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【戦後75年】第2部・戦争とスポーツ(上) 戦地に散った五輪選手

平和の祭典、民族の融和、戦後復興のシンボル――。スポーツの国際大会には、時代の求めに応じて、様々な願いが託される。1年間延期された東京五輪・パラリンピックも、新たに新型コロナウイルスに打ち勝つとの決意が込められた。戦火の時代を生きたアスリートらは、どんな思いで大会に臨んだのか。その軌跡を辿る。

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綿毛の付いた帽子を被った兵士が、3人の中国人と肩を並べ、朗らかに笑う1枚の写真。裏面には「さむい」「ぼうしを見て下さい」と、柔らかな文字でメッセージが綴られている。兵士は、山口県萩市出身の阿武厳夫さん(※左画像の左から2人目)。慶應義塾大学に在学中の1932年、ロサンゼルス五輪の400mリレーで5位に入賞した陸上選手だ。出征先の中国から同市の少年に写真を送り、受け取った堀誠一さん(88)は80年以上、アルバムで大切に保管してきた。2人を繋いだのは1938年、尋常小学校1年だった堀さんが作った慰問袋だった。布袋に石鹸や歯ブラシ、手紙を入れて戦地に送った。堀さんの袋が阿武さんに渡り、礼状と写真が届いた。堀さんは、「兵隊さんからお礼が来ることなんて殆どなかった。縁を大事にする律義な人だったのだろう」と振り返る。何度か手紙のやり取りが続いたが、阿武さんは1939年、中国南部の崑崙関付近の戦闘で命を落とした。29歳だった。翌1940年、堀さんは地元で営まれた慰霊式に招かれ、初めて阿武さんが五輪選手だったと知った。遺族からは形見として、五輪予選大会のメダルと銀のスプーンを譲り受けた。「オリンピックにまで出た人が、何故戦争で死なないといけなかったのか。戦争がなければ選手の育成にも力を尽くしたかもしれない」と目を伏せた。

阿武さんは1909年、萩市東部にある旧大井村で、『大井八幡宮』宮司の家に生まれた。幼い頃から俊足で、甥の浩さん(62)は「スピードが出過ぎて、運動場のカーブを曲がれなかったそうです」と笑う。境内に真っ直ぐ延びる100m程の参道で練習を積み、旧制萩中学校等で頭角を現した。1930年2月5日付の本紙朝刊は、慶大生だった阿武さんを「日本陸上競技界に彗星の如く出現した百米ランナー」と紹介。足だけでなく、腕振りの為に胸もバランスよく鍛えているという言葉を掲載している。ロサンゼルス五輪の400mリレーでは3走を担当した。1走は、“暁の超特急”と呼ばれた吉岡隆徳さんだった。一人息子をもうけ、陸上誌の記者として活動したが、日中戦争が勃発した翌年の1938年に召集され、山口歩兵第42連隊の上等兵として中国戦線で戦った。同連隊の記録は、阿武さんが戦死する2日前、崑崙関付近で約10万の敵が攻撃を開始し、翌日には砲撃で陣地が吹き飛ばされる猛攻を受けたと伝えている。1976年モントリオール五輪の陸上走り高跳びに出場した広島市立大学の曽根幹子名誉教授の調査によると、戦争で死亡した日本人オリンピアンは38人に上る。ベルリンのスポーツ博物館の定義に沿って“戦争や暴力で亡くなった五輪選手”とし、原爆の後遺症で死亡した選手らも含む。曽根名誉教授は、「生真面目にスポーツに打ち込み、体力もあったオリンピアンは、戦地でも率先垂範だった。持てるだけの爆弾を背負って泳ぎ、敵に突っ込んだ選手もいた」と話す。阿武さんの母校である大井小中学校では、昇降口に写真プレート(※縦53㎝、横65㎝)が飾られ、運動会のリレーには“阿武厳夫杯”と冠が付くが、足跡を知る人は多くない。東京五輪の機会に伝えようと、地元の大井公民館は先月11日から特設コーナーを設けて、写真や所縁の品を展示し始めた。少年期の堀さんの元には、写真がもう1枚届いていた。写っていたのは、中国人男性と服を取り替えて笑顔を見せる阿武さんだった。「五輪で様々な国の人と交流したからこそ、戦時中でも人を差別しない心を持ち続けたのだろう」。堀さんは、オリンピアンが抱いた平和の魂に思いを馳せた。


※本文由李的博多居民提供。谢谢。
キャプチャ  西部本社版2020年6月1日付掲載
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Author:George Clooney

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