【財務省大解剖】(07) 弁護士・社長・コンサルタント…大蔵省不祥事官僚たちの“あの人は今”

“大蔵スキャンダル”で省を追われたエリートたち。彼らの“その後”の物語は、役人社会の情と非情を鮮やかに映し出す。事件から20年後の彼らの生き様とは――。 (取材・文/フリーライター 白石健郎)

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1990年代に起きた一連の“大蔵スキャンダル”では、多くの官僚たちが処分され、結果として省を去る者たちが多くいた。彼らは今でも不名誉なレッテルと戦っているのだが、本稿は敢えて、そうした彼らに対する批判ではなく、擁護する視点で纏めてみたい。というのも当時、大蔵省を追われた、或いは辞職せざるを得なかった者の内の多くは、逃げ隠れするどころか、今も社会的なステータスのある立場にあり、プライドある仕事を続けているのである。当時、メディアは大蔵省を激しく批判し、一般世間の人々には“極悪官僚”のイメージが刷り込まれた。しかし、彼らを直接知る政財界、或いは職場の同僚の多くは、「確かに驕りがあったが、それで人生の全てを否定されるようなことまではやっていない」というのが本音であった。大蔵官僚と雖も、立場上は公務員である。何か反論があったとしても、自ら主張することはできず、仮に反論したとしても、世間が耳を貸してくれることはなかっただろう。つまり、ただ耐えるしかなかったのである。非の打ち所の無い秀才としての人生を送って、名誉ある仕事に打ち込んできた何十年の人生が、ノーパンしゃぶしゃぶ店に行ったことで全否定されてしまうのか――。そうだとすれば残酷な話だが、世の中、それほど非情な人間ばかりでもない。あの大騒動から約20年。彼らの“その後”を追ってみる。

本シリーズにも随所で登場する中島義雄氏(1966年入省)。当時の大蔵省を退官して20年後の2015年12月、中島氏の名が大きなニュースとなった。同氏が社長を務めていた『セーラー万年筆』は、臨時取締役会で「中島氏の社長職を解職する」と決定。それに対して中島氏は、「決議は無効である」として、東京地裁に地位の確認を求める仮処分申請をしたのである。泥沼の紛争になるかと思われた矢先の同月末、同社と中島氏は和解を発表。中島氏は解職を受け入れる代わり、「今後も取締役として同社に残る」という内容だった。「中島さんに分の悪い話でしたからね」とは然るエコノミスト。「和解案を受けざるを得なかったと思います。セーラー万年筆側の理由としては、『講演等の私的な活動に走り、経営に専念しなかった』、或いは『知人が仲介する商品を持ち込まないよう中島さんに要請していたが、聞き入れられなかった』というもの。こういう場合の決め手は、やはり『社長として経営成績を残しているか?』という点ですが、同社は7期連続での赤字で、2009年に中島氏が社長就任して以降、黒字になったことが無い。これでは、今まで経営責任を問われなかったほうが不思議なくらいですからね」。セーラー万年筆は、文具だけではなくロボット機器の生産も手がける上場企業(東証2部)。大蔵省退官後、何故この会社の社長に中島氏が就任することになったのだろうか? 中島氏が大蔵省を退官したのは1995年。主計局次長だった中島氏は、『東京協和信用組合』元理事長だった高橋治則(『EIEインターナショナル』社長)氏から過剰な接待と供応を受ける。「料亭・ゴルフ・自家用ジェットでの旅行等が報じられました。中島氏は東京大学時代、駒場自治会副委員長を務めたり、ブントでの活動で1年間の停学処分を受ける等、凡そ官僚らしくない人。しかし、そういった意味でのスケールの大きさは役所で評価されたし、実際に最後まで次官レースに残っていた」(同)。1995年に退官を余儀なくされた中島氏だが、「迷惑をかけるまい」との気持ちから、暫くアメリカに渡り、嘗ての上司や仲間と意図的に連絡を断っていたという。しかし、退官から1年ほどした後、旧知の新聞記者であった岸宣仁氏(※現在はフリージャーナリスト)と会った際、自分を大蔵省に入れてくれた恩人である高木文雄(1943年入省・元事務次官)氏が「連絡してこい」と言っているのを岸氏から伝え聞いた中島氏は、その場で目を赤くして涙を堪えたという。

