【ニッポン未解決事件ファイル】(13) 『六甲山中・鳴海清殺害事件』(1978)――『山口組』のドンを弾いた男、始末したのは敵か味方か

1975年7月から3年以上にも亘って大阪周辺で起こった3代目山口組と2代目松田組の抗争、所謂“大阪戦争”。その最中に六甲山中で発見された遺体は、“山口組のドン”こと田岡一雄組長を狙撃した犯人だった――。 (取材・文/フリーライター 本郷海)

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1978年9月17日、兵庫県の六甲山中において、ガムテープを何重にも巻かれた遺体が発見された。猛暑で遺体の腐乱が著しく、一部は白骨化していた為、指紋を検出することは不可能だった。その為、身元の断定は困難を極めたが、10日目にして背中に彫られた天女の刺青が判別できたことで、2代目松田組の傘下組織『大日本正義団』の幹部だった鳴海清と判明する。この鳴海こそが、2ヵ月前に3代目山口組の田岡一雄組長を京都のクラブで狙撃した後、行方を晦ませていた男だった。「鳴海が所属する2代目松田組は大阪の博徒組織で、1975年7月に大阪府豊中市で開いた賭場でのトラブルから、傘下組織組員が山口組系傘下組織組員3人を射殺するという事件を起こしたんです。これを皮切りに、山口組対松田組の大阪戦争が勃発。各地で報復戦が繰り広げられました」(当時取材した元大手紙社会部記者)。その後、1976年10月には、大阪市内で大日本正義団の吉田芳弘会長が山口組系組員に射殺される。吉田会長に心酔していた鳴海は、遺骨を齧って敵討ちを誓う。そして、“山口組のドン”である田岡3代目に狙いを定め、執拗に隙を窺い、遂に京都のクラブで引き金を引くのである。奇跡的に軽傷で済んだとはいえ、田岡3代目を銃撃された山口組は激怒した。“日本一の子分”と称された山本健一若頭は、自ら陣頭指揮に立ち、松田組に対する一斉報復を開始。僅か3ヵ月間に、松田組系幹部ら6人を射殺したのだ。「その最中、鳴海の遺体は発見された。鳴海は逃亡中、松田組と関係が深い独立団体に匿われていたが、『山口組による怒涛の攻撃に嫌気が差した独立団体の組員らによって殺害された』として、後に裁判が開かれた。だが、殺人罪については組員らの無罪が確定している」(ベテラン司法記者)。他にも、「抗争を早く終わらせる為に、鳴海は山口組側へ差し出された」との話もある。事実、鳴海の手足の爪は殆ど剥がされ、体中に火傷の痕が残っている等、激しいリンチを受けた痕跡があったのだ。しかし、既に時効を迎え、鳴海殺害の真相は今や永遠の謎となってしまった。


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