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【大火砕流30年】(上) 溶岩ドーム、脅威に

雲仙・普賢岳の大火砕流から、来月3日で30年を迎える。災害への備えと継承の動きを追った。

20210831 02
今月27日夕、長崎県雲仙・普賢岳を取り囲む約20の地震計が小刻みな揺れを捉えた。今月22回目の火山性地震だ。「火山は死んでいない。今も地底で活動している」。30年前、43人の死者・行方不明者を出した大火砕流発生時も観測に携わり、今年3月まで九州大学地震火山観測研究センター長を務めた同大の清水洋特任教授(64、火山物理学)は言う。観測結果はデジタルデータとして瞬時に蓄積される。時代と共に様変わりした地震計。あの日は、6分間に亘って針が振り切れ、記録紙を黒く埋めた。1991年6月3日午後4時頃。「ドーン!」という轟音の後、もくもくと沸き起こった黒煙が杉林を呑み込みながら、斜面を一気に下ってきた。山を監視していた消防団員や避難所から一時帰宅していた住民たちは、「危ない!」「逃げろ!」と怒声を上げた。麓の住宅は次々と炎に包まれ、車は吹き飛ばされて激しく炎上した。“髭の市長”と呼ばれた元島原市長の鐘ヶ江管一さん(90)は当時、自然の力の前に呆然としつつも、翌朝には避難所で「力を合わせて戦っていくしかありません」と呼びかけた。1990年11月に198年ぶりに始まった普賢岳の噴火活動は、大火砕流という形で甚大な爪痕を残した。その後、1996年6月に同センターの前身である島原地震火山観測所の太田一也所長(※当時)が活動終息を宣言した。

現在、火口の浅い部分へのマグマの供給は止まっており、次の噴火がいつかは予想がつかない。ただ、短期間で供給が活発化することもある。清水特任教授は、「地下の奥深くでマグマは溜まり続けている。危険は去っていない」と指摘する。国土交通省によると、1991年5~1996年5月に観測した火砕流は9432回。急峻な山肌には、東京ドーム約80杯分もの溶岩が固まって、不安定な溶岩ドーム(※平成新山)を形成した。今、この巨大な遺物が地域の脅威となっている。自らの重みで四半世紀にずり落ちた幅は約1.4m。方角は市街地がある東南東だ。直下型地震が起きれば、岩の塊が高速で崩れ落ちる“岩屑雪崩”が発生する恐れがあり、最悪の場合、島原市安中地区の半分程度(※約1600世帯)、隣の南島原市深江町の一部(※約1100世帯)で被害が出るとも試算されている。清水特任教授が危機感を抱くのが、九州中北部を襲う豪雨だ。昨年7月の九州豪雨では、島原市で1時間に最大49.5ミリの雨量を観測。「地盤が雨水で不安定になり、地震も加われば、岩屑雪崩はいつ起きてもおかしくない」と警告する。課題は、この30年で薄れた危機意識の共有だ。島原市では1992年から1993年にかけて全町内会に自主防災会が設置され、定期的に避難訓練を行なった。ところが、終息宣言後は防災会長を町内会長が兼務するケースが目立つようになり、2018年時点で兼務は196町内会と全体の87%に上った。市の担当者は、「専従者がいないと活動が萎み、市主催の年1回の訓練に参加するだけになっていた」と話す。「失った危機感を取り戻したい」。先月下旬、島原市白山地区に新設された地区自主防災会の会長に就任した荒木修さん(68)が決意を語った。市は町内会の防災会を管理する組織として、7地区で設置を進める。大火砕流当時、荒木さんは消防団員。被災した隣の安中地区の避難者を誘導しながら、「こんなことが起きるのか」と足が竦んだ。「訓練もないまま無我夢中だった」と振り返る。早速、避難所の合鍵を住民が持てるよう、市と交渉。避難訓練の立案にも動き始めた。30年前の被害は、市が避難勧告を出した地域で発生し、危機感の薄さが問題とされた。「災害が忘れられようとしている」。鐘ヶ江さんは、当時と重なる現状に不安を拭えないでいる。


※本文由李的博多居民提供。谢谢。
キャプチャ  西部本社版2021年5月30日付掲載
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テーマ : 社会ニュース
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Author:George Clooney

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