【ニッポン未解決事件ファイル】(09) 『連合赤軍事件』(1971-1972)――“革命闘争”という空虚な理想の下で繰り広げられた“総括”という名の殺人

学生運動が下火となっていた1971年、2つの大きな左派閥が合併し、『連合赤軍』が誕生した。毛沢東思想に影響を受けた集団は、山岳での共同生活を続けていた。だが、そこで悲劇は起きたのだった――。 (取材・文/ノンフィクションライター 八木澤高明)

20170224 01
「坂東さんはどこにいるんですかね?」。連合赤軍元兵士・植垣康博にそんな質問を投げかけてみると、「どこなんだろうね」と思わせぶりの口調で言ったのだった。板東さんとは、連合赤軍幹部・坂東國男のことである。坂東は、連合赤軍事件による同志殺害等の罪により、他のメンバーらと共に収監されていたが、『日本赤軍』が起こしたクアラルンプール事件の身柄釈放要求により、日本から出国し、今も国際手配されている。日本を出国した後はリビアに向かい、中東を拠点としてたが、中国やネパールにも入国したことがわかっている。“政治の季節”と呼ばれた1960年代が終わり、学生運動が下火になっていた1971年7月、『共産主義者同盟赤軍派』と『日本共産党革命左派』が1つとなり、連合赤軍は結成された。連合赤軍は山岳を拠点としながら、“革命闘争”を行うという毛沢東の理論に影響を受け、群馬県の棒名山の麓に山岳ベースを築いた。棒名山に籠った連合赤軍は、委員長に森恒夫、副委員長に永田洋子、中央委員に坂東國男や吉野雅邦らを選出した。棒名山での共同生活において連合赤軍は、“総括”の名の下に12名の同志を殺害する。「ぴりぴりとした緊張感が漂っていて、重苦しい雰囲気でした」。ベース内の様子を語るのは、棒名山ベースにもいて、同志殺害にも加わった植垣である。1998年に甲府刑務所から出所し、現在は静岡市内でスナックを経営している。如何にして同志殺害という状況が生み出されてしまったのか。「2つの組織が連合したことにより、主導権争いから、森さんの観念の世界に入ってしまいました」。浅間山荘事件後、森は拘置所で自殺し、永田は2011年2月に拘置所で病死した。今から40年以上前、世間に衝撃を与えた事件の記憶は薄れつつあるが、未だに潜伏中の坂東が逮捕されるまで、事件は終わらないのである。


キャプチャ  キャプチャ
スポンサーサイト

テーマ : 社会ニュース
ジャンル : ニュース

轮廓

George Clooney

Author:George Clooney

最新文章
档案
分类
计数器
排名

FC2Blog Ranking

广告
搜索
RSS链接
链接
QR码
QR