【“本物の大人”の為の世界史この100年】(06) “排日移民法”抗議運動が示す太平洋戦争へと続く道

日本近現代史の中の大正期とは、“大衆の登場が始まった時代”と位置付けることができる。それは、対外的には帝国としての急成長があり、国内的にはデモクラシーの要請の高まりによって、政治・外交・社会問題を巡る大衆運動が盛んとなる時代であった。1924年にアメリカで成立した排日移民法(※正式名は1924年移民法)に対する抗議運動は、まさしく大正期日本の大衆運動のピークと言えよう。同法の成立に日本国中が大きなショックを受け、それへの反発から全国各地で大衆による激しい抗議運動が繰り広げられたのである。尤も、本国の大多数の日本人にとって、日本からの移民を禁じた同法によって何らかの実害を被るわけではなかった。にも拘わらず、明治以来の“脱亜入欧”によって列強の仲間入りをし、『国際連盟』理事会の常任理事国も任せられ、“一等国”となった筈の日本にとって、アメリカの対日差別的な移民法は国家の威信を大いに傷付けるものであった。それ故に、排日移民法に対する一連の抗議運動は、多数の一般大衆を動員する大規模なものとなり、中には日米戦争を煽動するかのような過激な主張を含むものさえあった。アメリカにおける日本人移民に対する差別的待遇の問題は、1906年に起きた学童隔離事件に端を発する。この年、サンフランシスコで発生した地震により、同市当局はそれまで公立学校に通っていた日本人学童を東洋人学校へ隔離する措置をとった。当時、アジア民族のうち日本人の学童のみが白人と同様の公立学校へ通うことができていたのだが、この事件で他の東洋人と同様の扱いにされてしまったのである。これが日本人移民のプライドを傷付けるものであったことは想像に難くない。
更にこの後、比較的日本人移民の数が多かったカリフォルニア州では、日本人の土地所有を制限する排日土地法が二度に亘って制定(※1913年と1920年)される等、次々と厳しい排日的政策が実行されていった。しかし、日米のトップレベルでは、日本人移民への差別的待遇の問題で両国関係を損なうことは合理的でないと考えられていた。歴史家のロジャー・ダニエルズによると、アメリカに在住していた日本人移民は最大の時でも11万人程度であり、その全人口に占める割合は、日本人移民が最も多いカリフォルニア州でも約2%に過ぎなかった。その為、両国の政府レベルでは、移民問題という小事でもって国家間関係の悪化に至るような事態を回避すべく、幾つかの措置が講じられた。例えば、アメリカへ入国する日本人を自主規制すること等を盛り込んだ紳士協定(※1908年)や、日本人移民への帰化権付与を目指した『幣原・モーリス会談』(※1920~1921年)は、その実際の効果は別として、移民問題を巡る政府間レベルでの冷静な解決を模索した取り組みであった。にも拘わらず、1924年に排日移民法が成立したことは、従来の政府間レベルでの取り組みが無に帰することを意味した。何よりも日本国民に与えたショックは大きかった。1919年の国際連盟創設の際、日本全権団が提案した人種差別撤廃条項案が英米の反対によって否決された問題と併せて、日本国民は国際社会における人種差別意識の強烈さを改めて痛感させられた。移民法案が議会を通過した1924年4月半ば、先ずは当時の主要紙が社説等で一斉にこれを批判した。これにより、移民法に対する日本メディアの基本方針が定まったと言える。4月23日に大阪市中央公会堂で開かれた対米問題市民大会は、こうしたメディアの批判的報道による移民法への強い憤りが国民レベルで共有されたことを示した。大 会の開催数日前から大阪の主要紙で宣伝がなされたこともあって、当日は約4000人の参加者が押し寄せる大規模な会となったのである。各種民間団体が主催する対米非難の緊急集会や決議等は、日本国内にとどまらず、日本人が多く居住する台湾・朝鮮半島・遼東半島等でも行なわれた。これら外地での対米抗議の集会は、日本人のみならず、アジア民族が結集して白人の人種差別に対抗しようとする点に特徴があった。明治期以来、“アジア主義”の立場から様々な政治活動を展開していた『玄洋社』や『黒龍会』といった政治団体も、激しい排日移民法抗議運動を展開した。元来、明治期の日本では、西洋の帝国主義を批判し、アジア諸民族の団結を訴えるアジア主義は、決して支配的な思想ではなかった。しかし大正期になり、日本の国力増強を背景に、欧米列国の人種差別的な態度を見るにつれ、次第にアジア主義は説得力を有するようになっていく。
