「山健組と弘道会が襟を正して初めて山口組が1つになるんじゃないでしょうか」――織田絆誠氏(『神戸山口組』若頭代行)インタビュー

2016年5月、『6代目山口組』と『神戸山口組』の“和解交渉”が密かに進められようとしていた。交渉は何故、決裂したのか? “六神抗争”の行方を左右する神戸山口組の“切り込み隊長”織田絆誠若頭代行が、6代目山口組『清水一家』の高木康男総長との交渉の経緯を具に語った! (聞き手・構成/フリージャーナリスト 西岡研介)

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「初めてお会いする方に、こんな言い方は不躾かもしれませんが、我々、日陰のヤクザ者です。本来なら、こういうマスコミに対してお話をすることは、私としては正直、不本意なところもあります。しかしながら、この度は組織人として、上司から命を受けて、神戸山口組の名誉の為にお話しさせて頂くということだけ、ご承知おき下さい」――。初対面の挨拶を交わすと、神戸山口組の織田絆誠若頭代行は先ず、こう断りを入れてから席に着いた。織田代行は1966年、大阪府生まれの49歳。初代『倉本組』を経て、2002年に『4代目健竜会』(井上邦雄会長、現『神戸山口組』組長)入り。井上組長が『4代目山健組』を継承した後は、同組で若頭補佐等を務めた。そして、2015年8月27日の『山口組』分裂、『神戸山口組』の結成後の9月5日、同組の直参に昇格すると共に、若頭補佐に就任。同月24日には若頭代行に就くと共に、4代目山健組の副組長に就任した。若頭補佐就任と同時に織田代行は、『弘道会』の本拠地である名古屋を始め、北は北海道から南は九州まで全国を行脚し、神戸山口組の傘下団体を激励すると共に、6代目山口組系組織に対する示威行動を展開。これらの織田代行の行動が、各地で傘下団体同士の緊張関係を生み、衝突を引き起こしたことから、実話誌でなく、大手紙や民放テレビ等のマスコミから“抗争の行方を左右するキーマン”として注目を集めた。この為、筆者は半年以上前から、複数の神戸山口組最高幹部を通じて織田代行にインタビューを申し込んでいた。が、当の織田代行自身がメディアの取材に応じることを嫌っていた為、色よい返事は貰えなかった。更に、『伊勢志摩サミット』(2016年5月26~27日)前に、双方の山口組関係者や捜査関係者の間で取り沙汰された“幻の和解交渉”(※後述)でも、当事者の1人としてその名前が挙がったことから、筆者は再度、様々なルートを通じて織田代行にインタビューを申し込んだが、実現は叶わなかった。だが、7月に入ってから“潮目”が変わった。きっかけは、同月5日に発売された『扶桑社』発行の『週刊SPA!』7月12日号に掲載された、このような見出しの記事だった。『山口組総本部が異例のコメント発表! “ヤクザジャーナリズム”の功罪』(取材・フリーライター 根本直樹/文・SPA!編集部)。記事は、6代目山口組の“2次団体幹部”、或いは“総本部”の話として、ヤクザジャーナリズムの第一人者である溝口敦氏を批判することに主眼が置かれていたが、その前段として、“幻の和解交渉”について次のように記されていた。少々長くなるが、本稿の前提になるので引用しよう。

これまで、和平の道がなかったわけではない。射殺事件が起きる前に両団体の幹部同士が顔を合わせて交渉する席が設けられたという話が漏れ伝わった。6代目山口組側からは高木康男・清水一家総長、神戸山口組からは織田絆誠・若頭代行が出席し、落としどころを話し合ったとされる。この会談について、2次団体幹部が語る。「山健組の若頭補佐の1人が清水一家の重鎮に『高木総長にご相談があります』と連絡を入れたのが発端だった。『織田と会っていただけないか』との申し出に、全権を委任された立場で来るなら話を聞こう、と会ったのは事実。ただし、いざ会ってみると何の権限も持たず、『どうすれば(山口組に)戻れますか』と聞いてくる。6代目山口組としては『ポツダム宣言なら受け入れる。若い者は救えても絶縁者は救えるわけがないだろ』と蹴って終わった」。噂は瞬く間に広まった。ただし、巷に流布されたのは、極端に歪曲されたものだという。「そんな経緯が織田にかかると、『親分(神戸山口組の井上邦雄組長)の若頭での復帰案を司6代目が呑み、総裁職に退くことになった。ところが獄中にいる髙山若頭が拒絶して破談になった』というフィクションにすり替わる。さも事実であるかのように吹聴するので、始末に悪い」。

そして、記事は「神戸山口組サイドのキーマンとして挙げられる織田若頭代行だが、2次団体幹部の心証は極めて悪い」等と、織田代行に対する個人攻撃を展開していくのだ。が、この“2次団体幹部”が語ったとされる和解交渉の内容は、筆者が6代目山口組・神戸山口組双方の関係者から聞いたそれとは、全く違っていた。そこで、筆者は三度、前述の神戸山口組最高幹部を通じ、和解交渉のもう一方の当事者である織田代行に取材を申し入れたところ、「今回の(和解交渉の)件に限ってならば…」という条件付きで、織田代行自身がインタビューに応じてくれることになった。7月20日14時25分、こちらが会場に指定した神戸市内のレストランの個室に、今や彼のトレードマークとなった三つ揃いのスーツ姿で現れた織田代行は、こちらが前述の条件を呑んだことを伝えると、「では、自分の知り得た範囲の事実のみ、お話しします」と“幻の和解交渉”の全貌を語ってくれた。以下、約3時間に及んだインタビューの内容を、必要最低限の解説を加えた上でお伝えする。 ※()内は筆者の注釈

