【気候変動のリアル】(08) 脱石炭、漁師は法廷へ

「海が枯れている」――。神奈川県の相模湾で、漁師の梶谷完行さん(75、左画像、撮影/高田奈実)が磯場に漁船を止めて言った。「森にある木と一緒で、昔は“根”があってそこから“葉っぱ”が沢山出ているようだった。今は根さえない」。相模湾では嘗て“海の森”である藻場が広がっていたが、10年程前からカジメやアラメ等の海藻がなくなる“磯焼け”が進んでいる。8月下旬の早朝、梶谷さんの漁に同行して、箱眼鏡で海の中を覗き込むと、海底の岩場には苔のように葉先の短い海藻がぱらぱらと生えているだけだった。60年間、漁業を生業にしてきた梶谷さんが海の異変に気付き始めたのは15年程前。「変化は感じていたけど、それが温暖化によるものかはわからなかった」が、取れる魚介類は徐々に変わった。数十年前はアワビやサザエ、イセエビが大きな収入源になったが、今では殆ど見つからない。アワビは相模湾の漁師にとってドル箱だった。神奈川県水産技術センターによると、その漁獲量は1950~1970年代には年間70トンを超える年もあったが、1990年代以降は20トン程度で推移し、この10年で更に半減した。海藻を食べるアイゴやウニが急増して磯焼けが深刻化し、アワビの餌となる海藻が不足していることが背景にあると考えられている。同センターの担当者は、「磯焼けで海底は砂漠のようになってしまった」と話す。アイゴやウニは暖かい海を好む。気象庁によると、日本近海の海面水温(※年平均)の上昇率は、100年間当たり1.19℃。相模湾がある関東地方の南の海域の場合は1.02℃上昇している。気象庁の担当者は、海面水温の変化について「地球温暖化の影響は間違いなくある」と指摘する。
漁業が盛んだった相模湾では漁師の数が減っているという。稼ぎの中心だった魚種が減った梶谷さんも現在、釣り客を乗せる遊漁船業と二足の草鞋で生計を立てる。「このままでは漁業は続けられなくなる」。どうしたらいいのか考えていた時だった。梶谷さんの暮らす三浦半島で、地球温暖化を齎す二酸化炭素(※CO2)を多く排出する石炭火力発電所の建設を止める為、国を相手に裁判を起こした住民達がいることを知った。原告は地元・神奈川県や、東京湾を挟んで対岸にある千葉県の住民ら40人超。中には未成年もいた。次世代により良い環境を残す為、原告団から「司法の場で漁師から見た被害の実態を語ってほしい」と声をかけられた。梶谷さんは2019年11月、訴訟に加わることを決めた。「海が元に戻ることはない。せめてこれ以上悪くならないよう、少しでも良くしていかないと」――。東京湾口に位置する三浦半島の東岸。神奈川県横須賀市久里浜の住宅地近くで、横須賀火力発電所の建設が進む。この敷地には、石油やガスを燃料にする火力発電施設が8基あったが、老朽化の為、2001年から順次停止し、2017年3月までに全て廃止された。『東京電力』と『中部電力』が出資する『JERA』が燃料を石炭に切り替えるリプレース(※建て替え)に乗り出し、新たに出力65万㎾の発電施設2基の本格工事に着手したのは2019年夏だった。「何故、今更石炭なのか。事業者の説明を聞いてもわからない」。梶谷さんが加わった訴訟で原告団長を務める鈴木陸郎さん(80)は首を傾げる。20代半ばから定年近くまで横須賀市内で高校教師として働き、24年前に市内に引っ越した。リプレース計画を聞いた時、喘息を患った末に亡くなった甥が脳裏に浮かび、大気汚染への懸念が先に立った。環境への影響を危惧する地域の有志と共に、2016年に勉強会を始めた。石炭火力は石油やガスに比べて、燃焼時に多くのCO2が出る。地球温暖化対策として、石炭火力を減らす動きが先進国を中心に広がっていることを知った。国は2018年11月、横須賀の石炭火力建設に事実上のゴーサインを出した。半年後、鈴木さんらは、国の判断取り消しを求めて東京地裁に提訴した。建設を認めたプロセスに誤りがあり、今世紀後半までに世界の温室効果ガス排出“実質ゼロ”を目指す国際枠組み『パリ協定』にも逆行すると訴えている。大規模な火力発電所を建設する事業者は、事前に環境アセスメントを実施する必要がある。経済産業大臣がアセスの内容を踏まえて「適切に環境への配慮がされている」と判断すれば、事業者は計画を進めることができる。手続きには例外がある。国は2012年、古く効率の悪い発電所をリプレースして温室効果ガスや大気汚染物質を減らせる場合は、アセスの手続きを簡略化できると通知した。東京電力福島第一原発事故に伴う電力不足に対応する為だ。JERAによれば、石炭火力2基の年間CO2排出量の想定は約726万トン。「“現状”よりも排出量を約340万トン減らせる」というJERAの主張を国は追認し、アセス簡略化の特例を適用した。だが、JERAが“現状”として持ち出したのは、1960~1970年代に建てられた旧設備の利用率を85%と設定した場合の数字だった。既存の発電設備は2014年に全基が停止し、実際はCO2排出量ゼロの状態が続いていた。

