【特別対談】 海上自衛隊指揮官4人が初めて明かす東日本大震災の現場――倉本憲一×松下泰士×福本出×井ノ久保雄三

倉本憲一(くらもと・けんいち) 自衛艦隊司令官(海将)。1952年、奈良県生まれ。1975年、防衛大学校卒(19期)。主に航空畑を歩み、第8航空隊司令・大湊地方総監部幕僚長・第2航空群司令・海幕防衛部長・幹部学校長・教育航空集団司令官・航空集団司令官等を経て、2010年7月に自衛艦隊司令官に就任。2011年8月に退官。

松下泰士(まつした・やすし) 護衛艦隊司令官(海将)。1955年、鹿児島県生まれ。1978年、防衛大学校卒(22期)。主に護衛艦部隊で勤務し、海幕補佐課長・第2護衛隊群司令・練習艦隊司令官・自衛艦隊司令部幕僚長等を経て、2010年7月に護衛艦隊司令官、2012年7月に自衛艦隊司令官に就任。2014年3月に退官。

福本出(ふくもと・いずる) 掃海隊群司令(海将補)。1957年、和歌山県生まれ。1979年、防衛大学校卒(23期)。主に掃海畑を歩み、在トルコ参事官兼防衛駐在官・掃海隊群司令部幕僚長・呉地方総監部幕僚長等を経て、2010年12月に掃海隊群司令、2012年3月に海上自衛隊幹部学校長(海将)に就任。2014年8月に退官。

井ノ久保雄三(いのくぼ・ゆうぞう) 横須賀警備隊司令(1佐)。1956年、宮崎県生まれ。1979年、防衛大学校卒(23期)。主に護衛艦畑を歩み、第5護衛隊司令・佐世保地方総監部管理部長・統合幕僚監部指揮通信システム運用課長等を経て、2010年4月に横須賀警備隊司令、2011年8月に海上訓練指導隊群司令に就任。2012年8月に退官(海将補)。

聞き手・構成/フリージャーナリスト 笹幸恵  (※肩書きは4人とも震災発生当時)


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松下「海上自衛隊では、様々な機会に洋上慰霊を行っていますが、東日本大震災の慰霊は5年目にして初めてでしたね。掃海母艦“ぶんご”で執り行われたのですが、式典に献茶があったのも初めてではないでしょうか。武者小路千家の千宗守家元が艦上でお茶を立てて、横須賀地方総監と在日アメリカ海軍司令官が共に海に向かって献茶しました。お茶が毀れないように操艦するのも大変だったでしょうし、横須賀音楽隊の献茶に合わせた演奏等、経験が無いにも関わらず非常にスムーズに行われたと思います」
井ノ久保「武者小路千家のゲストで、着物姿の女性が多いのがとても印象的でしたね」
倉本「彼女たちの殆どは地元の人で、やはり被災された方のようです。私は久しぶりに“ぶんご”に乗って、当時のことを思い出しました。今では何の痕跡も無いからわからないと思いますが、震災が発生してから2週間後に視察に訪れた時は、“ぶんご”の中部甲板に遺体を並べる為のシートが敷いてあって、祭壇が設けられていました」
福本「えぇ、線香を絶やさないようにして。掃海部隊は、三陸の沿岸部で行方不明者の捜索を行っていたのですが、海上自衛隊全体で収容した425名の内、174名が掃海部隊によるものです。遺体をへリコプターで移送する時は乗員が上甲板に整列し、敬礼して見送りました。海上幕僚長である武居智久海将も、『今回のように洋上慰霊をするなら、ぶんごしかないだろう』と言ってくれました」
倉本「元々、震災から3年が経った時、私が当時の指揮官クラスに声を掛けて食事会をしていたのです。慰労の意味も込めて。1年目・2年目は中々できませんでした。気持ちも未だ落ち着きませんし。3年目から、こうして都合のつく人に集まってもらっています。思い込みで叱ってしまったり、齟齬が生じたりしたのを、『あの時は申し訳なかった』と謝る会でもあります(笑)」
福本「倉本さんが言われたように、最初の数年は気持ちが落ち着かなかった。海上自衛隊も5年経って漸く、1つの節目として洋上慰霊をやろうという話になったのではないでしょうか」

