週刊誌全盛時代のスクープ合戦の内幕…小野田寛郎さん帰国劇、500万円の値が付いた『講談社』vs『小学館』の手記争奪戦

日本中を驚かせた小野田寛郎さんの帰国劇。第2次世界大戦終戦後も、フィリピンのジャングルの中でサバイバル生活を続けた男の数奇な人生を巡って、凄まじい“報道合戦”が繰り広げられた。当時、大手週刊誌『週刊ポスト』(小学館)に所属していた報道写真家・山本皓一氏が、知られざるもう1つの“戦闘”を回想する――。

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あれは忘れもしない、1974年2月1日のことだった。当時、週刊ポストの新米カメラマンとして働いていた筆者は、いつものように午前中、編集部に顔を出すと、デスクが真剣な表情で切り出した。「ヤマちゃん、これ見たか?」。手渡された読売新聞の1面には、『小野田元少尉を確認』という大見出しが打たれていた。「パスポートあるよな? 直ぐにフィリピンへ飛んでくれ。今日の飛行機で」。フィリピンのジャングルに、生き残った日本兵“小野田少尉”が出没する――。そんな噂は以前からあったが、遂にその本人が確認されたというのである。記事によれば、小野田さんと接触したのは“スズキ・ノリオ”なる日本人で、その情報確度は高く、「厚生省(※当時)も援護局審査課長らを現地に派遣する」とある。これはどうも本物らしい。素より、業務命令は絶対だ。筆者は大学を卒業後、半年間アメリカに留学していた経験があり、編集部では“何となく語学ができ、海外取材に強い”と勘違いされていた。だから、今回もお鉢が回ってきたという訳だが、当時の筆者は結婚して未だ数週間という時期。流石に新婚の妻には連絡しなければならないが、生憎、2人で暮らすアパートには未だ電話線を引いていなかった。「頼む、『急に海外取材になった』と家に連絡をしておいてくれないか?」。筆者が同期の同僚に頼むと、彼はこう言ってくれた。「心配するな。電報を打っておく。安心して行ってきてくれ」。その言葉を聞いた筆者は、多少の後ろめたさを感じつつも、独り羽田空港に向かい、夕方には機上の人となった。因みに、この同僚が電報を打つのを忘れたことを知ったのは、後になってからのことだ。数日経っても家に帰らない筆者を心配して、妻が編集部に電話したところ、「ヤマちゃんならフィリピンにいるけど…」との返事。新婚生活は早々に破綻してしまったが、筆者はその日のうちにマニラに到着。小野田さんについての情報収集を開始した。

終戦から30年近くが経過して尚、海外の戦地に置き去りにされた“残留日本兵”がいる――。そのことは、戦争の悲劇を端的に伝えるニュースとして、国内メディアに大きく取り上げられた。小野田さんに先立って、1972年2月に“帰国”を果たしたのが、グアム島のジャングルで28年間、潜伏生活を送った横井庄一さん(1997年に82歳で死去)である。帰国後、横井さんが語った「恥ずかしながら帰って参りました」(※実際は「恥ずかしながら生き永らえておりましたけど」)という言葉は流行語にもなったが、小野田さんの“発見”は、ある意味で横井さん以上の注目を集めた。その理由の1つは、先ず小野田さんが“生きている”という説は戦後ずっと囁かれており、「過去3度に亘って大々的な捜索活動が行われたにも関わらず、遂に発見されなかった」という経緯がある。ミステリアスな伝説となった小野田さんを遂に確認したとなれば、人々の興味は否が応にもにも高まるのは当然である。そして、もう1つの理由は、小野田少尉があの『陸軍中野学校』の出身で、軍人としてはかなりのエリートであり(※横井さんは伍長だった)、戦後30年近い年月をただ潜伏して過ごしていたのではなく、「戦争継続を信じ、闘い続けていた」と思われる情報が伝わっていたからだ。「ルバング島に元日本兵が生存しているらしい」という情報が初めて公式に伝えられたのは、実に1952年のことだった。この時は、「元日本兵がフィリピン市民1人を殺した」とする内容で、フィリピン政府がビラを撒いて投降を呼びかけ、捜索したが、それらしき日本兵は見つからなかった。日本政府は、1954年5月に投降説得団を派遣。厚生省職員や小野田さんの長兄の敏郎氏、それに小野田さんと共に生存していると見られた小塚金七元一等兵(※1972年10月にフィリピン警察との銃撃戦で死去)の実弟らが現地入りし、捜索活動に当たったが、手がかりは得られなかった。それから5年後の1959年にも大々的な捜索が行われたが、ここでも小野田さんは発見されず、厚生省援護局は小野田・小塚の2名について“死亡広報”を出した。ところが、更に13年後の1972年10月、フィリピンの現地警察隊と小野田・小塚が遭遇し、小塚が射殺されるという事件が発生する。山中に逃げた小野田さんを捜索する為、政府は過去最大級の捜索隊を結成。メディアも現地入りし、当時、週刊ポストからもルポライターの日名子暁氏(故人)が何度もフィリピンに送り込まれた。因みに、彼はこれがきっかけでその後、“フィリピン通”となっていくことになる。投降を求める何千枚ものビラを投下したり、小野田さんの両親や戦友等も参加しての捜索活動も虚しく、ここでも小野田さんは見つからなかった。この膠着状況を打破したのが、日本人の冒険青年・鈴木紀夫(当時24)だった。世界を旅するバックパッカーだった鈴木は、小野田さん生存説を聞いて興味を持ち、1人でルバング島に入り、政府があれだけ捜索しても見つけられなかった小野田さんと接触することに成功した。元情報将校だけあって、終戦を伝え、投降を呼びかける類のビラを一切信用しなかった小野田さんだったが、一介の冒険青年だった鈴木のことは信頼し、投降を決意したのである。

