【2017年の日本はこうなる】(10) 斯くして『シン・ゴジラ』は“国民的映画”となりき

20170104 10
映画『シン・ゴジラ』(東宝)が大ヒットした。総監督は、『新世紀エヴァンゲリオン』(テレビ東京系)の庵野秀明。観客動員数は400万人を突破し、興行収入は70億円を超えたという。客層の幅広さ・反響の大きさからして充分、「“国民的映画”の域に達した」と言っていい。成功の理由は何か。日本伝統の得意技を使ったからだろう。世界を重ねて、その世界に思い当たる観客を喜ばすやり方だ。歌舞伎や文楽の常套手段。『仮名手本忠臣蔵』なら『太平記』の世界と赤穂浪士の世界を、『東海道四谷怪談』なら世界にお岩さんの怪談話を重ねる。そうやって、世界の重ね方を楽しむ。わかる観客は勝手に考え、面白がる。想念を暴走させ、深読みもしてくれる。シン・ゴジラは、具体的にどんな世界を重ねているか。先ず、土台をなす世界は、1954年の本多猪四郎監督作品『ゴジラ』。“ゴジラ映画”の第1作にして、傑作中の傑作。そこでゴジラは、伊豆諸島の架空の島・大戸島に初めて現れる。島に伝わる海の崇り神“ゴジラ”の物語に基づき、そのまま命名される。島への上陸時に、全身が放射能で汚染されていることもわかる。自衛隊(※映画では“防衛隊”と呼称)の攻撃をものともせず、東京湾に侵入。品川区辺りに上陸し、一暴れし、一旦は海に戻る。政府は、ゴジラ撃退を自衛隊よりも電力会社に期待し、『東京電力』と思しき企業が東京湾沿岸に電線を張り巡らして、高圧電流で感電死させようとする。再上陸したゴジラは、予定通り感電。関係者は一瞬、「やった!」と思う。ところが、死なない。逃げさえしない。激怒する。口から高濃度の放射性物質を含んだ高熱のガスを吐き始める。この時、人々はゴジラのとてつもなさを初めて思い知る。未知の怪物だから、映画の中の人々は、ゴジラが口から放射能を出せるなんて誰も知らない。破壊力が想定外。東京を燃やし壊して、都民は被曝。ゴジラが“水爆大怪獣”と呼称された所以である。作品の背景には、1954年の現実がある。広島・長崎への原爆投下から9年後。同年春にアメリカが太平洋のビキニ環礁で水爆実験を成功させ、日本のマグロ漁船『第五福竜丸』が巻き添えを食って被爆。通信士の久保山愛吉が死亡した。映画『ゴジラ』は、その直後の公開。映画の中では、国名こそ名指しされないが、ゴジラは明らかにアメリカの水爆の犠牲者だ。それが、アメリカではなく日本を攻撃してくる。「日米安全保障条約のせいで、日本がアメリカの行う核戦争の巻き添えになる」という議論は、当時から喧しかった。そういう含みがあるとも取れる。

