【WORLD VIEW】(09) “マルクスの墓”に見る富と権力
世界で最も人々に影響を与えた本は何か。『聖書』という人もいる。イスラム教の聖典『コーラン(クルアーン)』という意見もある。進化論を唱えたチャールズ・ダーウィンの『種の起源』は、多くの人の宗教観や社会思想に影響を与え、世界各国語に翻訳された。だが、20世紀以降で考えれば、結果的に世界の歴史を動かしたという点で『資本論』を挙げる人もいるだろう。著者はユダヤ系ドイツ人のカール・マルクス(※1818-1883)。搾取の構造を説明し、資本主義を批判的に考察した。その影響を受けたロシアでは20世紀に世界初の社会主義革命が起き、ソビエト連邦が誕生した。19世紀にマルクスが資本論を書いたのは、イギリスの首都ロンドンだ。政治的な危険分子として大陸欧州を追われ、イギリスで生涯を終えた彼は今、ロンドンのハイゲート墓地に眠っている。実は、墓の付近は今、高級住宅街になっている。資本主義の限界を説いたマルクスが眠る直ぐ傍で、皮肉にも資本主義の権化のような大富豪たちが暮らしているのだ。その代表が、『オリガルヒ』と呼ばれるロシアの財閥である。「ロシアの資産家がロンドンを目指したのは、ソ連崩壊(※1991年)前後からです。最近はイギリス国内でビジネスをする際の規制も厳しくなりましたが、未だ当時は緩く、ロシアに限らず、ペルシャ湾岸諸国等世界中から富裕層がロンドンに集まりました。祖国のロシアが混乱する中、自分の子供には英語を学ばせ、高い教育を受けさせたい――。そう考えるロシアの富裕層にとって、イギリスは魅力的な国でした」。ロシア情勢に詳しいマンチェスター大学のベラ・トルツジリティンケビッチ教授は、そう話す。ソ連崩壊の混乱の中、新興財閥として成り上がったオリガルヒは、新生ロシアで時の政権と対立や協調を繰り返し、政財界での発言力を強めていった。そのオリガルヒを積極的に受け入れたのが、世界有数の金融街、シティーを擁するイギリスである。15万人のロシア人が住むとされるロンドンは今、ロシアの地名風に“ロンドングラード”(※英紙『フィナンシャルタイムズ』より)とまで呼ばれる。墓地から僅か300m西には在英ロシア通商代表部がある。その近くの小道を入ると、生い茂る木立の中に邸宅が建ち並ぶ。門は厳重に閉ざされて中は見えないが、英紙『タイムズ』によると、何れもオリガルヒの邸宅だ。このうち1軒は最近、4000万ポンド(※約64億円)で売りに出されたとも報じられている。富が権力と結びつくのは世の常だ。オリガルヒは近年、イギリスの政界中枢にも食い込んでいたようだ。
ボリス・ジョンソン首相の与党・保守党は2020年、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領に近いロシアの銀行家の妻から170万ポンド(※約2億7000万円)の献金を受けていたことが発覚し、批判を浴びた。最近のイギリスは、こうしたロシアマネーにどっぷり漬かっていたのかもしれない。この膨大なカネがプーチン政権を支えていると言われてきたのも事実だ。NGO『トランスペアレンシーインターナショナル』の報告書によると、プーチン政権との繋がりがあったり、汚職を指摘されたりしたロシア人がイギリス国内に持つ資産は15億ポンド(※約2400億円)に上るという。その影響は言論をも左右しかねない。イギリスのあるジャーナリストは、プーチン政権の内幕を暴露する本を出版した際、オリガルヒ側に名誉毀損で提訴され、結局、出版社側は150万ポンド(※約2億4000万円)の訴訟費用を支払ったとも報じられている。オリガルヒを批判すれば高くつく――。そんな空気を察してか、私が先月イギリスに来てからオリガルヒ周辺を取材しようとしたら、「気をつけたほうがいいですよ」と複数の研究者らから言われた。報道だけではない。影響は学界にも及んでおり、最近もオリガルヒの本を書こうとした学者が出版を断られたとの話も聞いた。ロシアによるウクライナ侵攻後、ジョンソン政権は在英のオリガルヒらに慌てて制裁を科した。だが、これまでの蜜月ぶりを知る有権者からは、まるで手のひらを返したような対応とも指摘されている。一般のロシア人にとってはいい迷惑だ。20代のロシア人男性は話す。「ロシアの現政権は滅びるべきです。でも、政権やオリガルヒと関係ないビジネスマンまで肩身が狭い思いをするのはおかしい。