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4月の28日から29日の深夜から未明にかけてのことです。『清水一家』(高木康男総長・6代目山口組若頭補佐)の統括委員長である松本(秀博・『美秀連合会』会長)さんという方から、4代目山健組の直参で、(同組傘下の)『誠竜会』(山之内健三会長)の副会長を兼務している岡本(政厚・『東誠会』会長)という者に電話がありました。(松本氏と岡本氏の)2人は20年以上の付き合いで、昵懇の間柄ということで、(山口組が)分裂した後も「お互い大変だな…」と世間話ができる仲だったそうです。その電話で、松本統括は岡本に対し、こう言ったそうです。「うちの高木(総長)が分裂以降、色んなことで悩んでいる」と。「是非、ちょっと会って話を聞いてもらえないか」と。そこで岡本は、直ぐに山之内にその内容を伝え、山之内から私に連絡が入りました。「うちの岡本に、清水一家のほうから接触がありました」と。「どうも、高木総長が悩んでいるらしいんですが、どうしたもんでしょうか?」と。つまりはハンコ(承認)ですね。「(山之内会長が清水一家と接触する)許可を貰えるか」と。(山之内会長に)「相手は誰ですか?」と訊くと、「松本統括です」と。その際に、山之内のほうから松本統括と岡本の関係も聞いたので、「そういうしっかりした人間関係があって、相手も責任のある立場だったら、大丈夫じゃないですか。(会いに)行って下さい」と。「但し、(相手が)どんなことを言ってきても即答せずに、松本統括を通じて、高木総長が何を言いたいかだけを聞いて帰ってきて下さい」と言ったんです。それで、5月2日に山之内・岡本の両名が、静岡の高木総長の自宅まで出向きました。

尤も、2人からすれば、いくら相手が指定してきた面談場所が高木総長の自宅であっても、「(面談の)相手は松本統括だけで、最初から総長自身は出て来ないだろう」と思っていたそうです。ところが、「いきなり本人が出てきたので驚いた」と。そして、高木総長は2人に、こう言ったそうです。「井上さんに帰ってきてほしい」と。(織田代行の)親分ですね。「親分に、6代目山口組に戻ってきてほしい」と言うてきた訳です。勿論、(山之内・岡本の)2人にとっては大変な話です。当然のことながら、山之内は「私の立場ではお答えしようがない。然るべき立場の人間――井上親分の考えを理解し、且つ親分の意を受けた人間でないとお答えできない」とだけ答えて、帰ってきました。その際、山之内は「織田の叔父さんのことを想定して言ったが、“織田”の名前は出していない」とのことでした。それで、高木総長宅を辞して直ぐに、山之内から私に報告が入ったのですが、私も組織人ですし、相手も相手ですから。(高木総長は)向こう(6代目山口組)の執行部であり、(東海)ブロック長でもある。到底、(会う・会わないを)私の一存で決めることはできない。そこで、上の方々にお諮りし、ハンコを戴いた上で、私が(高木総長に)会うことになったんです。山之内から高木総長に連絡し、「『2つの山口組にとって建設的な話ならお会いしましょう』と織田が言ってます」と、そこで初めて“織田”という名前を出した。すると、高木総長は誰に相談することもなく、「織田さんですね。是非、来て下さい」と即答だったそうです。ただ、私が山之内を通じて、「後々、そちらにご迷惑がかかってもいけませんので、最初は少人数で目立たない――例えば、民間の喫茶店とかでお会いするのは如何でしょう? 場所を指定して頂ければ、どちらでも伺いますので」と言うと、高木総長は「是非、自宅に来てくれ」と。私が「自宅では後々(会談の事実が公になって)、そちらさん(6代目山口組)のほうで問題になるんじゃないですか?」と言っても、「逆に自宅のほうが目立ちません」と。私は「最初の接触なのに自宅?」と思ったんですが、高木総長は「その(問題になった)時はその時ですよ」と。「それで(6代目山口組執行部から)どうこう言われるのであれば、処分を受けてもいい。また出て(離脱して)もいい」ぐらいのことまで口にされたそうなので、「そこまで言われるのであれば…」と、こちらから高木総長のご自宅に出向くことになったんです。

そして5月14日13時、織田代行と山之内会長の2人は、静岡の高木総長の自宅まで出向いたという。


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JR静岡駅から先方のお宅までは、車で40分ぐらいかかりましたかね。その道中、「高木さんのことを、どうお呼びすればいいものか…」と。自分と高木さんは20歳近く、親子ほど年が離れており、うちの(井上)親分とも同い年か1歳違いぐらいなもので。その一方で、分裂後という状況でもありますからね。山之内に尋ねると“総長”とお呼びしているというので、「自分もそうしよう」と。総長は、私のことを“織田さん”と呼んでいました。高木総長のお宅に伺うと、門の前で総長と松本統括が待っていてくれましてね。「初めまして」と挨拶すると、歩み寄って両手で握手をしてくれました。それで、「どうぞどうぞ」とにこやかに通されましてね。立派な日本庭園を抜けて、奥の応接間に案内され、「どうぞ景色のいいほうに」と庭の見える席に座らせてもらいました。メンバーは私と山之内、高木総長と松本統括の4人でした。ただ、他にお茶の差し替え等のお世話をしてくれる若い人が3人ほどおられたのかな。その時点で、自分は「あれっ?」と思ったんです。「目立たないほうに」とお伝えしたのに、「人払いもせず、大丈夫なのか?」と。我々は上からハンコを貰って来ていますんで、全く構わんのですが、「総長は後々、(6代目山口組)内部で問題にならないのかな?」とは思いました。けれども、そこで躓いていても仕方ないので、先ずは世間話から入りまして、私のほうから松本統括に改めて岡本との関係を伺ったんです。そしたら松本統括は、「実は私、尼崎の出身なんです」と。「集団就職で東京に出て、それからヤクザになりました」と。縁あって初代『美尾組』に人り、そこで(若)頭をされていたのが高木さん(当時は“陣内”という稼業名)だったそうです。「その道中に岡本さんとの出会いがあって、以来、二十数年のお付き合いなんです…」と、極めて和やかな雰囲気で(会談が)始まりました。

