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【WEEKEND PLUS】(338) やり抜く拳を生徒に伝える…元プロボクサーの高山勝成さん、高校教師になる



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教室のホワイトボードの前に立つと、一気にペンを走らせた。“題「GRIT」 やり抜く力を身につけよう!!”。そう板書すると、振り向いて語り掛けた。「GRITとは困難でもやり抜く力のこと。才能、IQ、学歴ではなく、個人のやり抜く力が社会で成功を収める大きな要素です」。名古屋産業大学(※愛知県尾張旭市)の教室で1月19日に行なった模擬授業。アメリカの心理学者の提唱した“GRIT”という理論を説明する身長158㎝の小柄な男性は、プロボクシングの元世界王者・高山勝成さん(39)だ。この日は、担当の伊藤利明教授(※現代ビジネス学部、71)と学生10人を前に、10分余り論じた(※右画像、撮影/兵藤公治)。高校の公民科教師になる為に入学した同大を2021年3月に卒業したが、未履修及び再履修の必要な教職課程がある為、昨年4月から科目等履修生として大阪の自宅から週1~2回通学していた。講義後、記者(※私)がGRITをテーマにした理由を尋ねると、高山さんは「自分のやってきたことが全て当てはまる(理論)と思った」と答えた。確かに、彼の競技人生は“不屈”そのものだ。主に最軽量のミニマム級(※47.6㎏以下)で戦い、『世界ボクシング協会(WBA)』・『世界ボクシング評議会(WBC)』・『国際ボクシング連盟(IBF)』・『世界ボクシング機構(WBO)』の世界主要4団体の王座を日本選手で初めて全て獲得する等、リング内外で数々の困難を乗り越えてきた。高山さんを2017年4月の大学入学から指導してきた伊藤さんは感心する。「あれだけ事前準備をする学生はいないし、集中力も違う。他の学生は見習ってほしい」。提出リポートの審査等を経て、2月15日に教職課程修了が決まった。3月9日には大阪府教委から高校教諭1種免許(※公民)を受け取り、早ければ2024年度から教壇に立つ。

プロボクサーとしては2021年5月にWBOライトフライ級王座挑戦で9回TKOで負けた後、現在所属する『石田ジム』(※大阪府寝屋川市)等で断続的に練習はしている。しかし、“教職課程に専念する為”に試合には出場していない。高校教師との両立も視野に現役続行するのか、それとも引退か――。進退について熟慮中で「結論は出ていない」という状態だ。それにしても何故、高校教師になるのか。「世界チャンピオンが教師になってもいいじゃないですか。いや、寧ろなるべきだと思っている。減量のつらさ、殴られる痛さ、戦いの修羅場をくぐってきた経験を教育現場で伝えられる」。熱い口調で、そう力説した。大阪市生野区で生まれ育った。中学2年の時、友人に誘われて同市内にあった『エディタウンゼントジム』でボクシングを始め、世界王者を志した。「楽しい高校生活の誘惑に負け、練習が疎かになる」と考え、親や周囲の反対を押し切って高校には進まず、2000年10月に17歳でプロデビューを果たした。21歳でWBCミニマム級王者になり、取材される機会が増えると「自分の思いを上手く伝えられない。言葉を知らず、表現力がない」と痛感した。「いつか高校で学びたい」。IBF同級王者だった30歳の時に菊華高校(※愛知県名古屋市)に入学した際には、大きな話題になった。高校生活を送る中で、15歳下の級友達が「しんどい」「面倒臭い」「止めた」等の後ろ向きな発言をよくすることに気付いた。部活動でも「次の試合は相手が強いからだめだ」と直ぐ弱気になる。次第に「僕の体験を通じ、諦めずにやり抜くことの大切さを子供達に伝えたい」と思うようになり、高校教師を目指して系列の同大に進学した。高山さん自身、人との出会いで運命が開けた経験がある。その一人が、14歳から指導を受ける中出博啓トレーナー(63)。関西大学ボクシング部で1戦1敗のアマ戦績しかなく、知り合った当時は指導実績もなかったが、研究熱心で情熱的だった。高山さんが信頼するようになるのに時間はかからなかった。だが、2003年4月にあった高山さんの日本王座初挑戦を境に、2人の運命が変わった。同ジムの村田英次郎会長(66)は、良かれと思ってプロ選手経験のある別のトレーナーに担当を代えたのだ。試合は9回TKO負けで、11戦目で初黒星。その数日後、「私がいると後任のトレーナーも高山もやり難いだろう」と案じた中出さんが退職することを知ると、高山さんは「僕も辞めます」とジムを飛び出した。2人は紆余曲折を経て『グリーンツダジム』(※大阪府大阪市)に移籍した。当時19歳の高山さんに対する中出さんの指導法は独特で、ボクシング担当だった私は驚いた。試合でラウンド間のインターバルは1分間だが、多くのジムは練習では選手に負荷を掛ける為、30秒程度に縮めている。その間に選手は呼吸を整えるのだが、高山さんはインターバル中もスクワットをしたり、ジャンプをしたりと動き続けていたのだ。筋力やスタミナをひたすら鍛える為かと思ったが、中出さんは「体がしんどい状態の時、次のラウンド中にどうやって上手く休むか、どこで手を出すかを常に考えさせる為」と説明。こんなハードな練習方法をとる選手は、後にも先にも見たことがない。前後左右に小刻みに動き続けながら鋭い連打を繰り出し、接近戦と、距離を保つアウトボクシングを融合した独特のファイトスタイルで頭角を現し、21歳で初めて世界王者に。しかし、これが苦悩の始まりだった。