兎に角、ゴジラは霞ヶ関や永田町を破壊し、官僚も警察も自衛隊も争って退却。焦土と化した東京は、3度目のゴジラ上陸に脅える。そこに現れるのは、“オキンジェンデストロイヤー”なる最終兵器を極秘に開発していた、平田昭彦演じる在野の科学者・芹沢博士。日本は、国の存亡を、番外の異端者に懸けるしかない――。ゴジラは疲れたのか、東京湾底でじっとしている。芹沢博士の“最終作戦”が発動する。一方、シン・ゴジラのゴジラはどうか。大戸島の件を飛び越え、いきなり東京湾内に出現する。しかし、架空の島である大戸島はシン・ゴジラの世界にも存在し、ゴジラの言い伝えもある。その上、シン・ゴジラは、第1作で用いられた「ドシン!ドシン!」と地鳴りのするようなゴジラの足音も使う。また、シン・ゴジラの音楽担当は、庵野秀明とエヴァ以来コンビを組む鷺巣詩郎で、彼がオリジナル楽曲を沢山作っているのだが、それだけでなく、第1作以来お馴染みの伊福部昭の音楽を随所で引用する。そのようにして、ゴジラとシン・ゴジラの世界が重なる。シン・ゴジラとゴジラは共に、怪獣の1度目の上陸が東京23区の青西部に限定され、2度目で都心まで入ってくるところも同じ。2度目に大きなカタストロフが待ち構えているのまで同じ。シン・ゴジラで、第1作の東京電力の役割を果たすのはアメリカ軍だ。自衛隊はゴジラの前に敗れる。頼りは日米安保。アメリカ軍機が、霞ヶ関界隈に向かってくるゴジラに、破壊力満点の地下貫通弾を命中させる。ゴジラは傷付き、血を流す。倒れるか。否、そうではない。遂に激怒する。抑々、シン・ゴジラでもゴジラの存在はアメリカと関わりがある。詳しくは説明されないが、アメリカの関知する海底に投棄された“核のゴミ”を食べた恐竜の生き残りが突然変異して、ゴジラになったようだ。しかも、アメリカはゴジラの存在を把握しながら、同盟国の日本には伏せていた設定。第1作よりもアメリカの関与が深いゴジラとも言える。そのゴジラが東京でアメリカ軍の攻撃を受け、怒り狂う。第1作が伏せ気味にしていた“反米”の主題が、かなり鮮明になる。斯くして、想定外の“放射能大まき散らしの場”になる。しかも、そのカタストロフの映像表現が物凄い。放射能の吐き様は、宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』(東映)における、巨神兵が口から「ブホーッ!」とエネルギーを放射する場面を彷彿とさせる。おまけに、背びれからは光線を出し、アメリカ軍機を片っ端から撃墜。夜の闇を切り裂く猛烈な光と、熱の放出が持続し、高潮する場面は、“世界破滅の幻影”を表現して余すところがない。ゴジラは“破壊神”とも呼ばれ、“GODZILLA”と綴られる。“GOD”が入るのがミソだけれど、そんな怪獣の破壊性をここまで表現した“ゴジラ映画”は、第1作を別格にすれば他に無かった。特撮監督・樋口真嗣の手柄。それから鷺巣詩郎の音楽も。ゴジラが都心を前進する場面には、キリスト教世界において神の怒りと人間の滅亡のイメージを一身に担ってきたグレゴリオ聖歌『怒りの日』に繋がる曲が付く。お次の放射能噴出場面に付けられた音楽は、深い淵に只管に沈む衰歌。映像と音楽の相乗作用で、世の終わりの表現はもう完璧。これぞ、“終末映画”の真打ち。叩きのめされた。

とはいえ、シン・ゴジラはそこで終わらない。筋書きの上では、その段階で壊滅的放射能汚染を被ったのは、都心の3区のみとされる。世界滅亡には程遠い。ゴジラはというと、エネルギーを使い果たして眠ってしまう。第1作なら海に帰って休むのだが、シン・ゴジラでは東京駅前で固まる。次に動き出すまでに、何とかせねばならない。しかし、通常兵器では歯が立たない。アメリカは、東京を巻き添えにしてのゴジラに対する核攻撃を実施しようとする。国家滅亡の危機。でも、“ゴジラの怒り”によって、首相以下、主要閣僚も死亡。日本の正規の国家機構は最早、充分には作動していない。そこで、ゴジラの芹沢博士に相当する者が、表舞台に出てくる。但し、個人ではない。集団だ。長谷川博己扮する代議士が、各官庁から異端的テクノクラートを集めたチーム『巨災対』。ゴジラ退治の新兵器開発に励む。巨災対は、音楽的にはエヴァと結び付けられる。1990年代を代表するそのテレビアニメでは、未来の日本の箱根に建設された第三新東京市が、“使徒”と呼ばれる謎の生物に襲撃され、通常戦力ではその撃退は難しく、『NERV』という秘密機関が突如、公然と登場して、対処に当たる。このNERVのテーマとして、鷺巣詩郎の作曲した特徴的な連打音に導入される音楽が、シン・ゴジラの巨災対のテーマに引用される。こうして、シン・ゴジラはエヴァとも繋がる。エヴァのファンには、巨災対がNERVに、ゴジラが使徒にも見えるだろう。そういえば、使徒はエネルギー切れで止まってしまうことがあるが、それがまたゴジラと重なる。エヴァは人類の新人類・超人類への進化を物語上の主題としていると思うが、シン・ゴジラのゴジラも変態を繰り返し、それは“進化”と呼称される。そうして、ゴジラだかシン・ゴジラだかエヴァだか判然としなくなってくるほどに錯綜した映画は、巨災対による東京駅前でのイチかバチかの“最終作戦”に向かう。シン・ゴジラを論じる為には、他にも触れるべき世界が多い。早口主体の演出は市川崑監督の映画であり、膨大な登場人物を動かして、私的・家庭的部分等には脇目もふらずに突き進むのは、岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』(東宝)や『激動の昭和史 沖縄決戦』(東宝)であり、怪獣映画に日米安保を絡めるのは、1961年の『モスラ』(東宝)や1984年の『ゴジラ』(東宝)であり、カタストロフの描き方には新旧両方の『日本沈没』(東宝)の影がある等々。しかし、これだけ世界を重ねても、シン・ゴジラは未だ“国民的映画”になれない。映画やアニメのコアなファンと、マニアの世界に止まる。そこを超えて行けたのは、この映画が、映画やアニメの虚構とは別の現実の世界をも重ねていたからである。日本国民が2011年に体験した国家存亡の危機と恐怖。東日本大震災及び東京電力福島第1原発事故だ。地響きを立て、波を盛り上げてやって来るゴジラは、地震であり津波である。放射能を撒き散らすゴジラは、壊れた原子炉である。首相は決断できず、官僚は縦割りに拘って混乱を助長し、専門家の予測は外れっ放しで、“想定外”の事態が続出する。

