【管見妄語】 灰色の世界

十数年前、数学教科書の執筆に関わっていた私は、中学校教師が「…としたほうが良い、のかなと思います」と屡々言うのに気付いた。文尾に“のかな”を付け、断定を弱めようとする学生の多いことには気付いていたが、「大人までが…」と驚いたのである。これに似た表現で、“というか”・“てゆうか”もある。「あの人は呑気というか困った人だ」というのは標準的な日本語だが、最近の10代から30代くらいまでの人はよく、「あの娘は何か無邪気、てゆうか」等と文尾に付ける。これは断定を薄める為だ。愚息等は、「てゆうか、どこかに食べに行かない?」等と言う。やんわり話題を変える時に使うようだ。“のかな”や“てゆうか”は「単なる私見ですが」とか「…と愚考致します」等に比べると品が無いが、「自らの考えで突っ走り、他人とぶつかるのを避けよう」という気配り表現だ。アメリカでは、自らの気持ちに忠実に表現することは美徳だから、他人を然程意に介せず率直に言う。アメリカ大統領選の民主党候補であるヒラリー・クリントン女史は、「私こそがアメリカ合衆国の最良の大統領になる」等とぬけぬけと言うし、共和党候補のドナルド・トランプ氏は、自らの感情でしかないことを恥も外間も無く吠える。私などはアメリカにいた頃、ガールフレンドにまで「貴方は完全に間違っている」とか「頭おかしいんじゃない?」等と言われた。ある准教授選で、候補者に推薦状を依頼された教授が、「この候補者の主論文における功績の大半は、本人ではなく共著者に帰すると思われる」と書いてきて驚いたことがある。ある25歳の知人女性に将来を尋ねると、「アメリカ合衆国大統領」と断言した。私が大声で笑ったら、「真剣よ」と突然、目を剥いた。日本では先ず見られない率直さだ。

対照的に、イギリスでは控え目表現が多用される。私の意見に納得しない場合、アメリカ人なら「僕はそう思わないよ」と単刀直入に言うが、長い友人であるイギリスの貴族院議員は、必ず文頭に“I would rather say”を付けてからものを言う。「こんな風にも言えるかな」くらいの意味だ。アンドリュー・ワイルズ教授は、フェルマー予想を350年ぶりに解決した時の記者会見で、「フェルマー予想を理解するのはとても易しいが、解決するのは幾分難しい」と言った。“幾分(somewhat)”を付け加えることで、英国紳士としての謙虚を示したのである。イギリスに住んだ当初は、アメリカとの余りの落差に驚かされたものだ。謙虚や控え目はバランス感覚に通ずるものだが、これが必要なのは、世の中の森羅万象が灰色だからである。数学というただ1つの例外を除いて、この世には完全なる真や偽は無く、完全なる正や邪も無い。真っ白も真っ黒も無く、全て灰色なのだ。「人を殺してはいけない」だって真っ白ではない。死刑制度という合法的殺人が認められているし、戦争になれば、敵をなるべく一杯殺した者が、世界中どこでも英雄として称えられる。真っ白に限り無く近い灰色なのだ。推論に使う論理だって灰色だ。“風が吹けば桶屋が儲かる”は、論理を得々と語る者を揶揄する、恐らく世界に類例の無い、我が国の誇るべき警句と思う。つまり、灰色の事実から出発し、灰色の論理を伝って到達した結論――即ち、全ての結論には常に謙虚が伴わなければならないということだ。日本人やイギリス神士はそれを自然に知っているから、文頭や文尾に何かを付けたり、ユーモアを塗したりして表現を柔ける。様々な国の人が集まる会議の議長としては、イギリス人が巧い。原理原則に拘るドイツ人や、論理を捲し立てるフランス人に比べ、バランス感覚により、落とし所を見つけるのが巧いからだ。歴史上、日本とイギリスに独裁者が殆ど出現しなかったのは、この謙虚や控え目から生まれるバランス感覚の為であろう。


藤原正彦(ふじわら・まさひこ) 数学者・お茶の水女子大学名誉教授。1943年、満州国生まれ。東京大学理学部数学科卒。同大学院理学系研究科修士課程数学専攻修了。ミシガン大学研究員・コロラド大学ボルダー校助教授等を経て現職。著書に『藤原正彦の人生案内』(中央公論新社)・『この国のけじめ』(文藝春秋)等。


キャプチャ  2016年10月6日号掲載
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