【東畑開人の週刊臨床心理学】(12) 補欠の品格

この夏、甲子園がない。こんな悲しいことはない。オリンピックも、サッカーW杯も、プロ野球日本シリーズも殆ど興味が持てない私だが、甲子園だけは別だった。特に沖縄代表の試合は欠かさず応援してきたのに、今年は中止。ああ、あの暑い夏が懐かしい。チャンスに鳴り響く『ハイサイおじさん』のトランペット、スタンドを埋め尽くす緑の応援団、メガホンを持って舞う補欠たち、ベンチで声を張り上げる補欠たち。そう、甲子園の醍醐味は補欠にある。試合の行方よりも、補欠たちの気持ちが気になってしょうがないのだ。レギュラーが怪我することを祈っているのだろうか、チームが早めに負けてくれたら家に帰ってパワプロができるのにと思っていやしないか、そしてそんな自分は人間として終わっていると自分を責めているのではないか――。そんなことばかり考えてしまう。だから、ついついテレビに向かって「頑張れよー、お前は自分の人生では補欠じゃないんだぜー」と声をかけてしまう。いや、わかっている。仮にも甲子園に出る程の名門校なのだ。たとえ補欠と雖も、そんなしみったれたことを考えている筈がない。だけど、「若しかして」と想像して切なくなる。これが私にとっての甲子園だ。それは勿論、私が中学時代に野球部の補欠であったからだ。疾風怒濤の思春期、私の気高き魂は、あらゆる試合でベンチを温めることに費やされた。まるでお徳用ホッカイロのような魂である。だけど、この補欠根性が沁み込んだお徳用魂こそが、実は私を臨床心理士という職業へと導いたのではないか。そんな仮説がある。
本当は「補欠じゃなかったヤツは心理士とは認めない!」くらい言いたいのだが、間違いなくルサンチマンによる暴論であるので、心理士と補欠は魂の底の部分で繋がっていると控えめな仮説を提示したい。一応、根拠がある。未だ大学院生だった頃、研究会の夏合宿で隠岐に行った時の話だ。何故隠岐なのかというと、流罪に関心があったからなのだが、それが心理学とどう関係するのか、今となっては全然わからないから、単にどこか遠くに行きたかっただけかもしれない。何れにせよ、島に着くと暑過ぎたので、流罪史跡巡りは早々に断念し、宿で甲子園を見続けた。日が沈むと隠岐牛と日本海の幸を堪能し、布団に入ってからは大学院の先輩の陰口を明け方まで後輩たちと語らい続けた。事件が起こったのは、ヘロヘロの帰路、米子から岡山に向かう特急列車『やくも』でのことだった。二日酔いと旅行の疲労、そして旅が終わってしまう悲しさから、皆、妙なテンションになっていたのだ。「今まで言えへんかったことがあるんです。聞いてもらえませんか?」。ジャイアンみたいな風貌の後輩が突如、神妙な表情になって切り出した。「何だよ、言ってみなよ」と、窓を通り過ぎる深い山々を見ながら私は言った。結構、ダンディな感じだったと思う。ジャイアンは深く息を吸い込んでから、言った。「僕…実は補欠やったんです」。重た過ぎる告白に、皆、何も言えなかった。ジャイアンは続けた。「監督にはめっちゃ媚びていたんです。監督の目にどう映るかだけ考えていましたわ。だけどね。一回も試合に出たことないんです。チームの中で僕だけです。ユニフォームがね、いつも真っ白なまま家に帰るんです」。円らな瞳に涙が浮かんでいた。「何と痛ましい、先輩としてこれ以上、彼を一人にするわけにはいかない」と思った時、隣に座っていたハリガネのように華奢な後輩が声を上げた。「お前だけやない」。野太い声だった。「俺もや」と。「只な、一回だけ試合に出たことがある。ベンチでな、『誰でもいいから怪我しろ』って祈っていたら、ライトのヤツが本当に怪我してくれてな」。ハリガネが続けた。「だけど、グラウンドに立つとな、別の祈りが浮かんでくるんや。『頼むからボール飛んでくんな』って。でも、来たんだよ。大きくて、綺麗なフライだったわ」。私たちは固唾を飲んで聴き入った。「心臓がバクバクして、足が震えた。動けへんかった。ボールは俺の頭上を越えていって、ランニングホームランになったよ」。ジャイアンがハリガネの震える肩にそっと手をやった。「きっ、奇遇だな」。私はダンディさを失わないように、しかし失いながら言った。「俺もさ、補欠だったよ」。言葉が溢れて止まらなかった。ずっとベンチから試合を見ていたこと。「早く家に帰ってパワプロをやりたいから、コールド負けしねぇかな」と思っていたこと。そしたら本当にコールド負けしたこと。

「最後の大会だったからさ、その瞬間、エースが泣き崩れたんだよ。で、チームメイトも皆、泣きながらマウンドに駆け寄るわけ」。でも、私はその時、全然悲しくなかった。寧ろ、「これで明日からクーラーの効いた部屋でのんびり甲子園見れるじゃん」と喜んでいた。「だけど、皆が泣いているのに、俺だけ笑顔なのおかしいじゃん?」。ジャイアンとハリガネは潤んだ目で私を見つめていた。涙の特急やくもはトンネルに入った。「俺、その時、泣いているふりしたんだよ。眼はカピカピに乾いているのに、涙を拭うふりしながら、マウンドまで走ったよ。あの時だよ、魂が死んだのは」。ハリガネは、「バジーさん、あんた残念な人ですよ」と言った。「だけど、もっと残念なのは、俺がバジーさんの学校のスクールカウンセラーじゃなかったことです。その孤独はね、一人で抱えちゃダメなんすよ」。更に、ジャイアンも「あんた最低だよ」と叫んだ。頬を涙が伝っていた。「最低だけどさ、それが人間なんじゃないんすか?」。私は尋ねた。「なぁ、補欠って人間なのか?」。2人は首を振った。「わからないです」。重い沈黙の中、ジャイアンは呟いた。「人間って何なんすか?」。誰も何も答えられなかった。そこに、グリーン車にいた筈の教授がやってきた。「何の話をしているんや?」。ああ、字数が尽きてしまった。何故、心理士の卵たちが揃いも揃って補欠だったのか。この神秘的な問いの答えは次号で明かされる。“補欠の品格”論は続くのである。
東畑開人(とうはた・かいと) 臨床心理学者・十文字学園女子大学准教授・『白金高輪カウンセリングルーム』主宰。1983年、東京都生まれ。京都大学教育学部卒。京都大学大学院教育学研究科修士課程修了、同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。著書に『野の医者は笑う 心の治療とは何か』(誠信書房)、『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)等。

スポンサーサイト