歴史を振り返れば国際法無視のオンパレード…泣く子も黙る残虐行為で大国に成り上がった“超トンデモ国家”ロシア連邦の正体

昨年12月の日露首脳会談でも、北方領土問題に目立った進展は無し。しかし抑々、北方領土はロシアによって一方的に侵略された島だ。そんな北方領土問題を巡り、太平洋戦争末期からその後の約10年間にロシアが行ってきた数多くの非道な行為を振り返ってみよう。 (フリーライター 星野陽平)

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昨年12月15・16日、安倍晋三首相とロシアのウラジーミル・プーチン大統領が首脳会談を行った。両国間で長年の懸案事項だった、択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島――所謂“北方領土問題”の行方が大きく注目された。安倍首相は5月の日露首脳会談の際に、「今までの停滞を打破するべく、突破口を開く手応えを得ることができた」と発言し、9月にもウラジオストクでプーチン大統領と会談した際も、「新しいアプローチに基づく交渉を具体的に進めていく道筋が見えてきた。その手応えを感じた」等と発言していた為、多くの日本国民は「北方領土が返還されるのではないか?」と期待した。ところが、蓋を開けてみると2島返還等のサプライズは無く、その代わりとして「日露共同経済活動の検討を開始する」という話が出てきただけだった。新聞やテレビは“進展無し”と報じたが、問題はそれだけでない。「このままでは、日本はロシアに延々と経済協力だけさせられ、いつまで経っても北方領土が返ってこない」という“食い逃げ”リスクを背負うこととなる。抑々、太平洋戦争末期の振る舞いを見れば、ロシアが信用するに足らない国であることは明らかだ。北方領土問題の原因は、ソビエト連邦(※現在のロシア)が太平洋戴争末期、火事場泥棒的に不法に対日参戦してきたことにある。これを理解するには、1941年4月13日、モスクワで日本とソ連が締結した『日ソ中立条約』を理解しておかなければならない。当時の日本は、アメリカとの関係が極端に悪化していた。1937年に始まった日中戦争を警戒したアメリカは、燃料等資源の対日輸出を制限し、日本に対する締め上げを図っていた。この動きに対抗する為、1940年、日本はヨーロッパで第2次世界大戦を展開していたドイツやイタリアと『日独伊三国軍事同盟』を締結した。

更に同年、外務大臣に就任した松岡洋右は、ソ連を日独伊の枢軸国に引き入れる為に日ソ中立条約を結び、アメリカに対抗することを目指した。当初、ソ連はこれに応じなかったが、ドイツの対ソ侵攻計画を察知し、日ソ中立条約を受け入れた。条約の有効期限は5年だったが、ソ連は裏で虎視眈々と対日参戦の機会を窺っていた。1943年、ソ連の最高指導者であるヨシフ・スターリンは、ドイツとの戦争が終結した直後に対日参戦する方針を固めた。1944年12月、スターリンはアメリカの駐ソ大使であるウィリアム・アヴェレル・ハリマンに対し、樺太(サハリン)南部や北方領土を含む千島列島等の領有を要求した。これに応じる形で、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は1945年2月、アメリカ、イギリス、ソ連の首脳による『ヤルタ会談』で、スターリンに対日参戦を促した。だが、ソ連の対日参戦には問題があった。日ソ中立条約では、期間満了の1年前に条約の破棄を通告しなかった場合は、次の5年間、自動的に延長されることが決められていた。国際法上、ソ連が対日参戦する為には、日本に対して条約の破棄を宣言しなければならない。そこで、一計を案じたスターリンは、ソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣に、1945年4月5日、モスクワで駐ソ日本大使の佐藤尚武に向かって、次のようなメッセージを読み上げさせた。「日ソ中立条約は、その意義を喪失し、その存続は不可能になった」。日本側は、この曖昧な表現を「条約が満了する1946年4月の条約満了後、延長しないとの意思表示である」と受け取ったが、ソ連は戦後、「このメッセージは中立条約の破棄を通告したものであった」と公表している。但し、条約には破棄に関する規定は存在しない。常識的に考えれば、満了まで条約は有効だった筈だ。ところが、ヤルタ会談の存在を知らなかった“お人好し”の日本は、「ソ連は最後まで中立条約を守るだろう」と考え、1945年6月、アメリカ、イギリス両国との全面戦争を停止する為の和平交渉の仲介をソ連に申し入れたのだった。この申し入れに対し、既にヤルタ会談で連合国に加わっていたソ連は、そっけない対応に終始し、日本の和平交渉は失敗に終わったのだった。1945年7月17日、ベルリン近郊のポツダムで、ソ連、イギリス、アメリカが日本の降伏についての取り決めを行った。ここで、アメリカのハリー・トルーマン大統領はスターリンに、原爆の開発に成功したことを告げた。実際に8月6日、広島に原爆が投下された。愈々、戦争の終結を悟ったスターリンは、急遽、対日参戦を決意する。8月8日、ソ連のモロトフ外相は佐藤大使を呼び、日ソ中立条約の破棄を通告し、8月9日から日本に対し戦時体制に入ることを伝えた。佐藤大使は一刻も早く、日本の外務省にこれを伝えなければならなかったが、ソ連の秘密警察が日本大使館に侵入し、電話回線を切断していた。モロトフ外相は佐藤大使に、暗号を使用して東京に連絡することを許可していたが、佐藤大使が『モスクワ中央電信局』から日本の外務省に打電したところ、モスクワ中央電信局は受理したにも拘わらず、『日本電信局』に送信しなかった。

