【解を探しに】第1部・漂流ニッポン(04) 団塊女子、覚悟決めた

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「私の死後に息子が生活保護を受ける“予約”はできませんか?」――。藁をも掴む思いで相談した役所の窓口で、若い職員はけんもほろろだった。「家も車もある。できる訳ないでしょ」。首都圏に住む田中恵子さん(仮名・67)は、家に閉じこもる息子(40)の行く末を案じる毎日だ。自分が死ねば、無収入の息子の生計は破綻する。しかし、本人とは会話もままならない。日本海を望む街に生まれ、看護学校を卒業した。歯科医の夫と結婚して、東京近郊に移り開業。団塊世代が歩む順風の人生の筈だった。ところが、氷河期に直面した息子が就職に失敗し、引きこもりに。10年前に夫が病死してから、収入は年金だけだ。息子と2人、月7万円ほどで暮らす。労働力調査によると、息子と同じ年代の35~44歳の無業者や非正規労働者(既婚女性を除く)は計200万人近い。「私が90歳でも100歳でも、子供が死ぬまでボケずに生き続けないと」。田中さんは今、「自分が長生きし、年金で息子を支える他ない」と思い始めている。1947~1949年の3年間で800万人が生まれた団塊世代が75歳以上になる“2025年問題”まで10年を切った。未曽有の高齢化社会で、より深刻な影響を受けるのは、平均余命の長い女性だ。自力で老境と向き合うことを迫られる団塊の女性は今、長い黄昏に向けた手探りを始めている。

晩秋の土曜日、東京都清瀬市の住宅で、女性ばかりの読書会が開かれていた。この日のテーマは、『クマのプーさん』の翻訳で知られる児童文学者の石井桃子。盛り上がった議論は夜まで続いた。主催した瀬谷道子さん(68)は、こうした女性向けイベントを定期的に開き、半年に1度、情報誌を発行する。中心メンバーは瀬谷さんと、近所に住む同世代女性4人の計5人。瀬谷さんは、「この5人で老後を生きていく」と決めている。短大卒業後に勤め上げた会社では猛烈に働いたが、“老後の転落”への不安が常にあった。「夫は多分、先に亡くなる。子供は近くにいるけど、面倒をかけたくない。価値観が似た“近くの他人”と生きる準備をしたほうがいい」。イベント活動等を通じて、5人の関係を少しずつ作ってきた。余所行きの服を貸し借りし、通院の送り迎えをする。眠れなければ、穏やかな曲を入れたiPodを貸す。最晩年は持ち回りで料理当番を決め、食卓を囲む日々が理想だ。「体が動くうちに近所で助け合う形を作れば、家族がいなくなった後に自宅で死ぬ備えにもなる」と瀬谷さんは話す。「前回の東京オリンピックで高度成長期を駆け抜けた団塊女性の目には、『次の東京オリンピックの後は逆に断崖絶壁しかない』と映っている」。フリープロデューサーの残間里江子さん(65)は指摘する。公的保障に頼れず、子供に迷惑もかけたくない――。残る選択肢は、友だち同士の助け合いだ。「キーワードは“友友介護”。女性同士で老後を相談する人は、着実に増えている」。女手一つで息子を育て、昨年末に99歳で亡くなった母親を介護してきた残間さんは、「ウーマンリブ等の影響もあり、団塊女性は“自立”という言葉に追い立てられる感覚を抱いてきたが、65歳を過ぎて自然に老後の自立を意識し始めた」と話す。巨大な高齢集団となる団塊女子たちの選択は今後、日本社会にどんな影響を与えていくのか。

