【ヒロシマ・71年目の悲願】(上) トルーマンの孫が語る謝罪と責任の意味

“謝罪(apology)”――。バラク・オバマ大統領の広島訪問を前に、日米両国で俄かにこの言葉への注目が高まっている。オバマは日本人に謝罪すべきなのか。日本国民はアメリカの大統領に謝罪を求めるのか。戦時中の行為を巡る“謝罪”について、日本はこれまで他国から求められることはあっても、こと原爆に関してアメリカにそれを求める声は大きくなかった。では、国家間の話ではなく、“当事者同士”という個人レベルの謝罪についてはどうなのか。日本には大勢の被爆者と、その血を受け継ぐ子孫たちがいる。一方、アメリカ側にも当事者はいる。その中心的な存在が、原爆投下を決断し、指示した第33代大統領のハリー・トルーマンだ。トルーマンは1972年に死去したが、その血を引く人物が近年、日本の被爆者と交流を続けている。クリフトン・トルーマン・ダニエル、58歳。彼の母親はトルーマン元大統領の1人娘で、ダニエル自身は娘と2人の息子の父親だ。戦後生まれのダニエル自身は、第2世界次大戦の“当事者”ではない。しかも、アメリカでは今も原爆投下を正当化する声が根強い。にも拘らず、彼は何故被爆者の体験をアメリカに伝える活動を続けているのか。祖父が下した決断と、どう向き合ってきたのか。それを知りたくて、今月14日、シカゴにあるダニエルの自宅を訪ねた。閑静な住宅街にあるレンガ造りの一軒家。日本のように靴を脱いで上がったリビングで、元大統領の目鼻立ちをはっきりと受け継いだダニエルは、2時間余り、片時も記者から視線を逸らすことなくインタビューに答えてくれた。ダニエルの言葉を通して、“謝罪”と“責任”の本質を探る――。

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――オバマ大統領の広島訪問の話をする前に先ず、おじいさんについて聞かせて下さい。トルーマン元大統領は、貴方にとってどんなおじいさんでしたか?
「私にとっては普通の“おじいちゃん”だった。ヒロシマとナガサキについて話す時、『おじいさんから話を聞いたか?』とよく質問されるが、答えはノーだ。祖父は、私が15歳の時に亡くなった。私たち兄弟は未だ子供で、相父に会うのはクリスマス・感謝祭・春休み等、学校の長期休暇中だった。折角の休みに、歴史の授業が展開されるような質間はしたくなかった。抑々、私たち家族は祖父の大統領時代についてあまり話をしなかった。祖父母も私の両親も、私たち兄弟に“普通”の生活を送らせようとしていた。だから、私たちはハリー・トルーマンの家系に生まれたことを重大なこととは考えていなかった。私が原爆について学んだのは、一般の人と同じく、歴史の教科書や先生を通してだ。アメリカ史を学び始めるのが9歳か10歳で、より総合的な歴史を学ぶのは高校に入ってからだ」

――どのように教わったのですか?
「とてもシンプルだ。歴史の教科書は今も昔も、アメリカ史を全て網羅しないといけない。分厚い教科書の中で、原爆についての記述は1~2ページ。内容は、原爆が投下された理由と犠牲者の数、キノコ雲の写真くらいのものだ。原爆の実態や具体的な被害、人々が受けた傷の深さについての記載は一切無く、『原爆が戦争を終わらせた』『日本とアメリカはトモダチになり、今は全てが上手くいっている』といった内容だった。私の印象もそのようなものだった」

