知られざるインテリジェンス機関としての『731部隊』――生体実験・生体解剖等を行ったとされる“黒い太陽”、公文書発掘で初めて明らかとなった秘密部隊の実像

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日本陸軍が1936年に中国のハルピン近郊に設立した『731部隊』(以下、731)。この秘密部隊の創始者で初代部隊長だった石井四郎軍医中将(右写真)は、活動の中軸を当初の給水活動から防疫活動へ強引に移し、更には生物兵器開発へと突き進んでいった。抗日分子と判断した中国人やソ連人等を“マルタ(丸太)”と呼んで、彼らを多数使って非人道的な秘密の人体・生体実験、及び生体解剖をハルピン郊外の平房研究所で大規模に実行。また寧波等、華中の都市や前線で生物兵器を人体に使用し、多くて1000人の中国人の死者を出したという(常石敬一『細菌兵器と日本軍七三一部隊』-『世界戦争犯罪事典』)。筆者は5年前に、アメリカ陸軍インテリジェンス機関がGHQの民間課報局並びに民事検閲局に出した、占領下の日本の731関係者の郵便物検閲を要請したウォッチリスト(1946年2月の要監視対象リスト)を見つけた。その冒頭で、石井四郎・細菌戦・平房研究所、そしてアメリカ軍に尋問を受けた人物及び、彼らの仲間との会合等、あらゆる情報を郵便物検閲で発見するよう指示していた(拙著『GHQの検閲・諜報・宣伝工作』、8頁)。GHQは占領以来、石井等731の主要メンバーから、戦争責任を問わない代償に、膨大な実験・実戦データや生物兵器の開発情報を独占的に入手しようと必死であった。この文書には石井を先頭に、内藤良一(後の『ミドリ十字』設立者)・正路倫之助・吉村寿人・緒方規雄(何れも戦後医学界の要人)に加えて、石原莞爾(元中将で満州事変の首謀者)等12名の肩書や住所が列挙され、更に部隊関係者と思われる9人のリストが出ている。

石原は、日本の中国侵略を中止させようと動いた中心人物との評価が昨今高い。その石原が731のお尋ね者リストに入っているのは何故か。今回、731の関係資料を漁っている時、その疑問を解く資料に巡り合わせた。1928年の張作霖爆殺事件を起こした河本大作の証言がそれである。「満洲事変勃発後の1933年頃、関東軍副参謀長石原莞爾少将が研究再開を進言し、同時に牡丹江付近で研究と実験をおこなうよう提案した。こうして、関東軍によってこの研究がはじめられたのである。…石原莞爾はこのことについてかたく機密を保持していた」(河本大作 1953年4月10日 中央档案館他編『証言 人体実験-七三一部隊とその周辺』、59頁)。満州侵略の火付け役として中国共産党政権から戦争責任を追及されていた河本が、自身の罪の軽減の為に石原を引き出したとの憶測もあろう。だが、石原のGHQウォッチリストへの登載は偶然ではなかった。列強との軍事力競争で遅れを認識した合理主義者の石原が、石井の提案に飛びついたらしい。「生物兵器開発は資源の少ない日本では不可欠」との石井の意見に耳を貸したのは、石原だけではなかった。後の陸軍省軍務局長である永田鉄山や参謀本部作戦部長の鈴木率道も同様だった(青木冨貴子『731』、52頁)。軍中枢で石井の主張を積極的に排斥した者は、今のところ見当たらない。陸軍中野学校卒業生の満州での活動を追っていたら、『アジア歴史資料センター』で『関東軍防疫給水部略歴』(以下、“略歴”Ref.C 12122501100)という筆者の知らない文書に出会った。関東軍防療給水部とは、731の正式名である。“略歴”は1963年に厚生省援護局が作成したもので、『“悪魔の飽食”ノート』(森村誠一)の巻末に収録されたことがあるが、説明が無く、その後の731関連本では取り上げられていない。この文書の冒頭には、関東軍直轄部隊として731は「部隊長以下全員軍医薬剤官及び衛生下士官兵をもつて編成し各部隊の防疫給水及細菌の研究予防等の業務に従事」とある。医師・薬剤師・衛生下士官だけの特殊な軍隊であることもわかる。次に編成が出ている。