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初めて世界王座に挑戦するリングは、2005年4月4日に大阪市中央体育館サブアリーナであったWBCミニマム級タイトルマッチだった。高山さんは、初防衛を目指した王者のイサック・ブストス選手(※メキシコ)に3-0の判定勝ち。16戦目、22歳になる約1ヵ月前の殊勲だった(※左画像、撮影/小関勉)。しかし、同じ年の8月6日の後楽園ホールでの初防衛戦は、在日タイ人の元王者、イーグル京和選手(※角海老宝石ジム)に0-3の判定負け。イーグル選手は2004年12月にブストス選手に4回TKO負けで王座を奪われたが、優勢に戦いながら右肩骨折で棄権した不運な負け方だった。こうした経緯から、「巡り合わせが良くて世界王者になれた」と見る向きもあった。見返すチャンスをつかんだ。2006年に、WBA同級王者、新井田豊選手(※横浜光ジム)の五度目の防衛戦の相手に決まったのだ。当初9月に予定していた試合は王者の怪我で延期されたが、11月にWBA同級暫定王座決定戦でパナマの選手に勝利。そして2007年4月7日、後楽園ホールで新井田選手との王座統一戦に臨んだ。中出トレーナーは選手の性格の分析が得意だった。「相手は物凄く神経質。挑発したら、むきになって得意の左フックを振って追ってくる筈だ。そこに左ショートパンチを合わせよう」。試合開始直後、高山さんが荒っぽく攻めると、本来はカウンター攻撃が持ち味の新井田選手が左フックの連打で前に出てきた。そこに左ジャブを出すと顎を捉え、相手に尻餅をつかせてダウンを奪った。その後は打っては離れる戦法。中盤から相手はカウンターを合わせてきたが、「決定打を受けず、完勝に近い」つもりだった。

ところが、12回を終えて判定は新井田選手の勝利。審判の1人は115-114で高山さん支持だったが、2人が115-113と114-113で相手に軍配を上げた。試合後、高山陣営のグリーンツダジムの男性マネージャー(※当時)は報道陣に「八百長だ!」とまくし立て、高山さんも「最初から仕組まれていたとしか思えない」と憤慨した。ボクシング界には“地元判定”等の言葉があり、地元の選手や興行主催ジムの所属選手を優遇するような不可解な判定が散見される。大阪から“敵地”に乗り込んだ高山陣営の不信感が爆発した。一方、関係者やファンの多くは「公式採点通り、どちらの勝ちでもおかしくない大接戦」と見た。好勝負に水を差す八百長発言に非難が殺到。接戦の世界戦なら通常は再戦が組まれるが、ある有力プロモーターによると「試合直後に横浜光ジムの宮川和則オーナー(※故人)に『これは再戦だ』と言ったら、『再戦したら盛り上がりますね』と前向きだった。でも、翌日に報道で八百長発言を知り、私も彼も『二度とやらない』となった」。更に、グリーンツダジムに多額の負債があることが発覚し、高山さんはファイトマネー350万円のうち20万円しか貰えず、最終的に『真正ジム』(※兵庫県神戸市)に移籍。踏んだり蹴ったりの一戦となった。「自己証明をしたいと強く思うようになった。ブストス戦後からそんな感覚があったが、新井田戦で決定的になった」。望む評価を得られず、満たされぬ思いを抱えた。そして高山さんは、ボクシング界に衝撃を与える行動に出る。世界王座を奪回できないまま2年半が過ぎた2009年11月、海外で活動すると決めて、『日本ボクシングコミッション(JBC)』に引退届を出したのだ。IBFバンタム級王座16連続防衛のオルランド・カニザレス選手(※アメリカ)に憧れ、「IBFの赤いベルトが欲しい」と思ったが、当時のJBCは世界主要4団体のうち、IBFとWBOには非加盟。JBC傘下ではIBF王座に挑戦できなかった。「(既に取った)WBAやWBCの王座を再び取っても満たされない」とも感じていた。紹介されたフィリピンのジム等で練習し、治安の悪い南アフリカでIBFミニマム級王座に二度挑戦したが、実らなかった。苦労を重ね、2013年3月、メキシコで悲願の同王座を遂に獲得した。一連の行動は業界関係者に「同様にJBCを離れる選手が増えるのでは」との危機感を抱かせ、JBCは同4月にIBFとWBOに加盟。高山さんも同7月にJBCに復帰した。同じ時期に所属ジムへの不満からJBCを離脱し、共に海外で戦った盟友が『大阪天神ジム』の山口賢一会長(42)だ。三重県の日生第二高(※現在の青山高校)硬式野球部出身で、愛知県の菊華高校硬式野球部の渋谷渉監督(66)の教え子。山口さんが2013年12月に恩師に会った際、半ば思いつきで「高山を菊華高に入学させたら面白いのでは?」と提案したことから、2014年4月、宿願の高校入学が実現した。

