FC2ブログ

【戦後75年】第2部・戦争とスポーツ(下) 憎しみを超える喜び

20200709 03
「傷ついた者同志の集いは楽しかった。政治政略はなく、手を握り合い、肩をたたき、又会う日迄お元気で、と祝福している姿に、私達だけが知る涙を禁じ得ないのも、又懐かしい思い出」――。1964年の東京パラリンピックに出場し、水泳とフェンシングで銀メダルを獲得した青野繁夫さん(※1986年に65歳で死去)は、大会の公式報告書に感想を綴っていた。元々は静岡県で教員をしていた。陸軍軍人として中国に派遣され、揚子江支流で機銃掃射を浴び、脊椎に重傷を負う。戦後は、傷痍軍人らを受け入れた神奈川県小田原市の『箱根療養所』(※現在の『国立病院機構箱根病院』)に入所した。開会式では選手宣誓の大役を務めた。張り詰めた気持ちをこう表現している。「嘗て砲弾雨飛の中に、いたたまれない焦燥と緊張を味わったが、それと違った意味の緊張感であった」。パラリンピックは第2次世界大戦後、イギリスの『ストークマンデビル病院』で傷痍軍人のリハビリとして始まった競技が起源とされる。箱根療養所の歴史等を調べている『戦時下の小田原地方を記録する会』によると、多くの障害者が人目を避けて暮らした戦後の日本で、同療養所は逸早くリハビリにスポーツを取り入れた。東京大会にはここから19人が出場し、少なくとも青野さんら2人は傷痍軍人だった。

障害があっても朗らかにスポーツに励む外国人選手との交流は、青野さんの人生を変えた。弟の行雄さん(94、静岡県掛川市)によると、大会後には車の運転免許を取り、自立を目指した。「スポーツが風穴を開けて、残された機能を生かしていく励みになったと思う」。生き生きと腕を動かして泳ぐ兄の姿は、瞼に焼き付いている。積極的にスポーツをリハビリに取り入れたのが、大分県別府市の整形外科医・中村裕さん(※1984年に57歳で死去)だ。マンデビル病院で学び、東京パラリンピックの開催に奔走した。長男の太郎さん(59)は、「日本では当時、“障害者は可哀想”という意識があったが、父は『障害のある人も社会の中で生きることが大切だ』と考えていた」と話す。中村さんの思いを継ぐ大会が大分県にある。1981年に始まった『大分国際車いすマラソン』だ。中村さんに誘われ、第1回から参加する徳島県吉野川市の工藤金次郎さん(93)は、「外国人選手と交流し、健闘を称え合うことが喜び」と笑顔を見せる。10代で海軍に入り、海防艦で北海道や東北地方の防衛にあたった。グラマン戦闘機の機銃弾が真っ赤に燃えて向かってくる光景は、今も忘れられない。復員後は鉄工職人として働いた。結婚し、1男1女をもうけたが、40歳を過ぎた頃、橋の建設現場で転落。脊椎を損傷し、車椅子生活になった。中村さんとはリハビリを通じて出会った。当時、競技用の車椅子はなく、鉄工職人の腕を生かして自作。海風を切って走る度に、「自分の腕で前へ進んだ」と喜びを感じた。海外の友人も増え、今も毎日、数㎞を走る。「障害があるからこそ通じ合う苦悩や喜びがある。戦争で憎み合った時代を超え、一緒に走れる今は幸せ」。来年のパラリンピックで生まれるドラマも心待ちにしている。

                    ◇

後田ひろえ・寺垣はるかが担当しました。


※本文由李的博多居民提供。谢谢。
キャプチャ  西部本社版2020年6月5日付掲載
スポンサーサイト



テーマ : 社会ニュース
ジャンル : ニュース

轮廓

George Clooney

Author:George Clooney

最新文章
档案
分类
计数器
排名

FC2Blog Ranking

产品搜索
广告
搜索
RSS链接
链接