【2017年の日本はこうなる】(01) 憲法第9条改正の条件

20170104 01
2016年7月の参院選で自民党は56人が当選し、公示前より6増の121議席と、参議院(定数242)の半数を確保しました。自公で146、『おおさか継新の会』や『日本のこころを大切にする党』を含めると161で、3分の2。定数475の衆議院では自公で324と、3分の2を超えています。これを以て、「改憲勢力3分の2超で、愈々改憲か?」と話題になっています。しかし、こうした見方は短絡的で、実はあまり意味がありません。「現行憲法のどこをどう改正するのか?」という点について、自民党と公明党でも意見の違う部分があるし、『日本維新の会』とこころでも違います。どの条文をどのように改正するのか、共通意識が無いにも関わらず、今直ぐにでも改憲が可能かのような言説が一人歩きしていることには、非常に違和感かあります。私たちが今一度立ち返るべきは、「抑々、日本国憲法はどのようにして成立したのか? そして国家主権とは何なのか?」という基本認識です。現行憲法が施行されたのは、連合国占領下の1947年であり、その時、日本国には未だ主権はありませんでした。日本が独立したのは、1952年の『サンフランシスコ講和条約』の発効時からです。国家主権の3要素とは、領土・国民・統治機構です。そして、「国家の独立を守るとは、この3要素を守る」ということです。しかし、「施行された時に日本が独立していなかった」という事実故に、現行憲法には、この“国家の独立に必要な規定”が盛り込まれていません。ところが、主権が回復されて以降も、この点において何の改正もされていないのです。「それはおかしくないですか?」というのが、改憲議論の出発点です。イデオロギーや国家体制等とは、何の関係もありません。国家主権――つまり、他国による侵略から自衛権を行使して国の独立を守るのが軍隊であり、警察権を行使して国民の生命・財産と公の秩序を守るのが警察です。これは世界共通であり、多くの国において、憲法にもそのように明示されています。しかし、国家主権が無い時に施行された日本国憲法には、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」(第9条第2項)とある。だから、「“国民主権”は義務教育で教わるけれど、“国家主権”については殆ど知らない」という奇妙な状態のまま、日本人は大人になってしまう訳です。その歪みは、改憲論議になると顔を覗かせます。

「軍隊を作るとは何事だ!」「また日本は戦争をするのか!」といった極端な話に先祖返りしてしまったりする。そうした状態から説き起こしていくのは、容易なことではありません。大ヒット映画『シン・ゴジラ』(東宝)も、国家主権に関連して論じることができます。作中では、ゴジラ鎮圧の為に自衛隊を“防衛出動”させていますが、防衛出動とは“国または国に準ずる組織による我が国に対する急迫不正の武力攻撃”に対する自衛権の行使です。しかし、ゴジラは“詳細不明の巨大生物”であり、一種の自然現象ですから、害獣駆除として“災害派遣”で対処するのが法的には妥当です。ゴジラが特定の国や国に準ずる組織にリモコン等で操られていない限り、自衛権の発動はあり得ません。ともあれ、国家主権についての理解がこれはど曖昧な中で、いきなり憲法改正に着手するのは無理があります。2015年の安保法制の議論の際にも、「現行憲法は集団的自衛権の行使を認めていない」といった指摘がありました。私は「憲法第9条を第1項・第2項共に改正すべき」という立場ですが、「これと集団的自衛権の問題とは別なのだ」と考えています。自衛隊の前身である保安隊が1951年に発足し、1954年に自衛隊となった際、当時の鳩山一郎政権は実質上、憲法解釈を変更して自衛権を認めました。これは、占領時には連合国に任せざるを得なかった日本の防衛を、主権を回復した日本が自ら果たせるようにする為です。その後、1956年に日本は『国際連合』に加盟しました。ですから、「国連加盟国の個別的・集団的自衛権を認めた国連憲章第51条との整合性に鑑みれば、この時点で集団的自衛権の行使も可能になった」と考えるのが妥当です。故に、憲法第9条の問題とは別個のものなのです。「集団的自衛権は立憲主義に反する」という批判もよく耳にします。しかし、そうであるならば、「個別的自衛権も立憲主義に反する」としなければ法的整合性が取れません。また、民進党が主張するように、「集団的自衛権はアメリカと一緒に戦争をする為の非常識な権利であり、抑々有害である」とする見解もあります。しかし、それなら国連総会で「国連憲章から集団的自衛権の条項を削除せよ」と主張しなければならない筈です。何れにしても、集団的自衛権行使否定派には論理の不徹底が散見されます。安全保障論は、斯様に定義や認識が曖昧なまま行われているのが実態なのです。それも、結局は「我が国が、国家主権を支える軍隊と、非常事態についての規定を憲法に補充する」という当然の手続きを怠ってきたツケが齎している様々な歪みの1つなのかもしれません。自民党は10年以上議論を積み重ね、「憲法第9条を因数分解した上で、集団的自衛権は現行憲法下でも何の制約も受けず、憲法判断ではなく、政策判断でフルに行使できる」という見解に達しました。そして、「行使に関わる様々な制約は、憲法ではなく、国家安全保障基本法によって規定されるべきだ」というのが党の結論であり、私自身もそう考えています。