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マニラ入りしてからの筆者は、フィリピン政府が日本メディアの勝手なルバング島渡航を禁止していたこともあって、小野田さんが正式に投降するのを待っていた。その間、現地に派遣されている厚生省の担当者が1日1回レクチャーする情報や、フィリピン国内で報道されている情報等を国際電話で伝えたり、急いでいる時はマニラの空港に行き、日本に帰国する邦人に未現像のフィルムを預け、羽田で待ち受ける編集部員に渡してもらったりもした。現地には多くの報道陣が詰めかけていたが、その殆どは新聞・テレビ・通信社の所謂『記者クラブ』加盟社だった。3月10日、51歳の小野田さんは、上官だった谷口義美元少佐(63)から“投降命令”を受ける形で、ジャングルから下山。私たち報道陣もヘリコプターでルバング島に入り、敬礼する小野田さんを初めて見た。その眼光は鋭く、終わり無き戦いを続けた軍人の顔そのものだった。小野田さんはその後、フェルディナンド・マルコス大統領と面会し、長年、肌身離さず持っていた軍刀を返還。特別機で日本へ帰国する運びとなった。3月12日、日本に帰国した小野田さんを待ち構えていたのは、怒涛の取材攻勢だった。羽田空港に戻った小野田さんを特集したNHKの報道番組は、45.4%の視聴率を記録。国民の関心の高さを証明した。小野田さんは帰国して直ぐ、あの横井庄一さんもそうしたように、新宿区の国立東京第一病院に入院し、健康診断を受けることになっていた。勿論、小野田さんの車を無数のメディアが追いかけたことは言うまでもない。この時、筆者は小野田さんの次兄・格郎さんと知り合った。格郎さんはブラジルで農園を経営しており、小野田さんの帰国に合わせ、ブラジルから日本に戻っていたのだった。筆者も当時、ブラジルという国に興味を持っていたこともあって、アマゾンの話等をするうちに上手く意気投合することができた。

