【天下の暴論2017】(04) そろそろ止めたらどうかパラリンピック

20170512 12
パラリンピック、そろそろ止めたらどうか? 障害者を見世物にするのは、やはりよくないと思う。不健全だし、不道徳だし、下種だし、卑劣だし、つまらないし、アホ臭い。何かあれば「障害者差別だ!」と騒ぎ立てる世の中である。小人プロレスも、テント小屋でフリークスを見世物にするのもNGになってきたのに、何故パラリンピックは野放しになっているのか? 恐らく、次のような反論が戻ってくるのだろう。「障害者を見世物にしているのではない。頑張っている人を応援しているだけだ」「障害を乗り越えてスポーツに励むことの何が悪いのか? あまりに心の貧しい見方ではないか?」「彼らは立派なアスリートだ。“障害者”と一括りにするのは失礼だ」。一度、頭を冷やしたほうがいい。「大衆は小さな嘘より大きな嘘の犠牲になり易い」と言ったのは、オリンピックを国威発揚の場として利用したナチスのアドルフ・ヒトラーだ。筆者はオリンピックに興味はないが、その存在意義は理解できる。泳ぐのが得意な人たちが集まって、プールで競争する。そこで世界新記録が生れるかもしれない。サッカーやバレーボールが得意な人たちが集まって、華麗なプレーを見せる。それを見て人々は感動する。莫大な利権が絡んでいるので、招致活動に熱心になる人たちの気持ちもわかる。でも、パラリンピックは、スポーツをするのに支障がある人たちが集まる訳でしょう? 義足の人が走ったり、車椅子に乗ってフェンシングをしたり。聴覚障害の人が伝言リレーをやるのは変でしょう? 嗅覚障害の人がソムリエコンクールに出るのは変でしょう? 算数が苦手な人が数学オリンピックに出るのは変でしょう?

障害者をバカにしているのではない。逆だ。「障害者をバカにするな」という話です。障害があるのに、敢えて苦手なところを使って勝負させる必要はない。身体が悪いなら頭を使い、頭が悪いなら身体を使えばいいだけだ。スティーヴン・ホーキングに求められているのは、理論物理学の研究であり、カヌーを遭ぐ技術ではない。抑々、パラリンピックは“パラプレジア(麻痺)”とオリンピックを掛け合わせた言葉だ。第1回は1960年のローマ大会。当時は『ストーク・マンデビル競技大会』と呼ばれていたが、1988年の第8回ソウル大会より正式名称が『パラリンピック』となった。1998年の長野パラリンピックでは、クロスカントリースキー種目において初めて知的障害者の参加が認められる。しかし、2000年のシドニー大会において、男子バスケットボール知的障害クラスで金メダルを取ったスペインチームに、障害者を装った健常者がいたことが発覚し、2002年のソルトレイク大会では知的障害者の参加を認めないことになった。尚、2012年のロンドン大会では、陸上・水泳・卓球の3種目に知的障害者が参加している。ここまでくると、殆ど意味がわからない。知的障害だけで身体障害が無いならオリンピックに出ればいいのに。結局、頭の中がこんがらがっているのだ。義足の技術の進化により、健常者の世界記録を抜く可能性もある。義足なら疲れないし、体に機械を組み込めば、あらゆる種目で記録は更新されるだろう。実際、ドイツのマルクス・レームは、カーボン繊維でできた義足を使い、2015年の障害者陸上男子走り幅跳びで8m40の記録を出している。これは、2008年の北京オリンピック、2012年のロンドンオリンピックの優勝記録を上回っている。そのうち、100mを3秒で走り、パワーリフティングで3トンを持ち上げる障害者も出てくるかもしれない。しかし、それを“記録”と呼べるのか? “パラリンピックの父”と呼ばれるルートヴィヒ・グットマンは、「障害者競技は“記録”だけが目的ではない」と言う。第2次世界大戦後、傷痕軍人の治療に当たったグットマンの時代には、こうした物言いも通用したのだろう。しかし、今の時代に「記録は目的ではない」と言う人の“目的”とは何か? ここで、連中の正体は暴露される。結局、こういうことだ。パラリンピックを消費するのは、社会の大多数を占める健常者である。その中でも特に下劣な連中は、障害者が飛んだり跳ねたりする姿を見て感動する“優しい自分”が好きなのだ。「障害にもめげずに努力を重ねる姿を見て、明日を生きる勇気を貰った」という訳である。「同情は特有の厚顔無恥ぶりを伴う」と言ったのは、ドイツの哲学者であるフリードリヒ・ヴィルへルム・ニーチェだが、“麻痺”しているのは、こうした連中の感覚だ。“障害”はカネになる。『五体不満足』(講談社)の乙武洋匡、全盲のピアニストである辻井伸行、聴力を失ったフジ子・へミング、“筆談ホステス”の斉藤里恵…。彼らの仕事について“良い”・“悪い”と言っているのではない。メディアや企業が障害をビジネスに利用している事実を指摘しているだけだ。

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数年前に佐村河内守の事件があった。彼は『交響曲第1番“HIROSHIMA”』を作曲した全聾の音楽家として脚光を浴びたが、ゴーストライターによる代作であることが発覚。障害も偽装だった。問題が発覚した後、「騙された!」「CD代を返せ!」と騒ぎ立てた連中がいた。つまり、彼らは佐村河内の音楽を楽しんでいたのではなく、“現代のべートーヴェン”こと佐村河内の障害を“消費”していたのである。だから、「自分が払った“同情”を返せ!」となる訳だ。病んだ社会では病んだものが求められる。大衆は持病を自慢し、他人の障害を詮索する。連中はハイエナのように、“可哀想なもの”・“不幸なもの”に接近する。優秀なビジネスマンである佐村河内はそれに気付いて、意識的に“商品”を作ったのだ。パラリンピックの構図も同じだ。だからこそ、健常者が障害者を装って大会に出れば大騒ぎになる。障害者の一部は気付いている。車椅子の障害者でコメディアンのステラ・ヤング(※2014年に死去)は、「自分は健常者に“感動を与える為の存在”ではない」と言う。「車椅子に乗って講演を始めれば、聴衆が期待するのは“感動”だ」とステラは指摘する。手が無い小さな女の子が口にペンを咥えて絵を描く姿に、カーボン・ファイバーの義肢で走る子供…。こうしたイメージを、ステラは“感動ポルノ”と名付けた。「ポルノも障害ビジネスも、人間をものとして消費している面においては同じだ」と。尤も、“善意”を隠れ蓑にしている分、後者のほうがタチが悪い。ステラが言うように、障害者は健常者を感動させ、「自分の人生は最悪だけど、下には下がいる」とやる気を起こさせる為に利用される。正気を取り戻すべきだ。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが偉大なのは全聾だからではない。スティーヴィー・ワンダーが偉大なのは全盲だからではない。フィンセント・ファン・ゴッホが偉大なのは耳を切り落としたからではない。こうした“常識”が通用しない人間が、かなりの数存在するのが、残念ながら今の世の中だ。一度、パラリンピックを見て感動する自分の顔を鏡に映してみたらどうか? オリンピック憲章によれば、その目的は“人間の尊厳を保つ”ことだという。パラリンピックも同様の理念に基づき、早急に廃止すべきである。 (作家・哲学者 適菜収)


キャプチャ  2017年4月号掲載




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