【刑法学者が問う葬送の激変】(上) 葬送を怠る者や新たな葬法に法律は機能し得るか?

人が死んだら親族が葬る。火葬場で死体を焼くのは死体損壊罪にはならない。当たり前の筈だが、法の論理としては不明確な点がある。これまでの常識が崩壊する予兆もある。葬送は如何にあるべきか、真剣に検討しなければならない。 (愛知学院大学法科大学院教授 原田保)

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生まれた者は必ず死ぬ。“死”という不可避的事象への対面は、人類が宗教というものを創り出す契機の1つであった筈である。そこから対概念たる“生”への思考も導かれ、生命の根源たる“性”も畏敬の対象となり得た。死、生、そして性は、人間やその他の生命体の根幹に関わる事柄である。これらに関する思考は、生物学や医学だけでなく、宗教と呼ばれるものの相当部分を占めてきた。筆者は本誌2016年9月号(秘仏の猥褻罪判決)で、性に関する罪を論じる機会を頂いた。今回は死体に対する罪であるが、両者は人間の根幹に関わる理念を害する行為として並べて論じるべき罪であると理解している。殺人の罪も、基本的には個人の生命を保護するものであるが、被害者自身が死を意欲・認容していた場合も自殺関与罪として処罰するのであるから、本人の生命だけに留まることなく、生という人間の根幹に関わる理念を保護する趣旨を否定できず、同じく並べて論じるべきものである。議論は人以外についても必要だが、本稿は人の死体に定して論じたい。「死体は葬送されるべきだ」という判断が、多くの人々に共有されている筈であり、この理念に反する死体取り扱いは犯罪とされる。これを規定する刑法第2編第24章“礼拝所及び墳墓に関する罪”は、通説的に“国民の宗教感情を害する犯罪”と説明されるが、正確には“公衆の敬虔感情・死者の尊厳”と表現するべきである。刑法第190条は、死体・遺骨・遺髪・棺に納めてある物という4種類の客体に対する損壊・遺棄・領得という3種類の行為につき、3年以下の懲役を規定している。第189条は、2年以下の懲役に処せられる墳墓発掘罪を規定しているが、第189条の罪と第190条の罪とを続けて犯すと、第191条により3ヵ月以上5年以下の懲役に処せられる。また、刑法第188条第1項は、神祠・仏堂・墓所その他の礼拝所に対する公然不敬行為を、6ヵ月以下の懲役若しくは禁錮又は10万円以下の罰金に処し、同条第2項は説教・社拝・幕式に対する妨害を、1年以下の懲役若しくは禁錮又は10万円以下の罰金に処することとしている。

確信犯を予定する禁錮を本条だけが規定している点は、他の犯罪との重大な相違点であり、国家神道や廃仏毀釈との関係を窺わせるが、本稿では論及しない。更に、刑法第192条は、検視を経ないで変死者を葬った者に、10万円以下の罰金又は科料を規定している。但し、本罪は犯罪死の可能性がある場合に捜査端緒を確保する趣旨の行政犯であって、ここに取り上げる葬送や宗教とは関係ないものと解されている。葬送に関する法律として、墓地・埋葬等に関する法律(墓埋法)がある。墓埋法は、死体を土中に葬る“埋葬”(土葬)と、死体を葬る為に焼く“火葬”とを定義し、土葬及び焼骨蔵置の場所を都道府県知事指定墓地に限定する等の規制を加えて、規制違反の土葬・火葬に対する罰則を規定している。また、船員法には“水葬”の規定がある。これは、航行中の船舶で人が死亡して、入港するまで死体を保管する設備が無い場合に、死体を海中に沈める葬法である。水葬についても、各種規制及び規制違反に対する罰則が規定されている。これらの規定は、葬送に対する規制であるから、葬送と認められない行為には適用されない。葬送以外の死体取り扱いは、刑法の死体に対する罪になることはあっても、葬送に関する行政規制違反罪になることはない。葬送以外の場面では、死体解剖保存法や臓器の移植に関する法律等が、死体取り扱いに関して様々な規制及び規制違反に対する罰則を規定している。刑事訴訟法や検疫法等には、死因調査等の為の死体解剖に関する規定もある。以上のように、死体に関して様々な規制や罰則があるが、本稿では土葬・火葬を中心として論じる。今日の日本で広範に行われる火葬も、 一部地域に残る土葬も、船舶上で例外的に行われる水葬も、死体損壊罪や死体遺棄罪にならない。当然の結論である。しかし、これらの行為も、文言としては死体に対する損壊・遺棄に該当し得る。例えば、殺人犯が証拠隠滅目的で死体を焼いたり、埋めたり、沈めたりすれば、間違いなく死体損壊罪や死体遺棄罪が成立する。葬送も、死体に対する行為自体は、これと変わらない。では、葬送は刑法第190条に規定された死体損壊罪や死体遺棄罪の構成要件に該当するのか。この点について、土葬と他の葬法とを区別する教科書・注釈書がある。刑法第190条の“遺棄”とは、「風俗上認められた葬送以外の方法で死体を放置することである」と説明される。土葬は同条の“遺棄”ではなく、「犯罪構成要件に該当しない」との理解が示されている。これに対して、火葬は墓埋法を根拠に、「法令行為として刑法第35条(正当行為)により違法性が阻却される」と説明されている。違法性の阻却とは、原則的に犯罪として処罰されるべき法益侵害を生じる犯罪構成要件該当行為が、別の優越法益を保全する手段である場合に、当該行為を例外的に許容する論理である。火葬が刑法第190条の“損壊”として犯罪構成要件に該当することを前提とする説が行われているのである。