筆者には、1つの大きなミッションがあった。それが、小野田さんの“手記獲得”である。当時、ポストの編集長からはこう言われていた。「300万円までは、君の一存でOKを出していい。何としてでも、小野田さんの手記はうちでやりたい」。当然、筆者も「手記は獲得したい」と思っていた。何しろ、30年近くジャングルで生活していた人物である。どこで暮らし、何を食べていたのか。何を信じ、戦争についてどう思っているのか――。聞きたいことは幾らでもあった。独占手記が取れれば、大反響を呼ぶことはわかり切っていた。筆者は「格郎さんと早く話を纏めたい」と思い、小細工をせずに300万円という金額をストレートに話した。「新聞のインタビューは仕方がありません。ただ、雑誌でやる分には是非ともポストでお願いできないでしょうか?」。確か、当時の筆者の月給が6万円ほどだったから、300万円といえば今でいうと1000万円ぐらいの感覚だ。当時のポストは未だ創刊(1969年)して日が浅かったものの、売れ行きは右肩上がりで、予算はふんだんにあった。手記について、はっきりと確約を得た訳ではなかったが、筆者はその時点で、雑誌の人間として格郎さんに最も食い込んでいたし、金額的にも自信はあったので、「きっと格郎さんが小野田さん本人に話をしてくれる」と思っていた。ところが、ここから思いがけない展開が待っていた。病院を退院した小野田さんは、郷里の和歌山県に帰郷することになった。勿論、小野田さんの帰国は日本中の耳目を集めており、その動向を逐一報道すべく、多くの報道陣が和歌山入りした。筆者も和歌山へ向かったが、既に帰国した以上、「なるべく早く小野田さんのインタビューをしたい」という気持ちが強かった。そんな時、既に打ち解けた仲になっていた格郎さんが、和歌山県の実家前に張り込んでいた筆者を見つけ、呼んだ。「山本さん、ちょっと話があるんだが…」。遂にインタビューをセットしてくれたのか――。そう思い、喜んだが、格郎さんの口から出たのは、予想もしなかった意外な言葉だった。「言い難い話なんだが、寛郎が東京で入院している時、病院のドアの隙間から“手記500万円也”という編集長の名刺が差し込まれていたんだ」。筆者は慌てて訊いた。「何ていう雑誌ですか?」「“週刊現代”と書いてあった」。筆者は頭を抱えた。今でもそうだが、週刊現代は週刊ポストの最大のライバルだ。それにしても500万円とは…。当時の週刊現代編集長は、後に『日刊ゲンダイ』を創刊する川鍋孝文氏。週刊誌最強チームと言われた“川鏡軍団”は、ポストにとって常に厚い壁だった。格郎さんは、こう続けた。「当面の生活に問題は無いが、寛郎にはこれから長い人生がある。しかし、弟には財産も無いし、やはり生きていくにはお金が必要になるだろう」。筆者はその場で編集長に電話を入れた。「小野田さんの件ですが、現代は500万円と言っているようです。どうしますか?」「電話を切らずに、ちょっと待ってくれ」。

そのまま1~2分は待っただろうか。編集長の声は残念そうだった。「うちは降りる。流石に500は無理だ」。筆者は、そのやり取りを正直に格郎さんに伝えた。それまで格郎さんと色々な話をしてきて、格郎さんがメディアを相手に“商売”できる人間でないことはよくわかっていたし、「ジャングルの中から出てきた弟を何とか守ってやりたい」という一心からの“申し出”だったことは理解できたからだ。「残念ながら、うちでは金額的に現代より出すことはできませんが、どうか気にしないで下さい」。そう言うと、格郎さんはこう言うのだ。「山本さん、ありがとう。それはそうと、明日の夜明け頃、裏の神社の階段に行ったら面白いものが見れると思うよ…」。明くる日の朝、格郎さんに言われた通り、筆者は未だ薄暗いうちから、小野田さんの実家裏手にある神社の階段で待っていた。3月とはいえ、未だ朝晩の冷え込みが厳しく、吐く息は白かった。階段の真下には、小野田さんの実家が見える。実家の表門には、車内で寝泊りを続ける報道陣の車がずらりと並んでいた。すると不意に、小野田さんの家の窓が開き、中から男が外に飛び降りるのが見えた。その軽い身の熟しは、小野田さん本人に間違いなかった。小野田さんは1分ほど、じっとしゃがんだままの姿勢を保っていたが、次に懐から草履を取り出すと、それを履いて神社の階段を駆け上がってきたのである。「小野田さん、山本です」。待ち構えていた筆者を見ると、小野田さんは「見つかってしまったか」といった照れ笑いを浮かべた。30年近く密林生活を送っていた小野田さんは、落ち着いて室内で寝ることができない為、報道陣の目に付かないよう、こうして外に脱出していたのである。今思えば、これは兄・格郎さんの、せめてもの“仁義”だったのだろう。一度はポストの取材を受ける方針を決めながら、金額で現代を選ばざるを得なかった。その代わり、ポストにも話を聞くチャンスを教えてくれたという訳である。筆者は、その場で1時間ほど小野田さんに話を聞き、写真も撮影することができた。しっかり話すのは初めてだったが、既にルバング島で顔見知りになっている。取材はスムーズに進んだ。小野田さん自身は、現代とポストの間で手記争奪戦が起きていることや、金額まで提示されていること等、一切知らなかっただろう。「1本、どうですか?」。筆者は、小野田さんに煙草を勧めた。小野田さんはそれを受け取ると、しゃがんで火を点け、こう言った。「こうやるんだ」。小野田さんは、煙草が外側から見えないように両手で完全に覆い隠した。周囲は未だ明け方で薄暗い。「この火は1㎞先からでも見える。だから、煙草は必ず隠さなくてはいけないんです」。小野田さんは筆者に、「ルバング島で3人、現地の人間を殺した」と語った。勿論、当時、そのことは原稿に書かなかった。小野田さんは、上官の命令に決して背くことなく、3年間戦い抜いた“英雄”となっていたからである。尤も、人数は兎も角として、小野田さんが生きる為の戦闘で“敵”を死傷させたことは、後に明らかになっている。