それで、本題に入る前に、実は私、上司から“宿題”を戴いていましてね。「先ずは、自分(織田代行)の私見や持論を語る前に、(分裂に至った経緯や)現状について、相手(高木総長)の見解を質せ」と。そこで私は、「総長、今の(2つの山口組の)現状をどうお考えですか? 総長のご見解を聞かせて下さい」と尋ねました。ところが、それに対して総長は、こんなことを話し始めたんです。「(分裂1ヵ月前の昨年)7月末の昼、條原(山口組総本部)で井上さんと入江(禎・『2代目宅見組』組長兼神戸山口組副組長)さんと和気藹々と食事をしたんです」と。全く自分(織田代行)の(質問に対する)答えになっていない訳です。(分裂前の動きを)「知らなかった」と。続いて、こうも話されました。「(分裂の)数日前から東京にいたところ、(在京の)同業者から連絡があって、『山口組は割れるんですか?』と。『とんでもない。誰がそんなデマを流しているんだ?』と言ったくらい、私は本当にわからなかったんですよ」と。その後も、「自分は気付かなかった」「何も聞いていなかった」と2~3度、話されていました。そこで自分は、こう思ったんです。「あぁ、テープがあるな(会話を録音しているな)」と。「名古屋(弘道会)の人たちは何かにつけ、テープを録るのが好きだ」というのは、よく知られた話ですから。勿論、直接、総長に確認した訳ではないので、本当にテープがあったかどうかはわかりませんよ。けれども、「これはテープが回る(録音されている)ことを前提に話せんといかんな」と思いました。それで、改めて総長に(山口組が分裂している)現状に対する見解を質すと、今度はこんなことを話される訳です。「織田さん、自分は親分(6代目山口組の司忍組長)とは古いんですよ」と。「自分は16歳の時、ある事件を起こして、名古屋に身を躱していたんです。その時に6代目の親分と出会って、それ以来のお付き合いなんです」と。6代目は昭和17年生まれですから、計算したら当時は22歳ぐらいで、丁度、大阪から名古屋に来て直ぐの時分の話ですかね。続けて、「この間も親分に、『高木よ、お前とは古いからな』と声をかけてもらったんです」と、そんな話をする訳です。後日、高木総長の話を、うちの親分や、正木(年男・『正木組』組長)総本部長ら、嘗ては(6代目山口組の)執行部を歴任された大先輩の叔父さん方に確認しても、誰も「そんな話は聞いたことがない」と仰る。それは兎も角、高木総長はそういった6代目を称賛するような自分の発言を、(テープに)残しておきたかったんでしょう。しかしその一方で、6代目体制について批判めいたことは一切言わない。話の道中(途中)、「所謂“弘道会方式”・“名古屋方式”と言われる(組織運営の)やり方については、どう思われますか?」と尋ねても、「う~ん…」と唸るだけ。こちらがいくら話を元に戻し、現状についての見解を質しても、高木総長は只管に躱して、躱して、躱し続けた。

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寧ろ、こちらに対する疑問を口にされたのは松本統括のほうでした。高木総長に何度目かの見解を伺う道中で、私が「(分裂以降、6代目山口組・神戸山口組)双方の若い人たちが、現場でどれほど苦しい思いをしているか」というような話をしたんです。そしたら松本統括が、遠慮がちにではありましたが、「ならば何故、全国でああいうことをしたんですか?」と聞いてこられた。(分裂直後から)私が全国回って、会合を開いたりしたことを言われとるんでしょうね。「何でああいう(6代目山口組に)圧力をかけるようなことをしたのか?」ということを言いたかったんでしょう。これを受けて私は、こう答えたんです。「(神戸山口組の)存続の為です」と。話は少し逸れますが、(離脱当初)マスコミ関係から流れたんですかね、(離脱するのは25団体だとか30団体だとか。ところが、蓋を開けたら15団体だった。更に、(分裂前の)2~3日の間に13になったんですよ。また、山健組からも離脱する者が出ました。そんな中、9月5日に身に余る役職(神戸山口組若頭補佐)を戴き、自分なりに「何とか(神戸山口組からの離脱の)流れを止めたい」という思いがありました。これは全国の会合でも繰り返し言うてるんですけど、抑々、親分や叔父さんたちは山口組を“正す”為に出た訳です。本来なら、一番いい形は内部に留まっての改革です。けれども、(6代目山口組側は)叔父さんたちの進言・諫言を一切、聞かなかった。或いは聞いたふりをして、人事で外していった。そういった骨のある叔父さん方は(要職から)外され、或いは自分から外れていった。そして組織に絶望し、「内部に留まっていては改革ができない」と外に出た訳です。ということはですね、(神戸山口組が)消滅したら(6代目山口組を)正せない訳です。だから、先ずやるべきことは“存続”でした。とはいえ、親分と12人の叔父さん方は外に出た時点で――我々は“立ち上がった”と言っているんですが――立ち上がった時点で、絶緑・破門等の処分を受けた。言葉は悪いですが、“処分者の集まり”な訳です。