昭和15、8.22 “ハルピン”において編成改正完結、左記の編成をもつて、細菌の研究を担任、各部隊の防疫給水、血清、痘症、予防ならびに練成隊において青少年の教育を実施す。
本部“ハルピン”総務部 第一、二、三、四部
          資材部 教育部(練成隊)
          診療部
支部 牡丹江、孫呉、林口、大連、海拉爾。


続いて、731部隊長の石井四郎や5支部の配置・責任者・隊員数が列記されている。

本部“ハルピン”中将 石井四郎 以下約1300名
支部 海拉爾 少佐 加藤桓則 以下約165名
    牡丹江 少佐 尾上正男 以下約200名
   孫呉 中佐 西俊英 以下約136名
   林口 少佐 榊原秀夫 以下約224名
   大連 技師 安東洪次 以下約250名

731は1940年8月時点で、既に総数2275名の大部隊であることもわかる。終戦の年、1945年1月の資料(『関東軍編制人員表』・防衛省防衛研究所所蔵)によれば、軍人1378人・軍属2075人、総数3453人であるから、戦争と共に巨大化していたことも裏付けられる。細菌培養・病理解明・武器化・情報・調査・管理部門の肥大化の経過もわかる。終戦直前の1945年6月15日には“ペスト”防疫隊を編成し、大連支部に編入している。従来の“証言”にあった本部・支部組織の記述は断片的なものに過ぎず、この公文書で部隊史が系統的に初めて明らかとなった。近年、歴史的資料となる公文書のデータべース化とその公開が進んでいるが、731で検索しても出てこない。だが、“関東軍防疫給水部”等幾つかのキーワード、或いは人名等で丹念に拾っていくと、思いがけない公文書が発掘できることがある。以下、レファレンスコードを記した文書は全て、731に関する公文書である。そこには、これまで知られていなかったインテリジェンス機関としての731の活動が記されていた。『関東軍防疫給水部略歴』に「細菌の研究を担任、各部隊の防疫給水、血清、痘症、予防」とあるように、各戦線に随行して行う“防疫給水”が731の重要な任務であった。それは、兵站に等しい後方支援に相当した。731の戦前の足跡で活躍が目立ったのはノモンハン事件である。“略歴”でも唯一、具体的な戦争の名前として、1939年6月23日から10月上旬まで「部長以下一部“ノモンハン”事件に参加」したとある。関東軍は、この事件でソ連軍に完敗を喫し、多大な損害を出した。その中で731は、軍隊内で「皇軍衛生勤務上嘗て見ざる成果を挙げたるは、真に衛生部隊の誇りとすべく、全軍の亀鑑にして武功抜群なり」として表彰された(岩城成幸『ノモンハン事件の虚像と実像』、246頁)。この時、表彰の対象となったのは、給水部の水浄化や自軍兵士へのワクチン投与であった。防疫部では「ハルハ河にチフス菌を撒いた」という説があるが、はっきりしない。兎も角、731部隊長の石井四郎は、ここぞとばかりノモンハンで存在感を軍内で示した。他の部隊が意気消沈し、関東軍情報部も評価を失墜させる中で、唯一存在意義をアピールできたのは731であった。

この戦争で部隊長自身が開発した石井式濾水器と、それを装備した自動車の効能が認められた。1939年11月、「集団防疫、陣地防疫乃至検索用トシテハ、ノモンハン戦闘ニ於ケル経験ニヨリ、当隊ニ於テ考案設計装備サレタル大型防疫自動車完成」にこぎつけ、1940年型ドイツ軍野戦細菌検索自動車の購入を図った(防衛研究所所蔵資料)。事件後に731の装備要求が一層高まったことがわかる。この頃、巨大な平房の部隊本部や実験施設も完成した。一方、陸軍病院や野戦病院の設備、待遇の“悪口”を挙げた、当時の陸軍・名和克巳軍医少将への『名和閣下報告要旨』が1939年12月に731から関東軍に出されている(Ref.C 13120707900)。「この際、軍内での冷遇を解消させたい」との石井の高揚ぶりが窺える。“防疫給水”の作戦は戦闘地域によって異なる為、各現場でなすべき共通項目を列挙した文書もある。石井部隊の村上隆軍医少佐が作成した『兵要地誌調査研究上ノ著眼』(Ref.C 13021548600)がそれである。