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――そんな貴方が何故、教科書以上のことを知るようになったのですか?
「全くの偶然だった。1994年、ノースカロライナ州でジャーナリストとして働いていた時、ホームステイに来た17~18歳の日本人留学生の女の子が地元の人々に生け花を教えるというので、取材に出掛けた。彼女のホストファミリーは引退した地元の判事で、私の知り合いでもあった。彼女と生け花について20~30分話した後、判事が私に『貴方のおじいさんが誰だか彼女に話してある』と言ってきた。彼女は笑顔を浮かべて『素晴らしいですね』と言い、私は『有難う』と答えた。すると、判事は彼女に向かって、『貴方のおじいさんについても話してあげなさい』と促した。彼女は非常に居心地が悪そうな表情を浮かべたまま答えなかった。彼女が何も言わないので、最終的には判事が口を開いた。『彼女のおじいさんはヒロシマで死んだ』と。私にとって、原爆の影響を直接的に受けた人やその家族に会ったのは、それが初めてだった。当時、自分がどう思ったのかは覚えていないが、兎に角、不意を突かれた。『彼女が怒っているのではないか』と思ったかもしれない。でも、彼女は笑顔を浮かべて『有難う』と言った。印象的だったのは、彼女が私の気持ちを心配しているように見えたことだ。判事が私たち2人を居心地悪くさせたことに、少し怒っているようにも見えた。私が彼女に伝えたのは、ただ一言。大切な人を亡くした相手に、誰もが言う言葉だ。『I'm so sorry.』。国を代表して、或いは祖父に代わって私が“謝る”という意味の“sorry”ではなく、『おじいさんを亡くされたことをとても残念に思います』という意味だ。その2日前、私は全く別の体験をしていた。(連合軍勝利のきっかけとなった)ノルマンディー上陸作戦50周年を祝う式典に母と出席した時のことだ。アメリカの退役軍人2人が目に涙を浮かべていたので、『どうしたのですか?』と聞くと、「何でもない、何でもない。ただ、貴方のお母様に感謝しているのです。彼女のお父様が原爆を落とさなかったら、我々は死んでいた。ここにはいなかったのだから』と言われた。私は数日の内に、アメリカの退役軍人と、ヒロシマで祖父を亡くした若い女の子の双方から話を聞いた訳だ。ずっと頭に残る経験だった。それから5年後、長男が学校からサダコの本を持ち帰ってきた(※広島で被爆して後遺症に苦しみながらも、回復を願って千羽鶴を折り続けた少女、佐々木禎子の実話)。学校の先生が読書の授業で読み聞かせてくれたという。長男はその本を気に入っていた。他の児童書のようなハッピーエンドではない本当の話だったから。私にとっても、これがヒロシマ・ナガサキに関するヒューマンストーリーに接した初めての体験となった。それまで私は長男に、『曽祖父の決断について理解することが重要だ』と話したことはなかった。『ヒロシマとナガサキが経験した被害を知ることが重要だ』と話したこともなかった。(サダコの本を読んでくれた)先生は、子供たちに日本の歴史や文化について教え、日本食レストランや茶道教室に連れて行ってくれた。日本に関する様々なことを我が家に持ち込んでくれた。このエピソードを数人の日本人記者に話したところ、それを知ったサダコの兄の佐々木雅弘が2004年か2005年に『いつかお会いできますか?』と電話してきた。会ってどうするかまでは考えなかったが、私は『イエス』と答えた。結局、私たちは2010年にニューヨークで会った。雅弘と彼の息子の佐々木祐滋が、禎子の折り鶴を9.11テロの追悼施設に寄贈したときだ。祐滋がプラスチックの箱から小さな鶴を取り出して、私の手のひらに乗せ、『これは禎子が亡くなる前に最後に折った鶴です』と言った。そして、雅弘と祐滋は『広島と長崎の平和記念式典に来ることを検討して頂けますか?』と言った。私は『イエス』と答え、2年後に日本に向かった。長女は仕事の為、行けなかったが、当時23歳だった長男と15歳の次男を連れて行った。これが全ての始まりだ」

――広島・長崎について、お子さんたちにどのように教えたのですか?
「彼らは既にその話に触れていたから、教える必要はなかった。長男はサダコの本を読み、歴史の授業を受けていた。広島と長崎に一緒に行き、翌2013年には被爆者13人の証言を録画して伝える為に日本を再訪した。録画テープをハリー・トルーマン大統領図書館(ミズーリ州)のウェブサイトに掲載する為に、被爆者の話に英語の字幕を付けようとしている。ドキュメンタリーや映画、テレビ番組等で使えるようにする為だ」

――サダコの本を読んだ当時、息子さんから何か質問をされましたか?
「長男は当時10歳だった。特に何も聞かれなかったが、私は『原爆投下の決断を下したのは、ひいおじいちゃんだ』と伝えた。その事実は知っていた筈だが、彼の中では(サダコの物語と曽祖父のことは)繋がっていないようだった。全く別の話として読んでいたから」

――それを聞いた息子さんの反応は?
「…受け入れていた。彼はあの本を気に入っていたし、鶴を折るのが好きだった。日本が好きで、武道を習って育った。彼は、単純にヒロシマ・ナガサキに興味を持っていた」