無論、親分や叔父さん方はそれを覚悟の上で出られたんですが、末端の、現場の若い子からしたら、どうしても“処分者の集まり”という負い目がある訳です。骨のある者はドンと来いでしょうが、皆が皆、強い訳ではありませんから、この世界も。だから、「そういう若い子らが抱く負い目を少しでも払拭したい」と。「それでは、普通の会合ではダメだな。私自身が直接、現場に出向いて、全国の“同志”たちと同じ目線で話をしなきゃならんな」と思ったんです。それで、「親分や叔父さん方が何故立ち上がったのか?」という思いを伝えた上で、「真の山口組はこっちなんだ」と。「(破門・絶縁)状は出ているけど、親分や叔父さん方は我が身を捨てて、山口組を正す為に、我々、次の世代、その次の世代の為に、敢えて茨の道を選んでくれたんだ」と。「だから、決して負い目など感じることなく、堂々と胸を張って往く道を往こうじゃないか」――。そんなことを、9月5日から語り始めました。5日は(神戸山口組の)第1回の執行部会議が開かれたんですが、それが終わるや(車で)名神(高速)に乗り、(弘道会の本拠地である)名古屋に向かいました。「先ずは(名古屋市千種区今池に事務所を置き)周りを敵だらけに囲まれた(2代目)健仁会の同志たちを励まさねば」と。その道中、山健(組傘下)の中京エリアの全ての組織に連絡し、健仁会の事務所に駆けつけるよう召集をかけました。夕方に神戸を出て、(健仁会の事務所に)着いたのは夜でした。事務所に入ったら50~60人はいました。彼らを前に、「名古屋を始め、中京地区はそれこそ、周りを敵ばかりに囲まれている。だからこそ一致団結して、互いに助け合っていこうじゃないか」という話をしました。また、言葉だけじゃなく、身を以て(示威行動を行い)、「見ての通りだ」と、「誰も向こうの事務所から出て来ないだろう」と。向こうさんからすれば挑発的な行為に見えたかもしれませんが、相手の事務所の前で素通りしたり、歩いたりといった程度の話ですよ。本来なら、“処分者の集まり”がそんなことをしたら、事務所から出て来て「何しに来たんだ? 向こうへ行け」と追い払わないといけない筈。それが、名古屋を始め北海道から九州まで一切、ありませんでした。ということは、「(6代目山口組に留まっている)彼らも名古屋方式・弘道会方式に対する負い目や、よしとしない思いを持っているんだ」と。「我々は先に出たけど、後から必ず追って来る人たちがいる。いや、来させなければならないんだ」と。「それは、彼らが「“真の山口組”はどちらなのか?」とわかった時だ」――。こういう話を、昨年の9月5日から今日まで、全国の会合で何十回と繰り返し、語り続けてきたんです。そして、この時も同じ話を、松本統括を相手にしました。すると、松本統括は黙ってしまい、以降、二度と質問されることはありませんでした。勿論、高木総長も沈黙したままでした。ただ一言だけ、高木総長がはっきり、こちらのほうを向いて言ったのが、先程お話しした山之内に伝えた内容と同じ話ですね。「何とかならんですかねぇ、井上さん。戻ってもらえんですかねぇ…」と、こういう言い方でした。

この高木総長の発言を機に、会談は漸く“本題”に入っていく。


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それを受けて私は、こう言うたんです。「これは飽く迄も私見ですが、うちの親分が(6代目山口組を)正せるポジションに戻るのであれば、可能性はあると思いますよ」と。続けて、「うちの親分を7代目に、今の6代目(司忍組長)を総裁に…という形であれば、神戸山口組の錚々たる叔父さん方も納得されるのではないでしょうか」と言ったんです。更に「若しくは」と。「若しくは(6代目体制のままで)うちの親分が若頭に――但し、人事権を含め全権を委ねられた形で若頭に就くのであれば、叔父さん方も納得される可能性があるのではないか。そう私は思います」と言いました。そして生意気にも、こう言うたんです。「6代目がうちの親分に対して、『この度の件は俺の不徳の致すところだ』と。『井上、全てを任せた』という言葉をかけて、若しも、ですよ。うちの親分が『わかりました』と受けたなら、あのお人柄ですから、6代目を決して無碍にはしません。逆に、周りが『親分、そこまでしなくていいんじゃないですか』と言うくらい、(司組長に対し)きちんと礼節を尽くして立てるでしょう。そういうお人ですから」と。そこで山之内のほうに向き直り、「どう思う?」と尋ねると、「自分もそう思います」と。ただ、私も端から、こんな話を向こうが呑むとは思っていませんでした。けど、こちらからすれば、高木総長が親分に「戻ってきてほしい」と言ってきた時点で、交渉は始まっている。そして、2つになったものを1つにする訳ですから、1回や2回(の交渉)で終わる訳がない。交渉事というのは、どんなことでもそうなんでしょうけど、先ずは双方が最も高い要求を掲げ、それからお互いが徐々にハードルを下げていって、落としどころを探る。そういうもんでしょう。だから、私としたら「親分を7代目に、6代目は総裁に」、若しくは「親分を、人事権を含め全権を委任された若頭に」の“2つに1つ”という話をしたんです。「向こうさんにとって、ここまで高いハードルを設定すれば、叔父さん方にも『お前、勝手なこと言うて!』とお叱りを受けることもないだろう」と思いましたので。