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■カルチャー創った団塊女子
戦後日本と併走してきた団塊世代が、次々と高齢期に入っている。この世代、中でも女性はファッション・文化・消費行動等、社会の様々な分野で存在感を示し、旧来の慣習や価値観を大きく転換する役割を担ってきた。団塊女子の歩んできた道程を、ブームや世相と重ねて振り返る。団塊世代は“第1次ベビーブーム世代”とも言われ、年間出生数が男女計260万人を超えた1947~1949年前後に生まれた人を指すのが一般的だ。1947年からの3年間、女性は毎年ほぼ130万人ずつ生まれた。2014年は48万人だから、今の3倍近い。日本だけでなく世界各国でも、第2次世界大戦の終結で兵士が家庭に戻り、ベビーブームが起きている。団塊女性が小学校に入りつつあった1954~1955年にかけて、月刊の少女マンガ誌『なかよし』『りぼん』が創刊された。主な読者層は女子小中学生で、団塊少女たちはその大きな一角を占めた。なかよしで手塚治虫の『リボンの騎士』が連載されたのは、1950年代後半から1960年代にかけてだ。王子として生きる宿命を背負った王女・サファイアの冒険を、少女たちは固唾を呑んで見守った。1970年代に少女マンガの名作を次々と世に送り出すことになる萩尾望都さん(66)や竹宮恵子さん(65・左画像)らは、生まれが1949(昭和24)年前後に集中していることから、“花の24年組”と呼ばれる。現在、京都精華大学長を務める竹宮さんは、「漫画のある近所のお姉さんの家に、仲良しでもないのに押しかけ、夢中になって読み耽った」と笑う。

経済白書が「もはや戦後ではない」と高らかに宣言したのは1956年だが、経済的に余裕のある家庭は未だ一握り。竹宮さんは、「余所の家で読んだ作品の絵を懸命に覚えて、家に帰ってから鉛筆で藁半紙に描いた。消しゴムを使うと破れるから、一度で上手く描こうと必死だった」と振り返る。週刊の漫画雑誌も、1962年に『少女フレンド』、63年には『マーガレット』が誕生し、少女漫画は団塊ティーンのハートを虜にした。団塊の先頭を走る1947年生まれが高校を卒業した1966年春、女性の4年制大学への進学率は4.5%、短大は7.3%だった。この時期、高等教育を受ける女性の比率は未だ低く、多くは高卒で働いたが、社会に出た団塊女性は、ファッションや文化で旧来の常識を次々と覆していった。1967年に“ミニの女王”ツイッギーことレズリー・ホーンビーが来日すると、ミニスカートが爆発的に流行した。年上世代には眉を顰める向きもあったものの、労働階級出身のツイッギーが着こなす眩いミニは、女性の自由や解放の象徴とも受け止められた。神奈川県の山本幸子さん(66)は、「自分でロングスカートを切ってミニにしていた」と懐かしむ。『森永製菓』は、チョコレート菓子『チョコフレーク』のテレビCMでツイッギーを起用。『トヨタ自動車』等との共同招待で来日も実現させた。来日中に日本各地で開いたファッションショーも盛況だった。音楽でも『ビートルズ』が社会現象になった他、フォークソングやグループサウンズも大ブームを巻き起こした。戦後暫くの間、事務職で働く女性は“BG(ビジネスガール)”と呼ばれた。週刊誌『女性自身』が1963年、これに代わる呼び名を公募し、“OL(オフィスレディー)”が選ばれた。メディアでも使われるようになり、OLが定着していく。当時、女性自身の編集長を務めていた桜井秀勲さん(84)は、「BGは女性を“女の子”と捉え、仕事の補助役としか扱わない言葉だったが、『それは間違っている』と思った。『女性も男性と同じように働く時代に変わってきている』と感じた」と公募の理由を語る。実は、公募の票数は“OG(オフィスガール)”がトップで、OLは下位だった。だが、桜井さんは結果を“改竄”し、OLを1位にして発表する。

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社内でも懸念の声が出たが、桜井さんは「ガールのままではBGと変わらない。『レディーとしてこそ、それまでお茶汲みと電話番しか仕事が無かった女性の立場が変わる』と思った。編集長として決断した」と話す。尤も、OLになった団塊女性も、伴侶が見つかれば結婚退職して、専業主婦になる人が殆どだった。『男女雇用機会均等法』の施行は1986年で、所謂“均等法第1世代”は1960年代生まれ。制度的に仕事も待遇も男性と肩を並べて働く女性たちが登場するまでには、団塊女性からみて一回りちょっと下の後輩まで待つ必要があった。1970年にファッション誌『an・an』、1971年には『Non-no』が創刊した。こうした新しい女性向け雑誌が頻繁に旅の特集を組んだことから、それまでの日本ではあまり見られなかった“旅する若い女性”が急増した。an・anやNon-noを手に観光地を回る女性は“アンノン族”と呼ばれた。同時期に、国鉄が『ディスカバージャパン』キャンペーンを展開して、旅行需要の喚起を図ったことも後押しした。こうした雑誌は、小規模な観光地を紹介することが多かった。町並みに宿場町の面影を色濃く残す中山道妻籠宿(長野県南木曽町)観光協会事務局の藤原義則局長(68)は、「山手線の中吊り広告でも取り上げられ、国鉄が最寄り駅に急行を止めるようになった結果、街中が女性で溢れ返った」と話す。当初、妻籠宿の宿泊施設は旅館が3軒あるだけだった。貸し布団屋から布団をかき集め、押し寄せてきて宿泊場所の無い女性たちを寺や公民館に泊めた。ゼロだった民宿が53軒になったという。

