【元少年Aに告ぐ】(06) “犯罪者の手記”はどこまで社会に容認されるか――日本版『サムの息子法』成立の可能性を問う

元少年Aの手記出版で浮上した“重大事件加害者”の表現に関する法規制。過去には多くの事件加害者が手記を出版しているが、ここまで大きな批判を浴びたのは今回が初めてである。犯罪者の“手記”を巡る状況と議論を検証する。 (取材・文/本誌編集部)

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2015年6月に刊行された元少年Aの『絶歌』(太田出版)については、その販売を巡って異例の動きがあった。出版発売当日に遺族が出版を知り、抗議したことが伝えられると、神戸市に本社があり、18都道府県で『喜久屋書店』を展開する『キクヤ図書販売』は、同13日に販元を中止。また、首都圏の『啓文堂書店』も、自主的な判断で同書を販売しないことを決めた。書店が出版物の販売を自粛するのは、極めて異例である。更に、神戸市は11の市立図書館で手記を購入しないことを表明。事件発生自治体として、被害者への配慮を優先させる立場を取った。加害者側が事件についての本を出版する自由は、憲法で保障されている。しかし、それによって利益を得て、再び被害者に精神的苦痛を与えることに疑問を呈する声は多い。そこで“法規制”の議論が出てくる訳だが、先例はアメリカにある。ニューヨーク州で1977年、加害者が手記等を出版することによって得た利益を被害者への賠償に充てることを義務付けた、所謂『サムの息子法』だ。ニューヨーク州では、1976年から翌1977年にかけて6人が射殺され、8人が重軽傷を負う連続殺人事件が発生した。メディアや警察に“サンオブサム(サムの息子)”を名乗る人物から犯行声明文が送り付けられる“劇場型犯罪”だったが、1977年に郵便局員のデヴィッド・バーコウィッツ(右画像中央)が逮捕される。犯罪の動機は一体、何だったのか。世間の注目が高まった時、出版社が高額の報酬を提示し、バーコウィッツの“手記”出版権を買おうとした。これに対して世論の反発が起き、『サムの息子法』が制定されたのである。しかしその後、アメリカ連邦最高裁判所は1991年、出版や表現の自由を定めた合衆国憲法修正第1条に反するとして、この『サムの息子法』を無効とした。これを受けてニューヨーク州は、“訴追された犯罪”に限り、出版に限らず、その犯罪を通じて得た利益全体を賠償の原資とするよう法改正し、現在に至っている。

日本においても、世間の耳目を集めた犯罪については、当事者による多くの“手記”が発表されてきた。そこには冤罪を訴えるものや、小説仕立てのもの、或いは往復書簡の体裁等、様々なパターンがあるが、共通して言えるのは、被害者の了解を得て出版したと思われるものは1つも無いということだ。その意味では、元少年Aの『絶歌』と同じである。Aの『絶歌』が特異である点は、刑事罰を受けていない当事者が匿名のまま出版したということである。元少年Aの著書出版が、その売れ行き(25万部)の割に厳しい批判を浴びたのも、そのことと無関係ではないだろう。司法記者が語る。「仮に死刑囚や無期懲役囚が大金を稼いだとしても、本人が拘置所や刑務所の中にいる限りは大した使い道もない。しかしAの場合には、実名報道によって社会的制裁を受ける訳でもなくた、稼いだカネはすべて自分で使うことができる。これでは、一般の市民感情に照らし合わせても納得いかないのは当然でしょう」。1990年代くらいまでの日本では、ジャーナリズムが“被害者の権利”について問題提起することは少なく、犯事被害者たちが加害者の手記に何を感じているか、取り上げられることすら殆ど無かった。たとえ凶悪犯罪者が手記を出したとしても、「被害者の気持ちはどうなるのか?」という視点でそれを批判する論調は、現在と比較すれば遥かに弱かったと言える。加害者の手記が社会的にも評価を受け、刑事裁判の判決にまで少なからぬ影響を及ぼしたのが、永山則夫の処女作『無知の涙』(合同出版)である。1968年、当時19歳だった永山は、僅か1ヵ月の間に4人を射殺。裁判は1審で死刑、2審で減刑されて無期懲役となったが、差し戻し審を経て、最終的には1990年に死刑判決が確定した。この20年余りに及んだ裁判の過程で示された死刑判決の基準は“永山基準”と呼ばれ、その後の裁判におけるスタンダードになったことで知られる。永山が1971年に出版した『無知の涙』は、大きな反響を呼んだ。北海道網走市の極貧家庭に生まれ、何の教育も受けることができなかった少年時代の記述は、有識者の同情論を喚起した。当時、出版社に届いた読者カードや葉書の殆どは、激励と賞賛、或いは集団就職で上京した永山の境遇に同情するもので、批判は1割に満たなかったという。1979年、東京地裁は永山に死刑判決を言い渡すが、1981年、高裁判決では無期懲役となる。減刑の理由は、著書の印税を被害者へ届ける等の情状に加え、『無知の涙』にも記された“少年時代の劣悪な環境”によって、「永山の犯行当時の精神的成熟度は、死刑が禁じられている18歳未満の少年と同視できる」というものだった。

