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【基礎からわかる欧州連合】(02) コスモポリタン、生い立ち故

20210831 07
EUの概念を先取りしたとも言えるリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーの欧州統合論。その底流にあるのは、民族や国家に囚われないコスモポリタン(※世界主義者)としての思想だ。「彼の考えには、その生い立ちや当時のウィーンで過ごした学生生活等が大きな影響を与えているのだと思います」。クーデンホーフ・カレルギーの姪で、フリージャーナリストのバーバラさん(89)はそう語る。クーデンホーフ・カレルギーは明治中期の1894年、ハプスブルク帝国の駐日代理公使だったハインリヒと、牛込の骨董商の娘だった青山光子(※旧名みつ)の2人目の子供として、東京に生まれた。光子は国際結婚をした日本人女性の草分け的な存在で、「欧州の貴族と日本女性の結婚は前代未聞だったので、世界中に伝わり、新聞にも書かれました」と手記に残している。光子は1896年、ハインリヒに連れ添って、彼の故郷である帝国領内のボヘミア地方(※現在のチェコ)に渡るが、その際に当時の皇后と面会し、「ヨーロッパに行っても決して日本の名誉を忘れぬようにとのお言葉を賜った」(※クーデンホーフ・カレルギーの自伝より)という。一家がボヘミアに移り住んだ時、クーデンホーフ・カレルギーは1歳。そこで欧州貴族として育てられる。自伝では、「ヨーロッパの男性と、アジアの女性との間に生まれた子供として、我々(※自身ときょうだい)は国家的観念をもってものを考えないで、アジア及びヨーロッパという大陸的な考え方をしていた」と振り返っている。

進学の為、13歳で移り住んだウィーンは、その思想形成に更なる影響を与えた。当時はハプスブルク帝国の末期にあたる。この帝国は中世以降、名門一族のハプスブルク家が支配した国家の総称だ。広範な地域を一族で統治する多民族国家で、最盛期の16世紀には欧州の大部分を版図に収めた。帝都ウィーンは、様々な民族や言語が混じり合う欧州随一の国際都市だった。クーデンホーフ・カレルギーは“テレジアーヌム”と呼ばれるエリート校で学ぶ。女帝マリア・テレジア(1717-1780)が創設したこの学校は、帝国の上流社会の縮図で、ドイツ人、ハンガリー人、ポーランド人、チェコ人、トルコ人等あらゆる民族の生徒が「一つ屋根の下で、模範的な友愛精神をもって生活していた」(※自伝より)という。卒業後もウィーンにとどまり、大学で哲学を専攻するが、当時の街の雰囲気について、自伝にはこう記されている。「コスモポリタンであることは高貴であることと見做され、国粋主義は小市民的であると見做されていた」。ただ、欧州全体では1789年からのフランス革命を経て民族主義が広がっていた。民族に基づいた国民国家が各地で形成されていく近代化のうねりの中で、ハプスブルク帝国は1918年、第一次世界大戦の敗北によってハンガリーやチェコスロバキアの独立を許し、崩壊する。その5年後にクーデンホーフ・カレルギーが『パンヨーロッパ』で訴えた欧州統合論には、失われた“古き良き時代”への郷愁が滲む。しかし、国民国家による対立は激しさを増し、欧州は世界を巻き込んだ二度目の大戦へと突き進んでいく。バーバラさんは言う。「彼は、欧州が統合への道筋を見つけられなければ二度目の大戦が起きると指摘していました。そして、この“予言”は後に正しかったことが証明されたのです」。欧州は戦後になって漸く統合を具現化させる。“民族なき平和”を訴えたクーデンホーフ・カレルギーの思いが実を結んだ形だ。ただ、歴史は一直線には進まない。近年、各地ではEU懐疑派が存在感を強め、“一つの欧州”に異を唱えている。


キャプチャ  2021年4月29日付掲載
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テーマ : 国際政治
ジャンル : 政治・経済

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