猟奇の最たる事件か、時代が生んだ悲劇か――最後の生き証人が語る群馬人肉鍋事件の知られざる後日談
終戦直後の上州の山深き山村で、小さなあばら屋に6人が所狭しと暮らす一家があった。怠惰な夫は収入も無く、遂に蓄えていた食べ物全てを一家は喰い尽くし、母親は絶望に暮れていた。「このままでは一家全員餓死の危機」。そこで、母親はある考えを思いついた。「夫の連れ子で、知的障害を抱える次女を殺害し、その肉を自分が腹を痛めて産んだ子に喰わせてしまえばいい」と――。 (取材・文・写真/ノンフィクションライター 八木澤高明)
「丁度、山から下りてきたら、おトラさんの家のところで警察官が土を篩にかけているのが見えたんだよ」――。大東亜戦争の終戦から2ヵ月程が過ぎた1945年10月のこと。群馬県のとある村に暮らす川島春治さん(81)は、山で薪拾いを終え、家へと帰る道すがら、普段は見かけない光景を目にした。何人もの警察官が、“おトラさん”という17歳の少女が暮らしていた家の周りの土を掘り起こして、何かを探していたのだった。「事件なんて滅多に起こらない村だから、『何やってんのかなぁ』って思ったんだよ。そうしたら暫く経って、『おトラさんのことを母親のお龍さんが食べちゃった』って聞いて、驚いたんだ」。何も無い村で、この日、何が起こったのか…。

事件を起こしたのは、山野朝吉(52)の再婚相手で、33歳の龍だった。彼女は22歳の時に最初の結婚をし、その夫との間に娘ができたが、後に折り合いが悪くなって離婚。その娘を連れて、20歳以上年が離れた朝吉と再婚したのだった。一方の朝吉にも、前妻との間に長女、次女の“おトラさん”ことトラ、更に双子と、4人の子供がいた。結婚後、夫婦の間には更に2人の子供に恵まれた。計7人の子供たちの内、龍と血が繋がっていない子供たちは、トラを除いて奉公に出されていた。ひとつ屋根の下に朝吉夫婦・龍の長女・トラ・朝吉と龍の間にできた2人の子供という6人もが暮らしていた。朝吉は土地を持たない日雇い労働者だったので、一家の生活は傍から見ていても厳しかったという。一家の経済的な貧しさは、朝吉の性格的な問題も関係していた。朝吉は食い物に困らなければ、日雇いの仕事に出ない堕情なところがあった。そして、これは朝吉の次女・トラだけが奉公に出されなかった理由でもあるのだが、精神的な障害を抱えていた彼女は人と話すこともままならず、学校にも通えなかったようだ。当時の新聞報道等によると、被害者の父親は“低能”であると書かれている。今ではその真相を知ることはできないが、昭和を代表する小説家の松本清張は、この事件をテーマに『肉鍋を食う女』という小説を書いていて、その中で一家のことをこう記している。「朝吉は少し低能で、怠け者であった。日雇だが、出たり出なかったりした。百姓するにも土地を持たないのである。女房というのは33歳だが、朝吉のところへは連れ子をして来ている」。

そして1945年10月、食べ物に困窮する一家で事件が起こる。発生について、前出の松本清張の小説によると…。「巡査はこの家の前でいつもぼんやり佇んでいるトラという娘の姿がないのに気がついた、トラも精神薄弱な上に盗癖がある。年齢は17だが、身体は大人のように大きかった」。村に駐在していた巡査が、村人の戸籍調べをする為に1軒1軒を回り、山野朝吉の家も訪問した。その時、トラの姿が見当たらないことに気付いた巡査が、その安否を龍に尋ねた。すると…。「前橋に子守りに出ていて、8月5日の空襲で焼け死んだ」。特に感情の起伏も見せずに、龍は言うのだった。若し死んでいるのなら、死亡届が出ている筈である。巡査は朝吉の家を出て、その足で役場に向かうと、村長は「『空襲で焼け死んだ』という話は聞いているが、死亡届が出ていない」と言った。不審に思った巡査は、朝吉の近所で聞き込みをしてみると、「トラの姿を半年以上見ていない」という答えが返ってきた。「これはおかしい」と思った巡査は、再び龍の許を訪れ、問い質した。すると、最初は前回と同じく「空襲で死んだ」と言っていたが、次第に証言が変わっていった。「トラは病気で死んで、庭に埋めた」。空襲で死んだのではなく、家で死んだのであるなら、何らかのトラブルが元で殺害された可能性もある。龍と朝吉は警察署に呼び出され、尋問を受けることになった。「食っちゃった」――。初めは「食い物が無くて栄養失調で死んだ」と言っていた龍が、ぽつりと洩らしたのだった。約半年前の3月26日。近所の家から米・麦・サツマイモ等を恵んでもらったりしながら日々を凌いでいた朝吉一家であったが、その日、遂に食べるものが無くなった。囲炉裏に吊るされていた空っぽの鍋を前に、4人の子供たちは「腹が空いた」と泣き叫んだ。龍は日頃から、自分の血を分けた前夫との間にできた長女、そして朝吉との間にできた2人の子供には目をかけてきたものの、常々、トラにはきつく当ってきた。日々満足に食えない中で、トラは身体が大きかったこともあり、人一倍大飯を食らうことも、彼女には我慢ならないことだった。「何か食いもんは無いのか?」。何気ないトラの一言に、龍の心に殺意が芽生えた。「コイツさえいなければ、“私”の子供たちに食い物を回してやることができる」。龍はトラ以外の子供たちを外へ遊びに行かせると、腹が減って寝転がっていたトラに襲いかかった。背後から首を締め上げ、トラを絶命させると、首と四肢を鋸で切断。肉を包丁で切り刻み、空っぽだった囲炉裏の鍋に入れて肉鍋を作ったのだった。頭と手首、足先や内臓等は、庭に埋めた。