兵要地誌調査研究上ノ著眼(一般共通要目)
一 地形地質
 1 地形竝ニ地質ニ関スル戦略戦術上ヨリ大局的観察
 2 特殊任務遂行上ヨリノ判断
 3 野戦衛生機関運用上ヨリノ調査研究
二 河川、湖沼、湿地
 1 分布状態ト其ノ特性ニ就テノ調査研究
 2 作戦上就中特殊任務ノ遂行上ヨリノ価値判断
 3 野戦衛生機関運用上ヨリノ調査研究
【中略】
五 給水
 1 野戦給水源ノ調査研究
 2 作戦地ノ現有給水能力判定(季節的観察)竝対策
 3 作戦路又ハ要地毎ニ採用スへキ給水方法
 4 給水困難ナル場合ノ対策及編成裝備
 5 特殊任務遂行上ヨリノ著意竝価値判断

各項目に必ず掲げられた“特殊任務”は具体的に説明されていないが、前線での“細菌”散布に関わることと推測される。村上少佐はノモンハンへの参戦直前に、『対“ソ”作戦上特ニ顧慮スへキ主要戦疫ニ関スル地誌学的観察』(Ref.C 13021543900)を部隊内に配布した。具体的な地名として、『黒河、璦琿、孫呉方面出張報告』(Ref.C 13010038600)と『満洲里』(Ref.C 13021547000)がある。『黒河、璦琿、孫呉方面出張報告』の発行年は不明であるが、5月8日から15日にかけ、篠田技師・田中技師・小笠原曹長が蛇類の発生・予防・駆除の研究準備の為に、当時、孫呉に駐屯の河村部隊の協力を得て、適地を求めて孫呉・黒河周辺の湿地帯を回った際の写真入りのリポートである。満州人の注意を惹かずに、また白系ロシア人の研究者とは連絡を避けて実行すべきとの記述が見られる。

『満洲里』は1939年5月に作成され、満州の北西国境の地理・気象の概況を簡単に記し、給水概況は良好としながらも、“予想戦場”の西北方地区は給水源が乏しいとする。市街の概況として、満・漢人3500、白系ロシア人2000、それ以外のソ連人1500の人口構成である(1935年3月の調査)。ソ連側の領事館商業代表部・モロトフ鉄道事務所が残る。衛生状況では風土病は無く、乾燥し、水質良好という。注目すべきは附録である。その冒頭に、在満洲里のソ連人は「本国竝領事館ヨリ特別任務ヲ受ケ巧妙ナル連絡諜報網ヲ構成シ、情報ノ蒐集及宣伝工作ニ従事」している。更に、スパイの現在数は71名で、その内医師が7人、薬剤師が1人であるという。最後に、出入国するソ満国境駅通過者を、日本・イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・イタリア・ソビエト連邦・ポーランド・満州・支那別の一覧表にしている。如何にも“特殊任務”を負った731らしい報告書である。ノモンハン事件での情報伝達の不統一と遅れを敗因と反省した関東軍は、新京の総司令部第2課にあったインテリジェンスの機能を、ハルピンに本部を置く関東軍情報部に集中させる大改革を実行した。その結果、関東軍情報部は6班構成となり、隷下に置く特務機関や特殊部隊は多種多様となった。731もそれに合わせ、先の“略歴”にある“編成改正完結”となった。参謀本部から陸軍中野学校に出された『時局関係部隊ニ人員増加配属ノ件』(Ref.C 04123232100)という1941年7月の文書では、卒業生の約2割がハルピンの関東軍情報部に配置されたことがわかる。各部署に陸軍中野学校の卒業生が配分された。その部署の1つが『ハルピン保護院』である。そこに、ソ連から来た逃亡兵・スパイ・亡命者、そして中国国内の抗日分子等が“保護”という美名で集中管理され、情報人手や親日派への転向工作が図られた。そして、その工作に同調しない収容者は、731の生体実験や解剖のマルタとして転移送(当時の関東軍用語で“特移扱”)された。陸軍中野学校卒の飯島良雄(乙Ⅰ短、元少佐)は、戦争末期に保護院長、つまり現場最高責任者となった。彼は終戦後ソ連に抑留され、ハバロフスクでなされたソ連側訊問調書で、1949年10月20日に次の証言をしている(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』(外国語図書出版所、196頁)。