――それから17年が経ちました。その間に息子さんから何か質問されたことは?
「聞いてくる必要はなかった。彼自身が(トルーマン元大統領について)本を読む等してきていたから」

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――貴方に対して「おじいさんの決断をどう思うか?」と聞いてきたことはないのですか?
「(少し声を荒らげて)ノー! 息子と私は一緒に活動してきたようなものだ。私は被爆者に向かって、『原爆投下は素晴らしい考えだった』と言ったりはしない。しかし一方で、太平洋戦争を戦ったアメリカの退役軍人に対し、『原爆投下が間違っていた』と言うこともできない。私はその真ん中で身動きができなくなっており、息子も同じなのだと思う。私たちにとって、あの決断が正しかったかどうかという問いは、その後に相手の立場を理解することや、何が起きたかを伝えていくことの大切さに比べれば重要ではない」

――これは飽く迄も私の想像ですが、貴方は恐らく、祖父の決断が正しかったかどうかを知りたくなったのではないでしょうか。そして、その決断を正当化できるか否かを理解しようと努力してきた筈です。しかし、その結果、辿り着いた結論を口に出したら、日本人とアメリカ人の双方に大きな影響を与えてしまう。だから、言わないでいるのでは?
「話すことはできる。祖父が大統領時代に使っていたキーウェストの保養地で毎年、学術会議が行われており、2014年のテーマは原爆だった。伝統的な歴史学者は、『原爆は戦争を終結させ、日米双方の多くの命を救った』と主張する。一方の歴史修正主義者は、『日本は既に負けたも同然で、原爆投下はソ連を威嚇する為だった』と言う。(主催側である)我々は当初、両陣営を交えた議論を想定していたが、会議の議長は『この議論をするといつも怒鳴り合いになるだけだ』と吐露していた。それこそが、このテーマの問題点と思う。どちらか一方の極端な主張だけを採用すると誰も前に進めず、ただ怒鳴り合うだけだ。だから私は、(原爆投下が正しかったかという問いに)関わらないことにしている」

――貴方は何らかの結論に達したのではないでしょうか? ここでその内容を話してもらわなくてもいいですが。
「(溜め息を吐いて)同じことを言うようだが、本当のところを知ることはできないと思う。現実として原爆は落とされたのだから。そして、戦争は終わった。仮に私の祖父が『原爆は使わない』と言っていたら、あれほど早く戦争が終結したかはわからない。“恐らく”とか“多分”という話しかできない。原爆が戦争終結を早めたことを示す、私が見るところ説得力のある証拠はある。それは、その反対(原爆を使っても戦争終結の時期は変わらなかったこと)を示す証拠よりも説得力があると思う。ただ、私がこう話す時も、日本人や広島と長崎の人々への敬意を忘れている訳ではない。結果を天秤に掛ければ、原爆が戦争終結を早めたという説のほうが有力に見えると言っているだけだ。それも、本当のところは誰にもわからない」

――それでも、後から振り返って、原爆投下が正当だったか否かという議論はあるのではないでしょうか?
「原爆という爆弾を使ったことを正当化できるかどうか、か。あれは戦争だった。(連合国でも枢軸国でも)人々は市民を攻撃する行為を正当化できると思っていた。当時、行われたことの全てについて、多くの“正当化”がなされた。『原爆ほど残虐なものはない』と言う人もいるが、残虐な行為は他にも沢山あった。東京大空襲で放射能の被害は無かったが、死者数は広島に匹敵する。どれも最悪の出来事であり、どれも正当化することはできない」

――広島と長崎への初訪問の前後で、原爆への見方は変わりましたか?
「変わっていない。そこに行った時、私は原爆が戦争を終結させた正当な行為だったか否か、正当な行為だったかにについて語ることを止めた。訪間の目的はただ1つ、被爆者の話を聞くことだった。亡くなった方々に敬意を表し、生存者の話を聞く。目的は癒やしと和解であり、原爆使用の是非を議論することではない」