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佐藤大使が日ソ中立条約の破棄を通告されたのは、モスクワ時間で8月8日17時だったが、この時、極東では8月9日の深夜0時だった。既にソ連軍は軍事行動を開始し、当時、日本領であった満州・朝鮮半島・樺太南部・千島列島が戦闘状態となった。樺太関連で言うと、8月11日、ソ連軍は樺太南部の国境を侵犯し、更に侵攻を始める。日本が8月14日に無条件降伏を求める『ポツダム宣言』の受諾を連合国に通告し、8月15日に昭和天皇が国民に終戦を伝える玉音放送を行った後も、ソ連は戦線を拡大させた。ソ連軍の軍民を問わない攻撃から逃れる為、樺太島民はあらゆる手段を尽くして只管に南を目指し、北海道へ渡ろうとした。当時、樺太南部には40万人以上の日本の民間人が暮らしていたが、北海道に脱出できたのは10万人程度。ソ連軍の無差別攻撃による犠牲者は約2000人で、避難船3隻がソ連軍に攻撃されて約1700名が死亡したという。ソ連軍の兵士は囚人上がりが多く、軍紀は乱れ、民間人の虐殺・強姦・強盗等、凶悪行為に明け暮れた。以下、当時、樺太西海岸の中心都市だった真岡町で、ソ連兵の悪行を目撃した『全国樺太連盟』副会長・金谷哲次郎氏の証言を引用したい(※『別冊正論25 樺太・カラフトを知る』所収)。「わかるんですよ、露助が何人も囲んでるから」「若妻が亭主の前で陵辱され、ことが済んでから2人で首を吊ったとも聞きました」「(ソ連兵が)酔ってしつこく『(女を)出せ』と粘るから、ほかのみんなが女を隠したのを見計らって(民家の)中に入れると、その辺を探す。(女が)いないから腹立ちまぎれに自動小銃を撃ちまくる。天井や壁に。いやあ、怖かった。そして万年筆とか腕時計とか、日本製で質がいいですから、持ち去るんですよ」「戦闘機を見ると20メートルほどの低空飛行だから操縦士が見えるんですよ。ニヤついてるように見えました。人殺しゲームを楽しんでいたんですよ」「避難民は上から見ても非戦闘員とわかるのに、標的にされたんです。8月22日ですよ」。

