【令和時代の日本生存戦略】(27) 初対面で“しるし”を読み取る理由

ステレオタイプというのは、ヒトの集団を幾つかのカテゴリーに分けて理解しようとすることだ。何故こんなことをするかというと、脳には認知的な限界があり、複雑なものを複雑なまま取り扱うことができないからだ。物理学的には、世界は様々な波長の電磁波に満ちているが、人間の目が光として感知できるのはそのごく一部で、可視域は下限が360~400nm、上限が760~830nmだ。それより短い波長には紫外線(※UV)、X線、ガンマ線が、長い波長には赤外線、マイクロ波、ラジオ波があるが、どれも見ることができない。可視域の電磁波も、赤・青・白・黒等の色のカテゴリーで認識される。網膜や視神経の生物学的な限界により、脳は世界をステレオタイプ化して構成しているのだ。この単純な例からわかるように、私たちはステレオタイプから自由になることはできない。それは脳の基本的な機能であり、ヒトの本性でもある。アメリカ人は、初対面の相手を無意識に、性別・年齢・人種の3つのカテゴリーで即座に判断する。性別と年齢が何故重要かは、進化論的に明快に説明できる。相手が子供や老人なら、危害を加えられる恐れはないから無視すればいい。男にとって若い女は性愛の対象で、若く屈強な男は生存への脅威となるから、特別な注意・関心を引く。女にとっては、見知らぬ若い男は性愛の対象であると同時に、暴力を受ける可能性もあるから、より複雑で高度な判断が必要になるだろう。それに対して、人種のカテゴリー化は説明が難しい。人類が進化の歴史の大半を過ごした旧石器時代には、アメリカのような多民族社会は存在せず、周囲には自分と同じ外見の者しかいなかった筈だ。脳が人種に注目するようプログラミングされている理由はない。
その後の研究によって、カテゴリー化の対象は人種ではなく、社会であることがわかった。社会とは、“俺たち(=内集団)”と“ヤツら(=外集団)”の帰属のことだ。このことは、次のようなシンプルな実験で確認できる。黒人と白人の男性が私服で集まった写真を見せると、アメリカ人の被験者は人種でグループ分けをする。だが、彼らにバスケットボールのユニフォームを着せると、今度はごく自然にチームによってカテゴリー化するようになるのだ。このことから、人種差別は人間の本性ではないことがわかる。本性は内集団と外集団に分割すること、即ち“社会(=帰属)による差別”なのだ。差別は何故あるのか? これにつ いては、現代の進化論が説得力のある説明をしている。環境から得られる資源が一定で、そこで暮らす集団が大きくなると、集団は分裂して複数の社会(=共同体)が生まれる。そうなると、同じ社会の構成員とは協働し、異なる社会との競争に勝ち残ることが進化の最適戦略になる。これは人類だけでなく、巨大な社会をつくる生き物はどれも同じ行動をとる。代表的な社会性昆虫である蟻の一種は超巨大なコロニーをつくり、何百㎞も離れたところに連れて行っても、そこの社会に溶け込み、自分の仕事を始める。ところが、異なるコロニー同士が接触すると、蟻たちは互いに殺し合って、死骸が山となった“国境”ができる。蟻には、互いのアイデンティティーを表わす特有の“しるし”がある。それが匂いだ。蟻たちは、自分と同じ匂いがする相手とは協働し、異なる匂いがする相手を殺戮するようプログラムされている。ヒトに遺伝的に最も近いのはチンパンジーやボノボだが、群れの数はどんなに多くても100頭前後で、どの個体もメンバー全員を知っている(※相手がわからなくなるくらい群れが大きくなると分裂する)。それに対して人類は、旧石器時代ですら数千人規模の社会を構成していた。これは脳の認知の限界を超えるので、相手が誰なのかわからなくても(※匿名でも)社会を成り立たせる仕組みが必要になった。この時に使われたのが、味方なのか敵なのかを瞬時に判断できる“しるし”で、言葉(※方言)や文化(※刺青や服装、装飾品)、音楽等だ。これによって、同じ“しるし”を持つ者たちが協力して、異なる“しるし”を持つ者たちを皆殺しにすることが可能になった。ヒトと社会性昆虫が似ているのは偶然ではない。大規模な匿名社会をつくるには、これ以外に方法はない。同じ環境の淘汰圧がかかれば、種が違っていても、同じような性質が進化するのだ。初対面の相手に対して、私たちは即座に“しるし”を読み取ろうとする。これは強力な生存本能なので、意識で抑制するのは極めて困難だ。こうした“しるし”は、アメリカ の人種問題では“白人/黒人”に、ヨーロッパの移民問題では“市民社会/イスラーム”になる。日本のネトウヨなら“日本人/反日”という国籍が“しるし”で、自分たちと異なる主張をする者を在日認定する奇妙な行動が生まれた。

それ以外でも、宗教や身分(=カースト)、民族(※パレスチナ問題)等、現代社会では様々なものが“しるし”になる。近年のアメリカでは、共和党支持(=保守)か民主党支持(=リベラル)かの政治イデオロギーで社会が分裂している。差別の本質は人種や民族の違いではなく、“しるし”によるカテゴリー化なのだ。“差別のない社会”をつくるにはどうすればいいのだろうか。理屈の上では、カテゴリー化を止めればいいことは誰でもわかる。これが、“集団ではなく一人ひとりを見る”というリベラルの戦略だ。問題は、一人ひとりの個性を見分けられる脳のスペックが50人分程度しかないことだ。これが、学校の1クラスの上限が50人で、『AKB48』が48人の理由だ。数百人や数千人の集団を“一人ひとり”見ることは、認知の上限を遥かに超えている。だが、悪い話ばかりではない。ひとつは、差別(=カテゴリー化)が人間の本性といっても、文明化によって、異なる社会同士の暴力が徐々に緩和されてきていること。嘗ては殺し合っていた集団同士も、今ではサッカー場で罵声を飛ばしたり、SNS上で罵詈雑言をぶつけ合う程度にまで穏健化した。この傾向が数千年続けば、何れは誰も“しるし”を気にしなくなるだろう。もうひとつはテクノロジーの進歩で、近い将来、AIがSNS上のビッグデータから一人ひとりを個別に評価するようになる。そうなれば私たちは、人種や民族のようなカテゴリーではなく、知能や外見等の個性によって点数化され、誰とつきあい、誰を無視するかを決めるようになるだろう。この“差別のない社会”がユートピアなのか、それともディストピアなのかはわからないが。
橘玲(たちばな・あきら) 作家。1959年生まれ。早稲田大学第一文学部卒。『宝島社』の元編集者で雑誌『宝島30』2代目編集長。2006年、『永遠の旅行者』(幻冬舎)が第19回山本周五郎賞候補となる。『言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)・『専業主婦は2億円損をする』(マガジンハウス)・『朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論』(朝日新書)等著書多数。

スポンサーサイト