――抑々何故、2つの都市を訪れようと思ったのですか?
「祖父の行いを見たからだ。祖父は1947年にメキシコを公式訪問した際、その100年前の1847年にメキシコ対アメリカの戦争(米墨戦争)で亡くなったメキシコ人士官候補生6人の墓に花輪を捧げた。アメリカ人記者が祖父に『何故敵を称えるのか?』と尋ねたら、祖父は『彼らに勇気があったからだ。勇気に国境は関係ない。勇気がある人なら、どこの国の人だろうが称えるものだ』と答えた。同じように、ヒロシマとナガサキでも、苦しみに耐えて体験を語る勇気は、国とは関係なく称えられるべきものだ。ヒロシマとナガサキについて書き始めた私は、バランスに気を付け、アメリカ兵の体験についても語るようにしてきた。あるアメリカ海兵大尉は長崎への上陸計画に関わっていたが、『計画を実行すれば日本軍の反撃に遭って仲間の多くを失う』と思い悩んでいた。だから、長崎に原爆が投下されて戦争が終結した時、彼らは皆、安堵した。しかし、終戦直後に長崎に入った彼らは、破壊された光景を目の当たりにして大きな心的ダメージを受け、平静ではいられなかったという。これこそが人間的な反応だと思う。生き残ったことに安堵するが、一度生き延びたら相手に何が起きたかを知り、感情移入をする。そうあるべきだと思う」

――日本を訪問する前に、行くことが怖くなったりはしませんでしたか?
「他にもそう思っている人がいたが、怖くはなかった。ただ、私の訪問が日米双方で間違った形で受け止められないか、建設的で前向きな訪間にできるのかという点は心配だった。日本に到着してテレビ局のインタビューを受けた際、『謝罪をしに来たのか?』と聞かれた。私は、『いや違う。死者に敬意を表し、生存者の話を聞きに来た。謝罪が目的ではない』と答えた。その記者はとても攻撃的で、通訳が気分を害してインタビューを止めようとしたほどだった。その時、佐々木雅弘がこう切り返してくれた。『貴方がダニエル氏にヒロシマについて謝罪を求めるなら、ダニエル氏は真珠湾について謝罪を求めてもいい筈だ。だが、そこから何が生まれるのか?』。スタートは悪かったが、その後の日本滞在は素晴らしく、メディアも好意的だった。私が会った被爆者は、誰一人として謝罪を求めたり怒りを見せたりしなかった。被爆者たちは一般的に謝罪を求めていないと聞いている。彼らにとって、謝罪を受けることより重要なのは、体験を伝えることなのかもしれない。核爆弾の恐ろしさを伝えて、二度と使われないようにする為に」

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――謝罪について問われて、「戦争を始めたのは日本じゃないか」と反論したくなったことは?
「無い無い、私にはそうした怒りは無い(笑)。ただ、祖父は言い返したことがある。確か1958年のテレビインタビューで、彼は『原爆を使ったことに良心の呵責や戸惑いは一切ない。若し、また同じ状況に直面したら、再び投下を決断するだろう』と語った。これに広島市議会が激怒して、祖父に発言の撤回を求める手紙を送った。祖父は、戦争に至る経緯を順序立てて説明する丁重な手紙を送り返し、『若し日本が真珠湾を奇襲攻撃しなければ、これら全てのことは必要なかった』と結論付けた。つまり、祖父は『そっちが先に始めたんだろう』とやり返した訳だ。しかし、私はこうしたやり方が有益だとは思わない。私たちは当時を生きた当事者ではないからだ。戦争を経験していない世代のアメリカ人と日本人は、再び険悪な関係になりたい訳ではない。だから、『謝罪しに来たのか?』と聞かれたら、私は『あの戦争の全ての痛みを注意深く、公平に見ようではないか』と答えるだろう。(相手の行動の)理由を知ろうとすることも役に立つ。私は、(真珠湾攻撃の際に日本の首相だった)東條英機の曾孫である東條英利とメールのやり取りをしている。私たちは昨年、オーストラリアのテレビ番組に其々遠隔地から出演したが、中立の立場を探そうとしている点で互いに共感できた。『そっちが先に始めたんだろう』と言い合うより、(過去の敵と味方が)一緒になって、当時何が起き、何故あれほど険悪な関係に陥ったのかと考えるほうが有益だ。非難や怒りを差し挟まずに、歴史の経緯を振り返る作業だ」

――今から言うことは、何かを非難することが目的ではありません。単なる質問だと思って聞いて下さい。貴方は今まで、日本人に対して罪の意識を持ったことはありますか?
「ノー。何故なら、私はあの時代を生きた世代ではなく、戦争に直接関わっていないからだ。私が感じるのは“責任”という意識だ。物事を良くする為に尽力する責任だ」

