【管見妄語】 哀しい常識

「大学等の研究機関が軍事研究に手を染めてよいかどうか?」が問題となるのは、世界中を見渡しても戦後の我が国だけのようだ。占領下の1950年に、学者の総元締めとされる『日本学術会議』は、「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない」との声明を出した。占領軍の強い圧力下だったし、戦争の悲惨を経験したばかりだったから、この声明は理解できる。同会議は1967年にも、「軍事目的の科学研究を行わない」との声明を出した。その頃、院生だった私は数学に集中していて、政治には無関心だったから、構内の「軍学共同を許すな」の立看板を見ながら、「それに越したことはない」くらいにぼんやり考えていた。先週、同会議は「1950年と1967年の2つの声明を継承する」と発表した。防衛省による研究費助成の公募が始まった為だ。「これに大学の研究者が参加すると、防衛省や政府による研究への介入が強まり、学問の自由が損なわれる」という理由らしい。腑に落ちない。防衛省の研究に応募するか否かは、あくまで個人の自由意志によるものだから、“防衛省の介入”ではなく“研究者個人の防衛省との協力”に過ぎないのだ。学問の自由とは無関係な話である。それより何より、時代認識を余りに欠いている。前回の声明は丁度50年前で、極東に地政学的緊張は殆ど無かった。それが今や、北朝鮮は核ミサイルで日本等周辺国を脅し、軍事大国となった中国は南シナ海を国際法に反して占拠し、尖閣諸島等のある東シナ海までも自分のものにしようとしている。世界の警察として君臨していたアメリカは、往年の力を失い、「もう世界の警察は辞めた」とドナルド・トランプ大統領までが宣言した。戦後、今ほど国防、とりわけ自主防衛力の向上が望まれる時はないのだ。

その上、理工系の研究の大半は軍事に転用できると言っても過言ではない。応用科学は無論、理論科学だってそうだ。相対性理論は核爆弾に繋がったし、量子力学は半導体に繋がってエレクトロニクスに、そしてほぼ全ての現代兵器に繋がっている。民生と軍事との線引きは不可能と言ってよい。純粋数学のように、無用と思われているものでも軍事に役立つ。ケンブリッジ大学の数学者だったアラン・チューリングは第2次世界大戦中、イギリスにおけるエニグマ暗号解読の司令塔だった。イギリスに向かう船舶が、ドイツの無制限潜水艦作戦により毎月数十万トンも撃沈された為、イギリスは武器・弾薬・食糧の厳しい欠乏に見舞われた。チューリングたち数学者の必死の努力による暗号解読のおかげで、護送船団は潜水艦を回避できるようになり、イギリスは降伏寸前の危機を乗り切ることができた。置換群論が役立った。チューリングはその過程で、戦前に自らが著した数学論文の具現化として、世界初のコンピュータを製作した。人類史上最大の発明と言ってよいコンピュータは、数学の軍事目的での研究により生まれたのだ。「数学者によるエニグマ暗号解読は、大戦を少なくとも2年は短縮した」と、歴史学者のハリー・ヒンズリー卿は述べている。数百万の生命を救ったということでもある。チューリングたち数学者の軍事協力は許されないものなのか? 祖国を守る為に、国民の1人ひとりが全力を尽くすのは美徳ではないのか? 今般の声明は、“平和愛好”を高らかに謳っただけのものだ。平和を高らかに唱える人は、自らを高邁な人道主義者と見做し、自己陶酔すると同時に、そうでない人を軍国主義者と見下す傾向がある。しかし、この世界に、自分が、愛する家族が、友人が、砲弾で切り裂かれる戦争を好む者など1人もいない。「人を殺す組織である軍隊、人を殺す道具である兵器を充分に保有することだけが、戦争を未然に防き得る」というやるせない現実があるだけだ。それが人類の余りにも虚しい姿であり、哀しい常識なのである。日本学術会議の浅慮と無邪気な声明には落胆させられた。


藤原正彦(ふじわら・まさひこ) 数学者・お茶の水女子大学名誉教授。1943年、満州国生まれ。東京大学理学部数学科卒。同大学院理学系研究科修士課程数学専攻修了。ミシガン大学研究員・コロラド大学ボルダー校助教授等を経て現職。著書に『藤原正彦の人生案内』(中央公論新社)・『この国のけじめ』(文藝春秋)等。


キャプチャ  2017年3月23日号掲載
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