倉本「あの日の14時46分、私は自衛艦隊司令部(横須賀市船越町)の執務室にいました。机の脇の本棚が耐震になっていなかったので、心配したのでしょう。副官が飛び込んできた。揺れが収まらない。可動する艦艇全てに出港命令を出しました。そのまま三陸沖へ向かわせたのですが、後で『しまった』と思いました。任務を交代する艦が無くなってしまったんです」
松下「護衛艦隊司令部(同)の建物は築70年を超えていて、耐震構造になっていないことを聞いていました。取り敢えず、幕僚たちに外に出るよう指示し、その後、テレビが津波の来襲を伝えていましたので、直ぐに出港命令を出したんです。横須賀から現場に向かう艦艇は緊急船舶灯を点灯して、浦賀水道航路を高速で駆け抜けていきました。ところが、後から海上幕僚監部の装備部長をしていた同期に怒られたんです。『皆出しちゃったら、教援物資を積む艦が無いじゃないか!』って。だから、後で一部の艦を戻しました。地震の直後、丁度、佐世保から来た護衛艦“ちょうかい”の艦長が、訓練終了の報告をしようと私の執務室に向かっていたんです。激しい揺れでしたから、『報告はいいから出港しなさい』と言って、三陸沖に向かわせた。2日後、福島県双葉町の沖合で、自宅の屋根に上って漂流している男性を救助した艦が“ちょうかい”でした」
井ノ久保「私は警備隊庁舎(横須賀市長浦町)の司令室にいました。護衛艦隊司令部と同じく、築70年という古い3階建ての庁舎ですから、ミシミシと音がして、一先ず皆に『机の下に隠れろ』と指示を出しました。うちの警備隊は特務艇“はしだて”を持っているんです。国内外の要人を招いて式典等を行う通称“迎賓艇”なのですが、これを緊急出港させた。横須賀にも津波が来て、2mくらい潮位が変化したんですよ。その為、油船が1隻、着底しました。幸い、損傷が無かったので胸を撫で下ろしましたが」
福本「私も掃海隊群司令部(橫須賀市船越町)の執務室にいて、緊急出港の命令を出した。旗艦“うらが”はドックで修理中で、横須賀在籍の掃海隊群隷下で動けるのは、第51掃海隊所属の掃海艦艇3隻の内、“やえやま”だけでした。残り1隻はドック入り、もう一隻は“ぶんご”と共に、シンガポールでの国際訓練に参加する為、沖縄の勝連で出国手続き中でしたから。大津波警報が出るに至り、『これは直ぐにEOD(Explosive Ordnance Disposal diver=水中処分員)が必要になる』と思った。海に潜って、機雷の識別や処分を行う特殊技能を持った隊員たちです。奥尻島沖地震(平成5年・マグニチュード7.8)では、やはり津波で多くの人が流され、EODが行方不明者の多くを海中から発見しています。そこで、“やえやま”にEODを乗せ、出港させた」

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倉本「ところが現場に行ってみたら、潜れるような状態ではなかったのです。横須賀の司令部では、『掃海部隊は何故潜らないのか?』と不思議に思っていました」
福本「水中が濁っていて、障害物もあり過ぎたんです。また、掃海艇は護衛艦と違って足が遅いですから、各地から掃海艦艇が集まってオペレーションを開始した時は、既に発災から72時間が過ぎていました。行方不明になった方々の捜索は勿論大事だけれど、先ず、今生きている人を助けなければなりません。掃海部隊の小さなボートでないと、沿岸部の孤立した集落に救援物資を運ぶことができませんでしたから」
松下「実は、海上自衛隊の艦艇も海上保安庁の船も、スクリューに漁具のロープ等が絡まって身動きが取れずにいた。スクリューが動かなければ救助にも行けません。絡まった障害物を潜って取ることができるのはEODだけ。あの時は護衛艦隊も助かりました」
倉本「やっぱり、現場を見ないとわからないことがありますね。それまで横須賀の自衛艦隊司令部にいた私が、三陸の沿岸部に展開している掃海隊群の旗艦“ぶんご”や、その沖合で活動している第1・第2・第3護衛隊群の旗艦を訪れたのは、震災発生から2週間後のことでした。現場の凄まじさに改めて驚かされました。勿論、報告はちゃんと上がってくるのですが、その場の雰囲気だとか匂いだとか、行ってみないと感じ取ることができません」
松下「最初、私だけが護衛隊群司令の様子を見に行く予定だったんですよ。『司令官、行って参ります』と倉本さんに報告したら、『俺も行く』となって」
福本「オペレーション中に偉い人が来る訳ですから、受け入れるこちら側は大変です。パッと来て『頑張れよ』とだけ言って帰ってもらっても困る。隊員の士気に関わります。そこで、倉本さんに『“御礼はしかるべく具体的であるべし”という言葉があります』とお伝えしました。そうしたら、山のようにお菓子を持ってきてくれて」
倉本「そう、お菓子と煙草を段ボール箱でね。この視察の時も『しまった』と思うことがありました。ある護衛艦に乗った時、家族が被災したという乗員を10名くらい、艦長から紹介されたのです。緊急出港させたものの、乗員の家族に被災者がいることにまで頭が回らなかった。『交代が来るまで頑張ってくれ』と声を掛けましたが、その交代がいない。申し訳ない気持ちで一杯でした。同様の事情を抱えた隊員は、他の艦艇にもいた筈ですよ。帰してやりたいけど、帰せない。でも、どの隊員も、誰も文句を言いませんでした」

