ会』が、戦没学徒の声を集めた『きけわだつみのこえ』の原文を改変したこともあった。遺族が訴えて裁判になり、第8刷の時に岩波が文章を直し、訴えは取り下げられた。

東京大学文学部の小暮君が言う。「文庫の翻訳に、政治的な理由で改変が加えられたこともありました。溥儀の“紫禁城の黄昏”の冒頭には、所信表明の部分があります。そこには、ヨーロッパ各国が大清国に対して行ってきた酷い仕打ちと、侵略に対する抵抗に日本が協力したことを感謝する言葉があった。ところが、岩波の翻訳では、その部分が丸ごとカットされていたんです。読者が読みたいのは『当時、溥儀が何を考えていたか?』なのに、肝の部分を省いてしまった。日本の傀儡だった満州国の溥儀の言葉をそのまま載せるのは、左翼にとって都合が悪かったのでしょう」。岩波書店と日本共産党は、切っても切れない関係にあった。中国建国の翌年(1950年)、朝鮮戦争勃発を受け、GHQは日本国内の左翼を排除する動きを見せたが、『世界』編集長の吉野源三郎の机には『アカハタ』が配達されていたという。同年3月号の『世界』は、「対日講和条約において、ソビエト連邦とアメリカの両陣営に与せず、全ての交戦国と講和すべきだ」という“全面講和”の論陣を張っている。保守勢力は西側諸国との“単独講和”を主張していたが、共産主義国家と握手していたら、今の日本は無かったかもしれない。フランス人記者が頷く。「当時の左翼は“単独講和”を“片面講和”等と揶揄していたが、常識が無かった。結局、吉田茂が、西ドイツのコンラート・アデナウアーが採った東側諸国との対決路線を参考に、“単独講和”を選択した訳だな」。小暮君が生ビールを飲み干す。「一方で、岩波文庫が果たした役割は大きいと思います。ただ、一部の翻訳は駄目ですね。ポーランドのヘンリク・シェンキェーヴィチが書いた“クオ・ワディス”は、使徒ペトロの物語です。岩波書店は、この翻訳をポーランド語の専門家に任せたんです。『兎に角、正確な訳が大切だ』という方針ですね。一方、新潮社の世界文学全集に以められた“クォ・ヷディス”は、木村毅が英語から翻訳している。重訳ですが、圧倒的に読み易い。翻訳の精度は岩波が勝っていますが、一般人も読む本なので、それでいいと思うんです」。

あの本は私も読んだ。最後の殉教シーンは感動的だ。ペトロが迫害を逃れてローマを脱出しようとすると、イエスが降りて来て、「お前がローマから出るなら、私はもう一度戻って再び死のう」と言う。ペトロはその言葉を聞いて、バチカンの丘で磔になる。岩波書店は大学の講義で使われる“正しいもの”を作り、新潮社は“売れるもの”を作った。世の中に影響を与えたのは後者だ。フランス人記者が唸る。「似たような話がある。イマヌエル・カントの“純粋理性批判”は、岩波文庫の翻訳で読んでも意味がわからない。俺は英語とドイツ語で読んだが、非常に単純な理論なんだな。原文に即した翻訳にしたことで、カントのエッセンスを掴み損ねたんだ」。この辺りは小暮君の得意分野だ。「“水滸伝”もそうです。僕は、旧版の吉川幸次郎訳が好きなんです。講談調で訳してあり、途中で講釈への野次が入ったりする。独特のリズム感があり、話に引き込まれていく。でも、吉川の弟子で新訳をやった清水茂は、講談調を止めてしまった。より正確に翻訳したのでしょうが、抑々、水滸伝は講釈師が民衆に語り聞かせた出鱈目話です。それを一字一句正しく翻訳することに意味があるのか、よくわかりません」。岩波文庫によるカール・マルクスの翻訳も評判が悪い。私はマルクスをドイツ語で読んだが、特に難しいことを言っている訳ではない。『共産党宣言』に至っては、マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが労働者階級の為にわかり易く書いたアジビラのようなものだ。よって、翻訳にもその熱気を反映させるべきだろう。「翻訳者の解釈を組み込むのは、学問に対する冒涜だ」という岩波茂雄の方針が引き継がれているのかもしれないが、寧ろそれが日本人の古典離れに繋がった可能性もある。岩波文化が一時代を築いたのは、現代人の危機意識を上手く掬い取ったからだ。嘗ての日本人は御上に従って生きていればよかったが、現代社会では1人ひとりが考えなければならない。正しい世の中とは何か、政治とは何か、人は何故生きるのか…。誰もが悩み、岩波文庫を手に取った。しかし、1991年にソ連は崩壊。ミハイル・ゴルバチョフとボリス・エリツィンは、会見で共産主義の敗北を認めた。その後、共産主義的な正義に寄り添ってきた岩波にも、不信の目が向けられるようになった。岩波ブックセンターの休業は、岩波文化の衰退を象徴しているのではないか。 (『S・P・I』特派員 ヤン・デンマン)


キャプチャ  2016年12月15日号掲載

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