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500万円という大金で手記を攫った週刊現代。実は、この金額について、筆者は格郎さんからそういった金額を聞いた記憶があるだけで、本当にそうだったかを現代の関係者に確かめていた訳ではなかった。穿った見方をすれば、格郎さんが値段を吊り上げる為に言った金額に過ぎない可能性もある訳だが、筆者は今でも「それはない」と思っている。実は2005年末、私は月刊誌の取材で当の川鍋孝文氏(当時は『日刊現代』社長)に取材する機会があり、この500万円の件を直接当てたところ、本人が認めたからである。川鍋氏は2015年に79歳で死去しているが、この話は記事にも残っていたので間違いないだろう。500万円の件でもう1つ言えば、ポストは小野田さんの発見者である鈴木紀夫の“手記”も現代に持っていかれていた。この鈴木インタビューもまた、小野田さん本人の手記と並んで、マスコミが争奪戦を繰り広げた取材の1つだった。戦後、日本政府があれほど捜索しても出て来なかった小野田さんを何故、発見することができたのか。冒険青年の“大スクープ物語”は、記者としても真っ先に聞きたい話であった。鈴木青年は帰国後、ポストを含め、断片的には多くのメディアの取材を受けていたが、当時、“国際事件記者”の肩書きで活躍していたフリージャーナリスト・大森実氏(故人)を起用し、鈴木の本格的なロングインタビューをものにしたのは、やはり週刊現代だった。筆者は最近、川鍋編集長の懐刀として当時、週刊現代で小野田さんを取材していた下桐治氏(現在は日刊現代相談役)と話をしたところ、鈴木紀夫の手記は100万円で週刊現代が“落札”したことがわかった。下桐氏本人が直接、「名刺に“100万円也”と書いて鈴木紀夫に渡した」と言うのだから間違いない。悔しいが、小野田さんの取材ではポストの完敗と認めざるを得なかった。その後、週刊現代は小野田さんに殺到するマスコミから彼を守る為(というより、他社に取材をさせないようにする為)、講談社が所有していた伊東の保養所に囲い込んで、手記の取材を始めていた。ここで、筆者にとっては厄介な問題が起きる。週刊ポストは、ライバルの講談社に手記を持っていかれた悔しさから、小野田さんのインタビュー内容を批判するスタンスを打ち出したのだ。何ともえげつないやり方と言えばそうだが、何週にも亘って続く敵のスクープ手記を、ただ指を加えて見ている訳にはいかなかったのだろう。週刊現代は、満を持して5月9日号から独占手記『戦った、生きた――初めて綴るルバング島30年の全記録』をスタートさせた。