――過去に対する責任ではなく、未来に対する責任だと。
「過去の行為に対する責任ではなく、過去に背を向けずに人の役に立つという意味での責任だ。『当時の人間でないから関係ない』というのではない。被爆者たちが素晴らしいのは、アメリカ人がこの問題に積極的に関わり易いよう配慮してくれる点だ。彼らは、怒りや非難の応酬を抜きにして接してくれる。とても礼儀正しく、『貴方は知る必要がある』と言ってくる。『どんな体験だったか、知らなければならない。私が教えてあげよう』と」

――「知る必要がある」と言われて、非難されているように感じたことは?
「無い。一度も無い」

――貴方はトルーマン元大統領自身ではありませんが、日本人は“トルーマンの孫”として貴方に接するでしょう。『自分はあのトルーマンではない!』と叫びたくなったことは?
「無いよ(笑)。私は偶然、大統領の家系に生まれた。重荷になることもあるかもしれないが、それをできる限り建設的に使うべきだ。家族の名声を責任を持って生かしていくのが責務だ」

――こういう取材を受ける時には、トルーマンの孫として答えているのか、それとも貴方自身の言葉として語っているのですか?
「2つのアイデンティティーがあると感じることはあるが、両者を切り離すのは難しい。常にトルーマンの孫として生きてきたから、それ以外の生き方を知らない。メディアの質問には両方の立場で答えている。孫として話す時、例えば『祖父はどんな人だったか?』と聞かれれば『いい人だった』と答えられる。正直で単刀直入で、正しいことをやろうとする人。ヒロシマとナガサキで多くの犠牲者が出たことに、非常に心を痛めていた。彼は、『戦争を早く終結させて、アメリカ人の命を救う為に原爆投下は正しい判断だった』と戦後も信じていたが、一方で犠牲者を悼んでいた。公の場で何度かそう語っている」

――元大統領は、娘である貴方のお母さんには原爆のことを話していたのでしょうか?
「勿論だ。母は戦時中にホワイトハウスに住んでおり、原爆が投下された当時、21歳だった。原爆投下はトップシークレットだったから、祖父は全てが終わってからしか話せなかったが。母にとっては、原爆が戦争を終結させ、人々の命を救ったというシンプルな話だ。彼女は、より大きな全体像を見ようとする人ではなかった」

――そのお母さんから、原爆について話を聞かされたことはありますか?
「記憶には無いが、学校で原爆について教わった時、母に『本当におじいちゃんがやったの?』と聞いただろうと思う。覚えていないが、母はきっと『勿論よ』と即答した筈だ。母は8年前の2008年に他界した。私が広島と長崎を訪問する前だ。彼女が生きていたら、何と言っただろう。私の訪日を凄く喜ぶかといえば、それは疑問だ。恐らく私は、何故日本に行くのか丁寧に説明しなければならなかっただろう。母は、訪日を“謝罪”とか“弱腰”と呼ぶ人々と同じ考えだったかもしれない。祖父のたった1人の子供で、あらゆる面で祖父を擁護していた。私の活動について語り合うのは、互いに難しかっただろう」

――若しお母さんが生きていたら、聞いてみたいことは?
「特に無いな(笑)。ただ、『彼女を違う方向に後押しできたらいい』とは思うかもしれない。少なくとも、ただ怒りを募らせるのではなく、事実を認識して共感する方向に。これはある意味シンプルなことで、ヒロシマとナガサキで起きたことを直視し、『酷い! 自分たちには何ができるのか』と考えること。それだけのことだ。戦争は終わったし、終わってから71年も経つ」

――では逆に、子孫や孫に伝えたいことは?
「あらゆる物語について、真実は常に中間にある。全ての物語はその人の視点で語られていて、必ず偏っている。語る人の生い立ち・両親・育った場所・仕事の内容等、全てが視点に影響するし、人は自分なりの見方があるとそれに固執するものだ。しかし私は、世界は信じられないほど複雑だということを知った。ものの捉え方は膨大にあり過ぎて、全部を網羅することは不可能だ。それでも、第2次世界大戦が起きるに至った歴史について、全体像を知る為にできる限りの努力をすべきだと思う。『可能な限り、多くの視点で物事を見るべきだ』と、私は子供たちに常に教えようとしている。『偏見に捉われるな。自分と違うからといって相手を嫌ったり無視したりするな。相手が何故そう考えるのか理解できるよう、努力しろ』と。私が付き合い難いと感じるのは、極端な思想を持ち、それを少しも曲げようとしない人だ。『原爆投下は誤った判断で、祖父は最悪だ』という見方もあれば、反対に『日本人が戦争を始めたのだから当然の報いだ』という見方もあるが、どちらも同じくらい不倫快だ。その中間に立つ人々が、理解するのに苦しんでいるのだと思う。

