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【WEEKEND PLUS】(208) 前名護市長、“牛歩”で抗議活動…「国策に翻弄されるのが寂しい」、闘いはこれからも続く



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今にも雨が降り出しそうな3月の空の下、土砂を積んだダンプカーが次々と港に入っていく。車列が横切ろうとする歩道では、進行を遮るように、沖縄県名護市の前市長、稲嶺進さん(76)がゆっくりとした足取りで何度も往復していた。少しでも、一分一秒でもいいから土砂の運搬を遅らせたい――。沖縄本島北部の西海岸にある名護市安和の『琉球セメント』の桟橋出入り口前。ここから大量の埋め立て用の土砂が運搬船に積み込まれ、反対の東海岸側にある辺野古へと運ばれていく。アメリカ軍普天間飛行場(※宜野湾市)を辺野古沿岸部に移設する為の作業の一環だ。桟橋出入り口前で、稲嶺さんは仲間と共に“牛歩”による抗議活動を続ける。警備員はその姿を見ながら、「横断する方、速やかに渡って下さい」と何度も声を上げていた。現場の前の道路は、人気観光施設『沖縄美ら海水族館』に続くルートになっている。通り過ぎていくレンタカーに、稲嶺さんは手を振った。「県外から来る人たちにも、我々がいつも言っている沖縄の“不条理”な現状を自分事として感じてほしい」。3選を目指した2018年2月の市長選で敗れた。今は一人の市民として、毎週月曜日には、安和での土砂積み込み作業への抗議を続けている。「もう後期高齢者だから、足腰にくるね。ずっと立ちっぱなしはきついんだよな」。抗議活動に参加している元今帰仁村長の与那嶺幸人さん(74)は言った。「新たな基地建設には反対という意思表示です。沖縄だけに負担を強いるのは明らかに差別だ」。沖縄本島中部の宜野湾市の中心部にあり、“世界一危険な飛行場”とされるアメリカ軍普天間飛行場の全面返還に日米両政府が合意したのは1996年4月12日。約半年前の1995年9月に起きたアメリカ兵3人による少女暴行事件に、アメリカ軍基地が集中する沖縄の怒りは燎原の火のように広がっていた。

高まる反基地感情に対応を迫られた日米両政府は、普天間返還を決断した。だが、県内移設がその条件とされ、移設先となったのが約40㎞離れた辺野古の海だった。新たな基地の建設に県民の反対は強く、移設計画は紆余曲折を辿った。2017年4月25日、埋め立てに向けて護岸工事が始まった。埋め立て予定面積約152㏊のうち、アメリカ軍キャンプシュワブ南側の41㏊は既に陸地化され、嵩上げ工事が進む。一方、シュワブ東側海域は一部の護岸が造成されたが、軟弱地盤が見つかり、未だ埋め立てに着手できていない。「辺野古の海にも陸にも新しい基地は造らせない」「次の世代に負の遺産を残してはいけない」。1996年の普天間飛行場返還合意後、辺野古移設反対を掲げた名護市長は稲嶺さんだけだ。“国策”に逆らう地方自治体の首長に対し、政府は露骨な“アメとムチ”で揺さぶりをかけた。稲嶺さんが2010年2月に市長に就任すると、政府(※当時は民主党政権)は移設への協力を前提とするアメリカ軍再編交付金の支給を凍結した。「当初から『再編交付金には頼らない』と言っていたので、切られたことに残念という思いはなかった。だが、(前市長の島袋吉和氏が再編交付金で始めた)前年度からの継続事業まで“ゼロ回答”になったのには、『ここまでやるか』と思った」。更に政府は2015年、辺野古周辺3地区の自治会に対し、市の頭越しに補助金を直接支出することを決めた。「自治体の長を飛び越えて、政府が自治会に補助金を出すなんてあり得ない。地方自治を蔑ろにするもので、何でもありということですよね」。アメをちらつかせて住民の分断を図る国の姿勢を、稲嶺さんと共に辺野古移設に反対した翁長雄志前知事(※2018年に死去)はこう批判した。「県民同士が争うのを、本土の人たちが上から見て笑っている」。選挙で示された民意を背に移設に反対する稲嶺さんに対し、政府は工事の手を緩めることがなかった。「どうせ止められないのであれば」――。市民に諦めにも似た感情が漂う中で迎えた2018年の市長選。政府・与党が支援し、辺野古移設には触れない戦略を徹底した新人に稲嶺さんは敗れ、政治の表舞台から去った。あれから4年。埋め立ては今も続き、市民の諦めムードはより濃くなっているようにも見える。だが、稲嶺さんは移設反対の旗を掲げ続ける。「目の前の話だけじゃない。たとえ新基地が完成したとしても、その頃には僕らはもういない。だから、子供や孫の世代が安心して暮らせる環境を残しておきたい」。沖縄は今日、日本本土復帰から50年を迎えた。県民の4人に1人が命を失ったとされる太平洋戦争末期の沖縄戦後、27年間に亘ってアメリカに統治された。1972年に復帰を果たしたが、今も全国のアメリカ軍専用施設の約7割が集中する“基地の島”であり続けている。稲嶺さんの半生と、沖縄が歩んだ苦難の道程を重ね合わせた。

