『山健組』血みどろの半世紀――6代目と神戸、2つの山口組を割った武断のDNAを解剖!

一昨年、『山健組』は『6代目山口組』を飛び出して、『神戸山口組』を立ち上げた。だが今年は、その山健組内部から有力組長である織田絆誠が離反し、『任侠団体山口組』が結成された。山口組の保守本流ながら、何故、山健組は山口組を割り続けるのか? 好戦的過ぎるそのDNAに迫る。 (取材・文/フリーライター 本郷海)

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山健組の初代である山本健一は、神戸の不良だった1951年、山口組の安原政雄若頭と知り合って渡世入りした。1953年には、当時の人気俳優だった鶴田浩二を煉瓦やウィスキーの瓶で殴り付ける事件に関与して、懲役刑を受けている。その後も、山健初代は進んで対立抗争に参戦。その働きぶりを田岡3代目に認められ、1957年には山口組直参に昇格し、田岡3代目のボディーガード兼秘書役を任された。その後、1960年に山健初代は山健組を旗揚げし、1962年の伝説の鉄砲玉・夜桜銀次が殺された“博多事件”や、翌年の仁義なき戦いで知られる“第2次広島抗争”等、山口組の全国進攻作戦で活躍。それらの功績が認められ、1963年に若頭補佐に昇格し、1971年にはナンバー2の若頭に就任した。当時の組員数は、地元の神戸を含めた関西・九州・東海等に僅か500人ほどだったと言われている。若頭就任から4年目の1975年、山口組と大阪の老舗博徒『2代目松田組』との間で“大阪戦争”が勃発。1978年7月、京都のナイトクラブで田岡3代目が松田組傘下組織の鳴海清組員に銃撃されると、山健初代は本家若頭として、松田組への徹底的な報復戦の陣頭指揮を執った。“山健組の三羽ガラス”と称された渡辺芳則会長(※後の5代目山口組組長)の『健竜会』、杉秀夫会長の『健心会』、盛力健児会長の『盛力会』らが中心となり、松田組へ“血の報復”を繰り広げた。先ずは同年8月、同組の大阪地区責任者格だった盛力会長が牽引する盛力会の幹部2人が、大阪市内の銭湯で松田組の傘下組織幹部を襲撃し、射殺する。「後に、この事件で盛力会長を筆頭に、幹部や組員ら7人が逮捕・起訴された。盛力会長は首謀者として、懲役16年の刑を打たれている。長い懲役に服することになったが、盛力会は一層怖れられるようになった」(関西で活動する他組織幹部)。