所詮は有色人種の国家である日本は、いくら欧米列国に比肩する国力を身につけようとも、国際社会の場では対等の扱いを受けることはできない。そうであれば、いっそのこと日本は欧米との関係を断ち、本来のアジアの一員として、その地の指導者となるべきである――。こうした“脱亜入欧”から“脱欧入亜”への発想の転換は、排日移民法によって促進された面もあった。6月5日、頭山満や内田良平らアジア主義者が結成した『国民対米会』の主催による対米国民大会(※両国国技館で開催)は、約2万人の聴衆が参加する最大規模のイベントであった。大会では頭山らの他、上杉慎吉や小川平吉といった著名な学者や政治家達も壇上に立ち、排日移民法絶対反対とアメリカの対日差別への糾弾が繰り返し発せられた。排日移民法を巡り、反米主義的且つアジア主義的スタンスの発言が大いに説得力を有した瞬間であったと言えよう。更に衝撃的なことに、排日移民法への抗議の意を示す為に、アメリカ大使館近くで当時のサイラス・ウッズ駐日大使宛の遺書を懐中に忍ばせて割腹自殺を遂げる者が現れた。これに呼応するかのように、戸山ヶ原(※現在の新宿区)で同じく抗議の遺書を持った遺体が発見されたり、宮崎市で排日移民法への憤りから自死を決意した旨の遺書を抱えて線路に飛び込み、自殺する若者も現れた。こうした極端な行動をとった者は少数だったにせよ、如何に排日移民法の衝撃が大きかったかがわかるだろう。排日移民法に反発したのは、アジア主義や国粋主義の勢力だけではない。長年に亘って日米協調に取り組み、“国際人”と呼ばれた知識人達にとっても、排日移民法は許し難い対日差別と見做された。“太平洋の架け橋”となるべく、国際的な活動を展開していた新渡戸稲造は、今回の排日移民法が撤廃されない限りは「断じてアメリカの土は踏まない」と決意した。嘗てハーバード大学に学んだ知米派の金子堅太郎は、排日移民法成立への失望から『日米協会』会長の座を辞した。国際連盟日本代表を務めた国際派外交官の石井菊次郎も、「日米間の人種問題が太平洋上での古今未曽有の大争闘になるだろう」との悲観的観測をした程である。排日移民法成立直後から、日米両国では盛んに戦争危機が叫ばれ、日米開戦を煽動するかのような議論が多数出現するようになった。そして、そうした過激な議論に対して、両国の中には一定の同調者がおり、更なる激しい反米・反日的言説を生み出していった。日本国内の反米的且つアジア主義的な言説は、1930年代に入ると一層の高まりを見せる。それは、欧米諸国が形成した既存の国際秩序の不正と、日本の手によるアジア主義的な新秩序の正当性を訴えるものへと収斂していく。こうした反米感情が、1941年からの太平洋戦争の直接的な原因になったわけではない。だが、排日移民法以降にアメリカの不正を強調する議論に一定の説得力が持ち得たことも否定できない。日米に限らず、国家間の友好や国際協調は、政治家や官僚らトップレベルのみで維持されるものではない。情報を発信するメディアやその受け手である大衆にも、国際問題に対する冷静且つ合理的な思考が求められることは、この排日移民法抗議運動の歴史が示している。過去から謙虚に学ぶことなくしては、今後も同様の失敗が繰り返される危険性があるのではなかろうか。 (帝京大学文学部日本文化学科専任講師 渡邉公太)

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