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【本当は怖い戦国時代】(13) 佐々成政と黒百合伝説

20200625 07
佐々成政は織田信長の家臣であり、豊臣秀吉のことを心から嫌っていた。勇猛果敢で、奇略と度胸一つで尾張の小城であった比良城の城主から、越中一国の領主にまでのしあがった成攻だったが、秀吉への対抗は無残な結果に終わる。疲れ果て、富山城に戻ったところ、更に追い打ちをかける事件が発覚した。成政の愛妾の早百合が、近侍の岡島金一郎と不義を働いたというのだ。激高した成政は、詮議もなく、金一郎を手打ちにした。そして、早百合は一本復の下に引き出された。「上様、早百合が何でそのようなことをしましょうか! 信じて下さりませ」。木に吊るされた早百合は泣き叫んだ。苦痛と侮辱に耐え、身を捩らせた。しかし、成政は残忍にも、それを冷たい笑みで見ながら、太刀を手にしていた。この時の成政は、いつもの成政ではなかった。何かに憑りつかれているようだった。だが、それも成政の本質でもあったろう。そう感じた早百合は、氷のように怯えた心から、一気に灼熱の怒りに変わった。「おのれ! 人に非ず! 今にみておれ! 早百合の恨みが届くものなら、立山に黒百合を咲かせてみせようぞ! 汝の身を滅ぼしましょうぞ!」。流石の成政もその気迫に驚き、目を背けた。「おのれ、不埒な女め! 成敗してやる!」。残忍な刃は早百合の柔らかい肌を無残に刺し、切り裂いた。絶叫が庭に鳴り響いた。翌年から立山の尾根に、世にも珍しい黒百合の花が咲き乱れた。成政は、早百合を成敗した時に発した恨み節等は、すっかり頭から離れていた。元々豪放であり、女も多く抱えていたからだ。器に盛られた黒百合を見ても、何の動揺も見せなかった。

天正13(1585)年8月、秀吉の富山攻略から和を講じた成政は、肥後国(※現在の熊本県)の守護職に封じられた。当時、肥後国は最も難治であり、諸侯たちにも恐れられる場所だった。秀吉も成政を嫌っており、領内の反乱で倒れてしまえばいいと思って配置した。若し上手く肥後国を治めきれたら大物、その時は殺すのみだ。成政は、それに気付かないほど屈託のない性格でもあったが、何か秀吉には和らげるようなことをしなければならないことは感じていた。その為、秀吉の正室・ねね(※北の政所)に取り入ることを考えついた。丁度、大阪城内で花の会が催される時期も近く、立山の黒百合を送ることにしたのだ。正室側につくということは、側室の淀君の鼻を開かすことになる。それができれば、北政所は我が身に尽くしてくれるに違いない――。成政なりに女同士の敵対構図を利用した政略を考えた。そうして成政が黒百合を献上すると、北政所は大層喜んだ。「しめしめ、これで自分の地位は安泰」と勝手に喜ぶ成政だった。しかし、女同士の戦いはそう簡単なものではない。侍女の告げ口から、淀君の耳に黒百合の話が入ってしまう。淀君は直ぐに石田三成を呼び、早馬を出して黒百合を大量に手に入れた。黒百合に敵うのは黒百合しかない。そしていざ、花の会の当日。あふれんばかりの黒百合が花器に盛られ、その妖艶な香りと神秘的な色合いに秀吉の心は釘付けになった。勿論、その花の持ち主は淀君である。淀君は、北政所の黒百合が数本疎らに入った花器を見て、せせら笑った。隣に同じ黒百合があっても、貧相に見えただけ。北政所は敗北を知った。そして、この一連の恥は成政の企てだと思い込んだ。これだけの黒百合を献上できるのは、成政が淀君に送ったに相違ない。私を陥れる為に。しかし、女の恨みに疎い成政は、そんなことは露知らずであった。その3年後、肥後国内での動乱を鎮める為に武力行使を行なったことに対し、秀吉の怒りを買い、成政は申し開きの書状を北政所に送った。しかし、北政所は、その手紙を読まずに切り裂いた。いつかの成政が早百合を切り裂いた時のように、冷酷に、冷淡に。呼び出しを受けた成政は、遥々、播州尼崎まで来ていた。「北政所はとりなしてくれるようだ。わしだとて、御前の前に出れば立派な申し開きをしてみせる」。意気揚々と法園寺にて、秀吉からの使者を待った。そこに訪れた使者は、こう言った。「佐々成政、切腹申し付ける!」。無念――。ただ一言、成政は崩れ落ちた。享年53。それは、早百合の死からそう遠くない時だった。


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