井ノ久保「震災発生時、確か横須賀では海曹の昇任試験が行われていましたよね?」
松下「約3600名もの隊員が試験中でした。この内の1000名は艦艇の乗組員で、中堅である彼らが艦艇の一番の働き手です。だけど、試験が終了しても、既に自分の乗る船は出港してしまっていない。だから、補給艦“ときわ”や試験艦“あすか”が彼らを乗せて被災地に向かいました。現場で、彼らの所属する各艦がボートやへリを出して、乗員を迎えに行った。私が色々口煩く言わなくても、皆、やるべきことがわかっているんです。艦艇を実際に動かす曹士の隊員たちは、普段はあれやこれやと文句も言いますが、いざという時の真剣度は凄い。『創立から60年近く経って、1回も戦ったことが無いのに、このパワーは何なんだ』と驚きました。だから、指揮官には『つまらない時に下手な気合いを入れるな』と、私はいつも言っています」
倉本「先任伍長等、古参の隊員たちが本当によく頑張ってくれましたよね。乗員の家族で被災者がいないかどうか、いたら安否はどうなっているか…。自衛艦隊司令部の先任任長が、各部隊の先任伍長と連絡を取り合って、情報を集めてくれた。また、指揮官である私の携帯電話は幸いにも発信規制がかかっていませんでしたから、副官にもこれを使って情報収集するよう命じました。物凄い請求額が後から来ましたけど」
松下「今だから話せることもあるんです。例えば、護衛艦“ひゅうが”は年次検査でドックに入っていて、直ぐに出港できる状態ではなかった。修理の為、へリコプターの牽引車も降ろしていました。ヘリコプター搭載型護衛艦なのにヘリコプターが動かなくては、能力が半減します。タイミングよく、2番艦して建造していた“いせ”の牽引車が仕上がっていたのですが、未だ海上自衛隊に引き渡されていませんから、法律上は使えない。防衛省装備施設本部(現在の防衛装備庁)の副本部長が後輩だったので、直ぐさま彼に『何とかしてくれ』と電話しました。どのような動きがあったかわかりませんが、“ひゅうが”は“いせ”の牽引車を乗せて出港し、アメリカ海軍の空母“ロナルドレーガン”と共に被災地で活躍しました。装備施設本部の副本部長も造船所の人たちも、“今やるべきこと”を理解し、最優先して対応してくれたんです」
福本「災害派遣の対処計画では基本的に、担当警備地域の総監が部隊指揮官です。岩手以南の東北は横須賀の管轄。従って、横須賀地方総監である髙嶋博視海将(当時)が海災部隊指揮官になりました。ところが、総監郡の人員・装備・通信能力ではとても対応できない。そこで、倉本さんがいる自衛艦隊司令部で髙嶋さんが指揮を執ったのでしたね。そうでもしないと、あれだけ大規模なオペレーションはできなかった」

