【働き方改革・日本再生への処方箋】(中) “日本型経営2.0”が世界をリードする

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1991年のバブル崩壊から、既に25年が経ちました。その間、日本の会社は、一言で言えば“グローバル化”と“ポスト産業資本主義”に必死で適応しようとしてきました。しかし、『パナソニック』や『ソニー』が巨額の赤字を出し、今年は『シャープ』が台湾の『鴻海精密工業』に日本の家電メーカーとして初めて買収されました。『東芝』の2300億円を超える巨額の不正会計事件や『三菱自動車』の燃費偽装事件等、一瞬耳を疑う不祥事も続きました。これらの事象に耳を傾けると、日本の会社がグローバル化に適応するに立てる激しい軋みが聴こえます。何故、適応が上手くいかないのか? それは、日本の会社が自らを省みて、“やってはいけないこと”・“変えないほうがいいところ”・“変えるべきところ”を整理できていないからだと思われます。言い換えれば、自分の強みと弱点、長所と短所を見極められない為に、自分が進むべき道を見失っているのです。では、どうすればいいのか? それを先程挙げた3つのテーマに焦点を絞って、述べていきましょう。先ず、“やってはいけないこと”。日本の会社がグローバル化への適応の過程でおかした最大の過ちは、米英流の“株主主権論”によって会社を改革してきたことです。株主主権論とは、わかり易く言えば「株式会社は株主のものである」という考え方です。それは今でも続いており、2014年に安倍政権が成長戦略の一環として、株主主権論に基づく“コーポレートガバナンスの強化”を掲げると、あっと言う間に多くの日本の会社は社外取締役を導入し、株主への配当を増やし、「ROE(自己資本利益率)を8%以上にしなければならない」と言い出しました。グローバル化が進み、今や外国人投資家が日本の株式の約3割を持っているのですから、彼らが安心して株式を売買できるよう形式や体裁を整えることも必要でしょう。

しかし、タテマエとホンネとは区別しなければなりません。ホンネで株主主権論を導入してはいけない。何故なら第一に、株主主権論は理論的な誤りだからです。そして第二に、その誤りが現実に様々な弊害を齎しているのです。しかも、株主主権論による会社経営は、先進国が“産業資本主義”から“ポスト産業資本主義”に移行する中、米英でさえも大きく見直され、別の方法が模索されています。にも拘わらず、日本の会社は周回遅れで株主主権論に基づくコーポレートガバナンスを本気で取り入れつつある。このままでは、グローバル化とポスト産業資本主義への適応に失敗しかねません。何故、株主主権論は理論的に誤っているのか? 何故、その間違いが様々な弊害を齎しているのか? 何故、時代遅れなのか? それらの問いに答えるには、先ず「株式会社とは何か?」を考えなければなりません。その答えを見つけるには、“個人企業”と比べるのが近道です。個人企業と株式会社は、同じように見えて全く違うものだからです。先ず、個人企業の例として、町の八百屋さんに登場してもらいましょう。店主がお腹が空いた時、店先に並べてあるトマトを食べたとしたらどうなるでしょうか? 何も起こりません。八百屋という個人企業では、店先の野菜も店内のレジも全て、オーナーである店主個人のモノ(所有物)だからです。だが、その八百屋の店主が偶々、ある自動車会社の株主だとしましょう。その工場を見学中に、「会社は株主のモノだ!」と叫んで部品をポケットに入れて持ち帰ったら、どうなるでしょうか? 哀れにも、株主は窃盗の罪に問われてしまいます。会社の株主とは、工場の部品等の会社の資産の所有者ではないのです。ここに、個人企業と株式会社との根本的な違いがあります。工場の部品等、会社の資産は一体、誰が所有しているのでしょうか? その答えは“株式会社”です。「株式会社はヒトではないのに、モノを所有できるのはおかしいのではないか?」という疑問は尤もです。しかし、株式会社とは“法人企業”の別名です。先程の八百屋も自動車会社も、共に企業(※即ち営利を目的とした組織)であることにおいて同じです。しかし、八百屋は単なる企業でしかありませんが、株式会社は“法人”としての資格を与えられた“企業”であるのです。では、“法人”とは何でしょうか? 簡単に言うと、本来はヒトでないのに法律上、ヒトとして扱われるモノのことです。法人という概念は古く、ローマ帝国の時代に生まれたと言われています。その後、西欧の中世において、僧院や大学や自治都市等が法人として扱われるようになりました。例えば、ある宗派に心酔した信者が、死後の魂の安寧を願って、僧院で修行するお坊さんたちに「土地を寄進したい」と思い立っても、寄進相手が僧院長等個人ならば、その人が死んでしまえば土地は領主に没収されてしまう(※勿論、お坊さんには相続させる子供はいません)。そこで、僧院という抽象的な存在(モノ)を、個々のお坊さんとは独立の1人のヒトと見做す制度が発達し、信者は安心して土地を寄進し始めたのです。