『保護院』或ハ別名『科学研究部』ハ、哈爾濱特務機関ノ管轄下ニアリ、同特務機関長ハ、当時秋草少将デシタ。『保護院』ハ、一五○名ノ収容ヲ期シ、同院ニハ様々ノ原因デ、満洲領土ニ入リ、日本ノ国境守備隊及ビ警察部隊ニヨツテ取押エラレタソヴエト市民ガ監禁サレテイマシタ。『保護院』ニハ男子丈ガ監禁サレ、彼等ハ色々ノ副業経営的ナ農事ニ従事シテイマシタ。院内ノ規律ハ厳重デ、一寸シタ規律違反ニ対シテモ、之ヲ犯シタモノヲ処罰シ、特ニ収容所カラノ逃亡ヲ企図セルモノヲ処罰シマシタ。私ハ哈爾濱ノ日本特務機関ノ許可ヲ得テ、此ノ様ナ人物ヲ関東軍第七三一部隊ニ送リマシタ。


飯島自身、1945年2月に保護院に移った。その後、終戦までの在任中、40名のソ連市民を実験用に送り、死亡させたと述べた。彼によれば、731に移送された者が他の箇所に移された者と異なり、ぷっつりと連絡が途絶えることから、そこで死亡したと判断した。マルタ扱いをされたことは知らなかったという。彼以外に5人の中野出身者が保護院に勤めた。彼らは飯島同様、管理・工作・調査の部門で広義のインテリジェンス活動を担っていた(中野校友会編『陸軍中野学校』200頁参照)。ここで付言したいのは、飯島証言に中野学校創設者で初代校長でもあった秋草俊が出ていることである(本誌2015年11月号の山本武利『陸軍中野学校の秘密戦教育』)。秋草の名は、飯島の部下だった人物の証言にも登場する。飯島たちは、保護院収容者を特移扱とする際には、秋草の決裁を得たと言う。その際、関東軍情報部長として、秋草は収容者の“処刑”を承知していなかったとは考えられない。731のマルタの大多数は、満州の警察・憲兵隊が捕えた者である。保護院を経た者の比率は低かったものの、彼ら旧中野学校関係者が731の非人道行為に加担したことは疑いようがない。中野学校に1940年12月に入学した村田克己(乙Ⅱ)は、在学中に集団見学した陸軍医学校での石井四郎の発言を記憶している。石井は当時、参謀本部付きで東京にいた。

石井軍医大佐の案内で若松町の軍医学校の研究室を見学。支那事変の始まった昭和十二~三年頃、戦線の各地でコレラ菌が人為的に井戸に投げ込んであり、日本軍が被害を被ったこと。また炭疽菌という馬の体内に入ると一晩で死んでしまう恐るべき細菌がクリークに投げこまれていたこと。特に北満黒河付近で、ある国が炭疽菌をばら撤いたため、三千数百頭の馬が一挙に死んでしまった例などを聞かされた。眼に見えない恐怖の秘密戦である。石井大佐の話によれば、長野県産品の寒天をチリ国が大量に輸入するので何に使用するのか調査したところ、某国へさらに輸出され細菌培養に使用されていることが判明した。諸君の中に北欧の国へ勤務するものがあったら、例え1行でも細菌戦に関係あるような記事など発見した時は是非送って欲しいと言はれたことが印象ことのほか深い。この細菌戦予防のため“防疫給水部”を作られたのが石井軍医大佐であった。

『中野校友会会誌』第29号・1985年

ここで石井の言うコレラ菌や炭疽菌で日本に被害を与えた“ある国”とは、ソ連のことであろう。 その恐怖の細菌戦に打ち勝つには、日本がそれ以上に強力な細菌兵器を開発する必要がある。また、ソ連との細菌戦を制する為の情報なら何でも欲しがっていた。特に、ソ連に隣接する北欧に工作員として派遣される中野学校のインテリジェンス戦士への協力要請の姿勢には、真摯なものがあったことがわかる。