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倉本「私の司令部幕僚の殆ど全てを髙嶋総監に差し出したんですよ。でも、指揮官が2人いてはいけませんから、私は表に出ないようにしていました。私も松下君も司令官ですから、抑々、髙嶋総監の指揮下には入れないことになっている。とはいえ、その部隊は元々、自分の部下たちですから、視察に行った時等は隊員たちに声を掛けて回りました。現場は現場で色々と思うところがありますよね。福本さんの他に現場で指揮を執っていたのは、護衛隊群の群司令たちです。彼らと2人きりで話せる場所はトイレくらいですから、トイレに呼び出して『お前、本当は言いたいことあるんだろ?』ってガス抜きするのが私の役目」
松下「そうそう。船頭が多くて船が山に登っちゃったら困りますから。裏方としては、春の人事異動の話を粛々と進めていました。また、ソマリア沖の海賊対処も続いていましたし、中国がこの期に及んで何かしてくるかもしれなかった。だから、佐世保にいる第13護衛隊は被災地に送っていない。何かあった時の為に残しました。彼らだって、本当は『被災地に行って役に立ちたい』という思いはあった筈なんです。でも、誰かが裏で通常の任務を支えなくてはいけません」
福本「倉本さんや松下さんは部隊を派出する側でしたが、掃海隊群というのはその逆なんです。派出された部隊を使う側。其々の地方総監部の隷下にある掃海隊を集めて、普段は機雷戦訓練等を行っている。だから、被災地に行った時も、其々の艇の練度や艇長の性格等も掌握できていたんですね。あの時は瓦礫で埋もれている中での航行で、海図に無い海底の変化等もあった。その為に、猪突猛進タイプの艇長が指揮する掃海艇が、舵を1枚もぎ取られてしまったんです。うちは水中にあるものを見つけるのは得意なので、マーキングだけして災害派遣終了後に回収しましたが。掃海艇の舵は“シリング舵”といって、護衛艦とは異なる特殊な形状をしているんです。教材として使えるということで、江田島(広島県)の第1術科学校に展示してありますよ。『無謀なことをするとこうなる』という教訓も込めて」

倉本「私が忘れられないのは、海外出張中のアメリカ第7艦隊司令官から電話がかかってきたことです。『原発がメルトダウンしている』との内容でした。でもその頃、テレビでは『原発は安全だ』と流していた。だけど、第7艦隊司令官は元々、原子力潜水艦乗りです。冷却水が止まったら、何時間後にメルトダウンするかがわかっていた。それを私に伝えてくれたのです。とはいえ、こちらは救助活動があるから、艦艇を現場海域から離す訳にはいかない。司令官は、ガイガーカウンターの使い方を丁寧に教えてくれました」
松下「3月17日には、陸上自衛隊がヘリコプターで福島第1原発に散水しましたよね。あれでアメリカも動き出して、アメリカ海軍が所有するバージ(1500トンの水タンク搭載の艀)を海上自衛隊に提供するという話になりました。冷却水としてバージを原発まで運ぶという給水支援作戦です。その現場指揮官に任命されたのが井ノ久保さんですよ」
井ノ久保「私はそれまで、液状化現象で断水した千葉方面の給水支援を実施したり、被災地への入浴支援の指揮を執っていたりしていました。ところが、24日に急に髙嶋総監に呼ばれまして、『福島第1原発への給水支援作戦は可能か?』と聞かれたんですね」
倉本「我々は、この作戦を“オペレーションアクア”と呼んでいました。東電から話があった時は、『冷却水が途絶えたら大変なことになる。一刻を争う』と聞かされた。そこで、アメリカ海軍のバージ2隻を、多用途支援艦と曳船を使って、福島第1原発の港内(物揚場)に回軌させることになったのです。あの時、女性隊員を降ろしたでしょう? 本人たちにかなり文句を言われましたよね」
井ノ久保「『被曝する隊員を最低限にする為に、曳船の定員7名を4名にしろ』と髙嶋総監から言われていたんです。女性だけではなくて、若い隊員も降ろしました。人選を船長に任せたんですが、結局、年寄りばかりが行くことになったんですよ。『何故連れて行ってくれないのか?』と涙ながらに訴える隊員もいたと聞きましたが、『将来があるのだから…』と諦めてもらいました」
松下「現場では何があるかわからない。原発の内部もどうなっているかわからない状況でしたから、『経験豊富な1佐が全般指揮を執るべきだ』というので、井ノ久保さんが指名された」
井ノ久保「最終的には、『誰かがやらなきゃいけない』という気持ちだけですよね。あの時は救援活動に携わる者が皆、そういう気持ちでいたと言うんです。私もまた、その1人に過ぎません。出港前、女房に『福島第1原発に行くことになった』と言ったんですよ。そしたらたった一言、『お国の為に頑張っていらっしゃい』って」
全員「奥さん、偉い!」(拍手)