「盛力会に後れを取るな」と、翌9月には、渡辺会長が率いる健竜会の幹部2人が、和歌山市内にある松田会傘下の『西口組』組長宅を襲撃。当番で詰めていた同組組員の2人を射殺した。この事件で、当時は服役中だった渡辺会長に代わって、同会の理事長補佐として陣頭指揮を執ったのが、現在の神戸側の井上組長である。大きな戦勲の代償として、三羽ガラスが関わった事件の中では、最も重い17年の長期服役を余儀なくされた。だが、この勇猛果敢な事件に参画した井上組長の勇名は、“健竜会に井上あり”として業界中に広まることとなったのだ。更に同年10月には、会長が統率する健心会の組員2人が、大阪市内のスナックで、松田組傘下の村田組若頭を銃撃して、重傷を負わせている。この事件で、杉会長始め同組の幹部ら6人が逮捕され、大半が懲役6年の判決を受けた。「一連の報復攻撃によって、山健組では数多くの幹部や組員が逮捕され、それらの懲役を合算すると数百年にも及んだ。大阪戦争では、他の山口組直系の傘下組織も奮戦していたが、業界に最も強烈なインパクトを与えたのは山健組だった」(ヤクザ業界の歴史に詳しい実話誌系ライター)。松田組に対する山口組からの激しい報復が落ち着いた同年11月、現在の6代目側総本部である田岡3代目邸に、若頭の山健初代はマスコミ関係者らを招いた。未だ松田組との手打ちに至っていない段階ではあったが、異例にも山健初代は、テレビや新聞を通じて一方的な抗争終結宣言を行ったのだ。これが、山健初代にとって最後の晴れ舞台となる。別件で保釈中だった山健初代は、マスコミに登場して目立った為、警察当局の怒りを買ったのだ。保釈は直ぐに取り消され、収監された獄中では持病だった肝臓病を悪化させ、1981年7月に亡くなった田岡3代目の後を追うように、約半年後の翌1982年2月に亡くなったのである。山健初代の急逝に伴い、山健組の跡目に就いたのは、若頭である健竜会の渡辺芳則会長だった。予てより山健初代の子飼い中の子飼いと目され、また3年以上に亘って社会不在を余儀なくされた山健初代の留守を守ってきた人物である。「渡辺2代目は、山健初代とは対照的に、“数こそ力”を旗印に掲げ、積極果敢に組織力の増強を図った。瞬く間に組員は増加して、警察当局も驚く変貌を遂げ、“山健組1000人軍団”と呼ばれるほどだった」(山健組の元組員)。着々と2代目山健組が勢力を拡張する一方、田岡3代目と山健初代を相次いで失った山口組は、激動の季節に突入していた。1984年6月、竹中正久4代目誕生を受け入れられない一派が離脱し、『一和会』を結成したのだ。渡辺2代目は、4代目山口組体制が発足すると同時に、若頭補佐に抜擢されて執行部入りしていたが、新しい座布団に落ち着く間もなく、一和会との間で“山一抗争”と呼ばれる史上最大の争いが勃発してしまう。

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翌1985年1月には、遂に竹中4代目と中山勝正若頭(※『豪友会』会長)らが、一和会系のヒットマンに射殺される事態に発展。一度にトップとナンバー2を失う危機的状況に直面した山口組は、全軍を率いて抗争の陣頭指揮を担う若頭として、渡辺2代目を登用した。その期待に違わず、渡辺2代目は山健初代から受け継がれてきた武闘派のDNAを発揮して、過激な報復戦を展開。結果、山一抗争を勝利に導いた渡辺2代目は遂に、1989年7月、山口組の5代目組長に就任する。「渡辺5代目誕生を受けて、山健組では桑田兼吉若頭(※2代目健竜会会長)が3代目組長に就いた。同年、桑田3代目を始め、山健組最高幹部から一気に10人も山口組直参に昇格し、5代目体制内で山健派閥という一大勢力がいきなり形成された。一方で、有力幹部たちが同時期に巣立った為、一時的に山健組の勢力が落ち込むという現象も起きた。だが、当代の出身母体というブランド力もあって、“ヤマケンに非ざれば山口組に非ず”とも称されるほどの権勢を誇り、最盛期には組員総数が7000人を超えたとの話もある」(長年に亘って山口組を取材しているベテラン記者)。山健派閥は、翌1990年7月に更に強化された。桑田3代目と、山健組最高幹部から山口組直参に昇格していた『中野会』の中野太郎会長が、揃って執行部の若頭補佐となり、渡辺5代目の側近として名を連ねたのである。当代の出身母体から2人も執行部入りしたのは、山口組史上初の出来事だった。