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永山(左画像中央)は、その後も“獄中作家”として、世間から疎外されることなく活躍し、1983年に発表した『木橋』で新日本文学賞を受賞している。1990年には『日本文藝家協会』へ入会を申請し、理事会で入会の是非を巡って大論争に発展したこともあった。時代の違いと言ってしまえばそれまでだが、若し今、19歳の少年が4人を無差別に殺害したら、たとえ少年がどんな境遇であろうと、世間が同情することはないであろう。永山の死刑執行は1997年8月5日(享年48)だった。これは、神戸で少年Aが逮捕された約40日後のことで、「凶悪犯罪への厳罰化を望む世論に国が呼応したのではないか?」とも指摘された。当時を知る全国紙記者が語る。「実際にそういうことはなかったと思います。死刑は思い立ったら直ぐに執行できるものではなく、法務省が執行の起案準備をするのに最低半年はかかります。また当時、永山より前に死刑が確定していた死刑囚は全員、再審請求中でした。永山は丁度、再審請求の準備をしようとしていたところでした。未だ自分の番が回ってくるとは考えていなかったんです」。永山は死の直前、「身元引受人が管理している印税と、遺稿の出版による印税を、特にペルーの子供たちの為に使ってほしい」という口頭の遺言を残しており、その遺志は、永山の死後に設立された『永山子ども基金』に引き継がれている。児童を殺害し、報道機関に犯行声明を送り付ける等の点で少年Aと共通点があったのは、1988年から翌1989年にかけて起きた連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤である。宮崎は、1998年に『夢のなか』(創出版)という手記を出版しているが、事件から10年近くが経過しており、極刑が確実視されていたこともあって、大きな反発も無い代わり、大きな話題にもならなかった。前出の司法記者が語る。「本に記述された内容には謝罪も無く、『もっともっと有名になりたい』等と、抑々、宮崎が正常な精神状態にあるのかを疑わせるもので、一般人が読んでも、どう受け止めたらいいのかわからないものだった」。宮崎は、その後も“続編”を出版している。「精神分析の専門家にとってはそれなりの有用性があったのかもしれないが、事件の真相を究明する役目は果たせなかった」と言うべきだろう。宮崎は2008年、死刑執行された。

犯罪の直接的な加害者ではないものの、1990年代に最も大きな反響を呼んだ“手記”の1つが、少年Aの父母による『“少年A” この子を生んで…』(文藝春秋)であろう。同書は、発売された1999年末の時点で49万部に到違。その後、文庫化もされているので、その反響と発行部数は他の手記と比べて突出している。この出版に関しては、遺族から「順序が逆」「『何も失うものは無い』と言いながら、匿名で出版している」といった反発の声が上がったものの、書店が発売を拒否するといった動きは無く、また印税の全てを被害者への賠償に充てることを表明していた為、読者の“抵抗感”も幾分軽減された感はある。当時、取材に当たった週刊誌記者が語る。「事件によって、少年Aの父は30年勤務した大手鉄鋼会社を退職し、その退職金も賠償に回しましたが、被害者への賠償総額は2億円以上で、とてもではないが、全て払い切れるような金額ではなかった。両親というよりも、文藝春秋が熱心に説得して出版にこぎつけたというのが実態でしょう」。Aの両親の代理人(当時)が明かしたところによれば、1999年末までに、手記を出版した両親は、印税と退職金合わせ、4383万円を被害者に弁済している。(『週刊文春』2000年1月6・13日号)。こうした形での弁済を遺族が望んでいた訳ではないだろうが、A本人のように、口先だけの“賠償”よりは未だマシということは言えるかもしれない。近年、最も話題となった殺人犯の手記と言えば、2011年に『幻冬舎』から出版された『逮捕されるまで』が挙げられる。2007年に英会話講師だったリンゼイ・アン・ホーカーさんを殺害した市橋は、事件直後に迫ってきた警察を振り切って逃走。そこから2年7ヵ月に亘って逃亡生活を送る。この本は、“殺人事件の動機”や自身の生い立ちには全く触れておらず、その逃亡生活のみに焦点が当てられている。“事件の真相”を知る目的での価値はゼロだが、「どうやって追跡の目を掻い潜って生活していたのか?」という興味には応えるものになっており、同書はベストセラーになった。「印税の約1100万円を『被害者に支払う』と表明していたが、被害者の遺族は『娘を殺して得たお金を1ペニーたりとも受け取る気は無い』と拒否。結局、弁護人が被害者支援活動をしている団体を探して寄付した」(週刊誌記者)。この時、市橋の本を出版した幻冬舎には、相当な批判が寄せられたとされる。「結局、著者が印税を返上しても、それ以上に儲ける出版社は利益を放棄していない。それは、少年Aの両親の手記の場合も同じで、だから出版社に対する風当たりが強くなった。後に、Aの出版計画が持ち上がった時にも、この市橋の一件が幻冬舎内で大きな懸念材料になったことは、想像に難くない」(同)。

