勝手に生前退位を表明して官邸は大激怒…安倍政権に虐げられ続ける天皇陛下の悲痛な叫び

天皇陛下は2016年8月8日、ビデオメッセージで生前退位のおことばを述べられた。ところが、有識者会議の設置が行われただけで、その後の動きは殆ど無い。安倍政権の対応で見えてきた、天皇陛下という過酷な職業の実態とは――。 (取材・文/フリージャーナリスト 小石川シンイチ)

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2016年8月8日、天皇陛下がビデオメッセージで生前退位のおことば(“象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば”)を表明した。既に、生前退位のご意向については、前月13日にNHKがスクープし、マスコミ各社がその意向を報道していたが、天皇陛下からのおことばに、国民は改めて、天皇陛下の役割の重要さと大変さを思い知ることになった。現在、83歳の天皇陛下の体調に関する出来事といえば、2003年1月の前立腺癌の手術と、2012年2月の狭心症の為の冠動脈バイパス手術があった。「更に、東日本大震災が起きた2011年11月には気管支肺炎等で入院。皇太子さま・秋篠宮さまが公務を代行していました。この時期から極秘裏に生前退位の意向を表明し、皇太子殿下や秋篠宮殿下、そして宮内庁の羽毛田信吾長官らと対応を協議してきたのです」(新聞記者)。推古天皇以降において、歴代でも最も長寿である昭和天皇(87)、次いで後水尾天皇(85)に次ぐ長寿の天皇になっている。東京オリンピックの2020年には、昭和天皇が崩御された年齢を迎える。実は天皇陛下に求められる役割はとても過酷だ。日本国憲法で規定された国事行為(※国会開合式・認証官任命式等への参列)の他、国家の安寧や五穀豊穣等を祈願し、戦後は私的行事になった宮中祭祀の他、被災地や戦没者慰霊の訪問等の“象徴的行為”がある。天皇陛下は、特に“象徴的行為”に力を入れてきた。こうした行事は年に300回を超え、高齢者が行うにはあまりにもきつい。また、皇太子殿下は56歳(※4年後に60歳)と、天皇陛下が即位した年齢(55歳)を上回っている。このままでは、天皇に践祚するのは、一般のビジネスマンが定年を迎える60代になりかねない。この為、「2018年を区切りに生前退位をしたい」と政府側に働きかけていたのだ。「皇室を規定する法律である皇室典範は、明治期には天皇陛下の意向が反映できるものでしたが、戦後に改正された日本国憲法と皇室典範では、生前退位等の規定はありませんし、天皇陛下は蚊帳の外に置かれ、政治には口が出せないだけでなく、自分のことについても発言が自重される。高齢化の時代にあった皇室典範へ改正をしたいと願いつつも、憲法に気を使いながら、政府側にお願いするしかないのです」(皇室ジャーナリスト)。