普段、肉など殆ど口にしたことの無かった子供たちは、鍋に入った肉片を見て歓喜しながらたいらげた。ただ、夕方になって日雇いの仕事を終えて戻ってきた朝吉だけは、それが何の肉か悟っていたのか、一口も手をつけなかったという。龍は、トラの肉を近所に配った。当時、新聞記者が村人たちに「その肉を食べたのか?」と聞いて回ったが、誰も答えるものはいなかった。龍は事件発覚後に逮捕され、実刑判決を受けた。朝吉と残された子供たちは、その後も村で暮らしていたというが、彼女が刑務所に収監されて暫くすると、朝吉と龍との間にできた子供が1人、栄養失調で亡くなった。朝吉一家の近所に暮らしていた川島春治さんが言う。「今はゲートボール場になっているところに、朝吉さんの家があったんだ。家なんて呼べるもんではなくて、小屋みたいなもんだったけどな。それだって、自分で建てることができないで、村の人が建てたって聞いてるよ。どこの家も戦争中は、作った芋でも何でも供出しなければならなかったから、生活は厳しかったけど、土地が無かった朝吉さんのところは更に大変だったと思うよ」。当時の新聞報道等によると、被害者の父親は“低能”であると書かれていたが、春治さんの見解は違う。「昔は今と違って、学校に通わなくてもとやかく言われる時代じゃなかったから。トラさんだけでなく、学校に通ってない子供も多かったけど、トラさんは特にボーッとしているところがあって、誰とも話す訳でもなく、家の前によく座っていたよ。朝吉さんは殆ど家の中にいて、外に出て来ないんだ。傍から見たら怠け者なんだろうけど、生まれつきそうだった訳じゃなくて、元々はここから歩いて30分程の集落の結構な家だったそうだ。人に騙されたかで財産を失って、ここに来たって話だよ。それ以来、頭がおかしくなっちゃったじゃないけど、無気力になっちゃったみたいだな。当時は村で『龍さんがトラを食った』なんて悪く言う人もいたけれど、皆、他人事じゃなかったんだ。食事にサツマイモが1本出れば御馳走の時代だったんだよ。龍さんがトラさんを殺したことになっているけど、若しかしたら栄養失調だったからよろけて倒れただけで、食べずに埋めた可能性だってあると思うんだ。だって、誰も龍さんがトラさんを殺しているところを見ていた訳じゃないんだから」。
戦中・戦後の食糧難の時代を生き抜いてきた春治さんは、人肉事件に関しては今も半信半疑のようだった。「もう昔のことだから、何歳だったかははっきり覚えていないけど、小さい子供が食いもんが無くて亡くなってんだぁ。母ちゃんが刑務所に入って、面倒が見切れなく、可哀想なことになっちまったんだぁ」。朝吉一家は、まさに1日1日を生き抜く為に必死だった訳である。そう考えると本意ではなかっただろうが、トラは己の身を犠牲にして、幼い兄弟の命を救おうとしたことになる。人肉を食べるという行為は、飽食の現代から見るとショッキング極まりないが、当時の時代状況を冷静に考えてみると、どこの場所で起きてもおかしくはなかったのかもしれない。それは、村人たちの誰もが朝吉や龍を責めない態度に現れているように思えた。朝吉一家は事件後も村に住み続け、つい数年前に朝吉と龍の間にできた息子が亡くなるまで暮らし続けていた。刑務所から出た龍は下仁田市内の寺に引き取られ、そこで生活したという。一家が暮らした家があったところから目と鼻の先に、朝吉が眠る墓があるというので、訪ねてみることにした。つい最近造られたと思われる真新しい墓には、朝吉の名前が刻まれていた。ただ、墓誌には人身御供となったトラの名前は刻まれていなかった。筆者はトラの冥福を祈りつつ、手を合わせた。
第2号掲載
「丁度、山から下りてきたら、おトラさんの家のところで警察官が土を篩にかけているのが見えたんだよ」――。大東亜戦争の終戦から2ヵ月程が過ぎた1945年10月のこと。群馬県のとある村に暮らす川島春治さん(81)は、山で薪拾いを終え、家へと帰る道すがら、普段は見かけない光景を目にした。何人もの警察官が、“おトラさん”という17歳の少女が暮らしていた家の周りの土を掘り起こして、何かを探していたのだった。「事件なんて滅多に起こらない村だから、『何やってんのかなぁ』って思ったんだよ。そうしたら暫く経って、『おトラさんのことを母親のお龍さんが食べちゃった』って聞いて、驚いたんだ」。何も無い村で、この日、何が起こったのか…。