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同じ“逃亡もの”でも不思議と批判が少なかったのは、福田和子(右画像)の『涙の谷』(扶桑社)だ。福田は1982年、愛媛県松山市で同僚のホステスを殺害して逃亡。整形手術を繰り返しながら全国を転々と逃げ回ったが、時効成立まであと21日という土壇場で逮捕された。手記については、事件から17年が経過していたことや、その前に多くのルポライターが独自の取材でノンフィクション作品を出していたことにより、衝撃性が薄まったこと等が考えられるが、その過酷な生い立ちと人生体験に、善悪を超越した人間の深奥を感じた読者が多かったということだろう。事件の衝撃性だけで言えば、少年Aの事件に匹敵するインパクトを残したのが、2008年に起きた秋葉原無差別殺傷事件である。自動車工場の元派遣社員だった加藤智大は、日曜日の歩行者天国にトラックで突っ込み、更に通行人をナイフで襲撃。7人死亡、10人が重軽傷を負う惨事となった。1審で死刑判決が出た後の2012年になって、加藤は突然、『解』(批評社)を出版する。「加藤は弁護士以外と面会せず、手紙も受け取らなかった。手記は比較的小さな出版社から刊行されましたが、加藤が交流のあった精神科医に依頼する形で、偶々精神科医が知っていた出版社から出したのでしょう。しかし、中身は全く読むに値しないもので、事件を理解する為の材料にもならず、実際に売れることはありませんでした」(前出の週刊誌記者)。何しろ、事件の動機が酷い。携帯サイトの掲示板でなりすましてコメントを書き込む“嫌がらせ”に対し、「なりすましに心理的に痛みを与えるため」に無差別殺人事件を起こしたというのだから、被害者はやり切れない。

2015年2月、加藤の死刑が確定した。あれだけ重大な事件を起こしながら、被害者の遺族に対しては何ら納得できる説明が果たされないままである。「加藤の手記は売れず、事件に苦しんだ弟は自殺。経済力の無い両親は、全く賠償ができていません。トラックに撥ねられ死亡した3名については、何とか自賠責保険が適用されましたが、ナイフで刺され死亡した被害者にはそれが無い。失うものが無い加害者が暴発する悲劇を、まざまざと見せつけられました」(同)。加害者が死刑を受け入れたとしても、7名の尊い命はもう戻ってこない。犠牲者がいるような重大犯罪の加害者が、被害者やその遺族の同意なく事件に関する出版を行い、利益を得る。そうした行為を法によって規制するのは、現実問題として高いハードルがあると見られている。重大事件と一口に言っても、その背景と内容は其々固有の事情を抱えており、一律に線引きすることは難しい。誰がどの事件を“重大事件”と認定するのか。また、若し事件の加害者とされた人間が冤罪だったとしたらどうなるのか。法で規制したとしても、罰則が無ければ、それを意図的に破るケースも出てくる可能性がある。嘗て、事件を取材した大手出版社OBが語る。「法で規制することは難しいが、今回の絶歌のように、売れたとしても作品の意義と内容が全く評価されなければ、自ずと出版社もそれが大きなリスクであることに気付かされる。『どうしても出すべきだ』と考えれば信念を貫くべきだが、『売れるから』という気持ちだけしかないのであれば、読者には簡単に見抜かれる。世間を揺るがせるような犯罪者の手記出版など、10年に1度あるか無いかだが、こと凶悪な殺人事件に関しては、手記を出版することの社会的意味について、よくよく考える必要がある」。太田出版は、著者の元少年Aが「印税(の一部)を被害者に支払う意向がある」としているが、「その後、支払われたかどうかは確認していない」という。本来、版元が著者に対し、その印税の使途を彼是言うことはできないが、今回は外部に向けてそうした著者の意向を説明した以上、何故、今以てAは被害者に印税の一部を支払わないのか、その理由だけでも説明があって然るべきではないか。そうでなければ、「出版直後の“批判”を躱す為の方便だった」と思われても仕方がない。 =おわり


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