そこで仮に、“2つに1つ”の1つ、親分(井上組長)が人事権を含め全権を委任された若頭を受けられた時に、新体制ができる訳ですよね、新執行部が。高木総長には「その際に、1から10まで(ポストを)神戸山口組が占めるというようなことはないと思いますよ」と。「尤も、先々のことなのでわかりませんが、(井上組長は)それこそ山口組が再び1つに纏まれるような、バランスの取れた人事をなされると思いますよ。元々、気配り・心配りの方ですから」と言いました。この時も、私は山之内に「どう思う?」と尋ねたんですが、「そう思います」と。それを受けて自分は、「ね、総長。うちの親分は器の大きい方なんですよ」と言ったんです。すると高木総長、何を慌てたのか、「うちの親分も大きい方ですよ」と言うんです。その時、私は「あぁ、(自分の発言を)テープに残したいんだろうな」と思ったんですが、「それで総長、如何ですか?」と話を本筋に戻したら、また「う~ん…」と唸って、肝心の質問には答えない。普通ならここでね、高木総長の立場なら「処分者の集まりが一体、何を言っているんだ?」「7代目? 若しくは若頭? 貴男たちは何を考えているんだ?」ぐらいの発言があって然るべきでしょ。少なくとも、私が総長の立場ならそう言っていますよ。けれども、総長は「う~ん」と唸るだけで、そんな発言は一切ありませんでした。そこで、私は続け様に、こう言うたんです。「今、早朝にお話しした内容の全てを6代目に直接、お伝え願えませんか?」と。すると高木総長は、「いや、自分ではちょっと」と。「内容が内容ですからね。自分ではちょっと」と、こう言うたんです。「では、誰にお話しすれば6代目に伝わるんですか?」と尋ねても答えが無いので、自分から名前を挙げていったんですよ。「極心(連合会会長)の橋本(弘文・6代目山口組統括委員長)さんですか? 大原(宏延・『大原組』組長兼6代目山口組本部長)さんですか? 青山(千尋・『2代目伊豆組』組長兼6代目山口組舎弟頭)さんですか? それとも(5代目)國粹会(会長)の藤井(英治・6代目山口組若頭補佐)さんですか?」と。どなたの名前を挙げても、高木総長は「う~ん」と首を傾げるだけでした。そこで私が、「ひょっとして竹内(照明・『3代目弘道会』会長兼6代目山口組若頭補佐)さんですか?」と言うて初めて、「いや、そこのところは私、よくわからないんです」とはっきりと返事したんです。竹内さんと言えば道中、こんな話もしました。「山口組が2つになっている。とても不幸なことですが、では何故、そこに至ったんでしょうか?」と、高木総長に見解を質していた際のことです。「名古屋方式・弘道会方式について、どう思われますか?」と聞いた時に、竹内さんの所作についても触れたんです。「叔父さんを叔父さんとも思わない、先輩を先輩とも思わないような竹内さんの所作を、どう思いますか?」と。「何故、周りの方々は咎められないのですか?」と。

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例えば、(総本部の)廊下で大先輩を捕まえて、両ポケットに手を突っ込んだまま立ち話をしてみせたりですね。相手は極心の橋本さんです。その姿を部屋住みの若い子たちに見せとる訳です。これ、本来の山口組ではあってはならんことなんです。しかも、(竹内会長が若頭)補佐に昇格した直後のことだったそうです。あり得ない。ついその前まで、竹内さんは弘道会の若頭――言葉は悪いですが、橋本さんからすれば“枝の子”だった訳です。にも関わらず、大先輩に対してそんな立ち居振る舞いをする。しかも、それを周りが咎められない。「何故なんですか?」と私は高木総長に問いました。「それが髙山(清司・6代目山口組若頭)さんの残したものじゃないんですか?」とも聞きました。そして、「こんなことを6代目はご存知なんですか?」と。「承知の上で許されているんですか?」と、そこまで言いました。「花隈(山健組)ではあり得ない話ですよ」と。どちらかと言うと、自分は出来の悪い男です。所作も知らない男です。それでも、先輩に対する最低限の礼節は守らせて頂いているつもりです。偶々、今は緊急時なので、自分がこういう役職に就かせて頂いているだけで、それは自分自身が一番よくわかっています。だから、昨日まで「叔父さん、叔父さん」と呼んでいた方々に、(昇格したからといって)掌を返したような呼び方ができんのです。それで、これまで通り“叔父さん”と呼び続けていたんですが、ついこの間、上の方からお叱りを受けましてね。それ以降、公の場では“補佐”・“会長”・“組長”と呼ぶようには気を付けてはいるんですが、今でも偶に“叔父さん”とつい呼んでしまう。若い頃は違いました。恥ずかしいお話ですが、昇格と同時に先輩捕まえて、「おい兄弟」とかやっていました。倉本(組)にいた頃は20歳そこそこでしたから。倉本の初代親分から「織田よ、ヤクザに年なんか関係ないんや」と言われて、「そういうもんだ」と思い込んでました。「ヤクザに年なんか関係あるかい」と。バカでしたね(笑)。でも、50(歳)近くなって、ある程度世間を見てきたら、やっぱりわかってくるんですよ。「恥ずかしいことをしとったな」と。今になって反省しとるんです。