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この区別は、明治初期に政府から提示された土葬原則思想に基づくと考えられる。既に火葬は普及し、船乗りたちは水葬を行っていたが、明治3年に水葬禁止、明治6年に火葬禁止という太政官布告が発せられた。これは、「死体に焼却等の人為的損傷を加えてはならず、死体をそのまま土中に埋めて礼拝せよ」ということであり、土葬を日本における唯一の葬法として強制するものであった。尤も、主として都市での墓地不足の故に、政府は明治8年に火葬禁という朝令暮改を行った。それでも、火葬を積極的に是認した訳ではなく、政府は火葬嫌忌を再確認している。これは仏教排斥の一部であり、神仏分離と共通する面もあるが、本稿ではこれ以上論及しない。刑法第189条の墳墓“発掘”は、明らかに土葬を前提とする文言である。判例は「墓石を損壊する行為が墳墓発掘に該当する」との解釈を示しているが、文言逸脱・罪刑法定主義違反の嫌疑がある。第190条の“棺に納めてある物”も、火葬の場合には短時間で死体と共に焼却され、多くの火葬場は不燃物納棺を禁止しているので、遺品を一緒に葬るなら骨壷や墓石内カロートに入れる他ない。こうして、“棺に納めてある物”に対する犯罪の機会は著しく減少している。現行刑法は明治40年の制定であるが、その全面改正の為に起案された昭和49年の改正刑法草案でも、この点は不変。火葬を通例とする現状との乖離は明白であり、社会の実情に合わせた改正の必要性は数十年前から主張されているが、放置されたままである。現状との乖離を放置する立法遅滞は他にもあり、本稿で列挙する余裕はないが、法務省や国会の怠慢の一例である。

墓埋法でも、“土中に葬る”という埋葬の定義は、「埋めることが直ちに葬送である」との理解を示し、“葬る為に焼く”という火葬の定義は、「焼いただけでは葬送にならない」という理解を示している。つまり、「火葬後に骨を墓石内カロートや納骨堂に入れて漸く、葬送が完結する」という理解である。法律名からしても、墓地が必須であって土葬が原則であるという理解が窺われる。これを今後も維持するかどうかは、厚生労働省及び国会の判断である。このような土葬原則思想によれば、葬送が死体に対する罪にならない理由について、土葬と火葬とを区別する論理もあり得る。しかし、今日の日本では寧ろ、火葬が原則である。確固たる葬送風俗となって社会的に承認・要請される火葬が、死体に対する罪で保護される敬虔感情や死者の尊厳を害するとは認め難い。法益侵害が無ければ、犯罪構成要件該当性を認める理由は無い。また墓埋法は、土葬についても火葬についても、“することができる”とは規定していない。権利付与規定が無いのであるから、墓埋法“による”許容という論理は法適用として成立し得ない。土葬も火葬も、法律に先立つ社会規範として承認・要請される行為であり、死体に対する罪の法益を保全する行為であって、侵害する行為ではない。この故に、「死体に対する罪にならない理由は、どちらも犯罪構成要件不該当であって、違法性阻却ではない」と解するべきである。以上は葬送が罪にならないことの説明であるが、逆に誰も葬送を行わなかったらどうなるか? これは、刑法の死体遺棄罪の問題である。死体を家から運び出して山の中に捨てる作為が死体遺棄罪であることは勿論であるが、「“死体を葬送しない”という不作為も死体遺棄罪になる」というのが、従来から承認されてきた解釈である。“葬送しない”という不作為を犯罪とするのであるから、“葬送しなければならない”という作為義務が前提となる。尤も、『加江田塾ミイラ事件』と呼ばれる福岡高等裁判所宮崎支部平成14年12月19日判決は、親族への死体引渡義務・死体管理義務を根拠として「不作為の死体遺棄罪が成立する」との解釈を示しているが、これに論及する余裕は無いので、葬送義務だけについて論じる。「葬送は当然に親族の義務だ」という社会的常識が存在する筈であるが、どの法令にもその旨の規定は無い。墓埋法には、葬送について、権利付与規定が無いだけでなく、義務付け規定も無い。誰かが土葬・火葬を行うことを前提として、各種規制を規定しているだけである。民法は祭祀承継を規定しているが、慣習に委ねるに留まる。戸籍法には死亡届の義務及び義務者特定の規定があるが、葬送義務の規定は無い。