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井ノ久保「26日早朝、私たちは『港務隊の曳船3隻でひっそり出港するもんだ』と思っていたんです。ところが、髙嶋総監が直接見送りに来て、激励の言葉をかけてくれました。それに、出港したら横須賀の湾内に停泊している護衛艦の乗員たちが上甲板に上がって、皆で“帽振れ”をやってくれた。『誰にも知られずに行く』と思っていましたから、これには胸が熱くなりましたね。同時に、この時、初めて『戻って来られないかもな』と任務の重さを実感した」
倉本「一晩で窓に鉄板を貼ったりして、少しでも放射線を防ごうと皆が必死でしたよね。それに、バージを運ぶだけでも大変でした。荒天で波やうねりが高く、多用途支援艦“ひうち”・“あまくさ”では、バージを曳く曳索が1本切れてしまった。残りの1本だけで、どうにか小名浜(いわき市)まで辿り着いたんです」
井ノ久保「波が5mくらいありましたからね。残った1本が切れたら、もうどうしようもない。それほどに揺れている洋上では、バージに飛び移ることもできなかった。若し曳索が2本とも切れていたら、“オペレーションアクア”は失敗でした。祈るような気持ちでしたね」
松下「小名浜で一旦集結して、造船補給所の移動工作班が放射線を防ぐ為にタングステンを貼って、艦橋周りを補強してくれましたよね。あとはポンプ」
井ノ久保「そうですね。原発に給水する為のポンプが、中々見つかりませんでした。一刻を争うというのに、東電側では切迫した様子が無かった。『近くのダムから給水しているから、バージの水は飽く迄もバックアップに過ぎない』と言っていて、『認識が甘い』と思わざるを得ませんでした。ただ、ポンプを探したり、バージにポンプの設置工事をしたりしている時間に、放射線に対する基礎知識や防護服の着用要領等を学ぶことができたので、その点では待っている間も有意義でした。これには、陸上自衛隊CRF(中央即応集団)の中央特殊武器防護隊が協力してくれました」
倉本「実際に給水作戦が行われたのは、3月末から4月の始めです。私も放射線の知識が無いから、原子力の専門家である同級生を頼って、色々と教えてもらいました。原発周辺は凡そ4mSv。『長い時間滞在するのでなければ大丈夫』と聞き、現場に行かせる決心がつきました」
井ノ久保「福島第1原発の港内に入ったのは、事前調査を含めて5回。バージを接岸する物揚場の放射線量は、毎時3mSvでした。バージを曳いた曳船を横付けした時、現場にいた東電の職員は、高い放射線下にも関わらず、迅速な係留作業をしてくれました。小名浜での打ち合わせと立付け(リハーサル)の賜物です。その翌日、『福島第1原発が冷却水としてバージの水を使った』との報告が入ってきた。今度は、空になったバージを、沖合20kmで待機している補給艦“おうみ”まで回航して水を補給し、再び原発まで向かいました。その後は小名浜で待機」
松下「隊員の編成を少しずつ変えて、できるだけ被曝量を減らそうとしていたんですよね」
井ノ久保「ただ、写真員だけは毎回のように原発に行っていました。任務だから仕方ないけど、彼らはよく頑張りました」