反省と言えば、私自身が猛省しとることがもう1つ。私、35歳の時に今の親分に拾ってもらったんですよ。健竜会に。それで、5代目体制の山健組を3年間経験しとるんです。5代目時代には勿論、いいところも悪いところもあったんですが、一番悪かったのが「山健じゃ」言うて筋違いを通してきたこと。私自身がそうでしたから。3年間はやりっ放しでしたね。「山健じゃ」「山健じゃ」言うて、無理を通してきたんです。家(5代目山口組)の中でね。外でやったらナンボかよかったのかもしれませんが、それを家の中でやってしまった。私を含め、山健の者が皆。5代目から6代目に代替わりした理由は様々あるんでしょうが、最大の理由は山健の所作だったんじゃないでしょうか。中に向かって「山健じゃ」言うて、筋違いを通してきたというね。それで、これを正してくれると思った様々な方々が今、神戸山口組におられる叔父さん方を含め、信じて担いだんが6代目だった。ところが、蓋を開けたら今度は「名古屋じゃ」「名古屋じゃ」になってしまった。(5代目時代の山健組と)全く同じことをしとる訳です。だから自分は、己を棚に上げるんやなしに、先ずは自分から猛省しとる訳です。尤も、未だその道中ですが…。高木総長にも、「若し、竹内さんにお会いすることになったら、こんな話をしたいと思います」と言いました。「先ず、ものの順序として、山健組の私が反省して襟を正します」と。「その次に竹内さん、貴男も反省して襟を正して下さい」と。「山健組と弘道会の双方が本当に反省し、襟を正して初めて、2つになった山口組が1つになり、真の山口組ができるんじゃないでしょうか」と。けれども、この時も高木総長は何も言われませんでした。それで、私は一番最後に、こう言うたんですね。「今、2時間弱語った全く同じ内容の話を、どちらにでも足を運んでさせて頂きます」と。「どちらの方が出て来られても、今、総長にさせて頂いた内容と同じ話をさせて頂きますから」と。その時点では、「この次には、先程挙げた5人の方の誰かが出て来る」と思っていましたから。そして、「総長が『私では答えられない』『わからない』と仰るのならば、今日、私が総長にお話しした内容が、何とか6代目に伝わるように、耳に届くようにして下さいよ」と。「(総長が)できなければ、もう一度、私が(別の幹部のところまで)足を運んで同じ説明をしますから」と。高木総長は最初こそ、笑顔で迎えてくれましたが、話の途中からどんどん暗くなっていきましたね。最後のほうは完全に落ち込んでいました。私は、「今回は未だ“第1回”に過ぎん」と思っていましたんで、「お互いに携帯(電話の番号)を交換しましょう」と。私は、24時間繋がる携帯電話の番号を(高木総長に)渡しました。それで、静岡から神戸に戻りましてね。新神戸(駅)に着くと早速、高木総長の携帯に連絡したんです。手土産まで頂いたものですから、「お礼の電話を」と。それで、「これに懲りず、総長、またいつでも連絡下さい。何でも言うて下さい。こっちからも連絡しますから」と言って切りました。その時も(高木総長は)暗かったですね。電話の声が沈んでいました。(高木総長が暗かった)理由は、これは飽く迄も私の想像ですけどね。やはり(会談の)内容やと思うんです。テープがあったとしたら、或いは口頭で報告しなければならないとしたら、これ、総長にとってとても報告し難い内容ですわね。私が“2つに1つ”の話をした時に、「ちょっと待て、いきなり何てこと言うんだ?」と一言、二言、言うべきところを言えなかった。「これは6代目や、他の人に怒られるだろうな」と思ったんです。

ところが、その翌日の5月2日の夕方、今度は高木総長のほうから織田代行の携帯電話に連絡が入ったという。


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18時は回っていましたね。その時、私は尼崎で公用中で、その最中に電話が入ったんです。(電話の向こうの高木総長は)もうハイテンションでね。昨日とは打って変わって、明るい声なんですよ。それで、こう言う訳です。「織田さん、名古屋から今、帰ってきました」と。「竹内(照明・若頭補佐)の兄弟と一緒に、昨日の件を親分に報告したんですよ」と。「そしたら、『わかった』『よくわかった』『全てわかった』と言ってくれたんです」と大層、喜んでおられました。それを聞いた時、自分は正直、「まさか」と思いましたよ。こちらが提示したのは、先程も申し上げた通り、「親分を7代目に、6代目は総裁に」、若しくは「親分を、人事権を含め全権を委任された若頭に」の“2つに1つ”という話ですよ。「(司組長が)呑む訳ない」と思っていましたから。そこで、高木総長に「本当ですか?」と。「7の件も頭の件も全て、6代目に話してくれたんですか?」と聞くと、「織田さん、だから言ったでしょう? うちの親分は器が大きいんですよ」と言いました。「だから言ったでしょ?」というのはね、前日に総長宅で“2つに1つ”の話をした際に、私が「うちの親分は器の大きい方なんです」と言った時、総長が慌てて「うちの親分も大きい方ですよ」と言ったという話をしたでしょ? あの時の発言を踏まえているんです。続けて高木総長は、こう言いました。「親分は、『織田と竹内の2人で話を進めろ』と仰っています。『それに高木、お前も加われ』と」。更に、「親分は織田さんを認めているんですよ」と。そこで自分は、「流石にそれはないでしょう」と(笑)。「憎たらしくて仕方ないんじゃないですか?」と言うたんです。そしたら総長は、もう一度、「うちの親分は懐が深い、大きな男なんです」と。そして、こんなことを言う訳です。「親分は、『織田の言うてることが合っている』と言っています」と。「何の件ですか?」と尋ねたら、「織田さん、言っていたでしょ? 総本部の廊下で、竹内の兄弟が橋本の統括を捕まえて…」と。私が竹内さんの所作を批判したことを言うてる訳です。「あの件については、織田さん(の言うこと)が合ってる(正しい)と(司組長が)言っているんです」という訳です。