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中島氏を心配し、また救いの手を差し伸べたのは、大蔵省OBだけではなかった。それが、『京セラ』創業者の稲盛和夫氏である。中島氏は京セラに再就職し、その後は『京セラ三田』の専務を経て、『船井電機』副社長に転じた。これは、創業者である船井哲良氏のスカウトによるものだった。京セラ三田の再建手腕に注目した船井氏が中島氏に声をかけた時、中島氏は恩人の稲盛氏に全てを打ち明けた。「叱責されるか」と思ったが、稲盛氏は全てを認め、中島氏を船井電機に送り出した。当時の中島氏は、嘗て自分を追い詰めたメディアの記者に対しても胸襟を開き、民間企業での仕事ぶりについて問われると、次のように語っていた。「当社の船井哲良社長はユニークで、(過剰接待問題等が発覚した)私を含めて、過去に苦い経験をしてきた人を(社外取締役に)集めています。『そういう人は、ものをよく考えている』と言っています。民間企業は気を抜けませんが、充実しています。私は不本意な形で役所を辞めましたが、災い転じて福となる気持ちで頑張りたい。“人間万事塞翁が馬”です」。尤も、個性的なオーナーであった船井氏と中島氏の合理的な考えは、必ずしも一致しなかった。そこで中島氏に声をかけたのが、経営再建の必要に迫られていたセーラー万年筆だったのである。中島氏がセーラー万年筆でどういった改革をして、どんな成果を出したかについては割愛するが、少なくとも、会社そのものの経営を根本から立て直すことができなかったのは事実である。どんなに時間が経過しても、「あの大蔵省の…」と不祥事の暗いイメージが付き纏うことは避けられない。しかし、今や古巣に対しては何の発言力も無く、何の口利きもできない中島氏がここまで期待される“理由”はただ、元大蔵官僚だったというだけではなく、やはり卓越した手腕があったからだろう。

中島氏と同時に大蔵省を去ったのが、東京税関長だった田谷廣明氏(1968年入省)である。国家公務員試験は1位。司法試験も合格という秀才。だが、中島氏と同じように、接待問題で1995年に退官する。「斎藤(次郎)組の筆頭格だったが、斎藤さんはあまり酒を飲まず、宴席嫌いだった為、飲む役目は専らあの人だった。ややこしい案件もまめに折衝して纏めるのが得意なタイプなので、重宝されていた。しかし、やはり遊び過ぎた」(前出の記者)。退官後は『エイチエムティー』という経営コンサルタント会社を設立するが、交遊相手は胡散臭く、民間企業の経営者として踏ん張っていた中島氏と比べると、相当下まで“天下った”感は否めない。「それでも、公共事業関係の主計官をしていたし、兎に角、顔の広い人だったので、数十社の顧問を引き受け、カネには困っていなかった。ただその後、ファンドを通じた株取引に手を出し、かなりの損失を出したことを聞きました。『自宅の土地が差し押さえられた』とも聞きましたが、今、どうなっているかはわかりませんね」(10年ほど前の田谷氏を知る人物)。退官後、一切の取材を受けていない田谷氏の本心は窺い知れないが、今日もどこかと誰かで酒を酌み交わしているのだろうか。扨て、中島・田谷事件から3年後の1998年に大蔵省を去ったのが、長野厖士氏(1966年入省)と杉井孝氏(1969年入省)である。どちらも東京大学在学中に司法試験に合格した秀才であったが、“接待キング”の汚名を浴びせられ、失意のまま役人人生を終えた。「しかし、2人はやはり秀才でした」と前出の記者は語る。「弁護士に転身し、金融機関との付き合いを活かして、かなり良質の顧客を抱えている。どちらも、役人時代より遥かに高給取りになっていますよ」。嘗て、大蔵官僚を接待したのは、“MOF担”と呼ばれる銀行の“大蔵省担当者”たちだった。彼らにしてみれば、会社の仕事として官僚を接待していた訳であり、そこに個人的な恨みが生じる訳ではない。また、接待した側はお咎め無しだからいいが、受けた側は大きなツケを払うことになった。このことについても、当事者としてみれば「一緒に遊んでいたのに申し訳ないことをした」というのが自然な感覚だっただろう。これが民間同士の接待であれば、何も問題にされなかったのだから。