しかし、宮内庁には政治的な力が無い。羽毛田長官は厚生労働省の元事務次官で、後任となる今年8月のおことば表明時の風岡典之長官は国土交通省の元事務次官。現在の山本信一郎長官は内閣府事務次官経験者だ。各省の名誉職扱いやキャリア官僚のトップ級が宮内庁長官となり、“天皇の国事行為を補助する”という位置付けで、他にも旧宮家や皇室に関係の深い関係者が役職として入り、サポートに回ることもある。しかし、プロパーは国家公務員Ⅱ種・Ⅲ種試験の合格者(※毎年20名程度)で、抑々、永田町にも霞が関にも細いパイプしか無いのだ。「政治家の中でも、保守的な支持母体のある政治家は、『天皇は宮中祭祀をしていれればいい』というスタンスです。“象徴的行為”等はせずに、一世一代、皇居にいて、政府の正統性を証明してくれる存在であればいい。天皇陛下の“象徴的行為”のきっかけは、1991年の普賢岳被災地訪問でしたが、この時は『余計なことをするな』と批判の声が出たほどです」(前出の皇室ジャーナリスト)。保守派の支持を受けた政府にしてみれば、「何もしてほしくない」というのが本音。だからこそ、生前退位の意向を知れども、これまで動こうとはしなかった。この為、天皇陛下が用いたのは、ビデオメッセージという手法だった。ビデオメッセージは、ヨーロッパの王室では一般的だ。オランダでは3代に亘って譲位をしているが、2013年、ベアトリクス女王は75歳の誕生日を機に、「若い感性を持った人物が国づくりに力を注ぐべきだ」と、長男のウィレム・アレクサンダーに譲位。ベルギー王室でも2013年、アルベール2世が79歳で長男のフィリップに譲位。この譲位は何れも、ビデオメッセージで国民に直接、語りかけた。天皇陛下も、この手法を見習い、国民に語りかけたのだ。これを受けて世論調査でも、天皇陛下の生前退位の意向について理解を示す国民が9割に上り、後は皇室典範を改正すればいいだけの筈だった。ところが、安倍政権が中々動こうとしないのだ。確かに、ビデオメッセージを受けて、安倍首相は同日午後、首相官邸で記者団に対し、「天皇陛下が国民に向けてご発言されたことを重く受け止めている。天皇陛下のご年齢やご公務の負担の現状を鑑みる時、どのようなことができるか、しっかり考えていかなければならない」と語り、秋以降の有識者会議の設置へと動き出した。「しかし、有識者会議を経て国会での審議・可決・公布・施行と手順を踏まなければならず、施行まで数年かかることが見込まれる。現実には、このまま放置か、『現在の天皇陛下の生前退位だけを認めよう』という流れでしよう」(前出の新聞記者)。それどころか、「前例の無いビデオメッセージで、安倍政権は恥をかかされた。誰かが落とし前をつけないと駄目だ」と言わんばかりの報復人事に出ている。9月26日付で、天皇陛下のおことばをお膳立てした宮内庁の風岡典之長官・西ヶ廣渉宮務主管を更迭し、山本信一郎次長が宮内庁長官に昇格した。更に、注目されているのは、後任の次長に内閣危機管理監だった西村泰彦氏が就任したことだ。西村氏は第90代警視総監を務めた人物で、警察官僚が次長に就くのは22年ぶりのこと。「西村氏は元々、警視庁の広報課長もやっており、マスコミにも太いパイプを持っている。この間も、官邸でマスコミ対策も担っていた。その人脈を使ってマスコミをコントロールし、『天皇陛下サイドからの情報リークの動きを予め潰そう』という意図もあるのでしょう」(前出の皇室ジャーナリスト)。つまり、西村氏の最大のミッションは、天皇陛下を“孤立”させることのようだ。

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「天皇は、自分たちの都合のいいようにだけ動けばいい」――。明治時代から続く日本政府の意向だ。その背景を知るには、歴史を振り返る必要がある。1866年、仇敵同士だった薩摩藩と長州藩が、土佐藩士であった坂本龍馬や中岡慎太郎の幹旋を受け、密約『薩長同盟』を結び、遂に本格的に江戸幕府の“討幕”へと動き動めた。しかし、当時の孝明天皇は“攘夷”の意思が強く、“開国”の薩長にとっては扱いに困る存在であり、更に、薩長としては倒幕に対し、天皇の信任が必要だった。「というのも、その直前まで、特に長州藩は禁門の変で京都御所を総攻撃し、“朝敵”の汚名を着る賊軍となっていました。そこで、『大義名分が必要だ』と、薩長を信任してくれる新しい天皇の擁立を図るようになった。その途端に、孝明天皇が“謎の死”を遂げるのです」(歴史研究者)。孝明天皇は天然痘によって、僅か36歳の若さで急逝。未だ16歳だった睦仁親王(後の明治天皇)の践祚がなされ、更に、その混乱に乗じて、これまで孝明天皇に排斥されていた三条実美ら長州派の公家が次々と復活し、“討幕の密勅”が岩倉具視によって薩長両藩主に下される――。こうして、一気に時勢が動き出したのだ。「『孝明天皇は、実は毒殺されたのではないか?』という噂が、広く流布されました。犯人像は、伊藤博文ら薩長の命を受けた誰か説、若しくは岩倉具視が妹の女官を使って天皇に毒を盛らせた説です。何れにせよ、孝明天皇の崩御で一気に明治維新が始まるのです」(同)。明治新政府は薩長を中心とした政府として誕生し、ヨーロッパの先進国に倣って、明治天皇を中心とした“立憲君主制”の大日本帝国を作り出した。『明治6年の政変』(1873年)や『西南戴争』(1877年)を経て、反対派を排除し、長州藩を中心とした人脈が権力中枢を牛耳るようになる。「明治天皇は薩摩藩の西郷隆盛に信頼を寄せていましたが、西南戦争で自決を余儀なくされ、失望したといいます。天皇は最高権力者といいながら、実権は長州藩出身の伊藤博文らが握ります。晩年の明治天皇は、ストレスから大量の飲酒を行い、太っていきますが、世の中に出回る写真は凛々しい時代のものだけでした」(同)。更に、次の大正天皇も、長州藩出身の元老・山縣有朋との不仲説が有名である。「晩年は病弱を理由に、当時20歳の若い皇太子(後の昭和天皇)による摂政に任せることになりましたが、これも山懸による、言うことを聞かない大正天皇を閉じ込める為の策略と言われています。そして、若い昭和天皇の下、長州藩人脈が権力を握る帝国陸軍と、薩摩藩人脈が中心の帝国海軍が“暴走競争”を始めるのです」(同)。帝国陸軍は都合の悪い情報を隠し、昭和天皇の名を利用して、『満州事変』(1931年)や『日中戦争』へと突き進んでいく。

