FC2ブログ

【戦後75年】第2部・戦争とスポーツ(中) 世界と競う、「これが平和」

20200708 05
ゲームカウント2-2で迎えた最終ゲームも、イングランドの選手にリードを許していた。「負けて帰れない」。相手の動き、そしてボールの行方だけを目で追った。胸元に球が来た時、最も力を込められるフォアハンドで打ち返した。ボールが相手のコートで弾んで逆転――。1957年、スウェーデンのストックホルムで開かれた卓球の世界選手権の女子シングルスで、長崎市出身の江口冨士枝さん(87)は世界の頂点に立った。女子団体と混合ダブルスでも優勝し、3冠を達成した。“卓球ニッポン”と称賛された1950年代をリードした選手。「取柄は卓球が好きなことだけ。人の何倍も努力するしかなかった」。自分に厳しい生き方の根底には、戦火をくぐり抜けた体験があった。5人姉妹の末っ子として生まれた活発な少女。戦前の長崎では、眼鏡橋の下の川で魚を捕まえ、父が営む美容院がある商店街を走り回った。小学2年生の時、家族で大阪に移り住んだ。1945年、『B29』の空襲で、自宅があった繁華街の難波は焼夷弾で焼かれた。夜空に立ち上がる紅蓮の炎と、無数の遺体が目に焼き付いている。半年後には発疹チフスに罹り、生死を彷徨った。卓球を始めたのは中学に入ってから。「一番初めに再開されたのが卓球部だった。でも、板きれを繋ぎ合わせた急拵えの卓球台は凸凹していた」と苦笑いする。

この頃、日本は復興への道を歩み出していた。『日本卓球協会』によると、1946年には第1回国民体育大会が開かれ、卓球も正式競技に。1949年には、他競技に先駆けて国際競技団体への再加盟が認められた。娯楽の少ない時代、卓球は手軽なスポーツとして人気を集め、国際大会で活躍する日本人選手は人々を励ました。ただ、父からは「飯しゃもじ(=ラケット)は銭にならん」と反対された。医師を目指すことを条件に卓球の道を認めてもらい、進学先の大学では、びっしり詰め込まれた実習の合間にフットワークを鍛えた。練習の相手は男性コーチ。強烈な球を受け損なう度に 体育館を兎跳びで1周するノルマを自分に課した。初めて世界と戦ったのは1954年の世界選手権。開催国のイギリスでは日本人への風当たりは強く、ミスをする度に会場が沸いた。それでも自分たちのプレーを続け、男女団体で優勝。試合が終わり、相手の選手と健闘を称え合った時、「これが平和なんだ」と実感した。1959年、ドイツでの世界選手権を最後に現役を退き、卓球の普及に取り組んだ。人生で最も輝かしい瞬間は、ストックホルムでの3冠だったと思う。「焼け跡から立ち上がろうとした時代の熱気に押され、世界と戦うことができた」。小倉市(※現在の北九州市)出身で、1968年メキシコ五輪マラソン銀メダリストの君原健二さん(79)も、「生きるか死ぬかの時代を体験したからこそ、五輪でライバルと競い合える平和のありがたさを感じた」と語る。空襲から逃れる為、防空壕に逃げ込んだ。戦後、小倉が原爆の投下目標だったと聞かされ、衝撃を受けた。中学2年生の時、友人の誘いで駅伝クラブに入り、食料難の中で、選手に選ばれると試合前に貰える生卵や飴が魅力で、練習に精を出すようになった。高校卒業後、強豪実業団として知られていた『八幡製鉄』(※現在の『日本製鉄』)の陸上部に。1964年の東京から3大会連続で五輪の男子マラソンに出場。市民ランナーとして、75歳までフルマラソンに参加した。五輪に向けて一人で黙々と走るトレーニングは苦しかった。「何の為に」と思うこともあった。そんな時は、「原爆が北九州に落とされていたら、自分はいない。生かされているんだから頑張ろう」と言い聞かせた。大舞台で力を振り絞れたのは、その思いがあったからだ。


※本文由李的博多居民提供。谢谢。
キャプチャ  西部本社版2020年6月2日付掲載
スポンサーサイト



テーマ : 社会ニュース
ジャンル : ニュース

轮廓

George Clooney

Author:George Clooney

最新文章
档案
分类
计数器
排名

FC2Blog Ranking

产品搜索
广告
搜索
RSS链接
链接