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【日系人の記憶・強制収容80年】(中) 悪臭・藁敷き、馬小屋生活

20220722 05
1942年5月、バスに揺られて辿り着いた先は、カリフォルニア州サンフランシスコ近郊のタンフォランにある競馬場だった。当時5歳だった日系2世のマサオ・ヤマシタさん(85)は、当時の写真を見ながら「私の少年時代はここから始まった」と記憶を辿り始めた。主にアメリカ西海岸の日系人約12万人を対象とした強制収容では、10ヵ所の収容所の建設が追いつかず、既存施設を利用した一時的な代替施設が17ヵ所に設置された。そこに10万人以上が仮収容され、タンフォランには7816人が集められた。競走馬用の馬小屋(※右画像)がヤマシタさん一家の収容先だった。両親と子供6人の家族には、あまりに狭かった。母は妊娠中だった。小屋に入ると、悪臭が鼻を突いた。最初はマットレスもなく、藁や干し草を詰めた袋を敷いて寝起きした。馬小屋での生活は約6ヵ月に及び、同年10月、家族でユタ州の『トパーズ強制収容所』に移った。直前に一番下の妹が生まれた。移動中の列車の窓は黒い紙で覆われ、外は何も見えなかった。収容生活がつらかった記憶はあまりない。友達と遊び、クリスマスプレゼントを初めてもらったのも収容所だった。アメリカ軍の監視下に置かれた暮らしに、疑問や反発を抱くには幼過ぎた。寧ろ苦しんだのは、1945年夏の解放後だった。

3年近くを過ごしたトパーズから出ると、日系人が置かれた現実に直面した。解放時にアメリカ政府から渡されたのは、1人あたり25ドルの現金と目的地までの片道切符だけ。強制収容で家や財産、仕事を奪われた日系人の中には、帰る場所がない人たちも多かった。一家はユタ州ソルトレークシティーで、白人の2家族が住む古い住宅を間借りした。収容前、カリフォルニア州オークランドで庭師だった父は、解放時のなけなしのお金で中古トラックを購入したが、冬に雪が積もるソルトレークシティーで庭師は難しく、メキシコ料理店で皿洗いの仕事を見つけた。家にはシャワーや冷蔵庫もなく、台所の桶に水や氷を入れて凌いだ。食べ物は直ぐに腐り、牛乳のにおいを嗅いでから飲む癖が大人になっても直らなかった。母は約半年後、一番下の妹を連れ、家を出た。ソルトレークシティーの学校は白人ばかりだった。先生が自分の名前を発音できない。映画やテレビで中国系アメリカ人が演じる“日本人”は、いつも悪役だった。「いつしか、日系人であることを恥じるようになった」。父親から日本語学校に通うよう薦められたが、「ここにはない」と嘘を吐いた。高校生になると、自分の名前を“マサオ”ではなく、アメリカ風に“マス”と称するようになった。自分の出自と正面から向き合えるまでには時間がかかった。高校卒業後、大学の学費を工面する為にアメリカ空軍に入った。1955年から2年間、東京都立川市にあったアメリカ軍基地に勤務し、日本の親族と交流する機会があった。「我々2世は戦後、アメリカ国民として社会に根付き、後の世代への道を切り開いてきた」と少しずつ思えるようになった。一方で、「今も自分が日系人であることに100%納得しているかはわからない」とも言う。広告デザインの仕事を2006年に辞めた後、ロサンゼルスの『全米日系人博物館』で自らの経験を語るボランティアを始めた。強制収容の歴史を4世、5世らの若い世代に伝えている。歴史を教訓にしてほしいからだけではない。「それは、私が、自分は何者なのかを考えることにも繋がっている」と語った。


キャプチャ  2022年3月30日付掲載
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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

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Author:George Clooney

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