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このように、「葬送を行うべき者は誰なのか」「抑々、葬送を行わなければならないのか」という基本的事項について、現行法は規定していない。水葬については、船員法に船長の義務が規定され、天涯孤独又は身元不明の死者については、墓埋法や行旅病人及行旅死亡人取扱法に市町村長の葬送義務が規定されているが、普通の死者については葬送義務に関する法令の明文規定が存在しないのである。一般論として、違反すると罪になるような刑法上の義務として「○○せよ」という作為が要求されるのは、警察官職務執行法に基づき、警察官が傷病者等を保護する義務のように法令に明記されている場合だけではない。個人間の契約等に基づく義務もある。そのような事情が無い場合でも、例えば「過失で火災の危険を発生させた者は消火の義務を負う」というように、「社会通念に基づく条理を根拠として刑法上の作為義務が生じる」と解されている。親族の葬送義務も、民法から導くことができなくても、最終手段たる条理を根拠として認めることができる。「親族は当然に葬送義務を負う」という判断が大多数の人々に共有されている限り、罪刑法定主義違反にはならない。実際に、従来から判例は「親族が葬送の為の措置を執らなかった場合に不作為の死体遺棄罪が成立する」と認めており、学説上も異論は無い。前述したように、死体“遺棄”の概念定義も、社会通念たる葬送風俗を基準としている。しかし、一般論的に親族の葬送義務を認めるとしても、社会通念というどこにも明記されていない基準であるから、その具体的内容が一義的に断定できる訳ではない。

葬送に関する社会通念は国により異なり、生命保護のように普遍的な基準は無い。身元不明死者を行政当局が火葬した後に身元が判明し、火葬を強く嫌忌する国の人であった為、遺族との間で紛争になった事例もある。日本国内でも、全国一律の葬送社会通念が存在する訳ではない。大審院第1刑事部の明治43年10月4日判決(大審院刑事判決録十六輯)は、この点で注目に値する。岐阜県大野郡高山町(現在は高山市)の火葬場で、遺族は同地の慣習に従い、骨の一部だけを骨壷に収納して、残余を火葬場の処理に委ねていた。これを肥料の原料として売買した火葬場職員及び業者が、遺骨領得罪で起訴された。第1審・控訴審は同罪成立を肯定したが、大審院は無罪を宣告した。「死者の記念の為に保存するべき骨が遺骨であり、遺族が風俗慣習に従って正当に処分した骨は遺骨に該当しないから、その領得は道義的に厭わしいとしても遺骨領得罪にならない」という理由である。本判例を支持するのが通説的見解であるが、泉二新熊博士は「骨全部を遺骨とすることが社会通念である」という反対説を主張した。同博士は明治末期~昭和初期の顕著な業績で知られる司法官僚・刑法学者であり、その出身地は奄美大島である。当時の同島には洗骨の慣習があった。骨を一片たりとも放棄しない慣習の中で成長すれば、「それこそが社会通念であって骨の放棄は絶対に許されない」と判断することは、些かも不合理ではない。火葬でも、骨壷収納は骨の全部か一部か、墓石内カロートに骨壷ごと入れるか、骨壷から出して骨だけ入れるか、当時も現在も地域により異なる。骨の全部を収納する地域の人が、収納を骨の一部に留める行為を見れば、「残余骨片放棄が遺骨遺棄罪になる」と判断しても不思議ではない。本件を担当した検察官・裁判官においても、身に着けた慣習の相違が犯罪成否判断の相違を導くことはあり得る。本件は、葬送に関する社会通念の地域差が、刑事立件によって顕在化した事例であったと評価できる。社会通念の地域差という問題は、明治時代から存在していたのである。社会通念は、時代と共に変動するものでもある。この点で注目するべき事例が、『捜査研究』756号(束京法令出版・平成26年刊)で紹介されている。「平成22年2月に発覚した」というだけで、裁判所名も宣告年月日も記載されていないが、老親の死亡を秘匿し、死体を放置して年金受給を続けていた事案である。被告人は、死体遺棄罪で逮捕されたにも拘わらず、年金受給に係る詐欺罪だけで起訴された。問題は、死体遺棄罪を起訴しなかった検察官の判断にある。不起訴の理由は、被告人が転居後に毎月3回程度の頻度で死体のある実家に戻っていたことから、「死体との場所的離隔に疑念がある」との判断にあった由である。この判断は、判例・通説と異なる。老幼傷病等の要扶助者に対する遺棄罪では、行為者と客体との場所的離隔が要件であり、場所的離隔が無い場合は遺棄罪と区別された不保護罪になる。