こんなエピソードもある。8月20日、ソ連軍が樺太の真岡町に上陸したにも拘わらず、真岡郵便局の電話交換手の女性9人は業務を交替できる男性がいなかった為、自ら進んで残留を希望した。ソ連兵が押し寄せてきたのが見えた時、「陵辱されるよりは…」と全員で服毒自決を遂げた。現在は靖国神社に安らかに眠っている。他にも同じく、8月20日22時頃、真岡町の小学校に避難してきた婦女子たちが仮泊していると、ソ連兵数名が現れ、「マダムダワイ、マダムダワイ(女を出せ)」と叫びながら、婦女子たちを連行しようとした。意を決した70歳ぐらいの老婆が立ち上がり、「私が行ってやる。他の者には手を触れるな」と言い放ち、兵士たちと出て行った。翌日発見された老婆は、ソ連兵十数人に輪姦され、命を落としていたという。このような「戦争だから」との一言では済まされないような惨劇が、日本の無条件降伏後も彼方此方で繰り広げられたのであった。ソ連軍は8月25日に南樺太を、9月1日までに択捉島・国後島・色丹島を、9月5日までに歯舞群島を其々占領したが、恐るべきことに、「ソ連軍は“北海道占領計画”まで立てていた」という話もある。ヤルタ会談でソ連は、対日参戦の見返りとして北方領土の領有が認められていたが、ヤルタ会談の2ヵ月後、アメリカの代表者だったルーズベルト大統領が急死した。副大統領から昇格したトルーマン大統領は8月15日、スターリンに対し、「日本軍降伏後のソ連の占領地域に千島列島は含まれない」と通告した。これに怒ったスターリンは翌16日、トルーマン大統領に、日本軍がソ連軍に明け渡す区域として千島列島全土を、更に北海道の北半分を含むことを要求した。スターリンに言わせれば、北海道を南北に2分する境界線は、東岸の釧路から西岸の留萌までを通る線で、その名目は、ロシア革命に対して日本が1918~1922年に行ったシベリア出兵の代償なのだという。こうしたスターリンからの要求に対し、トルーマン大統領は「北海道北部のソ連占領を認めない」という返事を送った。しかしスターリンは、これを無視し、終戦直前、極東軍最高司令官のアレクサンドル・ワシレフスキー元帥に、樺太南部から北海道に3個師団の上陸部隊を出せるように指令を出したとされているが、結局、最終決定は下されなかった。仮にこれが実行されていようものならば、北海道の人口の何割かはシベリアに強制移住させられていたかもしれない。実際に、ソ連の対日参戦によって、多くの日本人がシベリアに抑留された。定説ではその数、約65万人で、その内の10万人が過酷な労役により死亡したとされる。ソ連による対日参戦によって、満州・朝鮮・樺太・千島列島はソ連の支配下に置かれた。これらの地域にいた日本軍兵士や民間人は、8月末から捕虜としてシベリアに点在する収容所に送られ、想像を絶する強制労働に従事させられた。シベリアの原野に設置されていた収容所は、丸太でできた粗末なもので、寒さが肌をつくが、真面な防寒具は無い。こうした環境で、日本人捕虜たちは建物を造る作業に従事した。食事は黒パンや不味いスープばかりというひもじいものだった。

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過酷な労働により、多くの日本人捕虜が倒れていった。医薬品も医療設備も満足に無く、多くの捕虜が死んでいく。特に冬期に死亡者が増え、作業員の体力が消耗して埋葬もできなくなり、地面に浅い穴を掘って死体を並べて、上から軽く土をかけるだけで済ませるようになった。ハーグ陸戦条約では「戦争が終結しているにも拘わらず、兵士を自国に連行し、使役に使ってはならない」と規定されており、シベリア抑留は当然、国際法違反に当たる。シベリア抑留は、強制労働だけでなく、洗脳教育という問題もあった。どこの収容所でも、捕虜に対し徹底的な共産主義教育が行われ、多くの捕虜たちが「スターリン万歳」「天皇制打倒」「日本に社会主義革命を」というスローガンを唱えるようになった。共産主義に共鳴しない捕虜はリンチの制裁を受けたり、食事や娯楽を制限される等の嫌がらせを受けた。抑留者たちの帰国は、1947年から日ソが国交回復する1956年にかけて行われたが、その後も日ソ間では北方領土問題が残り、現在までソ連の後継国家であるロシアが北方領土を不法に実効支配し、日本政府が返還を求めている。抑々、北方領土問題はソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、対日参戦したことに起因するが、ソ連の対日参戦は日ソ中立条約違反であり、その後の北方領土の占領も当然、違法だ。尚、ソ連の対日参戦はヤルタ会談での密約によって決まったことだが、1956年、アメリカのドワイト・デヴィッド・アイゼンハワー大統領は、「(ソ連による北方領土占有を含む)ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、アメリカ政府の公式文書ではなく、無効である」との声明を発表している。「安倍・プーチン会談で決まった日露共同経済活動が進展すれば、北方領土が日本に返還されるだろう」等という見通しを語る有識者もいるが、「あまりにも甘い」と言わざるを得ない。これまで述べてきた通り、ロシア(ソ連)という国が全く信用できない国であることは明らかだ。「カネだけ日本からせしめて、北方領土についてはのらりくらりと躱そう」というのが、プーチンの腹なのである。安倍首相よ、決して騙されてはならない。


キャプチャ  2017年3月号掲載
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