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今、法人と言うと、株式会社が真っ先に思い浮かぶかもしれませんが、その起源は経済活動ではなかった。企業と法人とが合体して株式会社が誕生したのは、1600年前後のイギリスやオランダの『東インド会社』によってです。その後、資本主義が発達し、19世紀に入って米英を中心として法律が整備され、現在のような形の株式会社が成立することになったのです。即ち、法人である株式会社は、モノでありながらヒトとしても扱われる二面性を持っています。よく考えれば、本当に不可思議な存在なのです。事実、その“ヒトとしての会社”が会社資産を所有し、顧客や仕入れ先や銀行や従業員と契約を結んでいるのです。では、“株主”とはどういう存在なのでしょうか? 文字通り“株式”の“持ち主”、即ち株式を所有しているのです。では、株式とは何か? 先程、「法人としての株式会社はヒトとモノの二面性を持っている」と言いましたが、その“モノとしての会社”が“株式”と呼ばれます。具体的には、株主総会での議決権や配当請求権等の権利を束ねたものですが、これらの権利は法律上のヒトとして活動する株式会社をモノとして所有する権利と見做せるのです。このモノとしての会社を細分化し、証券として売り買いしているのが株式市場です。このことを図1のように、私は2階建て構造として表してみました(※それに対して、個人企業は図2のような平屋構造で表せます)。1階部分は“ヒトとしての会社”が資産を所有し、仕入れ先や顧客や従業員や銀行等と契約していることを示しています。2階部分は、株主が“モノとしての会社”を所有していることを示しています。このように、所有関係が二重になっているのが、“株式会社”の最大の特徴であるのです。

このことから、株主が何故、株式会社の“主権者”ではないかが自明になります。会社が倒産したとしましょう。その時、銀行は借金のカタに会社の資産は差し押さえられますが、株主の個人財産には手をつけられません。銀行との借金契約は、株主ではなく、法人としての株式会社が結んでいたからです。これが株主の“有限責任制”の意味です。当然、株主の“権利”も“有限”でしかあり得ません。会社は株主のモノではないのです。次に、個人企業の経営者と株式会社の経営者の違いを考えてみましょう。株主主権論は双方を同じように考えていますが、これも理論的な誤りです。個人企業ではオーナー自身が経営するのが原則ですが、自分の代理人として他人に経営を委任することもあります。この時、オーナーは経営者と委任契約を結びます。契約には、「損になるなら結ばなくて良い」という“契約自由の大原則”があります。ということは、「オーナーと経営者が契約しているならば、それはお互いが得だから結んでいる」ということを意味します。契約とは、当事者双方の自己利益追求の手段に他なりません。一方、株式会社の経営者は、株主と契約を結んだ代理人ではありません。会社の社長室のどこを探しても、株主との委任契約書など見つかりません。では、経営者は誰の為に経営しているのでしょうか? “ヒトとしての会社”の為なのです。“ヒトとしての会社”は、実際にはヒトではなくモノに過ぎませんから、会社の頭脳となり顔となり手足となって行動する人間を絶対に必要とします。それが株式会社の“経営者”です。経営者が下した決定や結んだ契約は、そのまま“ヒトとしての会社”が下した決定や結んだ契約と見做されるのです。勿論、“ヒトとしての会社”は経営を委任する契約を経営者と結ぶことはできません。何故なら、“ヒトとしての会社”として契約書にサインをするのは経営者ですから、経営者は自分と契約を結ぶことになってしまうからです。“自己契約”は元旦の禁酒の誓いと同じで、法的には何の強制力も持ちません。経営者が悪い人間であれば、自分に莫大な報酬を与えたり、自分の子供を後継者にしたりと、自分に有利な内容をいくらでも契約書に書き入れられます。では、株式会社の経営者の行動は、何によって縛られるのか? それは、会社への“忠実義務”です。会社法には、きちんとそのことが書き込まれています。経営者は、自分の利益は抑えて、株式会社という他者の為に忠実に働く義務を負っているのです。このような関係を、法律の世界では“信任関係”と言います。医者と患者の関係もそれに当たります。因みに、これはまさにイマヌエル・カントが『人倫の形面上学』で“倫理”的義務の1つとして定義した“他者の幸福の促進を自己の目的とすること”に合致します。つまり、株式会社の経営者は、“倫理”的な行動を義務付けられた存在なのです。