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――オバマ大統領の広島訪問について、どう思いますか?
「素晴らしいことだ。そう思わない理由がどこにあるのだろう。私はホワイトハウスに手紙を送り、広島と長崎訪問を促したことがある。『訪問が難しければ、アメリカ国内で被爆者と面会すべきだ』と進言したこともある。オバマは2009年(のプラハ演説で)、『アメリカは原爆を使用した唯一の国として、核兵器の削減や廃絶に主導的役割を果たすべきだ』と語っていた。だから、私が2012年に訪日した際、被爆者は『オバマに来てほしい』と言っていた。被爆者が望んでいるのは核廃絶だ。広島で亡くなった人々に敬意を示すのは勿論立派な行為だが、オバマ大統領には少なくとも数人の被爆者に会って、直接話を聞いてほしいと思う」

――とはいえ、オバマは原爆投下を命じた張本人ではありません。それでも彼が広島に行くことの意味とは?
「現職の大統領だからだ。ジミー・カーター元大統領も訪れているが、退任後だった。現職のアメリカ大統領が広島を訪れるのは、これが初めてとなる。原爆は今も存在しており、大きな政治課題だ。オバマなら、『原爆は誰にとっても悪であり、アメリカが核廃絶を主導していく』との決意を語ることもできる」

――オバマが謝罪することはないでしょうが、若しも彼が「原爆投下は間違っていた」と述べたら、貴方はどう思うでしょう?
「そんなことは言わないだろう。これは私の想像でしかないが、若しそう言ったとしても、一部の日本人は喜ぶかもしれないが、多くは喜ばないと思う。私の感覚では、それは全ての日本人が望んでいることではない。それに、『原爆投下は過ちだった』と口にすれば、大半のアメリカ人は激怒するだろう。繰り返しになるが、謝罪は求められてはいないのだと思う。求められているのは、何があったのかを正直に認めることだ。私なら被爆者に、こう言える。祖父は戦争を早期に終結させ、アメリカ人の命を救うことを最優先にして原爆投下を決断した。彼は『日本人の命も救いたい』と願ってはいたが、優先的に考えたのは自国民の命だ。私は祖父を敬愛している。だが一方で、私には、その決断によって酷く傷付けられた友人たちがいて、彼らのことも敬愛している。被爆者たちは、祖父の決断によって大きく、大きく傷付けられた。オバマ大統領は、こういう言い方もできるかもしれない。アメリカは、すべきと思うことをやった。だが、それが齎した傷についても認めないといけない。同じように、日本人も連合軍の戦争捕虜の扱いを巡る問題を認めるのに苦労してきた。誰も悪者にはなりたくないし、なる必要もない。私は、『日本人がアメリカ人の戦争捕虜を傷付けた嫌な国民だ』なんて決して思わない。戦争捕虜を苦しめた日本人もいたが、それは日本人全員ではない。日本人を集合体として語ることはできない」

――原爆について、日本側の物語を「知らなければよかった」と思ったことはありますか?
「ノー、ノー! 中々話す機会が無いのだが、日本に行った時、成田空港から宿泊先の品川に向かう電車の中で物凄く興奮したんだ。『日本にいるんだ! 凄い!』と。窓の外には田圃と家屋が見えた。私は“鉄腕アトム”のような日本のアニメを見て育ち、大人になるにつれて更に多くの日本のものがアメリカに入ってき た。息子と一緒に宮崎駿監督の映画も見た。だから、日本に着いた時は『素晴らしい!』と嬉しくなった。真面目な目的で訪日していたから注意が必要だったが、実際には心から嬉しかった。日本で寿司を食べる、広島でお好み焼きを食べる、酒を飲む。最高だった。いつも話から漏れてしまうが、私たちは日本の食べ物も文化も大好きだ。それに、私には佐々木雅弘や祐滋という友人がいる。彼らと一緒にいるとつい笑いそうになって、テレビカメラの前で真剣に見えるよう気を付ける必要さえあった。最高の瞬間だった。いつか、単なる観光客として日本に行きたい。これまでは観光する機会が無かったから、今度はちゃんと観光がしたい。2度目の訪日で最も良かったのは、私と息子、知人の長崎在住のアメリカ人の3人だけで過ごした夜。うどんを食べた後、息子と知人は買い物に出掛け、私は1人でホテルに歩いて戻った。ぶらぶらと、周りを見ながら。いつかまた、日本に行きたい」

