【中外時評】 むずがゆい和製漢語――やさしい日本語へ知恵を

「日本にはかな文字があるのに、漢字をまじえて使うのは都合がわるい。とはいえ、いますぐ漢字を使えなくなったら、それも都合がわるい。漢字をまったく用いないという考え方は望ましいが、すぐ実行に移すのはむずかしい。時節をまつしかない」――。日本語に漢字はそぐわないとする文章を福沢諭吉が明らかにしたのは、明治6(1873)年のことだ。苦々しい調子で書いているように、直ぐに全廃はできないとして、先ずは難しい漢字をできる限り使わないよう努めるべきと唱えた。福沢らしい合理的で実践的な考え方がよく表れている。そしてほぼ150年。政府が常用漢字を定める仕組みがそれなりに根付いて、福沢の主張は半ば実現したようにもみえる。けれど、日々色んな文章に接していると、漢字の扱いには改めるべき点が尚も少なくないと感じる。1つは、福沢も指摘した難しい漢字の問題だ。文学作品でどんな漢字を使おうと自由だし、専門的な学術研究では欠かせない場合もあるだろう。だが、多くの人が理解できなくてはならない場面で使われると、社会に不利益を齎すことがある。

典型は医療の世界だ。褥瘡・骨粗鬆症・腸捻転…。こういった言葉が国家試験に登場して、『経済連携協定(EPA)』に基づいてやって来たインドネシアの看護師や介護福祉士の候補たちを苦しめたことは、広く知られている。今では仮名を振ったり、英語名を併記したりするようになっている。けれど、言葉をわかり易くする努力は十分と言い難い。先程紹介した3つの言葉なら、床擦れ・骨の衰え・腸の捻れといった言い換えが直ぐ頭に浮かぶのだが。海外から日本に来る人や、日本で働いて生活する海外出身の人が増えている。医療に限らず、彼らの安心と安全を担うべき人や、組織が難しい漢字を振り回していては、日本のグローバル化を妨げかねない。多くの日本人にとっても、優しい表現は福音だろう。もう1つ、漢字を巡って特にこのところ気になるのは、変な和製漢語が広がっているようにみえることだ。1つの例は“加速化”。言葉は変化するもので、一概に正しいとか誤りだとか言い難いところはあるが、日本語に慣れ親しんだ人なら違和感を覚えるのではないか。

先ず、意味が“加速”と変わらない。つまり、“化”を付け加える必要が無く、敢えて“加速化”とするのは合理的ではない。寧ろ“馬から落馬した”ような、或いは“落馬して落ちた”ような重複感がある。文法的に誤りとの指摘は多い。にも関わらず、霞が関の公的な文書でよくみかける。情けないことに、日本語の在り方に目配りしている筈の文部科学省の文書にも、お目見えする。他にも“集約化”とか“関係性”とか、違和感を覚える和製漢語は少なくない。振り返れば、幕末から明治にかけて、西洋の言葉を翻訳した和製漢語が大変な勢いで増えた。哲学・理性・感覚といった言葉を作り出した西周は有名だ。福沢も、そうした翻訳を手がけた。影響は日本に留まらず、漢字の本家である中国にも及んでいる。“中華人民共和国”という国名の内、“人民”と“共和国”は和製漢語だ。言うまでもないが、西周や福沢たちは幼い頃から漢籍に親しんだ。だからこそ、魅力的な和製漢語を生み出せた。それだけの素養を今の霞が関の住人たちが持っているとは、考え難い。新たな和製漢語作りは、極力控えるべきではないか。中国共産党政権が漢字を簡略化した“簡体字”を初めて正式に定めてから、今年で60年を迎えた。当時の指導者たちは、何れ漢字を全廃してアルファベットだけで中国語を表すことさえ念頭に置いていた。流石に今では全廃論は影を潜めたが、「コミュニケーションの手立てとしての漢字には深刻な欠点がある」と本家本元でも考えた証しだとは言える。況してや、日本語にとって漢字は、謂わば輸入した外来の文字だ。できる限り多くの国民が、できる限り広く情報を共有することは、民主主義の大前提だろう。そして、グローバル化の広がりで、優しい日本語が愈々求められている。漢字に気をつけることは、大切な一歩となる。 (論説副委員長 飯野克彦)


⦿日本経済新聞 2016年10月9日付掲載⦿

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