「ほんまかいな」と思いましたけどね。その間ずっと、高木総長はハイテンションのままですわ。昨日まであれほど暗かった人がね。この高木総長からの連絡を受け、私は「この話、即答はできんので、一旦、預からせてもらいます」と電話を切りました。私も組織人ですからね。ここは即答する訳にはいきませんから。すると、電話の最後に高木総長は、こう言ったんです。「親分はね、『織田と竹内の2人で進めろ』と言ったんです。竹内の兄弟を前にして、織田さんの名前を先に出したんですよ。織田さん、ヤクザに年は関係ないんですよ。これも何かのご縁ですから、これから末永く宜しくお願いします」と。それで、彼方此方に連絡・報告を入れた後、再度、高木総長に連絡し、「明日(16日)の遅くとも15時までに返事します」と言いました。その後、組織の中で検討した上で答えが出たので、翌16日の14時過ぎ、高木総長に連絡を入れ、「結構です」と、「その話を進めましょう」と返事しました。但し、「2対1(の話し合い)では具合が悪いので、黒誠(会)の(剣政和)会長(神戸山口組若頭補佐)同席でどうですか?」と言ったところ、高木総長は即答せず、一旦、電話を切ったんです。それから暫くして、高木総長から電話がありました。「大丈夫です」と、「場所はどこですか?」と。それで自分は、須磨(神戸市須磨区)に総長が神戸宅を持っている話を聞いていましたので、「総長、須磨にご自宅をお持ちじゃないですか?」と、「そこでいいんじゃないですか? 2人で足を運びますよ」と言いました。続いて、総長から「(会談の日時は)いつがいいですか?」と聞かれたので、私はその時、「早いほうがいい」と思ったので、「明日(17日)、行きます」と答えたんですが、総長はまた即答を避け、電話を切る訳です。暫くして、総長から再び電話があり、「では明日の昼、須磨の自宅でお待ちしています」ということになったんです。その時、私は「明日の会談は恐らく、長丁場になる」と思ったんで、「竹内さんとは初対面で失礼なんですが、スーツ・ノーネクタイで如何ですか?」と聞いたら、高木総長、これさえも即答できんかったんです。また電話を切って、誰かさんと相談しとる訳です。この時、「あれっ?」と思いましてね。「会談の日時や場所は勿論、服装まで一々誰かさんにお伺いを立てんと決められんような人が、何故初対面の時は『織田さんですね、是非、自宅に来て下さい』と即答だったんだろう?」とね。後から考えれば、「向こうさんの抑々の目的は、“織田に高木総長の自宅まで足を運ばせること”にあったんじゃないか?」と思うんです。一般社会でもそうでしょうが、普通、お願い事がある側や詫びを入れる側が、相手のほうまで足を運びますわね。そういう状況を作りたかったんじゃないかと。そういう状況さえ作っておけば、今回のように(和解の)話が潰れ、且つそれが表沙汰になった時に、あの記事(前述の『SPA!』の記事)に載ったように、「織田が『どうすれば(山口組に)戻れますか?』と聞いてきた」等という嘘が吐けますからね。自分が高木総長の自宅まで足を運んだということ“だけ”は事実ですから。「今回の向こうの最大の目的は、そういう状況を作ることにあったんじゃないかな」と。「全く、芸の細かいことをするなぁ…」と(笑)。

それで、話は戻りますが、また暫くして高木総長から連絡があり、「スーツ・ノーネクタイで結構です」と。それで、一旦は翌17日の昼に決まったんです。が、その日(16日)の夕方、再び高木総長から電話があり、どうも竹内さんのほうに不幸があったらしく、「延期してほしい」と。「じゃあ、いつがいいですか?」と今度はこっちから聞くと、「19日」というので、「いいですよ」と即答しました。こちらはもう、上の命を受けていますからね。「2対2なら会いなさい」と。一々、誰かにお伺い立てる必要はありませんから。それで、19日の14時に、須磨の高木総長宅で、織田・剣、竹内・高木の2対2で会うことが決まり、黒誠の会長に日時を伝え、ご同行をお願いしました。会長は二つ返事で「わかった」と。「いつでも腹括っとるから、どこでも行こうやないか」と嬉しい言葉を戴きましてね。一応、敵さんのところに乗り込む訳ですから、2人ともそれなりにピリッとした気持ちでおりました。自分とすれば、竹内さんと会ったらね、本題に入る前に先程話した「先ずは山健組の私が反省して襟を正しますから、弘道会も反省して襟を正して下さい。竹内さん、貴男にそれができますか?」というような話がしたかったんですがね。また、たとえ(会談が)物別れに終わったとしても、何故こういう(2つの山口組という)状況に至ったのかを指摘したかったんですよ。何故、親分や叔父さん方が茨の道を選んだのか。何故、我々は立ち上がったのか――。要点だけでも直接、伝えたかったんですが、残念でした。それで、約束の日の前日、18日12時半頃ですかね。東京からお客さんが来て、神戸の北野坂で飯を食っていたら、高木総長から電話がかかってきたんです。高木の総長というのは、物凄いわかり易い方でね。2~3日前(15・16日の電話の時)とは、声のトーンもものの言い方も全く違うんですわ。誰かが横にいるような感じでね、こう言うてきたんです。「明日の会談のことですが、竹内の兄弟と織田さんには今後、いい話をしてほしいんです」と。「それについては私、個人的に心配なことがある」と。「話し合いのスタートから、いきなり決裂してほしくないんです」と。そこで、私が「“個人的に心配なこと”って何ですか?」と尋ねたら、「太田工業・澄田会・英組、この3団体についてはどうお考えですか?」と、こうきたんです。「突然、何を言い出すんか?」と思いましてね、「えっ?」と聞き直したら、「この3社を(神戸山口組から)外さないと、話はいきなり決裂します。そうなったら、自分は残念なんです」と。「ただ、これは誰かに言わされているんじゃなくて、個人的にそう思って電話させてもらっているんです」と言うんです。思わず、「そうきましたか」と言ってしまいましたね(笑)。