戦前に約7割だった見合い結婚の割合は低下を続け、1960年代後半に恋愛結婚が逆転した。団塊女性の平均初婚年齢は24歳前後。1972年には、戦後最多となる109万組が結婚した。第2次ベビーブームとなった団塊ジュニア世代も、1971~1974年に年200万人を超す出生数を記録した。団塊世代の家庭は、従来の家父長的価値観とは異なる家庭像や、外食を楽しみ、家電製品や自動車の購入で産業発展を牽引する消費行動が特徴で、“ニューファミリー”と呼ばれた。社会の高学歴化が進み、ジュニア世代の教育では受験戦争も過熱した。バブルに向かう好景気の恩恵を受ける一方、専業主婦となった団塊女性の間には、孤独への悩みも生まれた。1983年には、新興住宅街を舞台にした不倫を描いたドラマ『金曜日の妻たちへ』(TBSテレビ系)が大ヒット。“金妻”は流行語になった。「土曜の夜と日曜の貴方がいつも欲しいから」――。小林明子さん(57)が歌った主題歌『恋におちて』を作詞した湯川れい子さん(79)は、「小林さんの声が清純なので、その分、『歌詞でもっと不倫の匂いを醸し出してほしい』と言われ、8回くらい書き直した。当時、住んでいた千駄ヶ谷から新宿のマンションの灯を眺めながら、『会いたくても会えない人たちがいるんだろうな』と思いながら書いた」と振り返る。歌詞の中に、「ダイヤル回して手を止めた」という表現がある。ところが、ほぼ同時期、公衆電話にテレホンカード式のプッシュホンが登場した。ドラマのプロデューサーからは歌詞を変えるように言われたが、「ダイヤルじゃないと電話を躊躇う感じが出ない」と断ったという。平成に入り、1090年代初頭にバブルが崩壊した。大企業の破綻やリストラの嵐が吹き荒れ、専業主婦として生きてきた団塊女性も、経済的理由から働きに出る人が目立った。60歳定年制を前提にすると、2007年に団塊の大量退職が始まる筈だったが、労働力不足や公的年金の財源難への懸念を背景に、再雇用の仕組み等が整備され、60歳を超えても働き続けるケースが多かった。内閣府が2012年に実施した団塊を対象とした意識調査によると、「働けるうちはいつまでも働きたい」と答えた人が25%で最も多く、体が動くうちは働きたい人が多いことが窺える。フリープロデューサーの残間里江子さん(65・右上画像)は、「団塊女性は『社会の役に立ちたい』という思いが強い。『高給でなくても、自分のパワーを生かせるなら喜んで働く』という人は大勢いる」と指摘。「団塊女性を“お助けおばさん”として、人手の不足している分野で活用すれば、日本経済に貢献する可能性は高い」と話している。 (山本有洋)

■5人に1人が後期高齢者
団塊世代が75歳以上になると、国民の5人に1人、約2200万人が後期高齢者となる。医療・介護給付費は激増し、2025年には現在の1.5倍の74兆円に膨らむ。高齢化のペースがとりわけ速いのが都市圏だ。『日本創成会議』によると、首都圏1都3県の後期高齢者は、2025年までに175万人増える。国は同年に「介護人材が37万人不足する」としており、医療や介護サービスを十分受けられない人が生じる可能性が高い。『高齢者住宅財団』の高橋紘士理事長は、「高コストな医療・介護制度は最早、維持できない。非正規雇用の多い団塊ジュニア世代まで視野に入れた、持続可能な高齢化社会の在り方を考える必要がある」と話す。


⦿日本経済新聞 2016年1月3日付掲載⦿

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