事件を起こしたのは、山野朝吉(52)の再婚相手で、33歳の龍だった。彼女は22歳の時に最初の結婚をし、その夫との間に娘ができたが、後に折り合いが悪くなって離婚。その娘を連れて、20歳以上年が離れた朝吉と再婚したのだった。一方の朝吉にも、前妻との間に長女、次女の“おトラさん”ことトラ、更に双子と、4人の子供がいた。結婚後、夫婦の間には更に2人の子供に恵まれた。計7人の子供たちの内、龍と血が繋がっていない子供たちは、トラを除いて奉公に出されていた。ひとつ屋根の下に朝吉夫婦・龍の長女・トラ・朝吉と龍の間にできた2人の子供という6人もが暮らしていた。朝吉は土地を持たない日雇い労働者だったので、一家の生活は傍から見ていても厳しかったという。一家の経済的な貧しさは、朝吉の性格的な問題も関係していた。朝吉は食い物に困らなければ、日雇いの仕事に出ない堕情なところがあった。そして、これは朝吉の次女・トラだけが奉公に出されなかった理由でもあるのだが、精神的な障害を抱えていた彼女は人と話すこともままならず、学校にも通えなかったようだ。当時の新聞報道等によると、被害者の父親は“低能”であると書かれている。今ではその真相を知ることはできないが、昭和を代表する小説家の松本清張は、この事件をテーマに『肉鍋を食う女』という小説を書いていて、その中で一家のことをこう記している。「朝吉は少し低能で、怠け者であった。日雇だが、出たり出なかったりした。百姓するにも土地を持たないのである。女房というのは33歳だが、朝吉のところへは連れ子をして来ている」。

そして1945年10月、食べ物に困窮する一家で事件が起こる。発生について、前出の松本清張の小説によると…。「巡査はこの家の前でいつもぼんやり佇んでいるトラという娘の姿がないのに気がついた、トラも精神薄弱な上に盗癖がある。年齢は17だが、身体は大人のように大きかった」。村に駐在していた巡査が、村人の戸籍調べをする為に1軒1軒を回り、山野朝吉の家も訪問した。その時、トラの姿が見当たらないことに気付いた巡査が、その安否を龍に尋ねた。すると…。「前橋に子守りに出ていて、8月5日の空襲で焼け死んだ」。特に感情の起伏も見せずに、龍は言うのだった。若し死んでいるのなら、死亡届が出ている筈である。巡査は朝吉の家を出て、その足で役場に向かうと、村長は「『空襲で焼け死んだ』という話は聞いているが、死亡届が出ていない」と言った。不審に思った巡査は、朝吉の近所で聞き込みをしてみると、「トラの姿を半年以上見ていない」という答えが返ってきた。「これはおかしい」と思った巡査は、再び龍の許を訪れ、問い質した。すると、最初は前回と同じく「空襲で死んだ」と言っていたが、次第に証言が変わっていった。「トラは病気で死んで、庭に埋めた」。空襲で死んだのではなく、家で死んだのであるなら、何らかのトラブルが元で殺害された可能性もある。龍と朝吉は警察署に呼び出され、尋問を受けることになった。「食っちゃった」――。初めは「食い物が無くて栄養失調で死んだ」と言っていた龍が、ぽつりと洩らしたのだった。約半年前の3月26日。近所の家から米・麦・サツマイモ等を恵んでもらったりしながら日々を凌いでいた朝吉一家であったが、その日、遂に食べるものが無くなった。囲炉裏に吊るされていた空っぽの鍋を前に、4人の子供たちは「腹が空いた」と泣き叫んだ。龍は日頃から、自分の血を分けた前夫との間にできた長女、そして朝吉との間にできた2人の子供には目をかけてきたものの、常々、トラにはきつく当ってきた。日々満足に食えない中で、トラは身体が大きかったこともあり、人一倍大飯を食らうことも、彼女には我慢ならないことだった。「何か食いもんは無いのか?」。何気ないトラの一言に、龍の心に殺意が芽生えた。「コイツさえいなければ、“私”の子供たちに食い物を回してやることができる」。龍はトラ以外の子供たちを外へ遊びに行かせると、腹が減って寝転がっていたトラに襲いかかった。背後から首を締め上げ、トラを絶命させると、首と四肢を鋸で切断。肉を包丁で切り刻み、空っぽだった囲炉裏の鍋に入れて肉鍋を作ったのだった。頭と手首、足先や内臓等は、庭に埋めた。