自民党は憲法改正についても議論を尽くし、2005年に第1次草案を、野党時代の2012年4月には第2次草案を決定しています。東京裁判否定論や日本国憲法無効論等といった極論ではなく、丁寧に時間をかけて辿り着いた自民党の見解を、私は大事にすべきだと思います。安倍晋三総理が2015年の安保法制制定の際、「今回の憲法解釈の変更が現行憲法下の限界」と説明された以上、我々は更に時間と労力をかけて、もう一度、憲法論議を煮詰め直さなければなりません。こうした経緯を無視して改憲を説く論には、強い違和感があります。所謂護憲派と言われる人々でも、憲法第9条の条文を暗唱できる人がどれほどいるでしょうか? また、“国権の発動たる戦争”と“武力の行使”の違いや、“国際紛争を解決する手段としての戦争”と“交戦権”の定義を理解している人がどれほどいるでしょうか? このような基本を理解しないまま第9条改正の議論を進めても、国民投票において、有権者に判断を仰ぐ前提としての正しい情報を提供することはできません。特に、近年の国際環境は激変しています。“国際紛争”の定義は“国または国に準ずる組織同士の領土等を巡る武力を用いた争い”とされてきましたが、そうした従来の定義には当て嵌まらない紛争のほうが遥かに多くなっています。例えば、『IS(イスラミックステート)』は“国家”ではないにも関わらず、国家レべルの武力・破壊力を持っています。このようなテロ組織からの攻撃は、憲法上、どのような位置付けとなるのか。そうした議論の積み上げは、未だ今後の課題です。一方、改憲勢力たる我々自民党の現状についても、私は「もっと議虚に自省する必要がある」と考えています。自民党は2016年の参院選で“圧勝”とされましたが、北海道・東北5県・甲信越3県・三重・大分・沖縄等では敗北しています。この敗因を修補者のみに帰することはできません。党本部の人選のプロセスも含め、徹底的な検証が必要です。また、自民党の衆参400余りの国会議員の内、約半数は野党時代を経験していません。2009年の総選挙で自民党は大敗を喫して、政権与党の座から転落し、谷垣禎一総裁も大島理森幹事長も、当時の政調会長であった私も、懺悔と反省の日々でした。「国民感覚から乖離し、信頼を喪失してしまった自民党が与党に戻れるのは、我々が議員のうちは無理だろう」「しかし、次世代の為、役人の受け売りではなく、自分たちで考えた政策を正しく説明できるようにしよう」「抑々、自民党とは何か」――。そんな議論を闘わせ、自らのアイデンティティーを問い直し、綱領も新しく制定しました。ところが、民主党の政権運営が余りに稚拙だった為、3年余りで与党に戻りました。その後も、選挙の度に民主党(現在の民進党)が失策を重ねたこともあって、自民党は現在、多数の議席を有しています。つまり、謙虚にみれば、「勝因は敵失に助けられた」という面もあったのではないか。今回の参院選にしても、応援演説のキーワードはほぼ1つ、“安定の自公か、混乱の民共か”でした。政策論以前に、このフレーズを有権者に問いかければ、民主党政権時代の悪夢が甦って、「それもそうだ」とご納得頂けてしまう。

そして、所属衆参議員の約半数は、あの苦しい野党時代の体験も無ければ、改憲論議にも参加していません。小選挙区を基本とする現在の選挙制度では、多くの地域において自民党所属議員は1人しかいません。このままで、本当に国民の間に、憲法改正に向けた正しい理解と気運が醸成されるとは思えません。ですから、「もう一度、党内の改憲論議を足元から詰め、きちんとやり直さなければ」と思っています。では、憲法改正を現実に進める上で、どのような点から着手すべきでしょうか? 私は、「第9条も然ることながら、環境権・1票の格差・衆議院と参議院の役割の違い等、70年前の憲法制定時に想定されていなかった問題について議論を進めたほうが、国民の実感を得易いのではないか」と考えています。1票の格差訴訟は、最高裁でも“違憲状態”との判断が続き、それに伴って衆参両院の定数が削減され、この度の参院選では鳥取・島根両県や徳島・高知両県が“合区”になりました。私の地元である鳥取県の東端から島根県の西端までは、東京-名古屋間よりも遠いし、隠岐島のような島嶼部もある。実際、選挙は大変でした。広大過ぎて、車を走らせても中々人に会えない。有権者の“候補者にアクセスする権利”が阻害されたのです。東京等の大都市圏であれば、候補者に接し、直に話を聞く機会も得られますが、過疎地ではかなり困難です。今回の参議院合区では、そのような切実な声を多く聞きました。しかし、こうした事態も、有権者が“候補者にアクセスする権利”も、現行憲法は想定していません。例えば、この“1票の格差”問題から憲法論議を国民に間いかけていけば、1人ひとりが「憲法改正とはこういうことか」と実感し易いし、改正のプロセスを経験することにより、他の条項についても議論が深まるのではないでしょうか。衆議院と参議院の在り方についても同様です。衆議院で3分の2を取っていない限り、参議院が拒否権を持つ。こんなに強い第2院を持っている国は珍しい。また、衆議院は2~3年に1度、参議院では3年に1度必ず選挙をやるということは、ほぼ毎年国政選挙をやっていることになりますが、「それとかなり似た権能を持つ2院制とは何か?」という議論を深め、国会の在り方を考え直してもいいのではないでしょうか。参議院が、より地域の代表・少数の声を反映する機能を持ってもいいでしょうし、その場合、「1票の格差は、衆議院ほど厳格に人口比で適用される必要はない」という議論があっていいと思います。2017年は明治150年。日本は50年に1回、“グレートリセット”を経験してきました。明治維新・大日本帝国憲法制定・日清&日露戦争という最初の50年、日中戦争・太平洋戦争・敗戦・日本国憲法制定という次の50年。しかし、その後の50年に我々は何をしてきたのか。冷戦の終結・人口急減・経済の成熟…。内外の情勢が大きく変わっていく中にあって、過去の遺産を費消し、次世代に負担を先送ってきていなかったか。「憲法改正とはそういう問題でもある」と思うからこそ、グレートリセットに向けて、十分且つ精緻な議論を今直ぐ開始しなければなりません。問われているのは、我々の覚悟なのだと思います。 (自民党衆議院議員 石破茂)


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