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政治家になるつもりはなかった。でも、古里の行く末を考えると、新たな基地建設に目を瞑るわけにはいかなかった。その転機は2008年秋に訪れた。沖縄県名護市の収入役や教育長を歴任した後、その年に勇退した稲嶺さんは、市長選への立候補を打診された。普天間飛行場の名護市辺野古への移設計画に関して政府が提示した修正案を、当時の島袋吉和市長が受け入れた。これに不満を抱いた保守系市議の一部が、移設反対の勢力との共闘を探ったことが背景にあった。辺野古が普天間飛行場の移設先として浮上したのは、1996年に遡る。市として受け入れるのか、受け入れないのか――。国策は市民を二分し、1997年12月に実施された辺野古沖への海上ヘリポート建設の是非を問う市民投票では、反対が賛成を上回った。だが、比嘉鉄也市長(※当時)は結果に反して投開票3日後に建設受け入れを表明し、突然辞職。総務部長だった稲嶺さんにとっても寝耳に水だった。「全く知らないうちに市長は基地を引き受けて辞める事態となり、キツネにつままれたような感じだった」。その後の2人の市長も移設を容認した。「孫たちとも一緒にあんなことをしよう、こんなことをしようと色々計画もつくっていた。とてもじゃないけれど」と当初は渋っていた稲嶺さんだったが、再三の要請に立候補を受け入れた。だが、移設を容認した3代の市長の下で市幹部を務めてきたことから、移設に反対する人たちからは「信用できない」との声が燻っていた。

当初は「県外がベストだが、現計画の見直しを求める」としていた稲嶺さんが移設問題のスタンスをはっきりと決めたのは、辺野古でテントを張って抗議活動を続けていたおじい、おばあの切実な訴えを聞いたからだった。「自分たちを育んでくれた自然や海を壊してほしくない」。改めて気付かされた。「基地の問題は政治やイデオロギーの問題ではない。自分たちの暮らしの問題なんだ」と。その場で色紙にペンを走らせた。“辺野古の海に新たな基地は造らせない”。この言葉で陣営は纏まり、稲嶺さんは2010年1月の市長選で初当選を果たした。市長になってからも、朝は自宅近くの子供たちの登校の見守りを日課とし、公用車の送迎を断って自転車で登庁した。穏やかに映る日常の一方で、沖縄の“現実”に直面し続けた。“最低でも県外移設”と掲げた民主党の鳩山由紀夫政権が、普天間飛行場の移設先として辺野古を閣議決定したのは2010年5月28日。雨が降る中、市民集会に参加した稲嶺さんは語気を強めた。「今日、私たちは屈辱の日を迎えた。沖縄はまた切り捨てられた」。1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効で日本は主権を回復したが、沖縄は本土から切り離された。アメリカ統治が合法化されたこの日を、沖縄では“屈辱の日”と呼ぶ。稲嶺さんは、政府が辺野古移設に回帰した5月28日を、新たな“屈辱の日”と位置付けた。“基地の島”であるが故の不条理が次々と襲った。市長2期目の2016年4月。元アメリカ海兵隊員で軍属の男性が、ウォーキング中の女性(※当時20)を暴行して殺害する事件が起きた。女性は名護市出身だった。沖縄で戦後、繰り返されてきたアメリカ軍関係者による事件。被害女性を悼む6月の県民大会で、稲嶺さんは言葉を絞り出した。「今回もまた、一つの命を救う“風かたか”になれなかった」。“風かたか”とは“風除け”を意味する沖縄の言葉。「一人の大人として、女性を守れなかった悔しさや無力さ。沖縄では誰の身に起きてもおかしくないという現実を見せられ、やるせない思いだった」。今、振り返っても悔しさが滲み出る。同年12月にはアメリカ軍の輸送機『オスプレイ』が名護市東海岸に不時着し、大破する事故が起きた。「ここはアメリカ軍基地ではない。市長である私には地域の安全を守る責任がある」。翌朝、稲嶺さんは現場に駆け付けようとしたが、その行く手を規制線と警察官が阻んだ。立ち塞がったのは、アメリカ軍の“特権”を定めた日米地位協定だ。「歯痒いというか、ワジワジー(※腹が立つ)というか。基地の外で起きたことに日本が何もできない。そんな理不尽な話ないじゃないですか」。当時を思い出し、語気を強めた。様々な困難にぶつかったが、政府に対して一歩も引くことはなかった。自らを“政治家”ではなく“行政の長”だと言い続けた。だからこそ、「妥協することは筋を曲げること。(政治家ではない)自分には失うものがないから何も怖くない」との信念を貫いた。