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ここにこそ、個人企業の経営者と株式会社の経営者の決定的な違いがあります。つまり、個人企業のオーナーと経営者は其々、自己利益に導かれて契約しているのに対して、株式会社の経営者は会社に対して一方的に倫理的な義務を負わされている。契約は自分と相手を相互に拘束しますが、倫理的義務は自分で自分に課すだけですから、守るのは難しい。そこで、「経営者に株式会社に対する“忠実義務”を守らせ、“信任関係”を維持させるにはどうすればいいのか?」という問題が浮上します。これこそが“コーポレートガバナンス”の核心です。今、資本主義がとうとう地球全体を覆い尽くしてしまいました。その資本主義の中で中核的な役割を果たしてきた株式会社の核心には、経営者が“ヒトとしての会社”に対して負っている“倫理”的な義務がある。このことは、私にとって非常に大きな発見でした。何故なら、そのことは資本主義が上手く機能していく為には、“倫理”が無くてはならないことを示しているからです。しかし、株主主権論はそのような考え方に拒否反応を示します。それは、経済学の父であるアダム・スミスの思想を受け継いだ主流派の経済学から生まれたものだからです。スミスは、「其々の個人が自己利益を追求していけば、市場の“見えざる手”によって、社会全体の利益が増進する」と唱えました。そのような社会を実現する為には、“完全に機能する市場”がありさえすればいい。「他者の幸福を自己の目的とせよ」という“倫理”は、無くてもかまわない。いや、“倫理”を積極的に排除しようとします。“倫理”等を考慮したら、市場の競争機能が鈍ってしまうからです。

