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【呉座勇一の「問題解決に効く日本史」】(39) 上司を論破しても敵を増やすだけ! 西郷隆盛に学ぶ人望の作り方

上司や同僚との人間関係に悩む社会人は少なくない。しかし、性格や仕事上の方針が合わないからといって、その人間関係を避けるわけにはいかない。どう付き合っていけばいいか。実は西郷隆盛が参考になる。西郷隆盛は薩摩藩の下級武士の家に生まれ、兄弟が多かったこともあり、幼少期には布団も不足する程の貧乏生活を送った。西郷は18歳で藩の役人となる。業務を通じて農民の苦しい生活を知り、農政改革の意見書を藩に提出した。これが藩主の島津斉彬の目に留まり、28歳の時に庭方役に抜擢された。同役は藩主の側近くに仕え、機密事項に与る重要ポストであった。以後、西郷は斉彬の側近として、将軍継嗣問題等の政界工作に従事する。ところが、32歳の時に斉彬が急死してしまう。幕府は一橋派(※一橋慶喜を次期将軍に就けようと画策していた斉彬らの派閥)に対する弾圧を強め(※安政の大獄)、前途を悲観した西郷は鹿児島湾で入水自殺を試みる。蘇生した西郷は、藩の命令により、奄美大島で流島生活を3年程送る。さて鹿児島では、新藩主・島津忠義の実父である島津久光が藩の最高権力者の座に就いた。久光の信任を得た大久保利通は、久光に働きかけ、盟友である西郷隆盛を藩政に復帰させることに成功した。この頃、島津久光は兵を率いて上洛し、幕政改革を行なおうと考えていた。しかし、久光と面会した西郷は、久光の計画は「無謀である」と痛烈に批判する。挙げ句の果てには、久光を“地ゴロ”と呼び捨てたという。地ゴロとは、薩摩の方言で“田舎者”という意味であった。田舎者の久光が京都に行ったところで、幕政改革などできる筈がない、という趣旨の発言だったらしい。

久光が不愉快に思ったことは言うまでもない。嘗ての主君である斉彬を崇拝していた西郷は、久光を斉彬と比較して劣ると見做していたのだろう。そのような久光を軽んじる気持ちが、地ゴロ発言に繋がったのではないか。西郷は更に久光の許可なく大坂に行き、勝手に政治工作を行なった。これを知った久光は激怒し、徳之島、更に沖永良部島への流島を命じた。沖永良部島での流島生活は、粗末な座敷牢に閉じ込められるという過酷なものだった。けれども、沖永良部島での苦難は西郷の人格を磨き、これまでの自分の生き方を反省するきっかけにもなった。薩英戦争に敗れて危機的状況に陥った薩摩藩は、藩の立て直しの為に西郷を呼び戻した。38歳の時である。再度の復帰を果たした西郷は、以前とは別人のようだったという。嘗ての西郷は己の才能を恃んで、誰に対してもズケズケと直言する人間だった。ところが、復帰後の西郷は謙虚で口数少なく、自分の本心を心の奥に隠すようになった。久光に対しても議論をふっかけるようなことはせず、敬意を払った。こうした態度の変化によって、西郷は益々人々から信望を集め、薩摩藩を代表する政治家へと成長していく。西郷隆盛というと、度量の広い大人物のイメージが強い。だが、西郷は生まれながらにそのような人間だったわけではない。寧ろ自分の意見が正しいと思うと、相手を徹底的に論破するような攻撃的・感情的な人間だった。西郷は、自分の激しい性格が失脚に結び付いたことを反省し、人間関係の円滑化の為に意識的に謙虚に振る舞ったのである。結果的にその努力は、明治維新という大仕事の土台形成にも繋がった。近年は論破ブームというものもあったが、上司や同僚をやりこめても敵を増やすだけである。我々は西郷を手本にして、周囲の人間のプライドを傷付けことなく、正しい結論に導く議論の進め方、配慮を身に付けるべきだろう。


呉座勇一(ござ・ゆういち) 歴史学者・信州大学特任助教・『国際日本文化研究センター』機関研究員。1980年、東京都生まれ。東京大学文学部卒。著書に『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)・『頼朝と義時 武家政権の誕生』(講談社現代新書)・『戦国武将、虚像と実像』(角川新書)等。


キャプチャ  2023年9月19・26日号掲載
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テーマ : 歴史
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