【新米住職ワーキングプア】(02) 「お寺は檀信徒にサービスするのが当然」という時代になった!?

20170707 16
連載が始まって未だ2回目ですが、早くもピンチに陥っております。何を書くべきか…。滅多にない忙しさが続いたこともあり、気が付けば締め切りを迎えていたという訳です。「何でも自由に書いて下さって結構です」との言葉も頂載しているのですが、これがまた難しい。テーマに縛りがあったほうが、その中で自由に表現できたりしますから、このあたり複雑なところです。しかし、こういうのも視点を変えると、“お勤め”にも通じるものがあるように思えてきますから、そのあたりを少し掘り下げたいと思います。ご法事でお経をあげた後、「扨て、今日の法話はどんな内容でいこうか」と頭を悩ますことは、決して珍しくないのではないでしょうか? 私の場合は特に、参列者の中に知った顔があったりすると、本当にちょっと困ってしまいます。前にしたような話を聞かせるという気持ちが湧いてしまうからです。私が住職を務めるお寺は、門徒数が150軒余りです。親戚筋でご門徒になっておられる方も多く、法事になれば「あの方はこないだもおられたな」といった場面に遭遇することがしばしばあるのです。だから、そうした場で顔見知りを発見すると嬉しくなりますが、それも束の間、気持ちは直ぐに曇り始めます。準備していたお話は、既にこの間、“その人”の前でしてしまっていたことに気付くからです。さぁ、どうするか…。急遽、話の組み立てを変更してみたりと知恵を絞ってみるのですが、やはり付け焼き刃では上手くいかないことのほうが多いものです。結局、消化不良で終えることもままある訳で、反省しきりの日々を過ごしておることでございます。初心者マークの住職が陥りがちな罠なのでしょうか? 目下、必死で門徒さんの家族・親戚関係の顔を覚えているところです。

住職となり、お寺の代表責任者の身となってみて、しみじみ感じていることがあります。「この仕事、意外にクレームが多いのだな」ということです。先の例でいけば、「その話は前にも聞いたよ」といった感じでしょうか。それくらいなら笑って済ませることもできますが、中々厳しいものもあります。「こないだお寺に行ったけど留守やった。きちんとおらんと」等と怒られるのは序の口。手が離せない時に電話のベルが鳴り、取れずにいた際は「電話をかけてもいつも繋がらん」とのお叱りが。「本堂が寒い」等は最早、定番の苦情と言ってもよいでしょう。先日などは「トイレットペーパーが切れとる」等とも。「ここはレストランやホテルじゃなかとよ。自分で補充せんね。見えるところに紙は置いとろうが」とあわや喉元まで出かかりましたが、何とか堪えました。どうも、お寺は今やサービス業のように捉えられているようで、困惑しています。ただ、思い当たる節がないこともないのです。うちのお寺は、先代の時に“念仏奉仕活動”が無くなってしまったのです。お寺への奉仕は“愛山護持”の基本。それが無くなれば、用がある時だけお寺を頼むという接し方にどうしてもなってしまいがちです。そのうちに、門徒さんは“お客さん”の気持ちになっていったのでしょうか。「対応が悪い」「庭に落ち葉が散らかっとる」。果ては、「トイレが少し汚れとった」「呼びかけたのに返事も満足に無かった」等々。「黙らっしゃい」と、つい胸の中で毒づいてしまいたくもなろうというものです。「お寺にいる間は、それこそ落ち着いてトイレにもいけないのか?」。皆様方のところは、どう対応されておられます? うちは代替わりをしたばかりですから、こうしたこと以外にも課題が山積しています。本堂の老朽化に加え、電気機器等の各種設備が更新時期を迎えていること。組織運営の在り方。寺院存続の為の新事業計画。要は、法人としての体を整えようと急ぎ取り組んでいるところでございます。その中で先日、ある方と面談していたところ、住職の給与について話を振ってこられました。「“お寺さん崩壊”時代を迎え、今後の寺院運営をどうしたらよいか?」という流れの中で、「ここはやはり、門徒さんを300軒まで増やそう」という意見の一致をみたところでのことでした。「ところで住職。その場合でも役員報酬ってヤツですね。あれを上げることは反対です」と。先述のように、うちは150軒しか檀家数がありません。損益分岐点以下ですから、読者の皆様が一番ご存知のように、殆ど給与など出ていない訳です。私も当然、兼業している訳です。だから、「私の代はそれでも別に構いませんが、後の代になればそれは逆に通じませんよ。兼業不可の時代になりますから」と返事をしました。すると、件の主が激高したのです。「自分たちは働きながら寺へ布施をしとる。謂わば、手出しで寺を支えとる。住職も同じようにするのが当たり前」と持論を展開する訳です。よく聞けば、この御仁はお宮の総代なんかも経験されており、「神社はそれが普通」と強弁します。「しかし、(地域に根差していた)お宮さんは結局、それもあって神主さんがいられなくなったところが激増しています。お寺もそうなりかねませんよ」。私がそう投げ返すと、「そこは自己責任たい」とのたまう訳で、埒が明かないとはこのことです。どうも“坊主丸儲け”と信じ込んでいる節がありました。「全国のご住職方は、かような誤解が蔓延する中、それでもお寺護持の為に献身的に働いておられるのだな」とつくづく頭の下がる思いのする、そんな出来事でした。