倉本「東日本大震災の災害派遣で、自衛隊のイメージは大きく変わりました。それほど隊員たちが頑張った。でも他方で、上手く行ったからといって問題点が全く無かった訳ではない」
松下「そう。現場の判断で対処して何とか上手く行ったけど、それは結果論に過ぎない。例えば震災直後、“ロナルドレーガン”が支援物資を送ろうとしたら、政治家か誰だか忘れてしまいましたが、『待った』をかけたという出来事があった。『通関していない』というのがその理由。“角を矯めて牛を殺す”とはこのことです。だから、“ロナルドレーガン”から護衛艦“ひゅうが”に物資を一旦運んで、そこから配った。結局、税関を通していません」
福本「ガソリンも消防法関連法令で取扱いが決まっていて、免許を持った人しか配ってはいけないことになっています」
倉本「外国の医者が国内で日本人を診察することもできません。医療法で禁止されている。あの時も真っ先に韓国から医療団が来てくれたんですが、勝手に診察してはいけないので、現場が混乱していたことを覚えています」
井ノ久保「現在の法律でガチガチに縛っていたら、助かる命も助かりませんね」
倉本「そうなんですよ。だから、きちんと反省会をして、改善すべき点を洗い出さないといけない」
福本「今の憲法改正論議の中で、『どこを最優先に改正するのか?』という話がありますが、ある識者は、災害時における緊急事態法が現憲法に無いことを問題視しています。国家の緊急事態の時に超法規的な行動を認めるという内容が、どこにも書いていないんです。このままでは、何かある度に自衛官は法律違反を犯さなくてはなりません」
倉本「日本全体という大きな枠で考えてみると、更に課題が山積しています。例えば、善意の支援物資。私は、これを“第2の津波”と呼んでいます。自治体が崩壊しているのに、物資だけは全国から集まりますから、捌けない。食糧や水は別ですが、日用品はニーズが日々変わっていく訳です。“第2の津波”が来ると、倉庫がパンクしてしまって、必要な時に必要なものが出てこない」
松下「リストアップする人が必要になってくるんですよね。すると、整理が終わるまで物が出せなくなる。私の部下は、そんな時に倉庫に行って、『おじさん、これ貰っていくよ!』と勝手に日用品等を持ち出してきちゃった。こちらは待っていられないですからね。リストアップしていたおじさんも、どうしようもないから『はーい』と言っただけ」

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福本「掃海隊群司令部では、担当区域の津々浦々のデータべースを作りました。『あの集落にはどのくらいの人がいて、どんな人員構成なのか、何を必要としているのか』といったデータです。それを順次行進していく方法を取りました」
松下「それを一番よくやっていたのがアメリカ空母でした。町の名前等、彼らはよくわかりませんから、“α1”とか“β2”等といった具合にマークを付けて、『ここには何人いる』とかデータを集めるんですね。本来なら攻撃目標を定める時の要領ですが、ミサイルを撃ち込む代わりに支援物資を送る。水陸両用戦の訓練と同じです。違うのは、攻撃目標である被災地から弾が飛んで来ないことくらい」
倉本「ただ、最初の数週間は皆が緊張感を持って対処するけど、それが過ぎると少し落ち着いてきて、遊兵が出てくる。そうすると士気も下がって、良くないことが起きてくる。部隊を出す時には、引き上げる時のことも考えておかないといけないのですが、政府の体制維持の方針や被災地の方々の要望もあるから、実際は難しい」
井ノ久保「その点、陸上自衛隊は上手だと思いましたよ。横須賀警備隊は入浴支援を丸2ヵ月、ずっと行っていたんですが、段々とニーズが無くなってきた。東北方面総監に調整してもらって、現地の人々も納得の上で撤収したんです。陸上自衛隊は地元の人と密着しているから、スムーズにできるんでしょうね」
松下「入浴支援と言えば、被災地の人に次のように言われました。『全ての集落に伝達が終わるまで、入浴支援を開始しないで下さい』って。陸上自衛隊もそういう発想ですよね。これまでの災害派遣の経験からなんでしょうけど。入浴にしても救援物資にしても、『どうしてあの村を先にしたんだ!』と文句を言われてしまう。これを恐れる訳です。全ての集落に知らせるまで待っていたら、それだけで3日かかります。物資を順次配っていったら、3日後には終わるのに。“人は貧しきを憂えず、等しからざるを憂う”という訳です。でも、『もうそんな発想は止めようよ』と各地の防災訓練の時等に徹底してもらいたい」
福本「実際に、私たちもそれを経験しましたよ。東北沿岸部のリアス式海岸の地域には、10戸とか20戸とか小規標の集落が点在しているんですね。ある集落に30戸分の物資を持っていって、『隣の集落にも分けてもらえますか?』とお願いしたら、『うちからは渡せない』と。少し先に見えている集落なのに、『自衛隊が直接持っていけ』となるんです」
松下「東北の人たちは忍耐強くて、それが1つの美徳にもなっているんですが、一方で頑なな面があるんですよね。昔から隣村との確執がある地域等では、隣村のことを聞いても『知らねぇ』ってソッポを向かれちゃう」

