【呉座勇一の「問題解決に効く日本史」】(15) 明治維新の英雄達はどのようにして“伝統と改革”を両立させたのか
黎明期の組織には常に混乱が付き纏う。日本史上最高の成功組織に見える明治政府も例外ではなく、伝統と改革の調和に手を焼いた。特に、“原点回帰”を目玉として再起動させた太政官をどのように位置付けるかは、維新の英傑達の間でも意見が分かれたようだ。明治の太政官は職員令官制によって最高官庁としての位置を確立されるが、それでもなお中央政府として不安定要因を多く抱えていた。最大の問題は、版籍奉還後も未だ各藩が健在で、明治政府の威令が日本全国に及んでいなかったことにある。そこで明治4(1871)年7月14日、薩摩・長州・土佐3藩の軍事力を背景に、西郷隆盛が中心となって、クーデター的に廃藩置県を断行する。ここで旧権力の解体をほぼ実現した明治政府は、太政官の改造強化に着手する。7月28~29日に制定された『太官官等職制』と『太政官職制章程』によって、太政官は正院、左右院の3院から構成されるようになった(※太政官三院制)。章程では、全国一般に布告する制度や法令は太政官より発令することが規定され、太政官が政府の中枢であることが明示された。太政官制が名実共に確立したのは、この時期と言える。このように中央集権化が進む一方で、復古的体裁はなお維持された。太政官の最高指導部である三職には、太政大臣・納言(※8月10日に左右大臣に改められる)・参議が置かれた。太政大臣には三条実美、右大臣には岩倉具視が就任し、大臣には公家を任命するという身分的制約は残存し続ける。同年11月12日、岩倉遺欧使節団が出発する。留守政府は使節団との間に「新規の改正はしない」と約束していたが、内外の情勢は改革の停滞を許さなかった。留守政府は文明開化政策を急激に推進した。
諸改革の推進による財政膨張に対して、財政を預かる大蔵大輔の井上馨は抵抗した。井上の緊縮財政に反発した参議の大隈重信らは、太政官三院制の改定に踏み切った。即ち明治6年5月2日、正院草程を改正して正院の権限を拡大し、大蔵省の権限を奪った。井上馨は辞表を提出した。ここで注目されるのは、参議の権限が拡大し、“内閣の議官”と規定されたことである。太政大臣の三条実美と、西郷隆盛・板垣退助・大隈重信らの参議が“内閣”を構成し、謂わば“閣議”を行なって政策を決定していった。周知のように、岩倉遣欧使節団の帰国により、政府内で征韓論を巡る対立が生じて、西郷ら征韓派の5参議が敗れる(※明治六年の政変)。西郷らは辞表を提出し、工部卿の伊藤博文、海軍卿の勝安芳(※海舟)、外務卿の寺島宗則が卿を兼ねたまま参議に昇格した。また、参議の大隈重信が大蔵卿、同じく参議の大木喬任が司法卿を兼ねた(※参議省卿兼任制)。ここでの参議と卿は、今でいうところの大臣とその指令を実行に移す各省庁の事務次官。この兼任制は、太政官制の縦割り行政を打破する試みでもあったのだ。これを推進したのは、新たに参議筆頭に座り、内務省を創設して内務卿に就任した大久保利通である。しかし明治7年1月17日、前参議の板垣退助・後藤象二郎・副島種臣・江藤新平が左院に民撰議院設立建白書を提出した。自由民権運動の高まりに抗しきれなくなった明治政府は、下野していた木戸や板垣を取り込み、参議に復帰させる。政府は立憲政治導入の準備を進めることとなった。明治8年4月14日、政府は『立憲政体の詔書』(※太政官布告第58号)を布告し、『五箇条の御誓文』の理念を具体化して、立法機関の元老院、司法機関の大審院、地方官会議を設置し、段階的に立憲政体に移行することを約束した。同日、正院職制章程によって太政官制の改革が行なわれ、左右院は廃止された。これにより、太政官制の大規模な改革は終わりを告げた。改革の荒波の中でも、復古的な太政官制はしぶとく生き残った。日本人の伝統重視を痛感させられる。
呉座勇一(ござ・ゆういち) 歴史学者・信州大学特任助教・『国際日本文化研究センター』機関研究員。1980年、東京都生まれ。東京大学文学部卒。著書に『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)・『頼朝と義時 武家政権の誕生』(講談社現代新書)・『戦国武将、虚像と実像』(角川新書)等。
2023年1月24・31日号掲載
諸改革の推進による財政膨張に対して、財政を預かる大蔵大輔の井上馨は抵抗した。井上の緊縮財政に反発した参議の大隈重信らは、太政官三院制の改定に踏み切った。即ち明治6年5月2日、正院草程を改正して正院の権限を拡大し、大蔵省の権限を奪った。井上馨は辞表を提出した。ここで注目されるのは、参議の権限が拡大し、“内閣の議官”と規定されたことである。太政大臣の三条実美と、西郷隆盛・板垣退助・大隈重信らの参議が“内閣”を構成し、謂わば“閣議”を行なって政策を決定していった。周知のように、岩倉遣欧使節団の帰国により、政府内で征韓論を巡る対立が生じて、西郷ら征韓派の5参議が敗れる(※明治六年の政変)。西郷らは辞表を提出し、工部卿の伊藤博文、海軍卿の勝安芳(※海舟)、外務卿の寺島宗則が卿を兼ねたまま参議に昇格した。また、参議の大隈重信が大蔵卿、同じく参議の大木喬任が司法卿を兼ねた(※参議省卿兼任制)。ここでの参議と卿は、今でいうところの大臣とその指令を実行に移す各省庁の事務次官。この兼任制は、太政官制の縦割り行政を打破する試みでもあったのだ。これを推進したのは、新たに参議筆頭に座り、内務省を創設して内務卿に就任した大久保利通である。しかし明治7年1月17日、前参議の板垣退助・後藤象二郎・副島種臣・江藤新平が左院に民撰議院設立建白書を提出した。自由民権運動の高まりに抗しきれなくなった明治政府は、下野していた木戸や板垣を取り込み、参議に復帰させる。政府は立憲政治導入の準備を進めることとなった。明治8年4月14日、政府は『立憲政体の詔書』(※太政官布告第58号)を布告し、『五箇条の御誓文』の理念を具体化して、立法機関の元老院、司法機関の大審院、地方官会議を設置し、段階的に立憲政体に移行することを約束した。同日、正院職制章程によって太政官制の改革が行なわれ、左右院は廃止された。これにより、太政官制の大規模な改革は終わりを告げた。改革の荒波の中でも、復古的な太政官制はしぶとく生き残った。日本人の伝統重視を痛感させられる。
呉座勇一(ござ・ゆういち) 歴史学者・信州大学特任助教・『国際日本文化研究センター』機関研究員。1980年、東京都生まれ。東京大学文学部卒。著書に『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)・『頼朝と義時 武家政権の誕生』(講談社現代新書)・『戦国武将、虚像と実像』(角川新書)等。

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