20170707 17
「『寺など潰れても一向に構わない。どこへでも行くアテはある』――現代はそんな風にお寺の足元を見透かすような仰りようをする檀家の方もおられる」とのことを耳にしたりします。「それでは、その方は一体、何の為にそのお寺の檀家となっているのでしょうか?」との疑問が頭を掠めることでございます。それこそ、葬儀や法事を“サービス”商品と同じようなものとして捉える檀家さんは、お客さんの感覚で、“お布施”を仏事への“対価”として支払っているように見えます。自動販売機から出てくる飲み物は、同じ銘柄のものであればどれも同じ味がするものです。若し、それと同列に仏事を捉えたとしたならば、先程のような意見が出てきても不思議ではありません。しかし、その認識には大きな間違いがあるのではないでしょうか? お寺に檀家として態々所属する。そのことの意味するところは、そのお寺の住職と仏道を歩む為であって、そうした延長線上に法事等も位置していると考えられるからです。葬式仏教等と揶揄されもしますが、別にお寺は葬儀や法事のみを頼まれるところでもない筈です。本来は、上手に悟りの道(※心の安寧を齎す世界)へ導いてくれるお坊さんを訪ね、帰依していく。ここが第一義ではないでしょうか? そうしたご縁を得る中で、そこの檀家となる。結果的に法事や葬儀にもご縁ができる。腕の良い医者さんのところへは、遠方からでも人が訪ねてきます。そのようなイメージが近いでしょうか。檀家になるという決心は、本来的にはそんな過程を経てなされるべき性格のものに思えて仕方ありません。

しかし、伝統仏教系のお寺は、既に寺檀制度の中で檀家が確定している時代が長く続いてきました。檀家も住職のほうもどちらも、マッチングという意味においては気が付かないうちにそうなっていたという形です。双方が互いに覚悟して、納得の上で寺檀関係を切り結んだということではありませんから、時代が下がるにつれて、檀家にとってお寺は(仏事)サービスを提供する場として捉えられ、いつしかそうした空気に双方が支配されてしまったのでしょう。「潰れれば他へ移るから別に問題ではない」というような発言を鑑みる時、まさにお寺はサービス業と認識されていることがわかるのです。しかし、均質なサービスとしての仏事こそが寧ろ例外であって、本来、お寺というものは相当に個別性が強いものでありましょう。住職が強い指導力を発揮して衆生を導き入れ、仏法に帰依させている筈だからです。お寺と関わるということは何を意味するのか? 現代社会では、そうした本質的な議論がなされることもなく、専ら仏縁を得ることの意義が薄れてばかりいることは残念で仕方ありません。勿論、「どこを頼んでも(仏事の内容は)同じようなもの」と受け止められてしまいがちな、私たちお坊さんのほうも足元を見つめ直すことが求められていることでしょう。「意味のわからんお経を我慢して聞いとる」との辛辣な意見等は、しっかりと受け止めていきたいところです。新米住職としては、「もっと住職の個性や地域性等を積極的に打ち出した運営を、勇気を出してやってみるかな」と改めて思っているところです。先日、生命保険屋さんがお寺を訪ねて来られました。勿論営業ですが、その中身が中々に興味深いものでした。「住職に生命保険をかけてお寺を守りましょう」というものです。「宗教法人であるお寺が保険契約をすることで、住職の身に何かあった場合にでもその家族の行く末を守る。また、お寺での葬儀費用の負担等も捻出できる。後任を呼ぶ場合の資金にもできる」というものでした。地方寺院というものは、まだまだ法人の体をなしていないところが多いのではないでしょうか? 家族経営の自転車操業という実態の中、給与規定や労働条件の策定、退職金規定等の整備は中々に難しいものがあります。それでも、住職が元気なうちはまだしも、一度何かあれば忽ち、残された者は路頭に迷うことになります。「住職の家族がお寺から無下に追い出された」とか、「法人通帳を檀家が押さえて、『これは自分たちのもの』との主張の下、残された家族に1円も支援が無かった」等々の話を耳にするにつれ、娑婆の世知辛さを実感する訳です。住職がどれほどボランティア精神でお寺事を回してきたとしても、それが適切に評価されることは未だ稀でしょう。繰り返しますが、お寺は家族経営であって、法人の体をなしてないからです。この営業マンとのご縁をきっかけに、新住職としてお寺を守りつつ、後の憂いを無くしておく体制作りを急がねばならないと発憤しておることでございます。


水月昭道(みづき・しょうどう) 浄土真宗本願寺派住職・環境心理学者・評論家。1967年、福岡県生まれ。九州大学大学院博士課程修了。博士(人間環境学)。著書に『高学歴ワーキングプア “フリーター生産工場”としての大学院』(光文社新書)・『他力本願のすすめ』(朝日新書)・『お寺さん崩壊』(新潮新書)等。


キャプチャ  2017年6月号掲載




スポンサーサイト

テーマ : 社会ニュース
ジャンル : ニュース

轮廓

George Clooney

Author:George Clooney

最新文章
档案
分类
计数器
排名

FC2Blog Ranking

广告
搜索
RSS链接
链接
QR码
QR