【平成の天皇・象徴の歩み】(01) “老い”見つめた胸中

天皇陛下の退位を実現する特例法が今月9日、成立した。光格天皇以来、約200年間無かった退位をすることになった天皇陛下が、常に途切れることなく、安定的に続くことを偏に念じる“象徴の務め”に込められてきた思いとは何か? 関係者の証言を交えながら探る。

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陛下が退位の考えを側近らに初めて伝えられた2010年夏頃には、陛下の健康診断で心臓の冠動脈が一部狭まる“狭窄”の兆候が把握されていた。発表するような段階ではなかったが、この頃から陛下は時々、胸に違和感を覚えられるようになった。神奈川県の葉山御用邸で静養中の同年9月、和船を漕いだ後、胸を押さえてしゃがみ込まれたが、狭窄が原因かははっきりしなかったという。この2ヵ月前の7月22日。陛下は参与会議で、「高齢で象徴の務めが難しくなれば退位しかない」との考えを示された。驚いた宮内庁参与や長官らは、前例のある摂政を立てることを勧めたが、陛下の考えは変わらなかった。「加齢で進行する心臓の病の存在も、決断の背景にあったのでは」と当時の関係者は察した。宮内庁は2011年2月、「激しい運動で心臓への血液の供給が不足する“心虚血状態”になる」という検査結果を発表。内服薬での治療が始まった。1ヵ月後、東日本大震災が発生した。7週連続のお見舞い等に奔走される中、狭窄は進み、陛下は2012年2月、心臓バイパス手術に踏み切られた。

手術が成功すると、当時78歳だった陛下は、従来にも増して務めに励まれるようになった。3月4日の退院から僅か1週間で、大震災の追悼式に出席された。同月下旬、クウェートのジャビル・アハマド・サバハ首長が来日すると、歓迎式典と宮中晩餐会は欠席したが、会見には自ら臨まれた。陛下は82歳の首長に配慮し、一緒の時は宮殿のエレベーターを使ったが、1人になるとリハビリの為に階段を使われた。御所でも、階段の上り下りや足腰を鍛えるスクワットを日課にされた。「陛下の足に節肉が付いてズボンがきつくなった」。そんな裏話も囁かれた。手術の3ヵ月後には、エリザベス女王の即位60年を祝うイギリス訪問も果たされた。「行事出席の要請にも全て応じられる」。側近が目を見張る回復ぶりだったが、体力面とは別な“老い”と向き合われる場面が徐々に増えていった。「文化功労者に選ばれたことを心からお祝いします。長年…」。2013年11月、文化勲章受章者らとの茶会でお言葉が止まった。10秒ほどの沈黙の後、紙を取り出して続きを述べられた。お言葉の原稿を懐に忍ばせるようになったのは、心臓手術の頃からだった。「長めのお言葉でも原稿を見ない。かなり先の行事の説明をメモひとつ取らずに聞き、当日の所作は完璧だ」。階下の記憶力は周囲を驚かせてきたが、説明のタイミングは、徐々に本番の前日・当日・直前とずらされていった。戦後70年を迎えた2015年8月の全国戦没者追悼式。黙祷後のお言葉を、陛下は黙祷を待たずに述べ始められた。4ヵ月後、82歳の誕生日を前にした記者会見で、「年齢を感じることも多くなり、行事の時に間違えることもありました」と率直に明かされた。戦没者追悼式は、体調が悪い中、昭和天皇が最後に臨んだ公務だった。「大切にされてきた追悼式の出来事で、本当にショックだったようだ」。陛下を支える側近らは、陛下の胸中を思い、肩を落とした。2016年に入り、陛下の退位の意向を巡る政府の検討が本格化し、同年8月のお言葉発表に至った。老いと対峙しながら、象徴天皇であり続けることの難しさを、陛下は初めて国民に訴えられた。

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「言葉だけでなく、心を込めて視線を交わされる。この国民との相互のやり取りの積み重ねこそ、象徴天皇制の定義付けそのものだったのではないか」――。前侍従長の川島裕さん(75)は、天皇陛下の傍で12年間仕えた末に、そんな考えに至ったという。即位の時から陛下が“目線”を重視されてきたことは、2007年に出版された『卜部亮吾 侍従日記』に見ることができる。卜部さんは、1969年から1991年まで侍従として2代の天皇に仕え、平成の代替わりの舞台裏も日記に残した。「御料車のナンバーについて皇ナンバーにご抵抗あるやに」。陛下が即位されてから1ヵ月後の1989年2月7日の記述。御料車とは、ナンバープレートに皇室の“皇”の印がある天皇の車だ。昭和天皇は『日産自動車』の『プリンスロイヤル』を使っていた。特別仕様の大型リムジンで8人乗り、ドアは観音開き、車高約1m80㎝と、堂々たる外観を誇ったが、陛下は一般のセダンタイプに近い車を使うことを望まれた。「座った時に、沿道の人々と丁度目線が合う」。陛下はセダンタイプを望む理由を、側近にそう明かされたという。プリンスロイヤルは、椅子の座面までの高さが約80㎝あり、セダンタイプより20㎝程度高かった。即位後初の地方訪問となる徳島県での『全国植樹祭』を控え、陛下が使われる車について検討された。同年3月14日の卜部日記に、その結果が残されている。平成になり、陛下の意向でリムジンタイプのロイヤルを使用するのは、国会開会式や国賓の接遇といった重要な機会に限り、地方や都内の訪問は、当時の『プレジデント』や『センチュリー』等セダンタイプを使われるようになった。

卜部日記によると、徳島訪問では他にも変更点があった。「御昼食は御会食に【中略】大膳のお供はなしなど細部についてはかなりの変更が予想される」。昭和時代は、“大膳”と呼ばれる皇室専用の料理人が地方に随行し、昭和天皇は別室で料理を食べた。陛下は、地元が用意した料理を知事や関係者らと囲むことを望まれた。「大膳の出張費を抑えるだけでなく、地元の食材を使った料理を口にしながら、親しく話す機会を求められた」と、当時を知る宮内庁関係者は説明する。終戦直後から続く皇居の清掃ボランティア『勤労奉仕団』との面会方式でも、卜部日記に変更についての記述がある。昭和天皇は、宮殿の車寄せに置かれた台の上から、「皆の元気な姿に接し、喜ばしく思います」と声をかけた。陛下は皇居内の施設で面会し、ボランティアに歩み寄り、「農作物の出来はどうですか?」「台風の影響は?」と話しかけられる。陛下の目線が最初に注目を集めたのは、即位から2年半を迎える頃だった。1991年6月、長崎県の雲仙・普賢岳で火砕流災害が発生し、翌月、被災地に向かった陛下は、避難所で膝をつき、被災者と同じ目線で声をかけられた。当時、官房副長官を務めていた石原信雄さん(90)は、膝をつく天皇の姿を初めて目にした。官邸には「素晴らしい」「感動した」という意見と共に、「遜り過ぎ」「パフォーマンスだ」といった批判も寄せられたが、石原さんは「真摯な姿が伝わり、『これが平成の流儀なのだ』と素直に受け入れた」という。皇太子時代から陛下に仕えてきた元側近は、「あの状況なら当然そうされるだろう」と思っていた。陛下は予て、「沿道に向かって手を振るだけでなく、1人ひとりと目を合わせるように心掛けている」と語られていた。床に座った人と目線を合わせようとすれば、膝をつくし、正座もすることになる――。皇太子時代から心掛けていることを自然に実践された結果、“平成流”と呼ばれるお見舞いが誕生したのだ。元側近は、確信を持ってそう話した。


⦿読売新聞 2017年6月11日付掲載⦿




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