そこで、株主主権論は“倫理”無しでコーポレートガバナンスを実現する為に、株式会社と個人企業の違いを無視して、「株主と経営者の関係は、オーナーと経営者の委任契約の関係と何ら変わらない」と主張したのです。そして、経営者に“ストックオプション”を報酬として与えることを推奨しました。ストックオプションとは、簡単に言えば、予め購入価格が決められた未公開株の購入権です。決められた購入価格よりも株価が高くなれば、権利を行使して株式を買い、その株式を直ぐに売れば利益を手にできます。株価を兎に角上げれば、経営者の懐が温まる仕組みです。こうして、株主主権論の下で株式会社の経営者は、株価を上げ易い短期的な業績をひたすら追い求めていくことになりました。株主と経営者に其々自己利益を追求させれば、会社の業績も良くなり、株価も上がり、経営者の報酬も増え、雇用も増大する。株主主権論に基づくコーポレートガバナンスは、株主も経営者も従業員もハッピーになれる結果を齎す筈だったのですが、思わぬ破綻が待ち構えていました。その1つが、2001年のエンロン事件です。『エンロン』はアメリカの大手エネルギー商社で、多数の社外取締役を招き、有名会計事務所に財務監査を委託し、コーポレートガバナンスの模範として教科書にも載りました。しかし、エンロンの経営者は大規模な粉飾決算を行って株価を吊り上げ、ストックオプションによって莫大な利益を手にしていたのです。結局は不正が露見し、エンロンは倒産してしまいます。一番哀れだったのは、自らの年金を半ば強制的にエンロン株で運用していた従業員でした。仕事と年金とを同時に失ってしまったのです。その後も次々と有名会社の粉飾決算が発覚しました。エンロン事件が起こった時、「社外取締役も会計事務所も何故、粉飾決算が見抜けなかったのか?」という疑問が投げかけられました。だが、会社の経営者は、大型の投資案件や買収交渉等、経営の重要事項に関して、当然ながら、誰よりも情報を持っている。会社の外部の人間と経営者との間には、情報のギャップがあり過ぎる。守るべき忠実義務から解放された経営者は、自己利益に導かれて、情報操作によって株価を人為的に吊り上げ始めたのです。倫理を自己利益で代替することは無理なのに、その無理を通してしまった。『東芝』の巨額の不正会計事件も、「株主主権論に基づくコーポレートガバナンスを、日本では他社に先駆けて逸早く東芝が採り入れていたことに、大きな原因がある」と考えるべきです。事件が発覚した当初は、「米英型コーポレートガバナンスの模範と言われていたのに、社外取締役も監査法人も何故、不正を見抜けなかったのか?」という疑問が投げかけられましたが、まさに米英型であったからだというのがその答えです。

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経営者が「自らの役割は、株価に直結する短期的な業績を上げることではなく、会社の本来の目的の為に忠実義務を果たすことだ」ということを忘れてしまった時、必然的に不正が引き起こされたのです。部下に不正会計を促したとされる「こんな数字は恥ずかしくて公表できない」(西田厚聰社長)、「全くダメ。やり直し」(佐々木則夫社長)、「ありとあらゆる手段を使って黒字化するように」(田中久雄社長)といった言葉からは、業績第一主義が深く浸透していたことが窺えるのです。実は、近年日本でもその効用が盛んに喧伝されている“社外取締役”の意義に関して、米英でも疑問符が付けられるようになっています。それは第一に、経営者の自己利益追求を促進する効果を持つからです。本来は、経営者自身が自分自身に課すべき忠実義務を、社外取締役という外部の人間による監視に置き換えることによって、経営者を倫理性の負担から解放してしまうのです。第二に、今度はその社外取締役が経営者の高額報酬や不正会計を黙認した時、「外部の人間である」という理由で、社外取締役を忠実義務違反で処罰するのを、司法当局が躊躇ってしまうからです。即ち、それはまさに会社を“無責任体制”にしてしまう巧妙な仕掛けであると見做されるようになっているのです。そのような事実も知らずに、ただ闇雲に社外取締役を導入しようという近年の動きは、まさに拙速としか言い様がありません。近年の米英における“格差の拡大”も、まさにこの“株主主権論”の誤りが齎したものです。