「この時、満州国総務庁次長として満州経営に辣腕を振るい、後の政治人脈と資金を構築したのが、長州藩である山口県出身の岸信介――安倍首相の祖父です。満州進出の積極論を外務省でぶっていたのが吉田茂――麻生太郎氏の祖父です。こうした人々が貪った大陸の権益を巡り、アメリカと一戦を交えるしかないところまで突き進んでしまうのです」(同)。国内では『5.15事件』(1932年)や『2.26事件』(1936年)といったクーデター未遂事件もあり、天皇でさえも陸軍の暴走を止めることができないまま、『太平洋戦争』に突入。その悲惨な結果はご存知の通りだ。天皇にしてみれば、薩長の政権の御輿に乗っていたら、戦争責任者の烙印を押されかねない歴代最大のピンチに巻き込まれたのだ。「敗戦後、天皇の地位は極めて危ういものになりました。世界の2大大国の1つであるソビエト連邦は、その約30年前の1917年にニコライ2世とその一族を銃殺刑にしたばかりで、少なくとも王室の権限剥奪があり得るのが世界的な趨勢でした。乗り込んできたアメリカ中心の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の下、憲法も皇室典範も改正が行われ、事実上、何もできない状態に置かれることになります。昭和天皇は、敗戦直後・極東国際軍事裁判の判決時(1948年)・サンフランシスコ講和条約による独立時(1951年)に生前退位を側近に漏らしたのですが、制度が無い上に、ソ連を始めとする共産圏の拡大の虞もあって、『天皇をそのままにしておきたい』という勢力が優勢を占めたのです」(同)。1952年、衆議院予算委員会において中曽根康弘氏(当時33)は、「天皇自ら御退位あそばされることは、遺家族、その他の戦争犠牲者たちに多大の感銘を与え、天皇制の道徳的基礎を確立し、天皇制を若返らせると共に、確固不抜のものに護持する所以のものであると説く者もありますが?」と質問し、吉田茂首相は「日本民族の愛国心の象徴であり、日本国民が心から敬愛しておる陛下が御退位というようなことがあれば、これは国の安定を害することであります。これを希望するが如き者は、私は非国民と思うのであります。私は飽く迄も、陛下がその御位においでになって、そして新日本建設に御努力あり、また新日本建設に日本国民を導いて行かれるということの御決心あらんことを希望致します」と答えた。「生前退位を認めると元号が変わりますし、政権にも『総辞職して心機一転を』という声が高まります。これを吉田首相は嫌った訳ですが、この生前退位の機会を逃した為に、昭和天皇は世界から“無責任な戦争犯罪者”のような汚名を着せられたままになってしまいました。こうした背景もあって今上天皇は、率先して戦争激戦地への慰霊の旅を続ける“象徴的行為”を増やしたこともあり、過酷さが増したのです」(同)。こうしてみると、常に天皇は、時に長州藩を中心とした政権の都合のいいように利用されてきたのだ。安倍政権が「“押し付け憲法”を戦前に戻す」という政策を取りながら、「“押し付け皇室典範”を戦前に戻す」と言わないのは矛盾以外の何物でもなく、天皇を自分たちのツールとしか考えていない何よりの証左だろう。それにしても、かけがえのない陛下のご公務が、安倍政権のせいでブラック企業並みの過酷なものとなっているのを見過ごしていてもいいのだろうか――。


キャプチャ  第16号掲載

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