福本「あと、流言飛語もありました。よく知られているのは、関東大震災の時の『朝鮮人が暴動を起こしている』という流言ですよね。同じように、被災地では『中国人の集団が空き巣狙いをやっている』という噂が広まっていたんです。そんな時、海からEODが上陸するでしょう。ダイビングスーツ姿で全身黒尽くめ、如何にも怪しい(笑)。期刀で待ち構えていて、殴られそうになりました。『日本人です、海上自衛隊です』って懸命に伝えて。ボートに乗った時等に羽織る合羽にも、何も目印が無いんですよね。だから、それ以降は『ちゃんと“海上自衛隊”というネームが入ったジャンパーを着ましょう』ということになりました。情報不足の中では、人は疑心暗鬼になって、それがいとも簡単に増幅されてしまう」
井ノ久保「EODたちは、本当に命がけでしたよね」
松下「しかし、それがあまり世に知られていないというのが悲しいね」
倉本「そう言えば、オペレーション中、ある先輩から電話がかかってきました。『陸上自衛隊はあんなに頑張っているのに、海上自衛隊は何をやっているんだ?』と。テレビに映らないから、一般の国民に海上自衛隊の活動が伝わらないんですね」
松下「元々、海上自衛隊には『名乗るほどの者ではございません』というメンタリティーがあるんですよ。だから、あまり知られていない。災害派遣の時も、悲惨な状況の中で『自分たちのPRになってしまってはいけない』と、つい抑え気味になってしまう。でも、『震災発生直後は海上自衛隊しか見ていない被災地があった訳で、そこでの状況を国民に伝える義務があったのではないか。即ち、“報道”という観点が必要ではなかったか』と、後で思いました」
倉本「当時はそこまで頭が回らなかった。『カメラを持つ手があるなら、その手で物資を運べ』という感覚でしたから」
福本「テレビ局のクルーが最初から同行したのは、長面浦(石巻市)で行方不明者の集中捜索をした時くらいでしたね。4月の初めだったと思います」
倉本「そのくらいですよね。3月中は、“記録として残す”という発想すら無かった」

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福本「世の中に伝えるだけでなく、海上自衛隊の中でもきちんと記録に残し、後世に継承していかなくてはいけないですよね。最初の話にありました、“ぶんご”に安置した遺体もそうです。最初は、誰も遺体にレンズを向けるようなことはしませんでした。でもある時、『これではいけない』と思って記録に残すよう指示したんです。海上自衛隊として、これだけ多くの水死体に接することは今まで無かった。『水死体とはどういうものなのか、時間が経つとどう変化するのか』。死者への冒涜ではないかという批判は承知の上ですが、『それでも自衛官である以上、目を逸らしてはいけない、知っておかなくてはいけない』との考えからでした。勿論、画像データが流出しないよう厳密に管理した上でのことです」
松下「被災地から帰ってきた指揮官たちは、自分たちの苦労は何ひとつ口にしない。福本さん然り、思うところは色々あった筈なのに。その代わり、どれほど地元の人々が頑張っていたかを話すんです。『これが日本人だよなぁ』って思いますね」
井ノ久保「横須賀警備隊のEODたちも全員、掃海隊群に集められましたよね。私も後から聞いたんですが、その中の人は自分の実家が被災して、その近くで救難活動に当たったそうなんです。家族の携帯電話は繋がらず、家が流されていたのもわかっていた。それでも黙々と、自分の与えられた場所で活動していたんです。実家は直ぐそこなのに、様子も見に行かないで。私はそれを聞いて涙が出ましたね」
倉本「海上自衛官って、何かあった時に船に乗って出て行って、任務を果たすという訓練を日頃からやっているでしょう。だから、いざという時、“我が身を顧みず”という気持ちが自然に出てくる」
福本「そういう意味で私は、『あの震災のオペレーションというのは、自衛官としての覚悟を試された時間だったのではないか』と思っているんです。自衛隊が活躍するのは、この国が大変な事態に陥っている時です。そんな時、自分の家族は後回しにして与えられた任務を果たす。日頃の訓練と、その訓練で培われた覚悟が試された。また、我々としては『日々の訓練が間違っていなかった』と確認できた時間でもありました。だから若し、後輩たちに声を掛けるとするならば、『自信を持ちなさい』の一言です。『今、貴方たちがやっている日々の訓練は正しい。先輩たちがやってきたように粛々と訓練をしていれば、いざという時に必ず十全の働きができる』。そう言ってやりたいですね」


キャプチャ  2016年5月号掲載

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