               ◇

インタビューを終えると、「また近々お会いしましょう」と言ってダニエルと別れた。玄関の外まで見送りに出てくれた彼と握手をし、日本式に互いに一礼をして、笑顔で手を振り合った。繰り返しになるが、ダニエルはトルーマン元大統領その人ではない。それを知っていながら心の内を問い質すような質問をぶつけたのは、それらの問いが全て、筆者自身が祖父の過去巡って長年、自分に問い掛けてきた疑問だったからだ。筆者の亡き祖父は戦時中、岩手県釜石市にある連合軍捕虜収容所の所長を務めていた。終戦後、祖父はアメリカ率いる連合軍に“戦争犯罪人”として裁かれ、収容所での管理責任等を問われてB級戦犯となった。筆者は、今から20年前の高校時代に祖父が書いた戦争体験記を読み、“教科書以上”の歴史に初めて触れた。まさに、ダニエルにとってサダコの本がそうであったように。戦後30年が過ぎた頃、祖父は釜石の収容所にいたオランダ人の元捕虜と文通を始め、収容所での生活を振り返ったり、家族の様子を伝え合う等友好関係を築いていた。巣鴨プリズンを出所した後に記者になった祖父は、手記の中で、「自分は捕虜を守る為にできる限り尽力した」と固く信じていた。孫である筆者も、7歳の時に他界した“優しいおじいちゃん”を敬愛していた。その一方で筆者は、何故祖父が戦犯として裁かれたのかが知りたくなった。答えを求めて、大学時代にアメリカに留学すると、それまで知らなかったアメリカ側の物語が目の前に広がった。祖父の収容所にいた人を探して、アメリカの元捕虜が集まる戦友会に参加すると、祖父を直接知らない人から“元捕虜収容所長の孫”という理由で冷たい視線を向けられ、中には怒りをぶつけてくる人もいた。国際政治の授業で原爆のキノコ雲の映像を見た際には、一部の学生から拍手喝采が上がった。

未だ大学生だった筆者は、「私は祖父本人でもなければ、戦争を体験してもいないのに…」と何度言いたくなったかわからない。「そっちだって原爆を落としたのに、その罪を認めようとしないじゃないか」という言葉が喉元まで出かかったこともあった。一方で、元捕虜たちの体験を聞くと、何故彼らが原爆を正当化するのか、その理由が見えてきた。日本軍が捕らえた連合軍捕虜は所謂“地獄船”で日本に送られ、国内各地の収容所で強制労働に就かされた。その内の約3500人が飢えや病、事故や虐待、連合軍による爆撃等で、終戦を迎える前に死亡している。日本国内で捕らえられていた元捕虜たちは、口を揃えてこう語る。「『アメリカ軍が日本に上陸したら、自分たちは日本軍に皆殺しにされる』と聞かされていた。原爆が私の命を救ってくれた」。原爆使用の是非はさておき、「原爆のおかげで生き延びられた」という認識は、彼らにとっては1つの真実だ。これまでに数十人の元捕虜やその家族に接する中で、筆者が謝罪を求められたことは一度も無い。今では、祖父の収容所にいた元アメリカ人捕虜(94)とその娘たちが家族ぐるみの付き合いをしてくれている。ダニエルは何度も“empathy(共感)”という言葉を使っていたが、筆者が元捕虜から常に受ける印象は『聞いてほしい、そして伝えてほしい』ということだ。ダニエルはインタビューの中で、「被爆者の中には、本当は今も怒りを抱いている人もいるのだろう」と遠慮気味に口にした。アメリカで原爆正当化論は根強いが、少なくとも彼は被爆者の心情を理解しようとしている。翻って日本人は、アメリカが何故原爆投下を正当化するのかを十分に考えてきたと言えるだろうか? 過去ではなく、未来に対する責任。ダニエルは今、広島で被爆した日本の友人をモデルにした絵本を制作している。サダコの本からインスピレーションを得た英語の本だ。挿絵を描いたのは、サダコの本に出合わせてくれた長男。これが、彼が“empathy”の先に見い出した1つの答えなのだろう。 (取材・文/本誌ニューヨーク支局 小暮聡子)


キャプチャ  2016年5月31日号掲載




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