昨年、フランスの経済学者であるトマ・ピケティの『21世紀の資本』という大著が、日本でもベストセラーになりました。その研究でピケティは、米英や日本やフランス等、代表的な資本主義国において、所得階層の上位1%の所得が国民全体の所得の何%を占めているかを、第1次世界大戦以前まで遡って示しています。1930年代の世界大恐慌以前は、どの国も極端な格差社会でした。上位1%が全体の20%の所得を手にしていたのです。だが、大恐慌と第2次世界大戦を経て格差は急速に縮まり、第2次世界大戦後は上位1%の所得が全体の5~10%しか占めなくなります。だが、1980年代からアメリカのロナルド・レーガン大統領とイギリスのマーガレット・サッチャー首相が共に新自由主義的な政策を採り、株主主権論によるコーポレートガバナンスを推し進めると、異変が起こります。格差が再び拡大するのです。特に米英での格差の広がりは頭著で、上位1%が全体の20%を手にするようになったのです。戦前と同様の極端な格差社会に戻ってしまいました。これに対して、日本やフランスの上位1%の所得階層の所得割合は、上昇はしましたが未だに10%以下に留まっています。ここで重要なのは、同じ格差といっても、戦前は上位1%が手にした所得は、主として配当等の資本所得でしたが、1980年代の米英においては、資本所得はそれほど上昇していません。その代わり、所得階層の上位1%の多くの割合を経営者が占めるようになっています(※キャピタルゲインを考慮すると、資本所得の上昇率は上がりますが、経営者報酬の上昇率ほどではありません。しかも、キャピタルゲインのかなりの割合は、経営者自身が手にしているのです)。例えば、アメリカのCEO(最高経営責任者)と生産労働者の平均的報酬を比べると、1960年では25倍以下だったのに、2000年代になると350倍以上に高騰しています。年収150億円という経営者まで現れました。株主主権論は株主の利益を最優先にする筈なのに、何故株主への配当はあまり増えず、経営者への報酬だけが天文学的な数字になってしまったのでしょうか? 勿論、それは株主主権論が倫理を自己利益で代替したからです。但し、エンロン事件のように粉飾決算によってではなく、白昼堂々と「株主の為だ」と称して、米英の経営者が自分自身に高額のストックオプションを与えた結果なのです。まさに自己契約に他なりません。

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このような格差の急拡大は、富裕層と低所得者層の間に深い亀裂を齎しました。それが、アメリカのトランプ現象とイギリスの国民投票によるEU離脱です。共に表面的には、移民への反感・自由貿易への抵抗・金融自由化への反発等の反グローバル主義ですが、その底流にあるのは、上位1%のエリート層に対する取り残された99%の非エリート層の異議申し立てなのです。事実、EU離脱派が勝利した時、『イギリス独立党』党首(当時)のナイジェル・ファラージ氏は「普通の市民が勝利した」と高らかに宣言し、トランプ氏はこの結果を祝福し、「来る11月の大統領選挙で、アメリカ国民もグローバルエリートの支配を拒絶するだろう」という声明を発表しています。会社の2階部分、つまり“モノとしての会社”を重視し、会社を株主がお金を儲ける為の道具として見ることを助長する政策が、民主主義を支える国民の一体感を失わせてしまったのです。日本社会に今のまま株主主権論を浸透させれば、必ずや同じことが起こる筈です。次に、日本の会社が“変えないほうがいいところ”について述べましょう。それは、“人的組織”を大切にするところです。ドイツや他の多くのヨーロッパ大陸の会社にも共通するその性質は、長らく“特殊”で“異端”だと指摘されてきました。米英主導のグローバル化の中で既に見たように、株主主権論が唱える「会社は株主のモノである」という主張が主流をなし、「会社は株主のお金儲けの為の道具だ」という考え方が“普遍”とされてきたからです。しかし、既に述べた株式会社の2階建て構造を解明していくと、米英型の会社と日独型の会社は、2階建て構造から、どちらの形態も無理なく導き出されることがわかります。