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それにしても、石井の口から“寒天”という語が出るとは、若い戦士には突飛であった。だからこそ、45年前の石井の話を記憶していたのだ。1940年9月30日付で加茂部隊長(※加茂部隊は防疫給水部の通称)の石井四郎は、陸軍大臣である東条英機宛ての『寒天調弁価格ニ関スル件申請』という書類(Ref.C 04122979000)で寒天を取り上げ、それを目立たぬように夜間、屋根の付いた汽車・自動貨車で産地から運ぶ“軍機保護上ノ処置”が重要と述べている。何故なら、「本品ハ○○性○○ヲ培養シ之ヲ各種薬物ニ利用セラルゝヲ以テ其ノ調弁数量等ハ直ニ我軍ノ企図等察知セラルノ虞レアリ。殊ニ昨今世界各国ハ著シク神経過敏トナリ牒報戦ノ潜行盛ンナルト一般国民中ニモ相当深刻ナル歓心ヲ抱キアル者」が多いからであると。石井から言えば、「たかが寒天と言う勿れ」であった。細菌培養には寒天が必需品だった。その売買情報を得るのに、生物兵器の開発を競う列強間では“牒報戦”の様相を呈した。それは、日本国内でなされる時でも秘密戦であった。その為、731ではなく、“加茂部隊”で大量・安価による入手を図った。中野学校生に細菌戦予防のた為の戦略商品として、身近な寒天を挙げた。引用した加茂部隊資料にも寒天が出た。しかし、生物兵器開発の素材として、寒天よりも各種の細菌株・ノミ・ネズミ・モルモット・培養装置等の実設等、もっともっと重要なものがあった。何よりも、マルタが最重要機密素材であった。人体実験を重ねた細菌兵器・生物兵器各種・各段階の器機にも、高い機密の重要度があった。石井にとって寒天は、公言できる限界の素材であった。彼は陽動作戦でそれを出した。寒天は、より重要な機密を隠す為のものであった。彼に言わせれば、「寒天の秘密が守れないのなら、自分の秘密工作全体が水泡に帰す」という気持ちがあったのであろう。石井部隊が1939年3月28日付で作成した『対“ソ”諜報竝防諜ニ関スル事項』(Ref.C 13021546000)という9頁の比較的大きなリポートがある。その“緒言”に、諜報・防諜・謀略が国家存亡に関わる重大事と大上段で述べる。続いて、各国大使館に出入りするものは皆がスパイであり、“大使館関係者以下ニ新聞記者商人宣教師等”に気をつけねばならないと、その頃、東京で暗躍していたゾルゲグループに警戒すべきとでも言うような口ぶりである。そのリポート作成者によれば、何といっても警戒すべきはソ連。満州国の誕生で日本は、樺太に続いて大陸でもソ連という大国を接壌国として持つことになった。

特に注視すべきはハルピンだ。ソ連のインテリジェンス拠点となったその大都市には、第三国の領事館・諜報機関が混在し、人種もユダヤ人や白系ロシア人等が共存し、入り乱れる。ソ連のインテリジェンス機関にとって「企図秘匿上都合カヨロシイ」。更にソ連は、ハルピンより満州南方への漸次浸透を隠密裏に図っており、日満両国の情勢を探索する為に関東軍の動向を監視しているという。ソ連の諜報手段は①人的諜報(現代風に言えばヒューミント)②文書諜報(オシント)③科学的諜報網(シギント)と多彩、稠密である。例えば、スパイに“個人携行ノ簡便ナ器材”を使用させている。(図1)も含めた以下が、このリポートの根幹部分である。

日満両国ノ対ソ諜報
諜報拙劣ニシテ而モ防諜心薄キクメ、寧ロ得ルヨリモ失フ方カ多イ。蓋シ当該機関ノ一元化ヲ必要トスル理由ハ此処ニ存在スルノデアル【中略】日本ニ於テハ殺人罪ニ死刑ヲ要求スルモ国家ヲ危機ニ陥ラシメル様ナ国事犯ニ対シテハ死刑ノ判決ヲ見ルコトカ稀テアル。従来ノ此種ノ刑ハ軽キニ失シタ。