普段、肉など殆ど口にしたことの無かった子供たちは、鍋に入った肉片を見て歓喜しながらたいらげた。ただ、夕方になって日雇いの仕事を終えて戻ってきた朝吉だけは、それが何の肉か悟っていたのか、一口も手をつけなかったという。龍は、トラの肉を近所に配った。当時、新聞記者が村人たちに「その肉を食べたのか?」と聞いて回ったが、誰も答えるものはいなかった。龍は事件発覚後に逮捕され、実刑判決を受けた。朝吉と残された子供たちは、その後も村で暮らしていたというが、彼女が刑務所に収監されて暫くすると、朝吉と龍との間にできた子供が1人、栄養失調で亡くなった。朝吉一家の近所に暮らしていた川島春治さんが言う。「今はゲートボール場になっているところに、朝吉さんの家があったんだ。家なんて呼べるもんではなくて、小屋みたいなもんだったけどな。それだって、自分で建てることができないで、村の人が建てたって聞いてるよ。どこの家も戦争中は、作った芋でも何でも供出しなければならなかったから、生活は厳しかったけど、土地が無かった朝吉さんのところは更に大変だったと思うよ」。当時の新聞報道等によると、被害者の父親は“低能”であると書かれていたが、春治さんの見解は違う。「昔は今と違って、学校に通わなくてもとやかく言われる時代じゃなかったから。トラさんだけでなく、学校に通ってない子供も多かったけど、トラさんは特にボーッとしているところがあって、誰とも話す訳でもなく、家の前によく座っていたよ。朝吉さんは殆ど家の中にいて、外に出て来ないんだ。傍から見たら怠け者なんだろうけど、生まれつきそうだった訳じゃなくて、元々はここから歩いて30分程の集落の結構な家だったそうだ。人に騙されたかで財産を失って、ここに来たって話だよ。それ以来、頭がおかしくなっちゃったじゃないけど、無気力になっちゃったみたいだな。当時は村で『龍さんがトラを食った』なんて悪く言う人もいたけれど、皆、他人事じゃなかったんだ。食事にサツマイモが1本出れば御馳走の時代だったんだよ。龍さんがトラさんを殺したことになっているけど、若しかしたら栄養失調だったからよろけて倒れただけで、食べずに埋めた可能性だってあると思うんだ。だって、誰も龍さんがトラさんを殺しているところを見ていた訳じゃないんだから」。
戦中・戦後の食糧難の時代を生き抜いてきた春治さんは、人肉事件に関しては今も半信半疑のようだった。「もう昔のことだから、何歳だったかははっきり覚えていないけど、小さい子供が食いもんが無くて亡くなってんだぁ。母ちゃんが刑務所に入って、面倒が見切れなく、可哀想なことになっちまったんだぁ」。朝吉一家は、まさに1日1日を生き抜く為に必死だった訳である。そう考えると本意ではなかっただろうが、トラは己の身を犠牲にして、幼い兄弟の命を救おうとしたことになる。人肉を食べるという行為は、飽食の現代から見るとショッキング極まりないが、当時の時代状況を冷静に考えてみると、どこの場所で起きてもおかしくはなかったのかもしれない。それは、村人たちの誰もが朝吉や龍を責めない態度に現れているように思えた。朝吉一家は事件後も村に住み続け、つい数年前に朝吉と龍の間にできた息子が亡くなるまで暮らし続けていた。刑務所から出た龍は下仁田市内の寺に引き取られ、そこで生活したという。一家が暮らした家があったところから目と鼻の先に、朝吉が眠る墓があるというので、訪ねてみることにした。つい最近造られたと思われる真新しい墓には、朝吉の名前が刻まれていた。ただ、墓誌には人身御供となったトラの名前は刻まれていなかった。筆者はトラの冥福を祈りつつ、手を合わせた。

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