中野会長は、初代山健組時代には山健初代の舎弟であり、渡辺2代目体制では舎弟頭補佐を務めていた。“ケンカ太郎”の異名を持ち、懲役に赴くことが多かった為、中野会を中々大きくする機会が無かった。だが、山口組直参に昇格し、若頭補佐に登用された頃から、親分に憧れた武闘派組員が傘下に集まるようになり、中野会の勢力は急激に増大していった。その後、京都に邸宅を構える中野会長は、1992年頃から本格的にイケイケの度合いを増していく。手当たり次第に古都の利権を手中に収めようとする中野会と、地元の老舗組織とが激しく衝突するのは必然だった。同年4月には、中野会と関係の深い不動産業者が、京都の独立組織である『4代目会津小鉄』(※髙山登久太郎会長・当時)の組員によって刺殺。その後も両組織の火種は燻り続け、1995年6月には、僅か26時間ほどの間に14件の発砲事件が発生。翌1996年7月には、京都府八幡市内の理髪店で、散髪中だった中野会長が会津小鉄系組員らから銃撃を受けるに至った。ここで業界中を驚かせたのが、中野会長のボディーガードの仕事ぶりだ。襲撃者に直ぐさま反撃を加え、相手組員2人を射殺して返り討ちにした手際は、山健組系組織の戦闘力をまざまざと見せつけるもの。これから会津小鉄に対して中野会による凄まじい報復が展開されることを想像して、同業者たちは身震いしたという。だが山口組本家では、宅見勝若頭が中野会長と協議することなく、独断で会津小鉄側の謝罪を受け入れてし まった。「ケンカ太郎がこの裁定に納得する筈がなく、これを機に宅見若頭に強い恨みを抱いたようだ。それを察した中野会の幹部らが、1997年に宅見若頭を射殺する事件を起こし、流れ弾で一般人が亡くなったこともあって、中野会長は5代目山口組から絶縁されてしまう。あの事件が無ければ、中野会長は宅見若頭の次の若頭を望めただろうし、そうなれば6代目山口組の司忍組長も誕生しなかったかもしれない」(中国地区に本拠を構える他組織幹部)。2005年4月、3代目山健組相談役から5代目山口組の直参に昇格した、太田守正会長が牽引する『太田会』(※現在の『太田興業』)も、山健組出身の強豪組織だ。太田会長は1972年頃、初代健竜会渡辺会長の舎弟として入門。その後、健竜会傘下に太田興業を結成した。突出した戦闘力と結束力を武器に頭角を現し、また、早いうちから同組の東京進出に尽力した功労者でもあり、関東のヤクザ社会に広い人脈を持つ。5代目山口組直参昇格の際に改称した太田会の名が最も大きくクローズアップされたのは、2007年2月、西麻布で車の後部座席に座っていた『住吉会』傘下の『3代目小林会』幹部が、ヘルメットを被った2人組に射殺された事件だろう。

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この惨劇の1時間後、現場近くに建つマンション1室のドアに銃弾が3発撃ち込まれている。この部屋は太田会傘下組織の事務所だった。「当時、6代目側直系だった太田会と小林会は揉めていた。その為、直感で太田会の犯行だと疑われたようだが、実際は國粹会の犯行だったことが3年後に判明する。勘違いされた太田会は気の毒だったが、それだけ太田会が在京組織のシマに食い込んでいた証拠でもあるし、容赦なく相手組織の人間を射殺する武闘派と認識されていたんだろう」(東京都内で活動する在京組織幹部)。その後、2008年に組織名称を太田興業に改めたが、直後に上層部批判を理に除籍され、組織は解散した。だが、2015年12月に太田興業を再興し、神戸側傘下の山健組で相談役として復帰。更に、翌2016年1月には神戸側直系に昇格し、現在は舎弟頭補佐を務めている。この太田舎弟頭補佐のように、現役で活躍する山健組出身者は、3つの山口組全てに在籍している。其々最高幹部に限っても、6代目側では橋本弘文統括委員長(※『極心連合会』会長)、森尾卯太男本部長(※『大同会』会長)。神戸側では井上組長、太田舍弟頭補佐、岡本久男舍弟(※『2代目松下組』)。任侠側では織田代表の他、本部長補佐等が山健組直参以上の経験者だ。3つの山口組に在籍する山健組出身者らは、互いに伝統的な戦い方を知り尽くしている。その為、今後、3組織間でどのようなパワーバランスが働くのかは未知数だが、万が一事を構えた場合、簡単に済む話ではないことだけは確実である――。


キャプチャ  2017年8月号掲載

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