『太田興業』(太田守正組長)は2005年、『3代目山健組』舎弟頭から『5代目山口組』の直参に昇格したが、6代目に代替わりした後の2008年に除籍処分を受け、引退。しかし、山口組分裂後の2016年1月に『神戸山口組』の舎弟として復帰し、舎弟頭補佐に昇格した。『4代目澄田会』(竹森竜治会長)は2007年、6代目山口組直参に昇格したが、2012年に除籍処分を受けて引退。竹森組長は2015年10月に神戸山口組に参画し、神戸山口組舎弟に就任した。『2代目英組』(藤田恭道組長)は、2013年に6代目山口組の直参となったが、翌2014年に突如、絶縁処分を受け、引退を余儀なくされた。藤田組長もまた、2015年10月に神戸山口組に参入し、若中となった。


「あ、これは四者会談を潰しにかかっとるな」、若しくは「こちらから蹴らせるように仕向けてきよったな」と。誰が考えてもわかるじゃないですか。何で(前述の)3団体だけが問題で、残りの20団体(当時)が問題ないのか。その根拠や線引きは一体、どこにあるんか。特に、太田の会長は同じ山健ですし、自分との深いお付き合いもあるんで、「太田興業を3団体の中に入れとけば、織田がカッとなって蹴ってくる」とでも思ったんですかね。何れにせよ、会談を潰す理由が欲しかったんでしょう。それで、「今、お客さんと一緒なんで後ほど」と電話を切り、2時間後くらいに高木総長に電話をしたんです。「それでね、総長」と。「結論から言うと、(3団体を外すというのは)ノーです。けれどもね、抑々“七か頭か”という大きい話をする前に、何でこんな小さい話をするんですか?」と。「百歩譲って、大きい話をした後々にこの話をするとしても、結論はやはりノーですよ。けれども、何で“2つになった山口組を1つに”という大きい話をしようという時に、こんな些末な話を持ち出してくるんですか?」と質したんです。しかし、総長はそれには答えず、「じゃあ、残念ですね」と。「決裂ですね」とだけ言って電話を切りました。

ところが、その数時間後、織田代行の携帯電話に再び、“決裂”した筈の高木総長から着信があったという。


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私が電話に出るなり、高木総長ははっきりと、こう言うたんです。「織田さん、これが弘道会方式なんです」と。「いつもこうなんです、もううんざりですよ」と。続けて総長は、こう言いました。「今回の件は私の下手打ち(失敗)です。私が(司組長に)何も伝えていなかったんです。だから、自分の下手打ちなんです」と。けれども、その言い方は諦め交じりというか、極めて投げやりな感じでね。私には、高木総長が真逆のことを言っているようにしか聞こえませんでした。つまり、「本来は自分の下手打ちではないのに、6代目には“七の話”も“頭の話”もちゃんと伝えたのに、結局は自分の下手打ちにされた」と。それで、高木総長は最後に、こう言って電話を切ったんです。「あれほどの数の人が(6代目山口組)執行部にいるのに、(神戸山口組との交渉を担当させられたのが)何で私なんですかね。私はただ、言われたまま動いただけなのに…」と。高木総長からの電話は、これが最後でした。私には、ハイテンションの状態でかけてこられた15日の電話と、この最後の18日の電話は、(高木総長の)演技だとは到底思えないんです。「総長の本心からの言葉だった」と。結局、こういう結果に終わってしまったんですが、自分は高木総長にも松本統括にも一切、恨みは無いんです。寧ろ、「色々振り回されて、嘸かし難儀されただろうな」と思っています。何に、或いは誰に振り回されたんかはわかりませんが。おまけに雑誌(『SPA!』)にまで、あんな出鱈目を書かれて、「心からお気の毒だな」と。あれやったら、「高木総長が(総本部に)そんな嘘の報告をしたんか?」という話になるじゃないですか。

14日の会談は、こっちは織田と山之内、向こうは高木に松本と、敵味方には分かれておるけれども、4人の“男”が2時間半も同席して、同じ話をし、聞いとる訳ですよ。高木総長が事実とは真逆の、嘘の報告を上げたからこんな記事が出たんか、或いは、高木総長は本当のことを報告したのに、他の者によって事実が捻じ曲げられたんかわかりません。が、何れにせよ、高木総長の面子は丸潰れですわ。ヤクザとしてどうこう以前に、男としての面子がね。ヤクザ辞めても男は辞められませんから。生きていかなあきませんから。自分やったら、こんなことされたらヤクザやってられない。身を引きます。けれども、男としては生きていかんとあきませんからね。堅気になってから告発するかもしれませんね。「あれは、敵である神戸(山口組)側の話しているほうが正しい」と。何れにせよ、何らかの形で白黒はっきりつけると思います。高木総長も松本統括も内心、忸怩たる思いを抱えてはるんでしょうが、それでも向こう(6代目山口組)に留まり、公用を熟されていることを聞いています。心折れずに。皮肉やなしに、本心から「偉いなぁ」と思いますよ。自分なら耐えられないんで。恐らく、この記事は高木総長に断りもなく、本人の知らん間に出されてしもたんでしょうね。その内容の出鱈目ぶりに一番驚かれたのは、高木総長ご自身と違いますか。ただね、たとえ嘘や出鱈目であっても、公に売られている雑誌に載ってしまった以上、一般の方はこれを事実と信じてしまうかもしれない。また、神戸山口組・6代目山口組問わず、現場の若い人たちも流石に信じるとまではいかないまでも、「果たしてどっちの言うてることが正しのだろう…?」と疑念を持つかもしれない。それらの誤解や疑念を一蹴する為に、実際に今回の折衝に臨んだ当事者の1人として、事実をありのままにお話しした訳です。今、全国各地の現場で、“2つの山口組”という不幸な現状に苦しんでいる双方の若い人たちの“今後”の為にも。

“幻の和解交渉”の当事者の1人である織田絆誠若頭代行の、この詳細な実名証言に、6代目山口組側は果たして、どのような反論をするのだろうか――。



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