2階部分の“モノとしての会社”を大切にすると、米英型の会社になります。株主の利益を最優先に考えるので、配当を出せないような会社には存在意義がありません。業績が悪化すれば、株主への配当を維持する為に、大量の労働者の首が斬られます。会社が“モノ”として扱われるので、合併や買収も盛んに行われます。1階部分の“ヒトとしての会社”を大切にすると、日独型の会社ができます。そのような会社は株主の利益よりも、“人的組織”、即ち会社そのものの存続と成長や雇用の維持を優先します。ですから、業績が悪化しても解雇や倒産はできるだけ避けようとします。更に言えば、2階建て構造から導き出されるのは、米英型と日独型だけではありません。“モノとしての会社”と“ヒトとしての会社”という会社の2つの側面を其々どれぐらい強調するかで、無数のバリエーションが考えられます。株式会社が世界中に広がり、資本主義の繁栄の原動力になったのは、まさにそれが多種多様な組織の形態を生み出す構造を備えていたからです。事実、株式会社は時代によって、国によって、産業によって、そして個別の市場環境によって、まさにその組織の形を変化させ続けて来ているのです。では、これらのことを踏まえて、何故日本の会社はこれからも“人的組織”を大切にしたほうがいいのかを説明しましょう。それは、先進国が産業資本主義からポスト産業資本主義に移行するに伴い、会社の利益の源泉がおカネの力からヒトの力に移ったからです。イギリスで産業革命が起きた18世紀半ばから20世紀の後半までの資本主義は、“産業資本主義”と呼ばれます。それは、“機械制工場”を利益の源泉とする資本主義です。農村から次々と流入する安価な労働力を大量に雇って、工業製品を大量生産することで、高い利益率を実現していたのです。この産業資本主義においてものを言うのは、何と言ってもおカネの力です。おカネで買えないモノはありません。機械制工場はモノですから。おカネさえあれば機械制工場を買え、利益を生み出すことができます。会社に対する究極のおカネの提供者は株主です。従って、産業資本主義の時代は株主が重要な時代だったのです。米英型資本主義が旗印にする株主主権論とは、実は、この産業資本主義という一昔前の資本主義の亡霊であるのです。しかし、アメリカでは1950年代、ヨーロッパでは1960年代、日本では1970年代以降、労働者の賃金が上がり始めます。農村にいた余剰人口が殆ど都市に吸収され、枯渇してしまったからです。機械制工場を建てて、いくら大量生産をして収入を上げても、労働費用が高くなって、簡単には利益を生み出せなくなってきたのです。こうして先進国の会社は、新たな利益の源泉を探さなければならなくなりました。ポスト産業資本主義時代の幕開けです。

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資本主義において、利益は“差異(違い)”から生み出されます。産業革命以前の大航海時代の遠隔地貿易が莫大な富を齎したのは、地理的に遠い場所の間に“価格差”があったからです。産業資本主義においては、機械制工場の高い労働生産性と、農村から流入する労働者の安い賃金率が生み出す収入と費用との“差異”でした。では、ポスト産業資本主義にあって、利益の源泉となってくれる“差異”は何でしょうか? それは“新しさ”です。新しい商品・新しい市場・新しい技術・新しい組織形態・新しい経営手法を開拓し、他社よりも収入を上げるか費用を下げるかして、利益を生み出すのです。即ち、自分の会社を他の会社とは異なるものに絶えずしていくことが、利益の源泉になったのです。しかし、この“新しさ”は直ぐに真似されてしまいます。それ故、“新しさ”の寿命は非常に短く、それによって得られていた利益は直ぐに消えてしまいます。ですから、ポスト産業資本主義においては、会社は絶えず持続的に“新しさ”を創造しなければ生き残れません。シャープが巨額の赤字を出した後、鴻海に買収されてしまったのは、ポスト産業資本主義に入ったことの自覚が足りなかったからです。シャープは確かに世界一の液晶の技術を持っていました。しかし、それを「巨大な工場でできるだけ安く作れば、巨額の利益を上げられる」と考えていました。そのような産業資本主義的な方法では、より大規模な工場とより安価な労働力を組み合せられる新興国の会社のほうが有利です。シャープは、自分が持つ技術から、どのような“新しさ”を創造できるかを懸命に考えるべきでした。