後援会事務局長として支えてきた義兄の島袋正敏さん(78)は語る。「小さい頃に父親を亡くし、母親の苦労を見て育ってきたことが、弱音を吐かないという姿勢に繋がっていた」。戦いの中で生を受けた。沖縄戦で日本軍の組織的戦闘が終わっていた1945年7月。局地的な戦闘は続いており、母親は避難する途中に逃げ込んだ民家の軒下で稲嶺さんを産んだ。育った沖縄本島北部の“やんばる”と呼ばれる地域は貧しかった。5歳の時に父親が病死。山で薪を集め、豚や山羊の世話に追われる幼少期を送り、小学校は裸足で通った。アメリカの統治下に置かれた沖縄では住民の人権や自治は厳しく制限され、アメリカ軍関係者による事件や事故が頻発した。中2の時には宮森小学校(※現在のうるま市)にアメリカ軍戦闘機が墜落し、児童ら17人が死亡する事故も起きた。成長するに連れ、沖縄の不条理を体感するようになっていった。タクシー運転手のアルバイト等をして自分で学費を稼いで、琉球大学に通った。1972年1月に名護市の職員に。その年の5月15日に沖縄は日本本土への復帰を果たした。「復帰することで、アメリカ軍支配、植民地支配から解放されると思っていた」。だが、多くの基地がそのまま残された。復帰から四十数年後、市長として奮闘したが、基地建設の流れを止められなかった。そして、2018年2月の市長選で稲嶺さんは敗れた。選挙から3日後の退任式で悲痛な思いを語った。「名護市は20年に亘って移設問題で分断され、国策の名の下で翻弄されてきた。寂しいことだ。何故、こんなに小さな街の市民が判断を求められるのか。日常生活までこの問題が入り込んできて、本当につらい」。涙を浮かべた大勢の市民を前に、市役所を後にした。今年3月、稲嶺さんは埋め立て工事現場が見渡せる辺野古の浜に立ち、海をじっと見つめた。「風景が変わったな。(建設中の岸壁が)あんなに高くなかった」。尊敬する政治家で、復帰後の初代知事となった屋良朝苗氏は、1972年5月15日に那覇市で開かれた政府主催の復帰記念式典でこう挨拶した。「復帰の内容を見ると、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとは言えないことも事実だ。従って、これからもなお厳しさは続き、新しい困難に直面するかもしれない」。あれから50年。辺野古のエメラルドグリーンの海を前に稲嶺さんは言った。「“平和憲法の下に戻ろう”というのがあの頃の県民の大きな願いだったが、今も基地があるが故に基本的人権や地方自治は守られず、憲法や民主主義が沖縄にはきちんと適用されていない。取り巻く状況はどんどん悪くなってきている」。それでも決して下を向くことはない。“戦世(いくさゆー)”から“アメリカ世”、そして“ヤマト世”へ。幾度も世替わりを経験してきた沖縄は、いつの時代も多くの苦難に耐え、皆で助け合いながら乗り越えてきたからだ。「諦めることは負けること。勝つ為には諦めないこと」。そう力を込める。いつか、その日まで。1人のウチナーンチュの闘いは続く。 (取材・文/デジタル報道センター 佐藤敬一) (撮影/喜屋武真之介)


キャプチャ  2022年5月15日付掲載



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テーマ : 沖縄米軍基地問題
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