“スパイ王”と呼ばれた日本人――『陸軍中野学校』創設者・秋草俊の華麗なる謀略人生

第2次世界大戦終戦直前、ソビエト連邦の諜報機関から“スパイマスター”と警戒され、ブラックリスト入りした謎の日本人がいた。巨大な陰謀に巻き込まれながらも、情報戦の最前線に立ち続けた軍人の数奇な生涯とは――。 (取材・文/ノンフィクション作家 斎藤充功)

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時代を経たことがわかる1枚の書類。日付は“昭和14年”。終戦の6年前で、日本がソ連軍に満州とモンゴルの国境で大敗北し、7700人の戦死者を出した『ノモンハン事件』が起きた頃である。内地では“戦争協力”が国民の義務となっていた時代、“卒業証書”といった言葉には悠長な響きすらある。だが、この書類に書かれた『後方勤務要員養成所』という間き慣れない名には、日本の裏面史において重要な意味がある。“後方勤務”というが、実体は頭脳集団を養成した学校である。陸軍が極秘で造ったこの養成所に集められた“エリート”たちは、専門の軍事学に始まり、イギリス、ドイツ、フランスといった諸外国の地政学を学び、派遣国の言葉・気象学・心理学、更には忍術といったことまでを叩き込まれた。通信実習では外国の電信を傍受して解読する技術を、写真技術では盗撮の技術を磨いた。勿論、“殺し”のテクニックも学んでいた。後方勤務要員養成所とは、後にその卒業生が世界で活躍した、現在も謎に包まれたスパイ(謀報)集団『陸軍中野学校』のことである。この書類は、これまで発見されていなかった第1期生の“幻の卒業証書”である(右画像)。そして、後方勤務要員養成所長と書かれた“秋草俊”は、陸軍中野学校創設者の1人で、“スパイマスター”と呼ばれた人物であった。異端の軍人・秋草俊の生涯については、資料が極端に少ない。1930年代半ばから謀報活動をしてきた人物だけに、秘されてきた事実が多いのは当然ではある。

1894年、栃木県足利市生まれ。陸軍派遣学生として東京外語学校に入学し、後にハルピンへ留学。その後は軍人として関東軍特務機関に身を置く等し、1936年に東京の参謀本部のロシア班長(中佐)として転任。1939年に中野学校初代校長となるが、同年に辞任し、翌年にベルリンへ。その後帰国し、更に満州に転じ、終戦を向かえる。以上が、ざっとした経歴である。ロシア語のエキスパートとして留学する等、当時として華々しいエリートコースであることがわかるが、戦争の時代、多くの軍人がそうであったように、秋草の晩年も壮絶であった。1945年8月9日、ソ連軍が満州に侵攻。同19日、空挺部隊120人が落下傘で現地へ入り、この少人数で鉄道・橋・通信施設等の重要施設を制圧。当時、近隣の平房(ピンイン)に施設があった、細国兵器開発で知られる『第731部隊』も捜索したと言われている。「関東軍情報部長(ハルビン特務機関)だった父は、15日の玉音放送を本部で聴いた後、関東軍の指示で本部の資料を全て焼却することを部下に命じました。翌日、731部隊長だった石井四郎中将が父を訪ね、こう持ちかけたと言います。『専用機を香坊(シアンファン、ハルピン郊外の地)に待機させているので、2人でハルピンを離脱しよう』と。ですが、断ったそうです。『責任者として、自分1人がハルピンを離れることはできない。ソ連軍による逮捕は覚悟しているので、閣下お1人でお逃げ下さい』と」。秋草の子息である靖(82)は、当時をこう語る。靖は、東京から父親の元に疎開しており、ハルピン中学校の2年生であった。陸軍中野学校創設者の秋草と731部隊創設者の石井がハルピンで会っていたことは、これまでどの資料にも書かれていなかった。秋草がスパイマスターとして頭角を現すのは1933年、陸軍中野学校創設の6年前に遡る。ロシア語のスペシャリスト、更にはヨーロッパ文化に精通している人物として、当時、“ブレム”と呼ばれていたハルピンの『白系露人事務局』の設立に取り組んでいた秋草は、日ソ両軍の情報戦の最前線都市となっていたハルピンで、反ソ団体として台頭していた『ロシアファシスト党』とも密に連携して、反ソ宣伝活動を積極的に行っていた。現地参議本部に転任するが、ハルピン時代の人脈を活かした対ソ情報の収集力を飛躍的に向上させ、“対ソ情報の第一人者”として評価を固めることになる。勿論、ソ連もその動きを把握しており、秋草を“スパイマスター”として警戒し、第一級の危険人物としてブラックリストに登録した。

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陸軍中野学校校長を辞任後、“星野一郎”という偽名を使ってベルリンへ渡った秋草は、『星機関』という謀報スパイネットワークを組織し、亡命ポーランド政府の情報機関『G機関』と接触し、盗撮・盗聴・暗号解読といった技能を駆使して、対ソ情報を収集した。この頃、兵器の近代化よりも情報を重要視し、より高度な“情報兵科”の構想をしていたというが、秋草個人がいくら情報の重要性を訴えたところで、対米戦で硬直した陸軍の戦略思想を変えることなど不可能で、有用なソ連情報も無視された。1945年、ハルピンで終戦を向かえると、ソ連軍に“スパイの親玉”として真っ先に逮捕された秋草は、モスクワに移送され、国家保安省(MGB)が管理する『ルビアンカ監獄』で壮絶な拷問を受けた。KGB(※MGBの後進の組織)の資料には、次のように記されている。「訊問はおもに夜中におこなわれた。例えば1946年2月7日、監房から0時30分に呼び出され、戻ったのは朝6時。そして23時30分に再び呼び出され、戻ったのが朝の4時45分。昼間は、監獄の規則によって、監房のなかで寝ることは一切禁止されていた。厳重な監視人は、監房のドアのスパイホールを10分から15分ごとに開け、立っている秋草がまどろむやいなや『きおつけ、監房内を歩け、顔を洗え』の命令が飛んだのである」。この拷問に秋草は半年耐えたが、その間に体は触まれ、重度の肺結核に冒されて、1949年3月2日に亡くなった。享年55。生涯の殆どをスパイ活動に捧げた秋草は、周囲の関係者にこう語ったという。「陸軍中野学校が10年早くできていれば、戦争は起きなかったであろう」。因みに、ベルリンでのスパイ活動の中には“スターリン暗殺計画”もあったとされるが、その実態は今も謎のままだ。 《敬称略》


キャプチャ  2017年1月号掲載

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