原告側代理人の小島延夫弁護士は「動いていない発電設備の跡に新しい石炭火力を造るのに、『排出量を減らせる』という主張はおかしい」と述べ、こう続ける。「アセス簡略化を適用したのは、国策として石炭火力を推進しようとしているようにしか見えない」。国は「手続きは適正だった」と反論する。日本を含む先進国は、多くの温室効果ガスを排出し、現在深刻化する温暖化の原因を作ってきた責任を負う。昨年、イギリスのグラスゴーで開かれた『国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議(COP26)』では、「先進国は石炭火力を可能な限り2030年代に廃止する」という声明に40ヵ国以上が賛同したが、日本は加わらなかった。G7のうち、国内の石炭火力全廃の目標時期を示していないのは日本とアメリカのみ。だが、アメリカは“2035年の発電部門の脱炭素化”を掲げる。一方、日本は昨年閣議決定されたエネルギー基本計画で、2030年時点で発電量の19%程度を石炭火力で賄うとしており、全廃の時期は見通せない。石炭火力に依存する経済的な利点も薄れている。イギリスを拠点とする非営利のシンクタンク『カーボントラッカー』が、東京大学未来ビジョン研究センター等の協力で2019年に発表した報告書によると、日本で陸上・洋上の風力、太陽光の発電コストは2025年までに新規の石炭火力よりも安くなると分析。石炭火力は競争力を大きく失い、巨額の投資を回収できない“座礁資産”になる可能性もあるとして、政策転換を促した。鈴木さんは「訴えが認められたとしても、全国にある発電所のたった一つで、大海の一滴。温暖化への影響は殆どないかもしれないが、世論を動かすメッセージになってほしい」と語る。
気候変動を巡る国の政策や企業の姿勢が裁判で争われる例は、世界で急増している。『ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)』が今年6月に発表した報告書によると、1986年以降に2000件を超す“気候変動訴訟”が起こされた。パリ協定が採択された2015年以降に急増し、約4分の1は2020年以降に提訴されたという。国際的な注目を集める契機となったのは、オランダの事例だ。ハーグ地裁は2015年、環境NGOや市民が参加した原告団の主張に沿って、政府にCO2削減目標の引き上げを命じた。判決は「政府には気候変動の脅威から国民を守る義務がある」とした上で、たとえ一国だけの努力では阻止できない地球規模の問題であっても、政府が責任を逃れる理由にはならないと判断した。原告団が「歴史的な転換点だ」と歓迎した判決は上級審も支持し、2019年に確定した。昨年4月にはドイツの連邦憲法裁判所が、CO2の削減目標を定めた現行の気候保護法(※2019年施行)を部分的に違憲だと判断した。2031年以降の排出削減に向けた具体的な方策が盛り込まれておらず、温暖化の被害を受け、負担を押しつけられる将来世代の「自由を侵害する」と指摘した。判決を受けて、当時のアンゲラ・メルケル政権は、排出実質ゼロを達成する目標年を2050年から2045年に前倒しした。グローバル企業に厳しい判決も出た。ハーグ地裁は昨年5月、欧州石油最大手の『ロイヤルダッチシェル』に対してCO2削減の加速を命じた。ここでも「気候変動は地域住民の人権侵害を齎す」と認め、パリ協定の目標に整合するよう、排出量を2030年までに2019年比で45%減らすよう指示した。オランダ在住の市民1万7000人と共に原告に加わった環境NGO『フレンズ・オブ・ジ・アース』オランダ支部のロジャー・コックス弁護士は、「裁判所が大規模なCO2汚染企業にパリ協定を順守するよう命じた初のケースで、他の企業にも重大な結果を及ぼし得る」と指摘する。何故、政府や企業が対策の強化を迫られる判決が増えているのか。報告書の共著者で『LSEグランサム気候変動環境研究所』のキャサリン・ハイアムさんは、「気候変動対策の緊急性について科学的、社会的なコンセンサスが強まっている」と指摘。「気候変動訴訟を巡る運動が国境を越えて広がり、訴訟当事者、弁護士、裁判官が他の地域での経験に学んでいる」と話す。日本では、『神戸製鋼所』が神戸市灘区で進める石炭火力増設計画を巡っても、事業者によるアセスを認めた国に対する行政訴訟と、事業者に建設・稼働の差し止めを求める民事訴訟で審理が続く。ハードルの一つが、CO2排出の環境影響について周辺住民が訴えを起こす資格の有無だ。日本では、温暖化の被害を受ける“当事者”として原告適格が認められた事例はない。訴訟関係者からは、こうした現状に「ガラパゴスだ」との批判の声も聞かれる。神戸大学の島村健教授(※環境法)は、欧州で“画期的”な判決が続く背景について、「気候変動の影響が顕在化し、欧州では『司法が何とかしなければならない』という切迫感があったのではないか」と指摘する。学校の授業をボイコットしてまで気候危機を訴える若者達の社会運動も無関係ではないとみられる。日本の気候変動訴訟に変化が訪れる日は来るのか。神戸の石炭火力を巡り、原告側の訴えを退けた行政訴訟の大阪高裁判決(※今年4月)は、「日本の気候変動対策が重要な課題を抱えている」と認め、原告の適格性が将来的に認められる可能性を否定しなかった。島村さんは、「社会の価値観は変化していく。日本の裁判所の解釈も変わるべきだ」と話す。 (取材・文/経済部 高田奈実/外信部専門記者 八田浩輔)

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