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対する週刊ポスト・5月10日号のタイトルは、次のような具合だ。『小野田寛郎元少尉の英雄部分を全否定する』。「小野田さんをヒーロー視するのは間違っている」という大義名分はあるものの、若しポストが小野田さんの手記を獲得できていたら、この論調が出てこなかったことだけは間違いない。方針を決めたのは勿論、編集長以下の幹部だが、小野田さんや格郎さんにとって週刊ポストといえば、この取材に最初から関わっており、小野田さん本人にも話を聞いている筆者のことである。しかも、筆者がルバング島や故郷の和歌山で撮影した写真も、この“全否定”の記事に使われてしまっている。編集部で仕事をしている以上、仕方のない話だが、小野田さんにとっては裏切られた気持ちだっただろう。週刊現代の手記連載が始まって何週間かした時、小野田さんがテレビ出演したことがあった。筆者は偶然、その番組を見ていたのだが、そこで小野田さんが他の出演者からこんな質問を受けた。「貴男は週刊現代で手記を発表しているが、一方の週刊ポストにはそれを否定するかのような内容が掲載されている。一体、どっちが本当なのか?」。すると、小野田さんが憤慨した様子で、こう答えたのである。「あの野郎、今度会ったら絶対に許さない! 叩き斬ってやる!」。“あの野郎”とは、間違いなく筆者のことだった。まさに板挟みとはこのことだったが、筆者はそれ以降、小野田さんの取材は不可能になってしまったのである。不可抗力だったとはいえ、苦い思い出だ。その後、小野田さんは手記を纏めた著書(『わがルバン島の30年戦争』・講談社)がベストセラーとなったものの、兄の格郎さんが住むブラジルに移住。帰国後に結婚した妻と共に、現地で牧場経営を始めた。狭い日本ではなく、雄大な自然に囲まれたブラジルが、小野田さんには合っていたのだろう。日本とブラジルを行き来しながら2014年、小野田さんは波乱の生涯を閉じた。91歳の大往生だった。小野田さん発見で名を売った鈴木紀夫氏はその後、“雪男”を探しにヒマラヤへ出かけるようになる。そして1986年、ダウラギリのベースキャンプで遭難。翌年、遺体で発見された。37歳の若さだった。今、小野田さん帰国当時のことを思い起こすと、つくづく現在と比べ、活字メディアに勢いがあったことを痛感する。当時、あれだけの金額を躊躇なく提示した週刊現代も、流石に今はそうもいかないだろう。時代の流れと言ってしまえばそれまでだが、筆者は今、雑誌が最もダイナミズムに満ちていた時代に仕事をすることができた幸運に感謝している。2014年3月、靖国神社の啓照館において、生前の小野田さんを偲ぶお別れの会が開かれた。筆者もそこに参列し、あの時の“誤解”について心の中で詫びつつ、静かに手を合わせた。

■大森実氏のアドバイスで獲得した鈴木紀夫独占インタビュー  下桐治氏(日刊現代相談役)
ルバング島の小野田さんが日本に帰国した際、週刊現代に所属していた私は、何人かの同僚とチームを組み、総力取材に当たりました。「小野田さんの手記に週刊現代が500万円を出した」という話は、私は直接関わっていない為、金額についてはわかりません。しかし、その金額は十分あり得ると思います。長期に亘る週刊現代の手記連載は当然、その後の単行本化という狙いがありますし、『月刊現代』等、当時の講談社が発行していた他の媒体の取材等を含めて考えれば、十分ペイする金額だったのではないでしょうか。小野田さんとの取材・出版交渉の窓口になっていたのは兄の格郎さんで、これは小学館の週刊ポストも同じだったようです。手記をうちから出す決め手となったのは勿論、金額のこともあったと思うのですが、小野田さんが戦前に雑誌『少年倶楽部』(講談社の前身である『大日本雄辯會講談社』刊行)に連載されていた田河水泡の人気漫画『のらくろ』を愛読していたことで、講談社に縁を感じてくれたからだったと記憶しています。小野田さんを発見した鈴木紀夫君のインタビューについては、私が名刺に“100万円”と書いて渡し、取材する権利を取り付けたので、金額は間違いありません。この方法を私にアドバイスしてくれたのは、当時、週刊現代で“突撃インタビュー”を連載していた国際事件記者の大森実さん(故人)です。当時の川鍋孝文編集長が大森さんを起用して大反響を呼び、週刊現代は大いに部数を伸ばしていました。鈴木君は帰国して直ぐ、大森実さんのインタビューを3時間受け、週刊現代はその内容を一挙24ページに亘り掲載しています。彼は気持ちのいい青年で、決して謝礼をふっかけるような人間ではありませんでした。しかし、自費でルバング島に入り、小野田さんを見つけ、誰にもできない体験をした鈴木君に、講談社が何かを報いるとすれば、それはお金しかないのではないか――。大森さんも同じ意見でしたので、100万円という金額になったのです。当時、現代とポストが熾烈な“戦争”をしていたことは事実です。創刊は現代のほうが随分先ですが、その後、ポストがプロ野球の『黒い霧事件』や芸能界の“相愛図”スキャンダル等で急速に部数を伸ばし、追いついてきた。人材の引き抜きもありました。「スクープを取りたい」「ポストや他誌にも負けられない」という気持ちが、現場を支えていたと思います。


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