【平成の天皇・象徴の歩み】(03) 海外戦地、痛みたどる

20170707 06
「私の幼い日の記憶は3歳の時、昭和12年に始まります」――。天皇陛下は1999年の即位10年の記者会見で、先の大戦が1945年(昭和20年)8月まで続いたことに触れ、「戦争の無い時を知らないで育ちました」と明かされた。この人生最初の記憶について、陛下から少し詳しく聞いた側近がいる。神奈川の葉山御用邸で両親と一緒に過ごしていると、盧溝橋事件勃発の知らせが届き、昭和天皇が神器の剣璽と共に帰京した――という話だった。静岡の沼津に疎開されていた1944年7月、要衝・サイパンが陥落。アメリカ軍爆撃機の飛来を警戒し、栃木の日光に移られた。「陛下は幼少の時から、節目節目の当事者として戦争を記憶されてきた」と、この側近は話す。戦後60年を迎えた2005年の6月、海外初の慰霊先として皇后さまと訪問されたのは、北マリアナ諸島のサイパン島だった(※右画像)。「何故サイパンに?」。島のホテルで面会した『愛知マリアナ献水会』会長の村瀬範晃さん(80)の問いに、陛下は「太平洋戦争で最初に多くの民間人が亡くなった島です。前から来たいと思っていました」と答えられた。戦争当時、島の水源は限られ、アメリカ軍に水源地を奪われると、日本兵や入植していた民間人は水に苦しんだ。父が島で戦死した村瀬さんは、日本の水を手に島を訪れては供養してきた。

現地では、韓国系住民が天皇の訪問に反対し、ポスターを貼り、ビラを撒いていた。軍人や軍属として徴用された朝鮮半島出身者も、島で犠牲になった。両陛下は韓国平和記念塔の前で車から降り、頭を深く下げられた。微妙な対日感情に配慮し、直前まで伏せられたこの拝礼が知れ渡ると、旧知の在島韓国人会の幹部が「天皇が韓国人をお参りしてくれるとは思わなかった」と村瀬さんに伝えてきた。韓国の報道は「戦争責任への反省が無い」と批判的だったが、島のポスターやビラは回収された。元側近によると、陛下は日本人以外の犠牲も十分理解した上で島に向かわれた。「陛下の慰霊が形だけではないと島の人々に伝わったことが重要だ」という。昨年1月、慰霊に向かわれたラィリピンでは、日本人約52万人、フィリピン人約110万人が犠牲になったとされる。陛下は、妻子を日本兵に殺されながらも、日比の将来を考え、服役兵の刑を解いた故キリノ大統領の孫と面会し、「63年前に特赦を与えてくれたことを忘れない」と伝えられた。国立フィリピン大学のリカルド・ホセ教授も、日本兵に祖父を殺されたが、「戦争の歴史を誠実に受け止め、慰霊を続ける姿が、日比の和解に貢献している」と、陛下に信頼を寄せている。陛下はこの前年、戦後70年の慰霊でパラオのペリリュー島を訪問された。南北10㎞・東西3㎞の小さな島だが、フィリピン攻略に使える飛行場が存在したが故に、サイパン陥落後、約4万人のアメリカ軍が上陸。日本軍約1万人が玉砕した。“本土防衛”の名目で戦場と化した太平洋の島々。陛下は戦局を辿るように、サイパン、パラオ、フィリピンへと赴かれた。「日本軍は民間人を守る筈でしたが、当時はそうばかりではなかったようですね」。村瀬さんは、サイパンで聞いた陛下の一言に、先の大戦に対する透徹した眼差しを感じたという。


⦿読売新聞 2017年6月14日付掲載⦿
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