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長野氏は現在、日本最大の法律事務所の1つである『西村あさひ法律事務所』の弁護士で、企業の税務やM&Aを手がけている。あの大蔵バッシングで最もメディアの標的になることが多かった長野氏は、司法試験合格という若き日の“貯金”に助けられている。「接待を受けていた長野さんが凄いと言われた所以は、どんなに夜中の2時・3時まで遊んでいても、必ず次の日は朝一番に来て仕事をしていたことだった。やっぱり、そういう生来の真面目さ・勤勉さというのは、一生変わらないのではないですか」(同)。長野氏と同じく弁護士として活動しているのが杉井孝氏だ。「個人的な取材は受けていないようですが…」とは財務省OB。「個人の法律事務所を開設している他、幾つかの企業の顧問や役員をしていて、昔の仲間ともよく会っているそうです。ああいうことがありましたが、彼は人のいい人物で、面倒見の良い性格だった。だから、後輩等が法律的な相談をしたい場合には、長野のところではなく杉井のほうに行くと聞いています。事件の時も、杉井は司法試験に受かっていたので、検察もやり難かったんですよ。東大時代からの知り合いも多かったし、やっぱり試験に合格している人間に対しては、逮捕までするかどうか、将来のことを考えますからね」。一連の騒動が弾けた際の主計局長だったのが涌井洋治氏(1964年)である。大臣官房長・主計局長と進み、次官は確実となっていた筈だったが、一連の事件が発覚した際、“ナニワのタニマチ”と言われた泉井純一氏(『泉井石油商会』代表)からシャガールの絵画(レプリカ)を贈られた疑惑が指摘され、大きな問題になった。「私と涌井さんの間には、それまで殆ど接点はありませんでした」と語るのは当の泉井氏である。「あの時は涌井さんが再婚するということでしたので、付き合いで20万円程度のレプリカをお祝いとしてお贈りした。ですから、彼に関するエピソードは何も知りません」。

しかし、やはり20万円でも不適切と言えばそうなってしまう。大蔵省の宮沢喜一大臣(当時)は、涌井氏の次官昇格にストップをかけた。これは、省内にかなりの波紋を広げた。これまで次官が任期途中で更迭されたりしたことはあったものの、「主計局長になりながら次官になれなかった」というケースは極めて少ない。しかし、政治は大蔵不祥事を“極めて異例の事件”と判断した。涌井氏はそのまま退官。次官には、既に上がりポストの内閣内政審議室長に収まっていた田波耕治氏がスライドし、涌井氏は『日本損害保険協会』副会長の職に天下った。「ただ、省内では『これは事故である』という考えで、涌井さんは実質的に次官になったものと見做された。その証拠に、ほとぼりの冷めた2004年から2008年に亘ってJT会長のポストを宛がわれている。如何に当時のスキャンダルに身を張って耐えたかを示す“見返り”と言えるのではないですか」。涌井氏の『JT』会長就任は、前任で同じく斎藤組だった小川是氏(1962年入省)の指名だった。それを許容したのは、当時の小泉純一郎政権である。涌井氏の復権について、省内に反対意見が無かった訳ではない。しかし、官邸は『政治の犠牲になった者をいつまでも日陰に置いておくべきではない」とし、天下りを容認した。これは、多くの財務官僚に概ね好意的に受け止められた。涌井氏は、JT会長のポストの後任に、小泉首相の秘書官を長く務めた丹呉泰健氏(1974年入省)を指名。現在に至っている。当時、組織のトップとして次官を辞任したのが小村武氏(1963年入省)である。当時の金融検査官が自殺する騒ぎに発展した時、「次官に止まって対応策を考えたい」と伝えた小村氏に対し、橋本龍太郎首相(当時)が「辞表を出せ!」と一喝した話は、関係者の間で有名だ。政治に“ダメ出し”をされては、役人は逆らうことができない。小村は戦後最短という次官在任6ヵ月での退官となり、『財政金融研究所』顧問に避難した。しかし、小村もまた、省内では“腹を切らされた男”として、寧ろその後は厚遇され、2001年から7年間、『日本政策投資銀行』総裁のポストが用意され、その後も暫く“渡り”を続けている。当時の大蔵バッシングが日本人の心象風景を象徴していたとすれば、「バブルが弾け、庶民が苦しんでいるのに、役人は全く反省せず甘い汁を吸っている」という“怒り”がそこにあったことになる。公務員倫理の回復という意味では一定の効果があったが、その一方で、1990年代に入省した多くの官僚が、仕事の不毛さに幻滅し、省を去った。それは取り返しの利かない傷跡となって、今も財務省内に残っている――。 =おわり


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