人々が中立で正気を保つのは本当に難しいと感じます」。時代が変われば見方も変わる。イギリスの政権とオリガルヒの関係だけではない。嘗て世界の一部に希望を与えたマルクスの思想も、ソ連崩壊等社会主義の“失敗”が明らかになった20世紀終盤には時代遅れと言われた。マルクスの墓は過去に何度も荒らされており、社会主義を嫌う人々にペンキで“憎悪の教義”と落書きされたこともある。実は、この墓地にはもう1人、ロシアに因縁の深い人物が眠る。2006年にロンドンで毒殺された元ロシア連邦保安庁中佐のアレクサンドル・リトビネンコ氏だ。プーチン政権関係者が殺害に関与したと指摘されるが、ロシアは否定している。今月上旬に訪れた時、墓には赤い花が供えられていた。歴史の皮肉や因縁がたっぷり詰まったハイゲート墓地の内外で、やはりマルクスの墓は圧巻である。墓というより一大モニュメントだ。有名な“万国の労働者よ、団結せよ”の言葉が彫られた墓石の上に、巨大なマルクスの顔がドーンと乗っている。さて、この顔は一体どこを見ているのか。方角を調べてみた。勿論偶然だが、前述のオリガルヒの邸宅のほうは一切見ていなかった。 (ロンドン支局長 篠田航一)
2022年5月29日付掲載
ボリス・ジョンソン首相の与党・保守党は2020年、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領に近いロシアの銀行家の妻から170万ポンド(※約2億7000万円)の献金を受けていたことが発覚し、批判を浴びた。最近のイギリスは、こうしたロシアマネーにどっぷり漬かっていたのかもしれない。この膨大なカネがプーチン政権を支えていると言われてきたのも事実だ。NGO『トランスペアレンシーインターナショナル』の報告書によると、プーチン政権との繋がりがあったり、汚職を指摘されたりしたロシア人がイギリス国内に持つ資産は15億ポンド(※約2400億円)に上るという。その影響は言論をも左右しかねない。イギリスのあるジャーナリストは、プーチン政権の内幕を暴露する本を出版した際、オリガルヒ側に名誉毀損で提訴され、結局、出版社側は150万ポンド(※約2億4000万円)の訴訟費用を支払ったとも報じられている。オリガルヒを批判すれば高くつく――。そんな空気を察してか、私が先月イギリスに来てからオリガルヒ周辺を取材しようとしたら、「気をつけたほうがいいですよ」と複数の研究者らから言われた。報道だけではない。影響は学界にも及んでおり、最近もオリガルヒの本を書こうとした学者が出版を断られたとの話も聞いた。ロシアによるウクライナ侵攻後、ジョンソン政権は在英のオリガルヒらに慌てて制裁を科した。だが、これまでの蜜月ぶりを知る有権者からは、まるで手のひらを返したような対応とも指摘されている。一般のロシア人にとってはいい迷惑だ。20代のロシア人男性は話す。「ロシアの現政権は滅びるべきです。でも、政権やオリガルヒと関係ないビジネスマンまで肩身が狭い思いをするのはおかしい。人々が中立で正気を保つのは本当に難しいと感じます」。時代が変われば見方も変わる。イギリスの政権とオリガルヒの関係だけではない。嘗て世界の一部に希望を与えたマルクスの思想も、ソ連崩壊等社会主義の“失敗”が明らかになった20世紀終盤には時代遅れと言われた。マルクスの墓は過去に何度も荒らされており、社会主義を嫌う人々にペンキで“憎悪の教義”と落書きされたこともある。実は、この墓地にはもう1人、ロシアに因縁の深い人物が眠る。2006年にロンドンで毒殺された元ロシア連邦保安庁中佐のアレクサンドル・リトビネンコ氏だ。プーチン政権関係者が殺害に関与したと指摘されるが、ロシアは否定している。今月上旬に訪れた時、墓には赤い花が供えられていた。歴史の皮肉や因縁がたっぷり詰まったハイゲート墓地の内外で、やはりマルクスの墓は圧巻である。墓というより一大モニュメントだ。有名な“万国の労働者よ、団結せよ”の言葉が彫られた墓石の上に、巨大なマルクスの顔がドーンと乗っている。さて、この顔は一体どこを見ているのか。方角を調べてみた。勿論偶然だが、前述のオリガルヒの邸宅のほうは一切見ていなかった。 (ロンドン支局長 篠田航一)

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