ここで、「ポスト産業資本主義において、利益の源泉となる“差異=新しさ”を生み出すのは、おカネではなくヒトなのは何故か?」を考えてみましょう。それは、“新しさ”が生み出される場所は、究極的に言えばヒトの頭の中だからです。おカネで買えないモノはありません。しかし、ヒトはおカネで買えません。ポスト産業資本社会において最も重要な資本は、おカネで買えないヒトなのです。従って、おカネの力はどんどんと弱っています。先進国では、建設するのに巨額のおカネが必要だった巨大な工場を作っても、利益は得難くなってしまいましたから、おカネの需要が減っています。また、グローバル化・金融革命・IT革命によって、おカネが非常に調達し易くなりました。世界中を金融マネーが跳梁跋扈しているので、おカネの力が強まっているように見えますが、それは逆です。特に先進国では、おカネが余っているにも拘わらず、誰も中々借りてくれないからこそ、おカネは借り手を求めて世界中を徘徊しているのです。世界的な低金利がそのことを裏付けています。そして今、ヒトは何を求めているか? 特に、“新しさ”という“差異”を生み出すことのできる創造的なヒトは? 誰もが手に入れられるおカネで買えるモノではありません。皮肉なことに、“おカネで買えない何か”なのです。確かに、おカネの力でヒトの時間を買い、パソコンの前に座らせておくことはできます。しかし、それだけではヒトの知的創造性は発揮されません。そのヒトに“新しさ”を創造させるには、自由な空間・信頼でき刺激を与え合える仲間・文化的な環境・共感できる目標・社会的な貢献といった“おカネで買えない何か”を与えることが必要なのです。この結論を踏まえて、ポスト産業資本主義において利益を生み出し続ける為には、米英型のおカネの支配力に頼る株主主権論的な考えで動かされている会社と、日独型の“人的組織”を大切にする会社のどちらが向いているかを考えてみましょう。米英型の会社の究極の形は、ハリウッド方式です。おカネにものを言わせて、“新しさ”を創造するプロジェクト毎に相応しい人材を集めて、“新しさ”を上手く生み出せれば、それによって利益を上げ、その利益を株主の間で配分したら解散する仕組みです。確かに、この方式は“新しさ”を生み出すことには長けています。だが、持続性が無い。持続的に“新しさ”を生み出す為には、ハリウッド方式のように個人の力に頼り切るよりも、日本の嘗ての映画作りのように、優れた人材にある程度継続性をもって、“小津組”や“黒澤組”といった“人的組織”に定着してもらい、気心の知れた“チーム”としての力を高めていったほうが上手くいくと、私は考えています。

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また、そのような“チーム”の持続性を上手く保つ為には、配当や株価上昇から得られる利益の為に短期的な業績のみを会社に求める株主の介入や干渉から、会社の1階部分、即ち“人的組織”としての“チーム”力を守る手立てが必要です。このようなことを考えていくと、ポスト産業資本主義の下でも、おカネよりもヒト、より正確に言えば“人的組織”を大切にしてきた日本の会社は、一定のアドバンテージを持っている筈です。“人的組織”が単なる人の集合ではなく、“チーム”としての能力を高める様々な仕組みも蓄積してきました。それこそが日本の会社の強みだと、改めて認識すべきです。しかし同時に、日本の会社には“変えるべきところ”も多い。それは第一に、“人的組織”の持続性と能力を高める為の方法と、その目的です。確かに、これまで日本の会社は“人的組織”を大切にしてきましたが、それは産業資本主義に適応する為の組織でした。代表的なのは、日本型経営の最たる特徴と言われる終身雇用制・年功賃金・会社別組合です。それらは、産業資本主義において、利益の源泉となる巨大な工場を効率的に動かすためにできた仕組みです。その為には、自社工場を熟知し、問題が起きても素早く対処でき、時には改良を加えられるような熟練した労働者・会社内技術者・専門的経営者が必要でした。彼らが習得した自社でのみ通用する知識やノウハウの蓄積は、経済学では“組織特殊的な人的資産”と言います。この資産は自分の会社の外では役に立ちませんから、会社は彼らが習得した能力が無駄にならないという安心感と能力習得へのインセンティブを用意しなければなりません。