高山さんは「ボクシングで学べないことを学びたい」と胸を躍らせた。高校教師になる為に名古屋産業大学に進んだ2017年春には“2020年東京オリンピック挑戦”を宣言し、再び驚かせた。2016年のリオデジャネイロ五輪からプロの参加が認められたが、国内のアマを統括する『日本ボクシング連盟(JABF)』は出場を禁じたまま。2014年12月に4冠目のWBO同級王座も取った高山さんは、五輪出場を新たなモチベーションにした。2017年3月と6月、JABFの山根明会長(※当時、83)に大阪市内で二度面会し、「アマ転向を認めてほしい」と直訴した。「日本は90年間、プロとアマは別々にやってきた。気持ちはわかるが諦めてほしい」と拒まれ、「高校の先生になるつもりなら、その時は連盟で取り立てる」と将来の連盟幹部への登用も示唆されたが、応じなかった。「先生になって子供達にやり抜く大切さを伝える為にも、ここで諦めてはいけない」と誓った。その頃に知り合った岡筋泰之弁護士(40)が「腰の低い高山さんの人柄に接し、協力したくなった」と支援に動いた。私に対しても、高山さんの丁寧な受け答えは10代の頃から変わらず、純朴な人柄にひかれて彼をサポートする人は多い。岡筋さんもその一人で、連盟規則改正に向けた署名集め、発起集会、『日本スポーツ仲裁機構』への申し立て等に至る活動スケジュールを作り、無償で支えた。こうした動きに山根会長は「(世界複数階級制覇の)井岡一翔や井上尚弥が五輪に出たいのなら検討する。メダルを狙えるし、嘗てアマで活躍した功労者だ。高山の戦い方はアマ向きでないし、彼には何の義理もない」と怒り、約2万5000人分の署名の受け取りも拒否した。ところが、山根会長が助成金流用や判定への不当介入等で告発され、2018年8月に辞任。その後、規則改正が実現した。高山さんは2019年夏にアマのリングに立ったが、3戦目の全日本選手権東海ブロック予選フライ級1回戦で敗れ、五輪を逃した。「アマの戦い方に慣れる時間がなかった」と悔やむが、プロの五輪出場に道を開き、JBCのIBF・WBO加盟に続き、自身の行動で日本ボクシング界を変えた。何度も難業に挑んだ理由を、「自分の低い評価への反骨心。新井田戦(の記憶)も原動力になった」と明かす。国内だけで5つのジムを渡り歩き、プロ42戦32勝(※12KO)9敗1無効試合、アマ3戦2勝1敗。進退は、「他人の意見ではなく、自分で考えて決める。どちらに行っても僕は諦めない」と言い切る。心に刻む言葉がある。2016年5月に北京で開催されたIBF総会で、元世界ヘビー級王者のマイク・タイソンさん(※アメリカ)に“世界王者であり続ける秘訣”を尋ねると、「自分を信じること」と短く即答された。「リング内外で何があっても自分を信じる。僕はそう理解しています」。教壇に立っても、高山さんのチャンピオンロードは続く。 (取材・文/大阪本社地方部 来住哲司)


キャプチャ  2023年3月26日付掲載
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