“3.11”の世界を思い出せれば、シン・ゴジラはそれだけで迫真的映画なのだ。第1作もエヴァも知らずともよい。第1作が1954年の現実と繋がっていたからこそ大ヒットしたように、シン・ゴジラは2011年と重なることで“国民的映画”になれたのだろう。しかも、シン・ゴジラを“原発事故映画”として観た場合、大団円を導く“最終作戦(ヤシオリ作戦)”の件はとても示唆的。東京駅前に、壊れた原発のように放射能を垂れ流しながら眠るゴジラ。そこに決死隊が近付き、ゴジラの体内に液剤を大量投入。凍結させる。活躍するのはミキサー車やクレーン車。その様は、どう観ても石棺や水棺や凍土壁を作って原発事故を収束させる作業と重なる。決死隊の姿は、福島第1原発の爆発直前にべントを成功させようとした作業員たちを彷彿とさせる。活劇調の華々しいスペクタクルで、ゴジラは本当に凍りつき、東京駅前で巨大神像と化す。前半の締めのあまりに絶望的なカタストロフと好一対をなす、この楽天的名場面。それを伴奏する音楽は、やはり伊福部昭。といっても、前半のシリアスな展開を支えた重厚な類の曲ではない。1959年の『宇宙大戦争』(東宝)の為の熱狂的なマーチである。宇宙大戦争は、荒唐無稽なスペースオペラ。地球軍とナタール星人が宇宙空間で大決戦。地球軍大勝利! 圧倒的快感に満たされて終わる。娯楽巨編の絵空事を本当らしく感じる為の、痛快なノリノリの音楽。ファンは、聴けば直ちにそのようなモードに入り、躁状態になる。これはつまり、一種の“夢”の場面ではないか。前半のカタストロフは、2011年の本当の日本。そこでは、原子炉が3基も爆発した。風向き次第では、真に破滅的だった。収束作業も困難を極める。その大破局を“ゴジラ映画”らしくすれば、前半の締めになる。ゴジラが、ナウシカで世界を滅ぼした巨神兵のようになる。後半は、その“滅亡後の物語”。前半では全てが上手く行かなかったのに、後半は全てが上手くいく。しかも、前半の手に汗握るリアルさを喪失している。脚本も演出も、前半の微に入り細を穿ったドキュメンタリズムをかなぐり捨て、テレビの“戦隊物”のような調子を帯びる。「そんな馬鹿な!」という場面の連続。でも、音楽に助けられつつ、活劇のノリで押し切る。アメリカ側も、一部の理解者が協力してくれる。前半の破滅の呼び水となったアメリカ軍は、“ヤシオリ作戦”では日本の立派な“トモダチ”だ。“反米”転じて“親米”。ゴジラという“壊れた原発”は見事に無害化され、日本は復興と再生へ。アメリカとも尚、仲良くやれる。ハッピーエンド。でも、それは飽く迄も漫画的にしか描かれない。そこに含蓄がある。東宝によるシン・ゴジラの宣伝文句は、“現実対虚構”。だが私には、前半が現実で、後半が虚構に思えた。前半は、2011年的現実の“ゴジラ的翻訳”。後半が、2011年的悔恨のユートピア的代償。「“いい夢”で、束の間でも現実を忘れたい」ということだ。シン・ゴジラに続編があるとすれば、後半は“夢”と気付くところから始まる手もあると思う。巨災対のリーダーである長谷川博己が、東京崩壊の中で気絶して、一瞬に観た長い夢。夢が覚めた先には、日本沈没か『ノストラダムスの大予言』(東宝)級の苦難が待ち受けているに違いない。 (慶應義塾大学法学部教授 片山杜秀) =おわり


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