日本の会社は先ず、社員に“組織特殊的な人的資産”を蓄積してもらう為に、終身雇用制を敷いて、社員に安心感を与えました。そして、“組織特殊的な人的資産”を蓄積する見返りとして年功賃金を用意しました。そして、“組織特殊的な人的資産”を共有し、利害が一致しているということが、“会社別組合”の基盤になっています。しかし、その目的は“工場を効率的に動かすこと”ですから、そのままではポスト産業資本主義に適応できる筈がありません。現在の日本の“人的組織”の問題は、殆ど産業資本主義に過剰適応したことから発生しています。ポスト産業資本主義の下で日本の会社が目的とすべきは、“新しさ”を持続的に生み出すことであり、従来の“人的組織”は知的創造性を継続的に発揮できる“チーム”に生まれ変わらなければなりません。そのような“チーム”を作る為の方法は、短期雇用や成果賃金ではありませんが、従来通りの終身雇用制や年功賃金ではないことだけは確かです。日本の会社が“変えないほうがいいところ”と“変えるべきところ”についての考察からは、次のような課題が出てきます。

①“人的組織”を大切にしながらも、それを“新しさ”を持続的に生み出す“チーム”に変えていく。
②その“チーム”の持続性と能力を高める為に、“おカネで買えない何か”を用意する。
③おカネの論理と付き合い、株式市場から外部規律を取り入れながらも、それが“チーム”の知的創造性を阻害したり、破壊することを防止する。

ところが、これらの課題を既に解決している“日本型経営2.0”とでも言うべき世界的な会社があります。それは『Google』です。Googleが社員の知的創造性を高める為に様々な工夫をしていることは、よく知られています。例えば“20%ルール”といって、週の内の1日は、会社で今、取り組んでいる仕事や研究以外に自分が興味を持っているテーマに使うことを半ば強制しています。また、良好な勤務環境と福利厚生を用意しています。

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アメリカの雑誌『フォーチュン』は毎年、『働くのに最善な100の会社』を発表していますが、Googleはこの10年間に7回も第1位にランクされています。結果的に従業員の定着率は、日本の会社以上に高くなっている。そして、会社のホームページを見ると、“世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすること”が会社の目的として書かれています。また、“正しいことをしろ”という社是も有名です。自分たちは株主主権論的ではないことを旗印にしているのです。これらは全て、“おカネで買えない何か”です。このような独自の“企業文化”を作り出す目的や社是は、社員たちを会社に惹き付ける求心力となり、他社が作り出せない“新しさ”の持続的創造にも貢献するのです。自らを資本主義的ではないと宣言している会社が、世界で最も資本主義的な成功を収めているという、ポスト産業資本主義における最大の逆説がここにあるのです。Googleは2004年に上場しました。その時、“種類株”という株式の仕組みを導入しました。発行株式を1株1議決権のA株・1株10議決権で未公開のB株・議決権の無いC株に分け、創業者のラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンの2人がB株を持つことで、2人で議決権の56%を保持しています。これによって、新しさを生み出す人的組織のあり方を、短期的な視野しか持たない外部の株主の影響力から遮断すると同時に、株式による資金調達を可能にし、株式市場による外部規律の余地を確保したのです。それは、図1で示した2階建て構造としての株式会社の1階と2階を上手くバランスさせる試みです。まさに“日本型経営2.0”なのです。“やってはいけないこと”・“変えないほうがいいところ”・“変えるべきところ”の3つの課題を整理し、解決すれば、この日本からも“日本型経営2.0”を実現する新たなエクセレントカンパニーが出現することでしょう。


岩井克人(いわい・かつひと) 経済学者・国際基督教大学客員教授・東京大学名誉教授・公益財団法人『東京財団』名誉研究員・『日本学士院』会員。1947年、東京都生まれ。東京大学経済学部卒。マサチューセッツ工科大学にてPh.D.を取得。カリフォルニア大学バークレー校研究員・イェール大学経済学部助教授・コウルズ財団上席研究員・東京大学経済学部教授・東京大学大学院経済学研究科教授等を経て現職。著書に『会社はこれからどうなるのか』(平凡社ライブラリー)・『経済学の宇宙』(日本経済新聞出版社)等。


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