日本やその支配下の満州国は各種多様なスパイの監視、取締機関を持っている。軍司令部でも4つの系譜の機関を持っている。だが、個々バラバラである。しかも、其々に満州浪人や私的特務機関を抱えていて、統制が取れない。そこに出入りする日本人ブローカは口八丁手八丁の老獪な連中で、彼らはカネ目当てに如何わしいガセネタを持ち込む。一方、ソ連人には二重スパイや逃亡兵が多く、情報は信用できない。日本側・ソ連側の玉石混交の情報が各機関に入り乱れる訳であるが、(図1)グラフの斜線部分に当たる肝心の“中間型桃色諜報”の信頼度は極めて低くなるというのが、このリポート制作者の主張である。ソ連は国事犯には死刑・全財産没収という厳罰を科するのに対し、日本では罰金刑程度であるから、日本の新聞・雑誌は罰金刑覚悟で報道して、部数を増やし、私的利益を得ようとする。ソ連大使館では、日本の書物・雑誌、つまりオシントの入手の為に2万円以上(現在の4000万円ほど)もの購読料金を払っている。この医師・自然科学的目線での皮肉・冷徹なインテリジェンス機関分析は、職業軍人のマンネリ的なインテリジェンス対策を鋭く衝くものとなっている。この筆者は不明だが、石井部隊長のインテリジェンスへの高い関心度を反映したものと考えられる。彼は、こてんぱんにやられたノモンハンを教訓にしながら、生物兵器で武装した日本軍を731が先頭に立ってソ連を打ちのめさんとの気概である。機密兵器を長年扱ってきただけに、多重的防諜インテリジェンスには殊の外敏感であり、凡庸な司令部や特務機関に見られぬ見識が反映されている。

筆者の手元にある中国駐屯のアメリカ陸軍側のリポート『Japanese Biological Warfare』や、フィリピン駐屯の連合軍リポート『Biological Warfare』では何れも、「日本軍は生物兵器を実戦には使っていないが、戦局の悪化と撤退の時期に使う可能性はある」と見ている。ビルマを中心に日本軍と戦っていた英米連合軍の1944年のATISリポートでも、武器としての脆弱性を捕虜の供述から結論付けている。「731は生体実験等で3000人ほどの人間を死亡させた」と、ハバロフスク裁判で糾弾された。その半分でも歴史に残る極悪非道な犯罪である。731の生物兵器は、実戦では兵器としてソ連や中国の人々にそれほどの被害を与えなかったが、その隠蔽された武器開発能力の不気味さで、思わぬ心理的効果を発揮した。731のインテリジェンス的工作が戦争末期の心理戦・プロパガンダ戦で威力を発揮したと言えるだろう。兎角、これまでの731研究には感情的な糾弾型が多かった。ソ連のハバロフスク裁判や中国での被害を纏めたとする書籍が大量に出回っているが、その当事者の実証能力には疑問を挟まざるを得ないものが大半である。関係者、特に被告・抑留者の“証言”からの引用が多く、反証は先ず出ない。客観的・実証的な研究姿勢の欠如したものが目立つ。GHQの石井らの戦犯免責と、アメリカの機関による実験結果の押収と隠匿も追究を阻んできた。そうは言っても、関係者の“証言”は謙虚に聞かねばならない。ハルピン裁判での一連の検察側証言について前述の青木冨貴子は、「いかにもソ連側に強要されて語らせられたような不自然な言葉が混在している一方で、石井部隊員でなければわからないディテールも見事に語られている」(前掲書、51頁)と指摘している。筆者の飯島証言への評価も青木と同様である。一方で日本軍、特に関東軍や731の、或いは日本政府の資料を更に獲得し、公平に点検せねばならない。それには先ず、意外にも大量の公文書が保存・公開されていることを知らねばならない。本論は筆者自身がインテリジェンス研究の視点で発掘し、再評価した公文書を使った研究である。


山本武利(やまもと・たけとし) 早稲田大学名誉教授・一橋大学名誉教授・NPO法人『インテリジェンス研究所』理事長。1940年、愛媛県生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。博士(社会学)。専門は近代日本メディア史・インテリジェンス史・プロパガンダ。著書に『日本兵捕虜は何をしゃべったか』(文藝春秋)・『ブラック・プロパガンダ 謀略のラジオ』『GHQの検閲・諜報・宣伝工作』(共に岩波書店)等。


キャプチャ  2016年3月号掲載


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