これに対して、死体の遺棄は、場所的離隔の無い不葬送を含む広い概念と解されてきた。親族の葬送義務を認めた昭和以前の判例は、被告人が死体所在場所から立ち去った事案であったが、死体遺棄罪に該当する行為とされたのは、葬送の為の措置を執らなかった不作為であって、立ち去ったことではない。不葬送が犯罪行為であるなら、死体の傍らから立ち去るか、死体と伴にいるかは犯罪成否と関係ない。実際に、同様の年金詐欺事案に関する名古屋高裁金沢支部平成24年7月12日判決は、死体のある自宅で居住を続けていた被告人に死体遺棄罪成立も肯定している。場所的離隔の無い不葬送という不作為だけで死体遺棄罪成立を肯定した初の判例として、『研修』776号(法務府研修所・平成25年刊)等で紹介されているが、その結論は昭和以前の判例・通説から当然に導かれる。これに反して、「場所的離隔が無ければ死体遺棄罪は成立しない」という解釈に基づく不起訴処分が行われ、同罪の前提となる葬送義務は“死体と伴に居よ”に留まって、「端的に“死体を葬送せよ”という作為義務は含まれない」という見解が提示された。検察官が他の判例との整合性を如何に理解したのかは定かでないが、「確固たる社会通念に基づく」と認識されていた判例・通説に対する重大な異論提起である。葬送に関する社会通念の変化を窺わせる事例であり、条理に基づく葬送義務の将来は不安定である。そうすると、社会通念に委ねる方法では対応困難になる。前述した地域差も勘案すれば、疑義払拭の為に、葬送として如何なる死体取り扱いを行うべきかを明示して、義務付け及び義務者特定方法を法律に規定することを検討するべき時代が到来したのかもしれない。かなり前から価値観の多様化が喧伝されるようになり、それは良いことだという理解も窺われる。しかし、歓迎するべき事と断言することはできない。民法は、信義誠実・公序良俗・慣習という概念を規定している。刑法やその他の法令でも、解釈論の中で社会通念とか、一般人の経験則とかいった概念が使用される。葬送関係事項も、その一場面である。これらの概念の具体的内容は、どこにも明記されていない。「大多数の人々が同じように考える筈だ」という前提で、法的概念として使用されるのである。裁判の際には、裁判官が自分の考えで判断し、「他の人々も概して同じように考える筈だ」という判断を経て、「社会通念に基づき」とか「一般人の経験則によれば」とかいった判決になる。価値観の多様化は、“大多数の人々の同じような考え”が縮小・消滅することに繋がる。法的概念である社会通念や一般人の経験則も、実体を失う。そうなると、やりたい放題の社会が到来し、力を持つ者の判断を批判する手段も失われる。近年の“新たな葬法”にも、このような問題が存在するが、これについては次回に論じる。


キャプチャ  2017年1月号掲載
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